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つばくらめ紙上句会 [つばくらめ句会報]

第二三六回 つばくらめ句会報(紙上句会)
参 加 者  青山 結 生田野草 伊藤流水 大林律子 
鈴木德海 古川夏霜 野﨑 柚 保科半眼 
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つばくらめ句会報 [つばくらめ句会報]

第二三六回 つばくらめ句会報(紙上句会)

参 加 者  青山 結 生田野草 伊藤流水 大林律子 
鈴木德海 古川夏霜 野﨑 柚 保科半眼 
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無意識の芭蕉 [俳句奥義]

       無意識の芭蕉                

 よく見ればなずな花咲く垣根かな  芭蕉
 人知れず楚々と咲く薺の花と芭蕉が一体になった世界である。侘び寂びた垣根の宇宙に純白の薺の星々が煌めいている。
 我々は明治以降自然と人間を二項対立的に見る教育を受けてきたせいか、物事を見られるものと見る私という具合に分別してしまう。これでは芭蕉の世界は見えてこない。芭蕉は何かに突き動かされて垣根に近づき、それが薺の花であったことに気づかされた。そして「よく見る」ことで薺の花と同化して一句を成した。そのことは自然美の本質を翻訳したということなのだ。
 世界を一体と看做す「一即多」という世界観がある。自然に対しては無論のこと、善と悪も戦争と平和も地獄と極楽も一体。我々は非はあくまで非であって是ではないという一方的な論理の世界に住んでいる。しかしこの論理をよくよく検討してみると独善、欺瞞、虚偽等々の我執が入り込んでいることに気づく。我執は個性と言い換えてもよい。このように考えていくと、我々が眼で見て耳で聞いて識別するという世界は到底真実を見ているとは思えない。しかしこの芭蕉句には我執は無い。なぜか。それは芭蕉は無意識の世界で詠んでいるからだ。つまり芭蕉は眼耳鼻舌身意で認識する意識的な感覚知覚の世界ではなく、もっと奥深くにある我執を越えた無意識世界にいるのである。この無意識世界こそが我々に真実を訴えかけてくる世界であり、生甲斐・歓喜をもたらす世界なのだ。掲句は言葉になる以前の世界を、上五「よく見れば」で翻訳したのだ。三冊子に「心の作はよし。詞(ことば)の作は好(む)べからずと也」とある。この心こそ無意識の自分の知らない世界である。詞とは自分も他人も知っている表に現われた意識的感覚知覚世界。しかも我執を伴っている。
 芭蕉は無意識世界にこそ造化の神の力がはたらくこと知っていた。
 芭蕉の発句は無意識の部分を詠っている。それは言葉で説明したり分析できない。芭蕉は言葉で表現できない無意識をどうやって表現し得たのだろうか。
 我々は句中に切れを入れることは自明だと思っているが、切れというものは空白をいうのである。芭蕉の天才はこの「空白を詠む」という詩形を発見したことにある。切れこそ無意識の世界に外ならない。

       芭蕉の宇宙                     

 旅を栖として、五十一歳の人生を、薄氷に全体重を託すようにして俳諧に捧げた芭蕉に、「一世のうち秀逸の句三、五あらん人は作者なり。十句に及ばん人は名人なり」という箴言がある。これは一体何を意味するのだろうか。

 昨秋、アメリカに設置されている望遠鏡・ライゴが重力波をとらえた。過去にとらえた重力波は、ブラックホールの合体によるもので、今回の波は二つの中性子星の合体によって放出されたものだった。宇宙の姿はこの重力波でなければわからないとされている。日本は飛騨の神岡鉱山の地下深く、望遠鏡「かぐら」で宇宙の始まりのときに発せられた「原始重力波」の観測に挑戦している。原始重力波が観測されると宇宙膨張の速度がわかり、それによって宇宙の誕生、進化、そして未来が理論づけられるという。このことは人類永遠の命題である「我々は何処から来たのか、我々は何者なのか、そして我々は何処へ行くのか」という問いに答えることを意味している。しかし、この重力波をとらえることは、世界中の干草の山の中から、たった一本の針を探すよりも困難なことなのである。

 僕はこの報道を見ながら、重力波とは芭蕉のいう「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」の「光」のようなものではないか、と想像した。冒頭の箴言から推して、芭蕉が生涯に捉えた「光」即ち「秀逸句」は十度以上はあっただろう。
 そのひとつ「古池や蛙飛び込水の音」。芭蕉は、蛙が飛び込む水の「音」をとらえた。その音は光となり、その瞬間「古池」の波紋はひろがり、宇宙の時空とつながった。この句は「や」で切れる。「や」は切れ間であり空白である。そこが芭蕉が求めた居場所だった。
この一句を嚆矢として地発句は、切れ間・空白に宇宙を詠むという、言葉を超越した詩文芸に昇華した。

 僕は先人たちがそうしたように、生涯に一字を残すならば「無」であると思う。無は無限大の無であり、無限大の居場所である。俳句の切れ間・空白はこの「無」という言葉に置き換えられる。悠久の旅人・芭蕉は、この光をとらえて初めて宇宙と同化した。そのことによって「我々は何者なのか」という「真実の自己」を覚る歓喜に浸ることができたのである。

      芭蕉の無意識                 

 三冊子に「心の作はよし。詞(ことば)の作は好(む)べからずと也」とある。
 心の作とは無意識(下意識)世界を詠んだ発句をいう。詞の作とは表に現われた意識(表層意識)によって詠まれた発句である。表層意識とは所謂六感である。
 近代以降の科学万能主義・合理主義は人間を物質主義・個人主義に陥れた。その結果この星は人間の欲望を満たす資源と化し、益々自然は破壊されている。人間は、心を自分のうちのあるもの、自然と対立するものとして疑わない。そんな人間は六感で詠む。六感俳句は個性的で独善的である。
 心理学や脳科学がどんなに進んでも心というものは合理的に説明できない。なぜなら心の在処は自分の中(うち)にあるのではなく、森羅万象そのものであることに気づいていないからだ。

 自分というものは、自分の知らない自分、自分だけが知っている自分、自分も他人も知っている自分がある。社会にとって大事なのは他人に見せている自分かもしれないが、自分にとって大事なのは自分の知らない自分である。この自分の知らない自分こそ無意識の自分である。そこには自分が社会に見せている自分以外の膨大な自分が滞留している。この無意識の自分に造化の神の力がはたらく。無意識の自分こそが生きる自分の原動力となっている。そのことを芭蕉はよく知っていたのだ。

 芭蕉の発句は無意識の部分を詠っている。それは言葉で説明したり分析できない。芭蕉は言葉で表現できない無意識をどうやって表現し得たのだろうか。
 我々は句中に切れを入れることは自明だと思っているが、切れというものは空白をいうのである。芭蕉の天才はこの「空白を詠む」という詩形を発見したことにある。切れとは無意識の世界に外ならない。


      芭蕉のこころ               

 西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり。(笈の小文)
貫道するものとは、自然の本質・真理を求めることだろう。古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ(許六離別詞)の「求めたる所」と同義。それぞれ求める手段方法は違っていても、彼らは自然の中に身を置いて心を遊ばせることができた。
 松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ。(三冊子)
 自然との共生感を持つこと。
 近代以降、教育の根底にある発想が西欧の合理主義であり自然科学万能主義によって人を物質主義、個人主義に陥れた。その結果、自然は破壊され地球の温暖化は進んでいる。今でも続いている。現代は芭蕉の時代とは異なる。歳時記もまた壊れてきている。欲望に任せて自然を破壊する彼らは、心というものは自分の中にあると疑わない。
芭蕉は自然即自己という心の世界にいた。
 一世のうち秀逸の句三、五あらん人は作者なり。十句に及ばん人は名人なり。(俳諧問答)

 芭蕉には物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし(三冊子)というアフォリズムがあるが、その光を十七音で翻訳した句を秀逸句というのだろう。光とはプラトンが指さす天上から降る美のイデア、あるいは宇宙物理学でいう重力波のようなものか。美のイデアも宇宙の秘密を解き明かすという重力波も、捉えることは至難。ゆえに不断の努力が肝心。

 心の作はよし。詞(ことば)の作は好(む)べからずと也。(三冊子)

 心の作とは情緒の句。詞の作とは感覚の句。情緒は意識下の世界、感覚は意識の世界。感覚の句は一見面白いが、人の心を深く揺さぶることはない。明治以降の社会の近代化は、俳句の世界から芭蕉の心を否定した。しかし、人は意識的・合理的・科学的に説明できない無意識に動かされる不透明な世界に生きているのである。
 発句は取り合せ物と知るべし。(三冊子)
 俳句は、句中に切れを入れ、切れ間(空白)を詠む。芭蕉の天才がこの構造を発見して、他に類を見ない詩に昇華させた。

     芭蕉のつぶやき 

あなたはまだそんなところに立ち止まっているのか
あなたの言葉には言葉が言葉になる瞬間の輝きがない

言葉は視ること聴くことと同時に発せられる
言葉は無意識の中から偶然、唐突にすくいあげられ
さらに無限の宇宙へとひろがってゆく

あなたは移り気で浮気な記憶にたよって
すくいあげた言葉を飾ってはいけない
あなたの意識や感覚の言葉に代えてはいけない
なぜならその言葉は造化の神の言葉なのだから

あなたはわたしになにも問う必要はない
あなたはひたすら天に指さしていればよい

わたしは絶えずあなたにわたしのこころを送っていて
あなたによって見出されるのを待ち続けている

わたしはこの自然と一体になって人世の情緒を詠った
あなたもあなたがなすべきこと、みたすべきことを
詠わねばならない

いつの日かわたしのこころにあなたのこころを添えて
あなたのこころがみたされたならばそのときこそ
西行や宗祇に連なることができたのだ
それがわたしがあなたに望むところだ

造化の神が投ずる光をとらえることはむずかしい
光はあなたの不断の努力に対してのみ射し込む
無私無欲で自然と共生する努力を。


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歌仙 [つばくらめ歌仙]

      つばくらめ歌仙 『山独活の巻』          起首 令和三年三月一日

表六句
発句    山独活や悔い多き日も暮れかゝる  律子
脇     明日は天婦羅大根おろし      夏霜   
       
       今日は「悔い多き日」だったが、明日は明日の風が吹く。
       独活は天麩羅もおつなもの。(野草)
      「ウ」(暗)から「ア」(明)の音相へ。
       蓼科山中で採った独活を生味噌で齧ったことがある。
       えぐみ、苦み、コリコリの歯ざわり。思い出の味。(黙狂)

第三    久しぶり子供も孫も集まりて  野草
      
       一族揃って好物は天麩羅。(野)
       残りは夜食の天むすに。(黙)

四句目   寝息うかがふ乾杯の音  黙狂
      
       大人は乾杯、孫は昼寝。(野)
       実は子供らもひそかにジュースで乾杯している。(黙)

月の定座  月影に夜逃げとげたり裏長屋  德海
      
       夜逃げして乾杯とは、能天気。(野)
       事が上手く運んだ。取り敢えず自販機の缶ビールで月に乾杯。(黙)

折端    人の情けと秋刀魚の匂ひ  流水
       
       裏長屋に秋刀魚。逃げた先は庶民の人情味溢れる長屋だった。(野)
       鰻の蒲焼ならぬ路地で秋刀魚を焼く匂いをおかずにして。(黙)       

裏十二句 
折立    気がつけば棺より見るお月さま  結
       
       江戸の雰囲気。何か落語にあったような。(野)
      「粗忽長屋」の八五郎。原話は絵本噺の「水の月」だそうだ。(黙)

二句目   思ひ返せば今も動悸が  律子
      
       臨死体験の記憶。(野)
       前世も今世もたいして変わらない。恋の呼び出し。(黙)

三句目   冗談半分に愛を告白片思ひ  半眼  
       
       大胆な字余り。動悸は初心さ故。それが懐かしい。(野)
       真剣になるほど冗談と思われる。そんな経験したことない?(黙)

四句目   さらりと流しお抹茶立てる  夏霜
       
       濃厚な愛から寂びた風情に。(野)
       失恋は薄茶のようにさらりと忘れた。(黙)

五句目   床の間に雪舟ならぬフェルメール  野草
       
       この茶人、洋の東西を問わぬ趣味人らしい。(野)
      「真珠の耳飾りの少女」が、口元にかすかな笑みを湛えて、
       もの欲しそうに見つめている。恋の名残。(黙)

句目   街に繰り出すネズミ大群  德海
       
       前句の高尚・清閑に付句の平俗・騒擾の対照。(野)
       ひと気のないコロナの街は鼠どもの天国。(黙)

月の定座  巣籠りの月を相手の生ビール  黙狂
       
       普段は籠もっているはずの鼠は外に、主人は内に。(野)
       コロナ下の熱帯夜に耐え切れず、コンビニへビールの買い出し。(黙)

八句目   蛍飛びかふ川辺に立ちて  結
       
       難解。泡に反射する光に触発された回想句か。(野)
       冷たい生ビールを干すと目の中に蛍がチラチラ。飲み過ぎ。(黙)

九句目   釣りキチのねらひは淵の岩魚かな  流水
       
       夜釣りの風景だった。(野)
       このシルエットは蛍狩りならぬ岩魚狩り。(黙)

十句目   擦れた魚にまた為てやられ  半眼
       
      「ねらひ」に「為てやられ」が呼応。(野)
       淵の主人・岩魚に遊ばれている。(黙)

花の定座  鯛買ひて春惜しみつつ白ワイン  律子
       
       釣は坊主。でも魚屋で仕入れて帰ればいいさ。(野)
       海老ならぬ幻の岩魚で鯛を釣る。白身魚には白ワイン。
       魚の句が三つ続き生臭くなった。(黙)

折端    瞼も頰も散る花の色  野草
       
       鯛のみならず、花見する酔人の顔も花の色。(野)
       白からロゼへ。そして赤い顔に。花の定座がひとつずれた。(黙)

名残の表十二句
折立    連れ添ひて吉野の山の葉桜に  夏霜
       
       花見で見初めた人を葉桜見物に誘った。(野)
       デートには満開の吉野より葉桜の吉野。二人だけの暗闇の世界。(黙)

二句目   両手を振りて見送るホーム  結
       
       両親の銀婚旅行か何かを、それをプレゼントした子供が見送る情景か。(野)
       デートの相手は地元・吉野村の人だった。(黙)          

三句目   いたはりし情が憂しと去り行くか  半眼
       
       深い情けが重荷となることもある。前句を、別れの場面と見定めた。(野)
       何事もスープの覚めない仲が宜しい様で。(黙)

四句目   秘蔵の絵画競り市にかけ  黙狂
       
       これも難解。自分が売っておきながら絵画の方が「去りゆく」と洒落たか。(野)
      「オランピア」を手放すマネ、「モナリザ」を手放すダヴィンチ。
       二人の心境を邪推して。(黙)

五句目   手拍子の売り手と買い手酉の市  流水
       
       カタカナのオークションから卑近な市に。(野)
       手拍子がはいると、銭を掻き寄せる熊手になる。(黙)

六句目   木枯に舞ふ札のかずかず  德海
       
       市で商われる品の値札か、名札か。(野)
       木枯の酉の市の空にはいろんな「札」が舞っている。花札までも(黙)

七句目   たなぼたの叔父の遺産の振り込まれ  野草
       
       「札(ふだ)」ならぬ「札(さつ)」。(野)
       木枯しが棚からボタ餅ならぬ札束を吹き落とした。(黙)

八句目   車を買ひてあの隠れ家へ  律子
       
       たなぼたで念願の車入手。大人の秘密基地とも言うべき「隠れ家」に。(野)
       これからはいつでも愛車に乗って。恋句(黙)

九句目   紅梅の仄かにかほる枕元  夏霜
       
       隠れ家は山里だった。(野)
       観梅の愛車が紅梅の香をそのまま隠れ家の寝室へひきずって。恋句。(黙)

十句目   読経のひびく白き天井 結
      
       「枕元」は死の床だった。(野)
       紅梅の香と白い香煙の取り合わせ。(黙)

月の定座  照らされて満たされてをり月明り  半眼
       
       浄土の風景。(野)
       池に反射する月影が本堂の天井に揺れている。月陽炎。(黙)

折端    紅葉の城に舞ふ白虎隊  黙狂
       
       月明かりの下、御前で舞う。(野)
       鶴ヶ城内での剣舞。白鉢巻の若者たちは月影に生き生きと輝いている。(黙)

名残の裏六句
折立    車座に新蕎麦啜るタリバン兵  德海
       
       現代の白虎隊とも言うべきタリバン。
       ソバはユーラシア大陸各地の食文化に生きている。(野)
       戦の砂漠で蕎麦を啜るには安心安全な車座しかなかろう。(黙)

二句目   幼さ残す少年もゐて  夏霜
      
       観音開きの気味もあるが、前句と付句一体で前々句に付けたと見れば、
       これもありか。(野)
       少年兵は車座の外で敵の見張り役。(黙)

三句目   白秋や水透き通るガラス瓶  律子
       
       少年の肌のイメージ。(野)
       平句では切字はご法度。「の」にすると平句にはなるが。(黙)

四句目   酒くみかはす見知らぬ同志  結
       
       君子の交わりは水のごとし。
       なればこそ「見知らぬ」者も気が合えばすぐ「同志」となる。(野)
       透き通った水のような酒といえば、銘酒「上善如水」。(黙)

花の定座  忘るなよ今月今夜の花盛り  野草
       
       一期一会。(野)
       芭蕉に「命二つの中に生たる櫻哉」
      「さまざまの事おもひ出す櫻かな」あり。(黙)

挙句    さも賑やかに朧夜の宴  流水
       
       前句「忘るなよ」の勢いが力強い「さも」で受けとめられている。
       「悔い多き」ではじまった本巻も「宴」で目出度く満尾。(野)
       夢まぼろしのごとき人生。だからこそ「さも賑やかに」。
       挙句らしく後味よくあっさりと付けた。(黙)
 
                             満尾 令和三年八月二十日 
 

つばくらめ歌仙『白露の巻』     起首 令和二年八月十九日

水門の細き流れの白露かな     結
よくぞ続きし句座二百回      黙狂
 水とともに時流れ、気がつけば我が「つばくらめ」も二百回を数える。(野草)
 二百回目は白露の頃の浜離宮吟行。細き流れのような句会だからこそ続いたのだ。(默狂)

よくぞ続きし句座二百回      黙狂
今日もまた坊主だったと月を見て  野草
 二百回の内にはそんなことも何回か。(野)
 佐太郎の坊主の句会冬うらら 夏霜。あの上大岡の「花里」も店を閉めたそうだ。(默)

今日もまた坊主だったと月を見て  野草
古りし詩嚢を繕ふ夜なべ      徳海
 売れない老詩人、推敲に余念がない。(野)
 選に漏れた句の何と多いこと。とは言え、わが人生の消せない軌跡。捨てられぬ。(默)

古りし詩嚢を繕ふ夜なべ      徳海
酒の座のマナー守れよ花の下    柚
 夜が更けるに連れ乱れていく。(野)
 お花見時の運座で先輩に叱られた一句に似ている。これも落選。(默)

酒の座のマナー守れよ花の下    柚
実梅ころころ海辺の街よ      流水
 花が実となる。(野)
 これは早春の鎌倉句会。梅の実が海坂を転がる。そう言えば、腰越の満 福寺は燃えてしまった。昼に食った大盛生シラス丼が懐かしい。売店には大きな猫もいた。(默)

実梅ころころ海辺の街よ      流水
花曇り外人墓地の鐘の声      夏霜
 海辺の街とは横浜山手あたりだった。(野)
 フェリスの生徒たちのコロコロと転がるような笑い声。教会の鐘の音もまた。(默)

花曇り外人墓地の鐘の声      夏霜
万国公法懐中に秘め        黙狂
 開国か攘夷か、幕末の雰囲気。(野)
 戦争か外交か、今に通じる。国際法に従わない国もあるが。(默)

万国公法懐中に秘め        黙狂
出航の汽笛づ太し雲の峰      半眼
 これは龍馬だろう。(野)
 泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四はいで夜も寝られず。今は一杯でも。(默)

出航の汽笛づ太し雲の峰      半眼
夏惜しみつつ振り返る海      律子
 雲の峰も崩れ、残る思い。(野)
 小さな胸に深呼吸。初秋の海風は青春の匂い。(默)

夏惜しみつつ振り返る海      律子
巻き貝に耳を澄まして暮れなずみ  野草
 巻き貝は追憶のイメージ。(野)
 私の耳は貝の殻/海の響きをなつかしむ  ジャン・コクトー(默)

巻き貝に耳を澄まして暮れなずみ  野草
地図を片手に旅の支度で      結
 気を取り直して、秋は新たなる旅行シーズン。(野)
 さて、元気なうちに奥の細道の旅へ…と思いつつ今日まで来てしまった。(默)

地図を片手に旅の支度で      結
駅弁のおかず交換ロマンスカー   徳海
 旅は恋の始まり。(野)
 実は、芭蕉は意外に手がはやかったという説がある。(默)

駅弁のおかず交換ロマンスカー   徳海
ワイングラスに届く月影      黙狂
 宿のベランダの情景。(野)
 現代の芭蕉は、その時のために、心とろかすワインを旅行鞄にひそませているのだ。(默)

ワイングラスに届く月影      黙狂
栗飯をおひつに移す香りかな    流水
 恋の逢瀬から家庭的情景へ。(野)
 恋の成就。新妻のエプロンとお櫃を覆う布巾が清々しい。(默)

栗飯をおひつに移す香りかな    流水
母の味恋ふ秋の胃袋        柚
「香り」の行き着く先は「胃袋」。(野)
 所詮、人間は頭脳ではなく、胃袋で思考、思慕する。(默)

母の味恋ふ秋の胃袋        柚
一人娘蝶よ花よと育てられ     野草
 箱入り娘、初めてのひとり暮らし。(野)
 三度の飯はすべてコンビニ。(默)

一人娘蝶よ花よと育てられ     野草
春の曙アメリカに飛ぶ       夏霜
 そういう猛者のような娘子が明治大正にもいたのだった。(野)
 津田梅子は明治四年、満六才で岩倉使節団に随行し渡米した。たいしたもの。(默)

春の曙アメリカに飛ぶ       夏霜
パリからのショコラが香る春の宵  律子
 アメリカがパリ、「曙」が「宵」に。(野)
 春宵はニューヨークよりパリ。ピアフのシャンソン・「愛の讃歌」も聞こえて来る。(默)

パリからのショコラが香る春の宵  律子
正午の汽笛氷川丸より       黙狂
 そして「正午」(以上三句観音開きの気味があるが、これはこれで面白い)。(野)
 横浜・ニューグランドホテルで元祖ナポリタンを食って、お土産にはショコラ。(默)

正午の汽笛氷川丸より       黙狂
ひとり酒しばし酔ひたり冬の月   結
 独酌の耳に汽笛が聞こえてくる。(野)
 昼下りの山下公園のベンチ。ロング缶を空にして、いざ野毛の居酒屋へ。(默)

ひとり酒しばし酔ひたり冬の月   結
裳裾を濡らす逢坂の関       徳海
 難解。独酌の主の回想風景か。(野)
「夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」。清少納言の返歌に、藤原行成の自棄酒。(默)

裳裾を濡らす逢坂の関        徳海
緑なすポニーテールの腰に触れ    野草
 裳裾のなす曲線、髪から腰に至る曲線。(野)
 現代版、清少納言の色気。(默)

緑なすポニーテールの腰に触れ    野草
秋の陽ざしに微かな匂ひ       夏霜
 それは緑髪の匂い。(野)
 エンジェル・リングを輝かせながら、少女が駆け抜けて行く。(默)

秋の陽ざしに微かな匂ひ       夏霜
コロナの地球月のウサギは哀しみぬ  柚
 陽はやがて落ち月が出る。(野)
 兎は、お釈迦様にわが身を捧げたので、「月の兎」となって昇天した。欲に溺れた人間どもよ。猛省せよ。(默)

コロナの地球月のウサギは哀しみぬ  柚
外出控へ亀甲羅干し         半眼
「ウサギ」に対するに「亀」。(野)
 亀は万年、コロナは億年?人間はウイルスと上手に共生するしかない。(默)

外出控へ亀甲羅干し         半眼
小春日に猫のもふもふ会ひに行く   夏霜
 巣籠もりに飽き「甲羅」にも飽き「もふもふ」を求め外出。(野)
 浅草に猫カフェあり、兎カフェあり。梟カフェも。コロナ下、やっているのだろうか?(默)

小春日に猫のもふもふ会いに行く   夏霜
子のてのひらに母の肌合ひ      黙狂
「もふもふ」を求めるのは母の感触故だったか。(野)
 猫の肉球を弄ぶのを肉球フェチというそうだ。マザコンの一種か。(默)

子のてのひらに母の肌合ひ      黙狂
南風吹く帽子をかぶる犬の像     結
 この犬は作者が乳離れしたころからの愛犬だったのだろう。(野)
 帽子どころかマスクまでして。(默)

南風吹く帽子をかぶる犬の像   結
コロと呼んでも尻尾は振らず   野草
 犬の像は在りし日のコロに姿形似ているのだが動くことはない。(野)
 コロはコロナに通じるからか。そっぽを向いたまま。(默)

コロと呼んでも尻尾は振らず   野草
便りなく金も送らず切れ目時   徳海
「呼んでも」「便りなく」、「(袖も)振らず」「金も送らず」だ。(野)
 金の切れ目が縁の切れ目。そんな若い頃の苦い思い出がある。(默)

便りなく金も送らず切れ目時   徳海
そのうちいつか訪れる客     律子
 ぱったり音沙汰ない。コロナ禍、店長も開き直っている。(野)
 待てば海路の日和あり、とは言うものの何かいい手を考えねば。(默)

そのうちいつか訪れる客     律子
ホステスはみな羅に肌を見せ   黙狂
 その店はキャバレーだと見立てた。(野)
 昔のやり方ではダメ。写真入りで、どんどんツイートしなきゃ。(默)

ホステスはみな羅に肌を見せ   黙狂
手を取り行かむ浅草祭り     夏霜
 明日行こうと夜の女を口説いているが、はて。(野)
 コロナ禍で三社祭もやらぬ。せめて恰好だけはと、少し片肌見せて。(默)

手を取り行かむ浅草祭り     夏霜
座してより眸やさしき花のもと  半眼
 口説きは成功したらしい。夜の女も昼の花のもとでは「眸やさしき」こともある。(野)
 墨堤の満開の桜の下。酔眼には、向島の芸者衆は皆「眸やさしき」である。(默)

座してより眸やさしき花のもと  半眼
囃すやうなり蝶の羽ばたき    野草
 植物界も動物界も、そして人間も、春を楽しんでいる。(野)
 夜の蝶、昼の蝶、皆、踊りながら日本の春を謳歌。歌仙もまた芽出度く満尾。(默)

                     満尾 令和三年二月二十日


つばくらめ歌仙 「蛤の巻」
            起首 令和二年三月二十六日

蛤の無言の語り尽きもせず          半眼
のどかに暮れて春星ひとつ          佐太郎
遠足は馬の埴輪の眠る地に          野草
風のまにまに花びら拾ふ           律子
母の影踏んでうれしき月の道         流水
野川に沿ひて匂ふ秋草            結
ころがる零余子女生徒の爪先に        和子
ポストに走るルーズソックス         德海
転校生去つてつのるや片思ひ         半眼
会ひに行きたし夜汽車に乗つて        夏霜
新橋の汽笛一声高らかに           柚
膝に置きたる温き弁当            默狂
とりあへずひと口すするワンカップ      默狂
ビルの向うに月の涼しく           野草
蝙蝠のいづくにゐるや無縁寺         律子
敵は新型コロナウイルス           流水
しなやかに踊る女人の白き腕         結
京の花愛で北へ追ひ行く           和子
桜餅スマホ頼りに向島            德海
仕舞屋の路地行く春ショール         半眼
銀座まで軒の紫陽花右ひだり         夏霜
初めてつなぐ手の温もりよ          柚
一弾で民族の和の弾け飛ぶ          默狂
百を下らぬ白鳥の群             野草
あのひとの笑顔が欲しく寒稽古        律子
汗を拭ひて眼と眼で語り           流水
山頂で指輪を交はし婚約す          默狂
夢に浮びて夜も眠れず            結
朝ぼらけ紫の雲のたなびく          和子
霊柩車借り西へドライブ           德海
ステイホームと波打ち返す月の浜       半眼
秋風清し嵯峨の竹林             夏霜
台風よ恋の深傷を吹き飛ばせ         柚
木の芽明りに読書三昧            默狂
ひとひらの花の頁に散りかかり        野草
空を仰ぎて残り香を吸ふ           律子
             満尾 令和二年八月十二日


つばくらめ歌仙  「春トマトの巻」

サンドイッチにはみ出してをり春トマト    柚
どーっと花咲くみちのくの里         夏霜
ひとり座り涙なみだのスクリーン       結
チャイム鳴りてもやりすごしつつ       野草
月おぼろ手さぐりで出る裏の木戸       律子
懐重し縁起がいいや             德海
舟で行く大川端の花月夜           和子
雪見障子は閉ぢられしまま          默狂
宵闇や値千金台場まで            佐太郎
今こそ行かん杖を頼りに           半眼
めでたさや金婚の日の天高し         流水
君を好き好きわれを残すな          柚
秋日和今宵は何処へ泊ろうか         夏霜
振り向き見れば麗しきひと          結
山茶花の坂を登れば海の宿          夏霜
馴染みの仲居白髪増えて           德海
買ひ替へる花見むしろや新社員        律子
胸のラスター春風に揺れ           野草
缶珈琲初夏のビル街連れ立ちて        和子
香水仄とブラウスの襟            默狂
ツバメ二羽眼にして弾むウォーキング     佐太郎
走り追ひ抜く下校の生徒           半眼
空は青く大地に銀杏落葉かな         流水
小判きらきら舞落ちるかに          柚
千両に薄日当りし庭の隅           夏霜
待ち人来たる小川のほとり          結
うつむきし渡しをめざす逃避行        德海
逃げても先は吉とは出でず          律子
サンダルの舞ひ上がる空宵の月        野草
まだかまだかと幕開きを待つ         和子
寄り添ひし伽羅の香りの仄かにも       默狂
気短者ぞ花も待たぬは            和子
寒空へ口笛吹いて孤独なり          半眼
狂ひ咲きさへあると言ふのに         柚
待ち人の肩にほろほろ里桜          結
はるか地球へはやぶさの旅          流水




付け句・明治以降 [付け句かるた]

霜降りる頃より里の土橋かな  東洋城
(か)刈田の末に眠る山々  寅日子(寺田虎彦)

鎖したれど流石に春や通り町  蓬里雨(小宮豊隆)
(て)天水桶に浮ぶ輪飾  寅日子

あすよりはみちのくの人や春の雨  東洋城
(な)なだ雪のこる西側の山  蓬里雨

けふあすのけふの中なる胡蝶かな  東洋城
(い)いつはえるとも瓜の種蒔く  寅日子

雪の蓑一つ見ゆるや峡の橋  東洋城
(そ)空はからりと晴れ互る朝  蓬里雨

炭竈とのみ道もなき深雪かな  東洋城
(か)野の果てに黒き海原  寅日子

昔から名古屋の城の長閑かな  東洋城
(あ)赤土山に燃ゆる陽炎  寅日子

水団扇鵜飼の絵なる篝かな  東洋城
(た)旅の話の更けて涼しき  寅日子  
  
凩の一日吹て居りにけり  団友
(か)烏もまじる里の麦まき  乙由

白梅の白に負けたり干し大根  柳叟
(か)霞むもいまだ新道の末  迢空

うらゝかや染めわけて濃き湖の色  井泉水
(ゆ)湯の香に惜しむ春のせはしき  善麿

夢のあと日のさす櫻しづかなり 井泉水
(つ)燕の巣ものこる一軒  善麿

先生を迎へて涼し夏山家  迢空
(ふ)富士を真向きに円座出し置く  茅秋
(先生とは柳田国男のこと)  

花蘇枋曙町に住ひけり  東洋城
(ね)猫の子呉れる塀の張り紙  寅日子

短夜の旅寝なりしが別れかな  蓬里雨
(か)蚊帳の釣手に浜の松風  寅日子

文鳥や籠しろがねに光る風  寅日子
(へ)塀の上より春の遠山  東洋城

露けさの屋根には藁の子馬かな  蓬里雨
(ふ)ふすまで腹をあたゝめる秋  寅日子

簾越に緑吹入る温泉の二階  蓬里雨 
(は)葉を折りそへて盆の枇杷の実  寅日子

うなだれて灰汁桶覗く柘榴哉  寅日子
(ひ)昼鳴く虫の一つのどけさ  東洋城

コスモスやつがね上げてもからめても  寅日子
(ね)猫さまたげぬ籬の秋風  東洋城

旅なればふどし洗ふや秋の水  東洋城
(く)くわつとあかるき稲妻の庫裏  寅日子

花蘇枋曙町に住ひけり  東洋城
(ね)猫の子呉れる塀の張り紙  寅日子

かはかはと蛙妻よぶ夜となりぬ  蓬里雨
(み)水草生ふる沼のそここゝ  東洋城

さみだれや傘の影なす隅田川  梓
(き)胡瓜吸ひこむ河童の渦  梓

唯祈る月明くとも暗くとも  虚子
(そ)その盛り待つ黄菊白菊  柳叟

大根の花や雲雀は雲の中  虚子
(京)京へ流ゝ春の里川  靑々

鳰がゐて鳰の海とは昔より  虚子
(あ)芦の苫屋の芦の風景  たかし

水団扇鵜飼の絵なる篝かな  東洋城
(た)旅の話の更けて涼しき  寅日子

荻吹くや崩れ初めたる雲の峯  子規
(か)かげたる月の出づる川上  虚子

寺斗りかくれぬ丘の若葉かな  みき雄
(こ)声ほのほのと時鳥鳴  幹哉

鎖したれど流石に春や通り町  蓬里雨
(て)天水桶に浮ぶ輪飾  寅日子

春深きこの水ありてつゝし園  鳳羽
(の)長閑に並ふ遠近の山  閑窓

梅が香や茶は除け者の裏書院  竜洲
(き)客の好みに任す干海苔  井月

 

つばくらめ付け句 [付け句かるた]

つばくらめ付け句(野草選)

木にのぼり青葉の闇へ消えゆけり  黙壷子
 ぬぎ捨てられしくちなはの衣   律子

バーベルの蜻蛉止まりて傾きぬ   野草
 股からのぞく豊洲の市場     徳海

まず出でて直ぐなる風や秋近し   夏霜
 黄昏ながく百日紅散る      律子

鈴の音の鍵を浴衣の袂かな      黙狂
 すっかり忘れし昼の言ひ合ひ   柚

大仏の眉を涼しく長谷の空     夏霜
 滴る山を光背にして       默狂

透明になりて新樹の中を行く    和子
 黒揚羽ゆきかふ風の眉      佐太郎
 
二階より細き素足の下りきたる   結
 葭戸を開けて拭き掃除する    律子

春光のペンキ塗りたて触れるべし  徳海
 お花畑に足踏み入れて      夏霜

秋澄むやあらぬところに昼の月   黙狂 
 母を追ひかけ父の行くなり    結

きげん良き病児に似たる小春かな  和子
 背高のっぽの皇帝ダリア     柚

ダークスーツ颯爽としてつばくらめ 佐太郎
 佐々木小次郎はちまきしめて   和子

やはらかき卯の花腐し軒の猫    流水
 目は瞑るとも耳は欹てて     半眼

紫陽花のつぼみに昏き石畳     律子
 茶店の主は姉さん被り      流水

君の名を句会に知るや節分草    柚
 鬼のやうとも福のやうとも    黙狂

どの子にもその子の笑窪桃の花   野草
 うぶ毛ひかりし喜寿の福耳    菱玲

デザートは一片の梨病院食     淳郷
 また越え行かん小夜の中山    夏霜

冬の陽を一粒づつに砂時計     黙狂
 春の山辺に小鳥群立つ      夏霜

師走風のらくろ通りはぐれ犬    淳郷
 カウンター席奥が定位置     野草

青空を流れる水脈や枯木立     律子
 列島長く春遠からじ       佐太郎

風花の四次元ぬけて来たりけり   流水
 後すがたやついて行きたき    和子

やはらかき卯の花腐し軒の猫    流水
 目は瞑るとも耳は欹(そばだ)て 半眼

小暗きに氷菓舐め世を遠くせり   半眼
 当り棒もてせわしげな下駄    徳海

星ひとつ動かず花火二万発     黙狂
 鼻緒の色もこだわりのうち    柚

連れそひし九月の風の祇園町    夏霜
 枕の下ぞ水の流れる       佐太郎

ポケットに木の実の騒ぐ女学院   黙狂
 餌を求め里へ来る熊おやじ    徳海

竹箒真っ直ぐ立てて山眠る     徳海
 焚火に芋の焼ける頃合ひ     黙狂

熱燗の通夜の笑ひを許されよ    結
 酌み交はしつつ眼鏡をはずす   和子

ボート屋の固き施錠や浅き春    柚
 ペンキ塗り立てあと二、三日   徳海

涅槃図のいづくに母の泣きおはす  結
 ゆいよゆいよの声も聞こゆる   流水

肩越しにあだ名呼ばるる葱坊主   結
 俳号を受け今や大御所      德海

葉桜や柩のくぎは打たぬまま    結
 また共に見ん画家となる夢    半眼

蚊柱や役にも立たぬ男たち     流水
 扇子巧みに飛ばす賭事      德海

草の花座ればこつと尾骶骨     結
 一目散に蜥蜴飛び出す      夏霜

河馬の目の二つを見せて秋の水   野草
 笑つてゐるよぽぽの稔典     流水

ぎいと捩づ鯉の背鰭や秋の水    半眼
 紅葉を乗せて水輪ひろがる    默狂

吟行の句を懐に冬ざるる      流水
 師走の巷影を歩ませ       佐太郎

おらが春書斎に活けし猫柳     佐太郎
 午後の客へのまんじゅうを買ふ  結

風光るビルのガラスにビルの影   結
 アンパンかじるティファニーの前 默狂

頂吹く風やはらかき彼岸かな    和子
 河津桜のいまをさかりに     佐太郎

花冷えや末摘花の鼻の先      和子
 マスクをすれば皆美人なり    夏霜





   

河童の芋銭 [僕の芋銭]

夏料理壁に芋銭の河童掛け 紫陽
夏暖簾河童三匹ひらひらす  寥汀
月見草河童のにほひして咲けり 乙瓶
三日月や二匹つれたる河太郎 龍之介
ガラッパのまぼろしながる小狸藻 芋銭
川びたりの餅にも飽けよ瘠河童 芋銭
梅雨湿り芋銭の河童百図かな 良一
黒南風や河童百図の動き出す さとる
ガラッパの戀する宿や夏の月 蕪村
文士村河童あまたや山ぼふし 猪道


河童戀々 - 芋銭河童百図を詠む   默壺子

春萌す。一冬の垢を洗ひ流した甲羅を干す河童たち
干されある河童の甲羅山笑ふ
甲羅干す河童の負へる芭蕉の葉

ポッチェチェルリのヴィーナスの誕生に似て
河童の子烏貝より誕生す

昭和二十年冬。上野・不忍池に数多の一本足の河童が立つてゐたといふ
破蓮に一本足の河童かな

女房河童は人間の夕餉の隙間に畑の胡瓜を一本だけ失敬します
胡瓜一本亭主河童の膳に置く

河童は泳いでばかりゐるのではありません
達磨はふらここ河童は丸木舟

子河童の悪戯に泥鰌を捕まえ損ねた輕鴨
輕鴨の足を引つ張るカツパの子

花の筏に午睡する河童仙人
鼻赤き隅田のカッパ花筏

河童は一生に一度だけ人間の女に化けるのです
失戀の男河童はヴィーナスに

大鯉の背に摑まつて龍になろうとしたが終に果せなかつた
炎天に跳ねたる鯉や背に河童

元々河童の頭には皿はなくて毛がふさふさしてゐた
村相撲むかし河童の大銀杏

河童は死ぬと鵬となる。それは宇宙と同じ大きさなので誰も見たことがない
鰯雲ひろがるひろがる河童の死

古代、天狗の木の実と河童の川魚を交換する楽市楽座があった
木の実塚それは河童の邨の跡

渡辺綱が切断した鬼の腕は實は河童の細腕だつた これが最近の定説 
人の世や河童も鬼の類にして

河童いはく「何をか天といひ 何をか人といふ」海坊主こたへていはく「牛馬四足これを天といふ。馬首を落 牛首を穿つ これを人といふ」故にいはく「人をもつて天を滅ぼすことなかれ 故をもつて命を滅ぼすことなかれ 德をもつて名に殉ふことなかれ」
海坊主とは鯨国の大統領である
河童に道諭す鯨や春の海

「老子・補遺」に「河童の皿に道あり」と
芭蕉は蛙芋銭は河童もて悟る

山田の案山子いはく「わが足は歩くことはできぬが 天下のことは悉く知る神なり」と
案山子は河童の先祖なりと古事記にある
河童(がらっぱ)の皿は案山子の破れ笠

河童の夢にはいつも河童の故郷・黄河が流れてゐる
書初は母なる河をカツパの子
蜀山人の「半日閑話」に 島原の乱の殘黨のなかに河童がゐたとある 天草四郎の妖術はこの河童のなせる業であつた
兵糧攻めしのぐ河童の胡瓜かな

夕餉の後、河畔を逍遥すれば蝙蝠が挨拶する
かはほりと交す挨拶河童かな

「金太郎さま、あなたのお相手に猿鹿と同じ忠實の心持で來たのです。どふか脅さないで使つてください」
鮎さげて臣下にくだる河童かな

五月雨を河童の世界では淫霖といふ
淫霖や猫なで声に戀河童

あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月 明恵
名月や河童の皿のあかあかと

元禄年間に白藤源太という相撲取りがゐた 奴のひと睨みで 河童は飛び散つた 中には迂闊にも死んだ河童もゐた
河童飛び散る白藤の眼力に

河伯とは川の神様のことである 河童が一日鳥の柔らかな背に乗って好物の魚や野菜果物を携えて遊ぶ喜びを「河伯欣然」と云ふ
蒲の穂でたゝきし鳥の背に河童

新内の夫婦河童や夏の月

ガラッパに発句教へて鮎二匹

まかりいでたるはこの藪の蟇にて候 一茶
まかりいでたるは蓮沼の河童にて候
三宝の胡瓜抜かれし盂蘭盆会
老松に縛られてゐる河童かな
滴りを皿に得度の河童かな
滝音や猿と河童の大相撲
ガラッパの戀する宿や夏の月 蕪村

山姥の乳を欲しがる河童かな

うれしさの浮草小町に会ふことも

豆腐舐めに化ける河童や五月闇 芋銭

亀の背に天水尊と河童座す

捕へしは雷にはあらず河童なり

粛々と夜川を渡る河童かな

カッパの子三味線堀でひきならひ 北斎

気もて出でカッパに化ける案山子かな

霞ヶ浦の底には河馬ならぬ河牛が棲んでいた
河牛の水蘚はがすカッパかな
のっこみのテグスの先のカッパかな
年々や猿にきせたるさるの面 はせを
年々や河童つけたる猿の面

日本近代絵画全集 第十九巻 小川芋銭 富田溪仙 一九六三 講談社

豆腐は天地の美なるものなり
蕎麦は乾坤のおいしきものなり
芋は宇宙のむまきものなり
草汁庵の喰道楽此に尽きたり
喰ふて描き、描きて死す、是我宗教なり
『草汁漫画』

「完成の直前まで、薄く淡い墨が幾度も重ねられ、もこもことした夢のような画面が幾日も続きます。そして最後の一日で、強い点や線がぐいぐいと引かれると、色も淡く彩られ、満を持して矢が放たれるとでもいいましょうか、瞬時もして絵が完成するのです。骨組みをまずかいて、しだいに肉付けをしていくというかき方が日本画の普通ですが、先生の場合はそれが逆であったわけです。とくに絹本の密画の時はそうでした。」
小林巣居人『芋銭先生追慕』(鈴木進編『芋銭』の一説)

少年時代、牛込新小川町の彰義堂に入塾、本田錦吉郎から洋画を学ぶ。
「厳正数学者の如く慈眼高僧の如く、彰技堂中、諄々として諸門生を薫陶せられつゝあった恩師本田契山先生は、実に尚ぶべき人格の方である。
当時(明治十七、十八年の頃)男女も門生も少なからずあったが別段舎を分かつ如きことをなさず、寧ろ開放的の教育法であったが、それでゐて醜声を伝へるやうなことはなかった。…先生は非常の勤勉家で、教授と刷毛の暇には必ず読書して居られた。…平常極めて厳粛であったが、諸門生の過誤失錯に対しては寧ろ寛大であった。
尫弱魯愚予の如きは特別御世話をかけたものである。毎に予が疎慢の質を戒められ、屡大雅堂の話をされた。一般の人は大雅堂を放逸世故に疎い者のやうに思ふが、決して左様ではなく礼儀を弁へて俗世間のことを等閑にせなんだ、君もよく注意せよと。…」(『芋銭子文翰全集上』)

十六、七歳ごろ従弟の師荒木寛友を知り、日本画に興味を抱く。
しかし実際に描くようになったのは四十を過ぎてからで、五十歳を過ぎてようやく本格的に日本画の仕事を始めた。(一九一七年・大正六年)

雅号・芋銭について  「河童の話その他」(『芋銭子文翰全集上』)
芋銭と云ふ号は日本画をやる様になった頃自分で選んだ。いもせんと重箱読みする人もあるが、矢張りうせんと読むのがほんとだらう。徒然草に真乗院の盛親と云ふ坊さんの事が書いてある。大変芋好きでお談義の席でも何でも平気でムシャムシャ喰ひ、病気でもすると藥の代りに芋を喰ふと云ふ具合だし、斎席など人に構はずズンズン上座に座り込み、お斎を喰ってしまふとサッサと帰ってしまふ、夫れでも誰も何とも言ふ人もなかった、「徳の至れるにや」としてあるが何しろ大変な変り者だった。師僧が死んで寺院七百貫を受嗣いだ時、其金を其儘八百屋に持込んで一生涯芋を喰はしてくれと頼込んだと云ふ話だ。私も芋が好きだ、盛親の貰った七百貫と云ふのが今の金にして幾千金となるかは知らぬが、親父が貧乏して居て満足に勉強させて貰ふ余裕もなく、盗む様にして筆や絵具を親父から貰つてゐた頃だから、何とかして私も自分の描いた絵が芋を買ふ銭になればいゝと思った。そんなところから私は自分の画号を選ぶことにした。

幸徳秋水とのこと(『画聖芋銭』津川公治)
先生は、秋水の人物には深く心をひかれたらしく、晩年(昭和九年五月)秋水に近づいた当時を追懐して「秋水に会って、ひからびた心を潤ほしてからは、近来にない喜びを覚えるやうになった。…秋水も老子が好きだといってゐたが、自分の理想は老子の思想に合一する」と語られたことがある。

芋銭とガンディンスキーの表現主義 → 「石炭と椿の円光」(一九二四・大
正十三)

芋銭と李白、劉伯倫 → 「酒仙帖」
芋銭と芭蕉 さびしさや花のあたりのあすならふ
『卯月の芭蕉庵』 芋銭は芭蕉を敬慕し折りにふれて芭蕉を語り、絵で芭蕉をうたった。この絵もその一つである。芋銭は芭蕉の「奥の細道」の連作を計画していたが、「那須野の馬」一点描いただけで計画は果されなかった。

「桃花源」 二曲一双 陶淵明「桃花源記」の一節を揮毫

(理解者たち)
森田恒友 平福百穂 小杉未醒 西山泊雲 斉藤隆三 池田隆一

双葉関の想い出(インタビュー) [僕の双葉山]

双葉関の想い出(インタビュー)工藤誠一さんに聞く

昭和四十八年一月、その日東京の下町界隈は小雪が舞っていた。正月場所が終わり、ひと段落した頃合いを見計らって、底冷えのする両国駅近くの友綱部屋へ出かけた。九代目友綱親方の工藤誠一さんに双葉山の強さの秘密や私生活の一端を聞き出すためである。親方は双葉山と同世代。戦前「弾丸」の異名をとった巴潟である。うかがった当時、部屋には西錦という十両力士がいた。後の関脇・魁輝、現在の十一代友綱親方である。大関・魁皇の師匠でもある。

友綱部屋の玄関を入るとすぐ右に土俵が広がっている。中央に御幣を立て三方に純白の塩が撒かれて清々しい。広い廊下を渡り座敷に通された。親方は横顔を見せて茶をすすっていた。挨拶もそこそこに早速持参したテープレコーダのスイッチを押した。

― まづ親方と双葉山の最初の出会いからお願いします。

確か昭和二年の春だったかな。ワシが大正十五年の夏の前相撲だから。昭和元年という年はその年の十二月の一週間で、年が明けるとすぐ昭和二年になった。双葉関はワシより丁度半年遅れての入門ということになります。
実はワシの方が少し年上でね。入門も早かったんだが、双葉関が入門したその日からすぐに気が合っちゃってね。二人っきりでよく稽古したもんです。土俵が空いているうちでないと存分に稽古できないからね。それでみんなより少しでも早起きしてね。それで二人して毎朝早起きの競争やるもんだから、しまいには夜中の二時頃から始める。最初のうちは親方も黙っていたんだが、とうとう我慢の緒がきれちゃってね。寝てられない。たいがいにしろ!と大目玉を食らったことがありました。

― 場所は一年に何回あったんですか。

当時は世の中不景気の真っ最中で場所もいろいろありました。たとえば一月に東京で春場所をやって、三月に名古屋でやったり大阪でやったり、五月には東京で夏場所をやって、十月に京都や広島でやったりしました。だから年四場所です。しかし番付は東京の成績と地方での成績を足して次の東京場所で発表しました。
たとえばワシが昭和七年夏場所に十両から東前頭六枚目に上がったとき、東京で十一日とるでしょう。そのとき八番勝った。ところが次の十月京都でやった場所で三番しか勝たなかった。合わせれば五分でしょ。で、翌年の東京の一月番付で一枚上がったか、あるいは西から東になったかな。(記録では西前頭七枚目。記憶力のよい親方でも間違えることがある。)
ただ一回だけだが、番付を昭和四年十月の名古屋で発表したことがあった。つまり東京の夏場所の成績をもとに十一日間の名古屋場所をやったんです。だから東京で幕内だった人が名古屋は幕下でとった人もいるし、逆に東京は幕下であった人が幕内でとった人もいた。なぜそんなことを憶えているかというと、名古屋場所を終えて台湾へ巡業したとき、ワシと同じクニの函館出身の人に一ノ濱という井筒部屋の人がいて、この人は長いこと幕の内で相撲とっていた人ですが三等車でした。まあ当時は東京以外の場所ではたいして力を出さなかったんだね。一方、東京では幕下だったんだが、名古屋で幕の内になった高砂部屋の潮ヶ濱という人は二等車で巡業した。当時幕内格の乗る汽車は二等車、今で言うグリーン車、名古屋で幕下なら三等車だ。そんなことをよく憶えていますよ。この変則場所は後にも先にもこの一回きりです。

― 入門当時の双葉山はどんな人でしたか。

その頃の双葉関はあんまり人前でしゃべる方ではなかった。無口だけれどもちょいちょいとユーモアまじりに人を笑わせる人だった。用のないときには無駄口は言わないけど、パッパッと面白いことを言う性格の人だったな。
それに一番感心することは大変な信心家だった。ワシは信心したことがないからわからないけれども確か身延山を信心していた。関取衆になってからでも伊勢神宮のある山田へ巡業に行けば、夜中から身を潔斎して朝一番にお参りに行くという人だった。これは下の時分からそうでした。

― それは父親の影響ですか。

私は双葉関のお父さんもよく知っていますが、それはわからんです。

― 双葉山の入門は双川喜一という人が関係していたそうですね。

実はワシは双葉関とは非常に仲が良かったんですよ。二人で稽古したり遊んだりした下の時分に聞いた話ではね、小さい頃にお母さんを亡くしたらしい。それでおばあちゃんに育てられた。小学校の時分には親父が漁師なもんだから一緒に船に乗っていた。それで新弟子になった頃にね、これは言って良いやら悪いやらわからんけど、私は真相を知っているから言うんですけれどね…。
あんたがたは若いから知らんだろうが、戦前は県知事の下に内務部長と警察部長がいて大変な力をもっていた。県の三役だな。警察部長は今で言えば県警本部長です。当時大分県の警察部長に双川喜一という人がおった。双川さんのお宅は東京の中野にありました。ワシは一っぺんだけ双葉関とうかがったことがあります。先々代の緑嶋の立浪親方が双川さんと同じ富山県出身で親交があり、転勤の多い双川さんに兼ねてより見込みのある子供がいたら紹介してくれるよう頼んでおいた。しかし入門のときに双葉関を世話したのは双川喜一さんじゃなくて斉藤春吉という人なんです。今の町名は変わっただろうが大分の中津の桜松というところで料理屋をやっていた。斉藤さんのお父さんは宮内庁の板場をやっていました。そのころは斉藤春吉さんのお母さんがしきっておりましたが、その息子の春吉さんが立浪親方に教えて、これはいい体をしているぞということで弟子にしたということなんです。それで次の興行地の大阪場所へ行く途中、この立浪親方という人もまた信仰家だったから、お前も早く出世するようにしっかりお参りしろ、と岡山の金光さん(金光教本部のある岡山県の金光町)に連れて行った。双葉関は大阪で前相撲をとったあと、東京に着くとすぐに親方と中野の双川さんの家に行き、あらためて入門したというのが本当のところです。一般では双川さんが直接入門の世話をしたことになっていますが、そうではありません。

― 当時地元出身の小野川も巡業に来ていて立浪親方と取り合ったそうですね。

そういうことはあったでしょう。昔はそういうことは皆しました。小野川は当時関脇で(大関になってからは豊國)井筒部屋の人でした。この人は大分出身ですからね。取り合ったということはあったでしょう。そういうことは今でもあります。しかし、真相は斉藤春吉さんが双葉関のお父さんをよく知っていたからですよ。

― 双葉山は下の時分は強くはなかったんですか。

飛び抜けて強くはなかった。しかし足腰はよかったね。だから打棄りばかりだ。十番勝つうち八番は打棄り。それから突っ張りもあった。立ち合いにパンパーンと突っ張る。強くなってからは右四つで取りました。

― しかし右眼が見えなかった。小さい頃浜辺で遊んでいて友達の吹き矢が当たったそうですね。

右眼が見えなかったのは事実ですね。吹き矢かどうかは知りません。

― 現役の頃は誰も知らなかったそうですね。

いや、ワシはうすうすは知っとった。しかしはっきりとは知らなかった。実は三段目のとき愛知県へ巡業に行った。そのときに双葉関と稽古をしとってね、双葉関の眼に砂がはいった。いくらこすっても取れないようだったので、医者へ行って取ってもらえよと、その頃立浪部屋にいた七尾潟という人が眼科へ連れて行ったんです。
それで関取衆も幕下も皆稽古をあがったんだが、双葉関はまだ帰って来ないんだ。おかしいな、どうしたんだろう、まさか砂くらいで手術するわけもないだろうと心配になって、ワシにも責任があるので七尾さんと医者へ見に行った。すると待合室に双葉関が座っていた。おい、一体どうしたんだ、と声を掛けたら、急診で出掛けてしまったので帰って来るのを待っている、と言うんだ。丁度先生がいないときに行ったんだねえ。
そのときはまだはっきりとは知りませんが、双葉関の眼を覗き込んだら、あらっ、この男ひょっとしたら片目が不自由じゃないのかなという気がした。古い人は知っているけど、あの人の右眼にね、黒い瞳の真ん中にちっちゃな白い点がありました。それで一瞬そう思った。いくら仲が良くてもそんなことは聞くわけにはいかないからね。しかしワシはうすうす気がついておった。

― 三段目というと昭和三、四年頃ですか。

それはねえ、玉関(横綱玉錦)がまだ関脇か大関に上がった頃…。
そのころ双葉関とはしょっちゅう申し合いをやってね。三番やって負け越した方が勝った方の下駄を持って風呂場へ行き背中をこすったもんです。こんな話を今の若いもんにしても信じないかもしれんが、実際そうだったんです。このことを知っているのは現存では前の旭川の玉垣さんくらいのもんかな。亡くなった鏡山関なんかもそんな申し合いをしていましたよ。

― 双葉山自身、右眼が見えないことを身延山の日顕上人に見破られたということを書いていますね。車椅子の上人を押していて左へ左へと傾いて進むので感づかれた。

それはワシも本で読んだことがある。

― それに小さいころ網を巻きあげるロープにはさまれて右の小指を失くしたとか。

そんなことはない。小説なんか嘘八百なんだから。

― 双葉山の右眼のことを現役時代に知っていた人はいたんでしょうか。

ワシと七尾潟はうすうす知っとった。玉垣さんだって気づいていただろう。双葉関が引退するころには何人かは知っとっただろう。口に出さんだけでね。

― 双葉山は力水は一回しかつけないし塩も一度しか撒きませんでした。そのわけは右眼が見えなかったハンデがあったからだとNHKのアナウンサーだった山本照さんが言っていました。そのハンデを克服して強くなった。

いや、そんなことはない。ワシに言わせりゃあ両方見えていたら大したもンだったろうと思う。双葉山の偉大さは両眼満足な者でも出来ないことを片目でやったというところにあります。それほど強かった。

― 山本照さんは、眼に頼らないから立合いに待ったをしないとも言っています。

待ったをしないのは序の口の時分からあった。だから立ち遅れて土俵際まで押し込まれての打棄りが多かった。腰が強かったからね。関取になってからも軽量のうちは打棄りばっかりだ。当時好角家の柳沢伯爵から「打棄り双葉」と渾名されてね、本人は余り好い気はしていなかった。
関取衆になるまでは水もなけりゃ塩もなかったわけだから、それは当り前ですが、関取衆になってからも一端水をつけたら二度とつけない。どんなことがあっても絶対につけなかったし、待ったもしなかった。相手が立ったらどんな不利な立合いでも立ちました。だから相手はそれを狙ってくる。それでも双葉関は必ず受けて立った。
例の六十九連勝が始まる場所の初日にね、この日ワシは横綱玉錦と合っていて、だいぶ前の割り(取組)だったので、この相撲を花道の後ろの方で見ていたんです。この日双葉関は内掛けが得意で蛸足と言われていた出羽の海部屋の新海関でした。新海さんは我々の言うところのイカサマ立ちをした。つまり気合わず待ったの仕切り直しかと思って、双葉関がやめにかかって中立ちとなったところに新海関が飛び込んだ。双葉関は下のころから絶対に待ったをしない人、自分がどんな不利な体勢でも受けた人、それを信条にしていた人ですから、この油断をつかれたときも待ったをしなかった。当然フワーッと立ったような悪い立ち合いとなり、新海関に簡単に飛び込まれ、二本差されてしまいました。そこで新海関が一気に走った。しかしさすがは反り腰の優れた双葉関は土俵際でこらえ、寄り返した。しかし腰が備わっていませんから最後は新海関に打っ棄られてしまいました。待ったをすれば何てことなかったのにね。しかし双葉関は待ったをしなかった。彼の信念が許さなかった…。支度部屋に引き揚げて来た双葉関にワシは声を掛けました。
「うまく立たれたなあ。待ったすりゃいいのに。新海関、汚い立ち合いをしやがるなあ」
しかし双葉関は例によって、黙ってにっこりしただけでした。
明くる朝、つまり二日目の朝、立浪部屋に廻しを預けていたワシは、いつものとおり立浪部屋の稽古場に出掛けました。そこで妙に印象に残る光景に出くわしたんです。それは立浪親方と双葉山のやりとりです。親方が稽古場の上がり座敷から双葉関に声を掛けました。いつもは怒鳴ったりガミガミとうるさい立浪のオヤジが一言、
「双葉、相撲には待ったということもあるんだよ」
双葉関は勿論黙って聞いていました。この親方の言葉をどうとったものか、それからの双葉関の相撲がガラリと変わったんです。右を半歩から一歩踏み込んで出るようになりました。
これはあくまでワシの解釈ですがね、この出来事が双葉関の相撲開眼のきっかけになったんじゃないかと。というのも、このあと双葉関はメキメキというかムチャクチャに強くなっていった。後に後の先といわれる立ち合いも、この日の稽古場から生れたんじゃないかという気がしてなりません。
親方に言われはしたものの双葉関は自分の信念でその後も待ったをしなかった。それから六日目に横綱玉錦に負けはしたものの七日目の瓊(たま)の浦から例の六十九連勝がはじまった。待ったをしないことも水や塩は一回ということも、見えない眼に頼らないからそうしたのではなくて、双葉関の信念だったんだね。土俵に上がったら死んだってしょうがないという強い気持でいましたよ。

― 昭和七年一月に起きた天竜事件の反応はどうでした?

あの事件でワシは幕下でしたが十両になった。立浪部屋の旭川、大ノ濱と双葉関の三人の十両力士が幕内になった。場所も八日間だった。
ワシらは毎日稽古に励んでいたからね、脱退しなかった。立浪部屋の人は出て行かなかったですよ。出羽の海一門がほとんど出て行った。この事件がどういう原因で起こったか真相はわかんけどね、まあ個人的に言えば、もし天竜さんが武蔵山と一緒に大関になっていれば起きなかったんじゃないかという気がするな。天竜さんは永いこと関脇にいて星を残していて、一方武蔵山関は二場所かそんなもんだろう、長年実績のある天竜関を差し置いてパッと大関になっちゃった。

― 事件当初はどんな状況でしたか。

ああ大変だったよ。ウチの部屋は緑町にあったが、向えは国粋会の親分がいてね、表で焚き火をたいて、若い衆がこれから切り込みに行くんだと息まいていた。こっちは関係ないからね、何で切り込みに行くの?なんてとぼけて聞いたりした覚えがあります。
ただこの事件で癪にさわったのは、おれたちのことを「残留力士、残留力士」と言いやがるんだ。脱退した力士は正義の士で残った力士は悪者。師匠のもとで苦楽を共にしようとすることのどこが悪いんだ…。何言ってやがると思っていました。

― 脱退した彼らは別に相撲興行をやったんでしょう。

やった。第一回は大成功だったんだろう。しかし二回目からは不評だった。自分勝手に師匠を捨てて出て行った相撲取りは観るにあたいしないというわけだ。それで半年もたたないうちに男女ノ川一派の高砂さんや井筒さんが詫びを入れて帰って来た。出羽さんとこも帰ってきたが、最高責任者は帰って来れなかった。革新団の連中の本番付は、幕の内だったものは十両で、十両だったものは幕下でとりました。
ワシは幕下から十両に上がり、双葉関は十両から幕の内にあがっていましたが、場所の取組でね、事件後帰ってきたある人が、「幕下のもんと顔があっているが、おれはそんなやつとは相撲はとらん」と協会に申し出たんだ。そのときワシらは、「ちくしょう、誰に負けても、あの人にだけは負けまい」と心に誓った。そうすると、その人と合うと一人も負けないんだ。大邱山も双葉関もワシも負けなかった。昔の若い者は意気があったよ。やっぱり相撲なんていうものは、たとえ元幕内の力士であっても番付が幕下だと幕下の相撲しかとれないということがあるもんです。気分でそうなってしまう。よく三役でとったものが十両に落こったら落ちただけの相撲しかとれないと言うでしょう。そんなもんなんですよ。

― 双葉山の若い頃の成績はどうだったんです。

昭和六年に十両に上がっているが、そのとき三勝八敗で五つの負けだった。それまでは負け越したことはないと思う。大勝ちはしなかったが大負けもしなかった。

― 親方とはどうでした。

双葉関が強くなる前にはいい勝負だった(本場所では一勝二敗)。双葉関が小結に上がったのが昭和十年の春場所ですが、二つ負け越して一場所で小結から前頭筆頭に落ちた。そのときの小結が大邱山で大邱とワシと千秋楽であって勝った方が小結になった。昔はよくそういう顔合わせがあったからね。それでワシが大邱に勝って昭和十年五月小結になった。だからワシの前が大邱山でその前が双葉関です。

― しかし双葉山は次の夏場所も四勝七敗と二場所続けて負け越していますね。

そうそう、昭和十年夏場所を終えて清水川・巴潟一行でひと月ばかり朝鮮に巡業に行ったことがあった。このときは双葉関とは巡業が違っていた。朝鮮から帰って来て巴潟・松前山一行で大分の中津近辺で、あっちで一日こっちで一日という具合に一週間ばかり興行したことがある。そのときは双葉関を通じて知っていた斉藤春吉さんの家に厄介になっていました。毎日河豚をご馳走になっていたから十一月頃だったなあ。夜、興行から帰って来ると双葉関のお父さんが訪ねて来ておってね、長いこと斉藤さんと話しておったらしい。そうしたら、関取ちょっと来てくれと斉藤さんに呼ばれたんですよ。部屋には双葉関のお父さんがいて、
「実は困ったことがおきた」
「何ですか?」
「定次からもう相撲はやめると言ってきた」
「なんであいつやめるなんて言い出したんだろう…」
「実はこの手紙がそうなんです」
おとうさん宛の手紙だから読む必要もないし、それでいろいろと話を聴いていると、「俺の働きじゃあお父さんもおばあちゃんも養ってゆけないから相撲をやめてクニへ帰って働きたい」という内容だった。まあ言ってみれば双葉関は親孝行だったわけだ。世の中も戦争景気でポツポツ良くなってはきていたが、その時分の相撲は楽じゃないからね。すると斉藤さんが、
「もし生活が苦しいのならウチの方の面倒は私が責任を負うから定次は何も心配しないで安心して相撲を取るように言いなさい。私から手紙出すからお父さんの方からも出しなさい」
双葉関はそんな精神力の弱い男じゃないんだが、小結を落ちてがっかりしたのかなあ、人間の心理というものはわからんですよ。
そこでワシも「やめさしちゃいかん。まだまだこれからですよ」と説得しました。
しかしはっきり言って、当時まさか双葉関が横綱になるとは思わなかった。大関・横綱になる相撲取りとは思わなかった。しかし三役くらいの相撲取りだとは思うとった。その後の話ですが、おとうさんは双葉関の横綱姿を見ていないはずですよ。大関になったときは喜んでねえ。そりゃあそうだろう、あのときやめると言っていたのが大関になったんだからね。上京してきて駅前の両国ホテルに泊っていてね、ワシも会いに行った。おとうさんは、斉藤さんはじめ皆さんが励ましてくれたお蔭だと涙を流して感謝しておりました。しかしその一年後、双葉関が横綱になったときには上京できなかった。癌で亡くなったと聞いています。

― その翌十一年の春場所から連勝が始まりますが、双葉山にどんな変化があったんですか。

双関は入幕までは少しづつは太っていっただろうが、大関になった頃は見違えるほど肉がついて百十キロほどはあっただろう。このように急に体重も増え、それだけ地力もついたんですよ。そういうときがあるもンなんです。まあ双葉関は特別な人だけどね。弱い相撲取りでも急に強くなる。稽古に励んでおると、そういう時が来る。東富士なんかそうじゃないか。名前が番付に四年も五年もつかなかったんじゃなかったかな。

― 三年間です。

そうそう、まる三年だ。富士ヶ根さん(高砂部屋・若湊)のオカミさんが「ウチの謹坊いつになったら番付つくんだろう」と心配していた。そんな相撲取りでも横綱になる。それに沖ツ海も大きな体しとったけれども、三段目に上がって前の旭川の玉垣さんに引っ張り出されて、ひと巡業バッチリやられてからいっぺんに強くなった。
その頃の双葉関は心境の変化もあったんだろうが、顔付きや態度が全く別人のようだった。半年足らずの間に双葉関は人間が変わってしまった。従来から持っていた信念が土俵で証明されたというような自信がみなぎっていましたね。
そんなことで双葉関は大関になってからはあんまり打っ棄らなかった。ただ昭和十一年の夏場所、関脇で同じ関脇の鏡岩と戦ったとき、勝った方が大関という取り組みがあった。立ち上がりざま鏡岩が思い切って左を差して一気に土俵際までもっていったやつを、バーっと打っ棄った。それから以後は打っ棄りはほとんどないと思う。負けた鏡岩は大関にはならないと思ったが、同時に大関に昇進しました。(六十九連勝中、打っ棄りは三回)
大関以後はそれこそ後の先でバーンと受けて叩きつけるか投げ飛ばすか、すっかり相撲が変わってしまった。一番強い人が一番稽古するのだから、ますます強くなる。双葉関はどんなことがあっても稽古を休んだことがなかった。それに自分自身でも研究しながら稽古している。必ず後の先を取っている。ガンと受けて、たまには左を引っ張り込んだりすることもあったが、いつ受けて立っても立ったときには、右足がパッとでている。きちんと手を下ろして仕切っていて受けて立っているんだが、右四つだけれども自分の右足が一歩前へ出ているんです。腕が違うからそんな逆足ができるわけなんです。相手よりも先に一歩踏み込んでパッとつかまえる。双葉関はたとえ負けても決して逃げたりはたいたりしなかった。

― ほかの力士とは立合いが違う。
まあ、はっきり言えることは今の大相撲は立合いじゃない。立合いが乱れすぎている。嘆かわしいね。時間が来たら相手より速く立てばよいというようなもんじゃない。相手より速く立ったからうまくゆくと思っている頭がおかしい。双葉関は相手が来たらいつでも受ける。ということは常に気をゆるめていないわけだ。仕切る一番一番がいつも立つつもりでいるからね。最初から立つつもりでいれば仕切る必要もないでしょう。双葉関にはいつでも立つぞという気魄がありました。

― 現在は一場所十五日、年四場所ですから、六十九連勝は一年余で達成できることになります。

 いまの人はよく優勝十二回、十三回、双葉山の記録に追いついたとか抜いたとか言いますが、双葉関は丸三年一番も負けなかったんですよ。当時は本場所が十一日間(昭和十二年春場所まで)と十三日間で年二場所ですからね。今のように年六場所だったら仮に一場所十三日間として一年で七十八勝、三年間では二百三十四勝ということになります。無論、優勝回数でも連続十八回。いかに双葉関の強さが脅威的だったか、ワシがいくら語っても語り尽くせません。

― 後の先をとった人は他にいるんですか。栃若はどうです。

栃錦は先の先ですよ。若の花もそうです。土俵際で一端足がかかったら動かなかった。土俵際まで寄られるというのは先をとられているからです。双葉関はそんなことは滅多になかった。双葉関が土俵に詰まるというのは、最初は相手に良いように取らせていたからで、その後逆に寄り返していた。横綱相撲だね。

― 戦後は誰もいない。

後にも先にもいません。戦後などはワシに言わせりゃ立合いじゃない。なんぼ師匠や指導部が手を取り足を取って教えても、やるのは相撲取りなんだから。相撲取りがやる気になったらこんなものすぐにでもできるわけですよ。横綱はじめ先輩たちが手をつかないで立つから皆真似するんです。昔の横綱はいったん受けて立つもんだというプライドがあった。だから三番も四番も負けたらサッと引退したわけだよ。結局頭の持ちようが違ってるんだ。それは時代の違いかもしれん。

― それに双葉山は精神修養をしていました。

そりゃあよくやっとった。ワシなんかは神棚に手を合わせたことなんか滅多にないからよくわからんが、双葉関は人一倍熱心だった。それは偉くなってからそうなったんじゃなくて若いときからそうでした。

― 双葉山は怪我や病気が少ないですね。ただ六十六連勝した後、満州巡業中に※アミーバ赤痢に罹ったことがありますね。

※アミーバ赤痢=感染源は、サル、ネズミ、シストに汚染された飲食物など。感染経路はシストの経口感染。ハエ、ゴキブリによる機械的伝播も起こる。
腸アメーバ症と腸外アメーバ症がある。大腸・直腸・肝臓に潰瘍を生じ、いちごゼリー状の粘液血便を一日数回から数十回する。断続的な下痢、腸内にガスがたまる、痙攣性の腹痛。通常は発症しても軽症であるが、衰弱により死亡することもある。原虫が門脈を経由し肝臓に達し腸外アメーバ症を発症する。
赤痢アメーバの経口感染によって大腸に潰瘍ができ、粘血便の下痢や腹痛などが起こる病気。しばしば慢性化し、再発を繰り返す傾向がある。

あのときはすごかった。痩せてしまって着る着物がなくて小嶋川(先々代八角)の紋付を借りていた。尻からダラダラ血が出ているんだもんね。軍人さんを慰問するわけだから、特に天津など大きな都市に行けば、あっちの部隊こっちの部隊と一日四、五箇所も歩かなきゃならん。双葉関は「皆命がけで戦っているのに休むわけにはいかん。たとえ死んでも最後まで務める」と言っていました。
その慰問が済んで船で大阪にあがってね、確か高安病院といったかなあ、すぐに入院したんだ。

― 終戦直後、進駐軍の希望で土俵の広さを十五尺から十六尺にしました。それを双葉山が大反対したことがありましたね。双葉関は引退の翌日に※朝日新聞のインタビューで協会を激しく非難しています。

※「今度の土俵問題は、場所前突然の決定で現役力士は驚いた。興味本位なら、土俵を大きくすればするほど勝負が長引き、興行価値があろう。レスリングや拳闘と取り組ませればもっと面白い。極端にいえば、相撲取りと猛牛を取っ組ませれば、儲かること請け合いだ。わが国に相撲が生れたころは、土俵なんてなかった。それが土俵を設け、次第に狭くなったのは相撲の進歩を物語るものだ。狭い土俵で鍛錬研究した妙技を競うことこそ純正相撲道の第一歩だ。」

空襲で爆撃された国技館の屋根を応急補修して十一月に場所をやった。そのとき特別に十六尺に拡張したんだ。なぜそんなことをやったかというと、占領軍が剣道と柔道を禁止したもんだから、相撲協会は相撲も禁止するんじゃないかと恐れたんだね。それでGHQへ陳情したんです。協会みずから相撲は国技である前にスポーツであると言って十五尺を十六尺に拡張して面白く見せようとした。つまり土俵を広くすることでボクシングやレスリングのように楽しめるだろうということです。ところが当時力士会長だった双葉関が猛反対しました。双葉関が間もなく引退したのは、体力の衰えもあったでしょうが、そんな協会のやり方に嫌気がさしたからだと思いますね。双葉関は番付には載りましたが全休し、この場所の九日目(十一月二十五日)に引退を表明しました。この反対で十六尺土俵は一場所で取り止めになった。あれは協会の大失敗ですよ。

― その場所では押し出しの勝負は一番もなし、寄り切りも二番しかありません。それにアメリカの兵隊(入場無料)はワイワイ騒ぎながら勝負に金銭を賭けて観戦していた。もっとも翌年の秋場所に、日本政府公認で相撲くじが発売されたくらいですから一概にアメリカ兵だけを非難できませんが。
ところで昭和のはじめには十三尺の土俵があったと聞いていますが…。

ワシらも十三尺でとった。※今の十五尺になったのが三段目の時だった。楯山さん(幡瀬川)についている時分だから昭和三、四年です。それから二尺伸びて十五尺になった。これは相撲取りにとっては大変な距離なんです。その時幡瀬川関に、
「誠公、おまえは押しだけで何もないんだから、一の矢は大事だけれど、二の矢を強くする稽古をしなけりゃだめだぞ」
と言われた覚えがあります。一の矢とは立合いのぶちかましのことです。十三尺の時だったら、立合いにうまく押し切れたものですが、二尺ふえたら押し切れるもんじゃあない。

※昭和五年五月場所から十五尺一重土俵になる。それまでは十三尺。

― ところで双葉関とはよく遊びましたか。

飲みに行くにも遊びに行くにも個人的にはずいぶん仲良くしていました。場所がすんだら今日は柳橋、明日は浅草へと…。まあ遊ぶくらいの相撲取りじゃなくてはね。花柳界の芸者たちが「双葉山の童貞を守る会」なんてものを作って騒いだことがあったが、あほらしくて皆腹の中で笑っていた。まあその方面の遊びはよくやりました。しかしいくら遊んだといっても稽古というものに対してはみんな責任もっとった。

― 双葉山が親方と野球を観戦している写真を見たことがあります。前列に妙齢の美人達が並んでいました。

麻雀などの賭け事は稽古に差し障るので一切やらなかったが、双葉関とはよく野球を観に行きましたね。後楽園球場や関西の巡業では甲子園にも行きました。双葉関は巨人軍の※川上哲治のファンでね、いったんバッターボックスに入ったら決してそこから出ない、バッターボックスを外さない川上を見て感心していました。双葉関自身も力水は一度しかつけなかったし、決して待ったをしなかったからね。それに川上がヒットを打った瞬間、
「川上はボールの縫い目が見えているな」
と言っていた。双葉関の立会いは「後の先」といってね、相手を先に立たせておいて、次の瞬間には自分の形にする。川上の打撃に自分の立会いを重ねていたンだね。立会いの瞬間、双葉関の目には相手が止まって見えていたンだ。
いつだったか宝塚少女歌劇の※天津乙女さんらを連れて甲子園球場へ阪神・巨人戦を観に行ったことがある。当時、協会と宝塚とは何かと関係があってね、特に大阪の巡業では双葉関は自分の宴席には必ず天津さんを呼び出してご馳走していました。
甲子園のスタンドでね、天津さんが川上と交際している宝塚の後輩から聞いたという面白い話をされた。それは全国中学野球大会の決勝で惜敗した川上がベンチ横の土をユニフォームのポケットに入れていたというんだ。川上少年は帰郷すると直ぐ、その土を母校のグラウンドに撒いたそうです。その話を聞きながら双葉関は天津さんの隣で頻りに感心しておった。
双葉関が天下の大横綱になってからは、国家的行事へ参加したり各界の名士たちと会ったり、新聞雑誌の取材に追い回されたりと、わしなどはそばにも寄れんようになってしまったが、天津さんも確か昭和十三年秋の欧州公演の後は、それこそ双葉関が亡くなるまで一度も会っていないンじゃないかな。
まあ、双葉関とはよく遊びましたが、若い頃から人間的に出来た人だったね。

※川上哲治 大正九年三月二十三日生れ。熊本県出身のプロ野球選手。現役時代から「打撃の神様」と言われ、また巨人軍の監督としてⅤ9を達成した。妻は元宝塚歌劇団娘役の代々木ゆかり(在団昭和十一年―十九年)。昭和十二年の全国中等学校優勝野球大会で準優勝。優勝校は野口二郎を擁した中京商業学校。川上は甲子園球場の土を郷里に持ち帰り母校のグラウンドに撒いた。高校野球の敗者が甲子園の砂を持ち帰るのは、これが起こりだと言われている。当時の川上は試合終了後に宿舎で深夜まで素振りをするなど、チーム内では練習熱心で知られていた。そして、昭和二十五年のシーズン途中に、多摩川のグラウンドで打撃投手を個人的に雇って打撃練習をしていたところ、球が止まって見えるという感覚に襲われた。これが「ボールが止まって見えた」というエピソードがある。しかしこれは当時松竹ロビンスの小鶴誠の発言で、不人気球団を渡り歩いた小鶴では記事にならないと、報知新聞の記者が川上の言葉に捏造したものである。また、低く鋭い打球を飛ばす打撃スタイルから、評論家・大和球士は川上の打球を「弾丸ライナー」と名付けた。これが「弾丸ライナー」という言葉の起りである。川上は現役時代のオフには岐阜の慈眼寺の梶浦逸外老師へ参禅していた。そのとき僧侶たちが沢庵を音を立てずに食べることに関心を持ち、自らその作法を会得した。
※天津乙女 明治三十八年東京生れ。昭和五十五年死亡。日本舞踊の名手で「女六代目」と称され「宝塚の至宝」と呼ばれた。本名、鳥居栄子。愛称、エイコさん。芸名は小倉百人一首の僧正遍昭の「天つ風 雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ」による。昭和十三年、夏巡業中の双葉山からプロポーズを受けた。そのことが昭和五十三年一月三日の毎日新聞に載っている。
『天津さんは東京神田生れの江戸っ子。大の相撲ファンだった父親に連れられて子供の時から国技館へはよく通った。双葉山のファンになったのは昭和十二年春、双葉山が大関になってから。相手の鋭い動きに応じ、とっさに縦横の動きを見せる土俵さばき。攻め込まれながらも、一転相手をほふる強じんな腰。円い土俵を舞台に、くずれることのない〝二枚腰″……双葉山の土俵は、踊りの心にピーンと響くものがあった。当時、大阪場所は西宮球場で行われ、歌劇団が劇団雑誌に掲載する記念写真を撮るため、場所中の球場を訪れた時、二人は初めて顔を合わせた。十二年五月、双葉山は宝塚グラウンドで相撲四十八手を実演(毎日新聞社後援)するなど、宝塚歌劇とも関係は深かった。双葉山は、ひいき筋の宴席には、きまって天津さんを招待、天津さんも親しい舞台仲間や後輩たちを連れ、宴席をにぎわした。十三年七月、阪神大水害の際、大阪場所は休場となり、大相撲一行は宝塚市内の宿舎にカン詰め。宝塚歌劇も公演中止となり、天津さんら歌劇団の生徒たちは、双葉山とよく顔を合わせた。そんなある時、いつになく双葉山が天津さんを自宅まで送るといい、二人で歩いて帰る道すがら、無口だった双葉山が思いつめた表情で「ワシと一緒になってほしい」。天津さんにとっては、耳を疑うようなプロポーズだった。天津さんは双葉山より七歳年上。舞台で踊り続けようと、思いを固めていた時。さらに歌劇として初めてのヨーロッパ公演が間近だったことからこのプロポーズを断ったという。』

― 双葉山は安芸の海に敗れた昭和十四年春(四月二十九日の天長節)に※小柴澄子という人と結婚していますね。

前の年の満州巡業が済んで船で大阪にあがってね、アメーバ赤痢に罹っていた双葉関はすぐに大阪の病院に入院した。そこへ今のオカミさん(当時二十三歳)がねえ、よくその病院に来ていたよ。オカミさんは大阪の人でね、あの頃見舞いに行くたんびに会ったもんだ。その後も支度部屋に来ておった。座ったまま三時間でも四時間でも口きかないんだから。無口な双葉も双葉だけどね。まあよく結婚したなあと皆感心した。結局好きだったんだろう。好きだったから来てたんだよ。そうでなきゃあ、口をきいてくれない人の横に何時間も座っていられるわけがない。

「まあ今日はこんなとこかな」とひと言、親方は急に用事を思い出したものか、さっさと部屋を出て行ってしまった。童貞横綱の話題が出てきたので、いよいよ核心にはいるぞと意気込んでいたら、あっけなくインタビューは終わってしまった。若い頃に結婚の噂があった双葉山の掌に乗るほど小柄で可愛い※映画女優・大倉千代子のこと、※璽宇の事件にかかわったときの璽光尊・長岡良子や囲碁の※呉清源のことなども訊きたかったのだが…。

※小柴澄子 父は大阪の金融業者 昭和十年に相次いで両親を失い、当時叔父の大阪大助教授・渡瀬武男博士のもとに身を寄せていた。相撲界とは無縁の人。昭和十三年秋、双葉山が体を悪くして大阪で入院していたときに、九州山のフアンであった小柴澄子は、九州山に連れられて双葉山の見舞いに行った。九州山は「彼女は初め私のファンだったのですよ。双葉山関には私が紹介したのです。それから交際がはじまったようです。」と言っている。大阪場所休場中、小柴澄子の見舞いと看護が結婚への気持を固めた。
しかし、この結婚に師匠の立浪が反対した。立浪はもともと双葉山の結婚に一番熱心だった。一代で大部屋を築き上げた才覚の持主であったが、同時にくせの多いことでも有名であった。双葉山の大関時代に、
「横綱になったら俺の娘をやる。立浪部屋を継げ」と言っていた。今でこそ二代目力士が脚光を浴びているが、昔は男の子が親の後を継いで力士になることはほとんどなく、娘が生れると「後継ぎができた」と娘を弟子と結婚させ後を継がせるために赤飯を炊いて祝った。
ところが双葉山はこの話を断った。立浪の性格からいって、いかにもご褒美に娘をやると受け取られてもおかしくないが、断られた立浪は激怒した。双葉は協会の廣瀬理事長(陸軍中将・廣瀬正徳)を訪ねて相談した。以下毎日新聞・相撲記者・相馬基が聴いた広瀬会長の話。

先日、双葉山君が私のところへ来て、「ある晩、私が寝ていると、師匠がいきなり枕を蹴飛ばして、俺の言うことが聞けない奴はどこへでも出て行けと言う。私はつくづく情けなく、部屋を出ようと思うが、何かいい方法はないものでしょうか」と相談された。私は双葉山君の気持がよく理解できたが、相撲界のしきたりとして、そういうことは出来ないから、ここは我慢してもらいたい。こう言ったところ、双葉山君も納得してくれたようだった。」

ただし、このエピソードは戦後相馬基が確認したところ双葉山は否定したという。

友人の中谷清一も「無理をして結婚したあと起こってくる困難な問題、この結婚をすることは、自分を苦難の中に陥れることになる」と翻意をうながした。しかし「この約束を破るのであれば自分はマゲを切る」を一言したのみで、あとは何も言わなかった。中谷は「やはり双葉山だ」と感銘し、その後はこの結婚ために尽力した。
結婚式は東京飯田町の大神宮。披露宴は日比谷の東京会館。媒酌人は帝都日日新聞社社長・野依秀市。野依は大分県中津出身。野依は武蔵山を贔屓にしていたが、双葉山が同郷だということで武蔵山の紹介で知遇を得た。
結婚後、小柴澄子は家庭にこもって相撲の表世界に出なかった。双葉山は十歳で母親を亡くし長子を早く亡くし可愛がっていた末の妹も十五歳の時に亡くした。相撲の世界とは切り離して自分の家庭を大事にしたのだろう。

※大倉千代子 大正四年、東京市芝区新堀町生まれ。昭和八年日活太秦へ入社。山中貞雄監督に重用される。大河内伝次郎や嵐寛十郎主役作品に小柄な娘役で出演した。昭和十一年溝口健二の「浪花悲歌」で山田五十鈴の妹役で好演。日活時代、双葉山との結婚を噂された。このインタビューの後、親方の子息・工藤建次さんが次のようなエピソードを教えてくれた。
昭和七年十月の京都場所で、入門したての頃にお世話になった雷親方の未亡人に偶然会った。彼女の娘婿は当時日活の俳優だった。以後ちょくちょくお宅にうかがったが、この俳優さんの紹介で高瀬実乗(あのねのおっさん)や大倉千代子と知り合いになった。翌年一月、彼らが正月映画興行の挨拶に上京して来た。その時上野池之端の孔雀荘という旅館に泊まっていたが、彼らに誘われ双葉山と二人で遊びに行った。その夜はみんなでワイワイ騒いで愉快に飲んだ。一月場所の後、巴潟は京都方面へ巡業に行くことになったが、双葉山は別の組合だったので京都の方へはまわらない。そこで双葉山が「誠ちゃん、すまんが大倉千代子のブロマイドを二、三枚、サイン入りのやつをもらってきちゃくれないか」。ふだんは無口な双葉山だったが、このときは顔を真っ赤にしていたそうだ。その後の二人の仲は新聞ですっぱ抜かれたとおり。

※爾宇の事件 璽宇は第二次大戦中にできた宗教団体。「璽宇教」という表現もあるが正しくない。「篁道大教」という神道系の団体が母体。そこに大本系列の心霊研究団体菊花会と中国の新宗教・世界紅卍字会のグループが合流し、昭和十六年に「璽宇」と改めた。呉清源は紅卍字会のグループに属していた。東京蒲田で真言密教系の霊能者として活動していた長岡良子グループも璽宇に合流した。長岡良子は「真の人」という冊子の作成などで頭角を表し、信者の信望を集めるようになった。昭和二十年五月二十五日の東京大襲後、長岡良子が指導者となり、翌年、昭和天皇が人間宣言を行ったことで、「天皇の神性」は自分に乗り移ったと宣言、璽光尊を名乗った。天皇や皇族の参加も呼びかけ、マッカーサーへ二度直訴した。昭和二十一年末、本部を石川県金沢市に移し、天変地異の預言を盛んに喧伝した。この喧伝に動揺した住民が白米等の食料を持って訪れ、その代わりに璽宇側は、菊の紋の下に「松」「竹」「梅」と書いた三種類の私造紙幣を与え、天変地異の際に通用すると説いた。昭和二十二年一月二十一日に石川県警は璽宇本部へ突入、璽光尊と信者の双葉山を食糧管理法違反で逮捕した。この事件を境に教勢は一気に衰え、双葉山は璽宇を去った。以後、本部は東京・横浜・青森・箱根を転々とする。呉清源夫妻は箱根仙石原の知人の別荘に璽光尊と共にいたが、読売新聞紙上に璽光尊との縁切りを発表。昭和五十九年、璽光尊死去。現在も教団自体は存在するが勢力はない。

※呉清源 大正三年生れ。囲碁棋士。中国福建省出身、日本棋院瀬越憲作名誉九段門下。本名は泉、清源は通称名。一時、日本棋院を離れて読売新聞嘱託となるが、現在は日本棋院名誉客員棋士。全盛期には日本囲碁界の第一人者として君臨し、「昭和の棋聖」とも称される。木谷實とともに「新布石」の創始者としても知られる。

このインタビューに登場した力士のプロフィール(進行順)

巴潟 高嶋部屋。明治四十四年生まれ。函館市出身。入幕は昭和七年五月場所。異名は「弾丸巴潟」。立会い激しく当たって押しまくり、残されると突き落とし、巻き落としを得意とした。小兵ながら小結を努めた。相手にまわしを与えぬよう腰がしびれるほど固く締めた。最終場所は昭和十五年五月場所。年寄名は玉垣→安治川→高島→友綱(九代)。年寄高島のとき吉葉山、三根山、輝昇の高島三羽烏を育てた。昭和五十一年三月定年退職。昭和五十三年十二月二十四日没。

双葉山  立浪部屋→双葉山道場。明治四十五年二月九日生まれ。大分県宇佐市出身。最終場所は昭和二十年十一月場所。年寄名は双葉山(二枚鑑札)→時津風。戦後、理事長として協会運営に尽力した。昭和四十三年十二月十六日没。

魁輝  友綱部屋。青森県上北郡出身。昭和二十七年生まれ。入幕は昭和五十年十一月場所。四股名は西野→西錦→魁輝。年寄名 高島→友綱。名門友綱部屋からの三役は大正時代の矢筈山以来。夫人は先代友綱親方の長女。義父の定年退職で友綱部屋を継承した。十一代友綱。

魁皇 友綱部屋。昭和四十七年生まれ。福岡県直方市出身。入幕は平成五年五月場所、二代目貴乃花と同年。平成二十三年名古屋場所五日目に千代の富士を抜いて通算一〇四七勝の新記録を達成したが、この場所を最後に引退。最高位は大関。引退後年寄浅香山を襲名。

一ノ濱 井筒部屋。北海道亀田郡出身。大正十三年夏入幕、昭和三年引退。最高位は前頭四枚目で幕内在籍十三場所。引退後年寄九重を襲名したがすぐに廃業。

伊勢ヶ濱 高砂部屋。青森県西津軽郡出身。入幕は昭和三年三月の名古屋場所。東京と関西でそれぞれ別番付を編成していたため三年一月と五月の東京場所では幕下。五年春に再入幕。七年の天竜事件では革新力士団のまとめ役を務め、脱退しそのまま復帰しなかった。

豊國 井筒部屋。大分市出身。入幕は大正十年。年寄り九重。全盛時は堂々たる大関相撲で横綱昇進を期待された。横綱常の花と互角の勝負を演じた。昭和十七年歿。

緑嶋 明治十一年生まれ。富山県滑川市出身。春日山部屋。最高位小結。双葉山、羽黒山を育て上げた立浪親方。大正四年引退。昭和二十七年没。

玉錦 二所ノ関部屋。明治三十六年生まれ。高知市出身。入幕は大正十五年一月。最終場所は昭和十三年五月場所。生来の負けん気と猛稽古で傷が絶えず「ケンカ玉」「ボロ錦」の異名を持つ。右差し一気の出足で常の花引退後の空白を埋めた。親分肌のおとこ気もあって一代で小部屋を大部屋にした。優勝九回、二十七連勝。玉錦時代になろうとしていたときに双葉山が現れ、王座が交代した。昭和十三年十二月現役中に盲腸炎をこじらせて死亡。現役横綱の死は寛政の谷風以来。

鏡岩 粂川部屋。明治三十五年生まれ。青森県十和田市出身。入幕は昭和三年三月場所。最高位は大関。年寄名は粂川。昭和二十五年八月没。あだ名は「猛牛」。昭和十四年春、磐石との対戦で両者取り疲れ棄権し、双方不戦敗の珍記録を残した。親友の双葉山に部屋を譲り自ら双葉山道場へ入った。

旭川 立浪部屋。明治三十八年生まれ。旭川市出身。立浪三羽烏の双葉山、羽黒山、名寄岩の先輩で参謀格。入幕は昭和七年二月場所。昭和十七年五月場所が最終場所。最高位は関脇。年寄名は玉垣。昭和五十三年一月没。双葉山が独立したとき立浪親方との間に挟まり割腹自殺を図って責任をとろうとした。

新海 出羽海部屋。明治三十七年生まれ。秋田市出身。タコ足の新海と言われた。足を掛けたら絶対に離さずそのままもたれ込んだ。最高位は関脇。昭和十二年夏引退。年寄名は荒磯。昭和五十一年二月川崎市のアパートで焼死した。

大邱山 高嶋部屋。明治四十一年生まれ。岡山県出身。入幕は昭和七年五月場所。昭和九年頃は双葉山の好敵手だった。最高位は関脇。昭和十七年召応し帰還後一場所努めて引退。年寄山科→間垣。昭和五十八年歿。

清水川 二十山部屋。明治三十三年生まれ。青森県五所川原市出身。入幕は対象十二年一月場所。小結に上がったとき私行上のことで破門され、父親が自殺して詫びを入れたために復帰した。最高位は大関。最終場所は昭和十二年五月場所。年寄名は追手風。昭和四十二年歿。

松前山 高島部屋。明治四十二年生まれ。函館市出身。入幕は昭和八年五月場所。最終場所は昭和十三年一月場所。昭和五十九年歿。

若湊 高砂部屋。明治二十一年生まれ。栃木市出身。最高位は小結。昭和十六年歿。横綱東富士の師匠。年寄名は富士ヶ根。十五分で酒九升を飲み干した酒豪。

東富士 高砂部屋。東京都台東区出身。昭和十八年五月場所。双葉山にかわいがられてよく稽古をつけてもらった。江戸っ子横綱第一号。最終場所は昭和二十九年九月場所。年寄名は錦戸。その後プロレスへ転向。昭和四十八年歿。

栃 錦 春日野部屋。東京都江戸川区出身。大正十四年生まれ。入幕は昭和二十二年六月場所。最高位は横綱。喰らいついたら離さないので異名は「まむし」。昭和三十五年夏二連敗して潔く引退。年寄春日野として理事長となり新国技館を建設した。平成二年歿。

若乃花 花籠部屋。青森県弘前市出身。昭和三年生まれ。入幕は昭和二十五年一月場所。異名は「土俵の鬼」。右を差しての呼び戻しは豪快だった。横綱。最終場所は昭和三十七年五月場所。平成二十二年歿。

小嶋川 立浪部屋。東京都江東区出身。入幕は昭和十三年一月場所。最高位は前頭五枚目。最終場所は昭和十七年五月場所。年寄名は八角。昭和二十一年巡業先の七尾市で病死。

幡瀬川 伊勢ヶ濱部屋。秋田県出身。明治三十八年生まれ。入幕は昭和三年三月場所。異名は「相撲の神様」。横綱照國の岳父。最高位は関脇。最終場所は昭和十五年一月場所。年寄名は千賀の浦→楯山。昭和四十九年歿。

天竜 出羽海部屋。静岡県浜松市出身。明治三十六年生れ。入幕は昭和三年五月場所。最高位は関脇。最終場所は昭和七年一月場所脱退。天竜事件の首謀者。戦後民放の相撲解説者。昭和元年歿。

武蔵山 出羽海部屋。神奈川県横浜市出身。明治四十二年生まれ。入幕は昭和四年五月場所。入幕三年目、小結で優勝、いきなり大関へ。そのスピードは「飛行機」と呼ばれたが、天竜事件の渦中に巻き込まれた。横綱昇進後、傷めた右ひじが悪化、在位八場所中、皆勤は一場所で七勝六敗。最終場所は昭和十四年五月場所。年寄名は出来山→不知火。昭和四十四年歿。

男女ノ川 佐渡ヶ嶽部屋。茨城県つくば市出身。入幕は昭和三年一月場所。怪力巨人型の横綱。双葉山の引き立て役で終わった。最終場所は昭和十七年一月場所。年寄名は男女ノ川。廃業後衆院選に出たり、保険の外交員、私立探偵などして話題となった。昭和四十六年歿歿。
(二〇一一・七・二〇)

相撲のこころ ― 双葉山不滅の六十九連勝 [僕の双葉山]

まえがき

日本人横綱のいない土俵が映し出す国柄。日本人横綱はもう誕生しないのか。

「相撲通の作家、故宮本徳蔵(とくぞう)さんは、1985年の著書『力士漂泊』で「強さ」の極致とは何かと問うた。69連勝の双葉山はどんな敵に対しても〈泰然自若として些少(さしょう)の動揺をも示さず〉に勝った。相手の方が自滅していくような印象すら受けたと書いている▼その双葉山のDVDを見て研究したという白鵬が、33回目の優勝を果たした。69連勝への先年の挑戦は阻まれたが、今回は「角界の父」と慕った大鵬の記録を久々に塗り替える偉業だ。テレビ画面の大鵬をどきどきしながら応援した世代としては、誠に感慨深い▼白鵬は、双葉山の「泰然自若」を自分も実践しようとしていると語っている。土俵上の所作一つ一つをゆっくりとする。闘志が顔に出ないと言われるのも、何ものにも動じない心を目ざしているからだ、と。なるほど今場所の姿も実に悠然としている▼今の境地に達するまでの苦労はいかばかりだったか。デビュー直後の序ノ口時代、負け越しを経験し、泣いたという。後に横綱に昇進するような力士なら普通はすんなり行くところで自分はつまずいた、と振り返っている▼言葉や文化の壁もあったろう。しかし、冒頭に引いた宮本さんは、〈チカラビト〉すなわち力士は本来モンゴルで生まれたとする。「国技」の背後にユーラシアの広大な時空を見るべし、と。その出身力士の今日の隆盛は、後に宮本さんも積極的に評価したように時の勢いというべきだろう▼大業は成った。この上はどこまで記録を伸ばすかだ。」(平成十五年一月二十五日(日)の朝日新聞「天声人語」より)

「朝青龍、白鵬、日馬富士、そして鶴竜と、四代続けてモンゴル出身の横綱が生まれた。
横綱は時代の象徴でもある。経済成長とともに輝いた大鵬、バブル絶頂期に活躍した千代の富士、平成の名横綱貴乃花。最高位に就く者には日本人の誰もがあこがれる強さがあった。
このところ毎日のように「日本人力士がふがいない」と言われる。
世の中が便利になり、教育も変わった。一人一人の権利意識が強まり、「頑張らなくていい」「勝たなくていい」文化になってしまった。家族の単位で見れば、親と子の関係が希薄になり、個人主義が広がった。
春場所中に引退したブルガリア出身の琴欧洲の言葉が忘れられない。「親に仕送りするために相撲界に入ったのに、日本人はどうして入門してからも親に仕送りをしてもらうの。おかしいね」
彼が入門を決意したのは交通事故にあって働けなくなった父の代わりに、家計を助けるためでもあった。強くならないまま国に帰ることができようか。果たして、大関に昇進し、優勝もした。
暴行騒動で突然引退した朝青龍に人情家の一面を見たこともある。
ある日の稽古終わりに「日本の力士は平気で親の悪口を言う。俺はそれが許せない。モンゴルでは絶対に考えられない。親は大切にするものでしょ」と真剣なまなざしで訴えかけてきた。
自分のことは後回しにして、家族や恩師、郷里のことを思えば簡単に辞められるはずがない。親も同じで昔は「強くなるまで帰ってくるな」だったのが、いまは「苦しければすぐに帰ってこい」に様変わりしてしまった。
鶴竜は自ら入門を直訴する手紙をしたため、モンゴルから日本の大相撲関係者に送った。日本語がまったくわからない小さな少年だったという。それがいまは立派な力士になった。師匠を慕う姿勢や稽古場での向上心を見るにつけ、初心を忘れていないことは明らかだ。
スカウトされて連れられてきた力士と、自ら懇願して門をたたいてくる力士とでは気概がまったく違う。
日本の力士だけがふがいないのではない。酒や米がその土地その土地の土壌や気候で味を決めるように、国柄が力士をつくるのである。
いまのわが国を見つめると、何もかもが弱腰だ。近隣諸国に言いたい放題にされてはいないか。外国から来た力士に顔を張られても、怒って向かっていく力士がいないのと同じように。
土俵は、いまの日本を映し出す鏡なのかもしれない。」
これは、元小結・舞の海秀平の「舞の海相撲評論〈二〇一四・四・三、サンケイ新聞〉より。

目次

第一章  後の先
第二章  入幕まで
第三章  入幕から六十九連勝が始まるまで
第四章  六十九連勝始まる(六十九連勝仮想実況放送)
第五章  安芸の海に敗れる


第一章 後の先

「これが負けか…」
白鵬は記者のインタビューには一切応じず、この一言を呟いて福岡国際センターを後にした。
平成二十二年(二〇一〇年)十一月十五日、九州場所二日目結びの一番。白鵬は稀勢の里に寄り切られて客席まで飛ばされ、尻餅をつき照れ笑いした。この場所、連勝を六十三に伸ばしていた白鵬は、八日目に双葉山の六十九連勝に並び、九日目には七十連勝という大記録を樹立するだろうことは誰しも疑わなかった。
七十四年前の昭和十四年(一九三九年)一月十五日、双葉山を左外掛けから浴びせ倒した安芸ノ海もまた、双葉山の相手ではないと見られていた。
白鵬の「これが負けか」の一言には自らの敗因を納得しているようなところがある。では安芸の海に負けた直後の双葉山はどんな言葉を吐いたのだろう。
翌十六日の東京朝日新聞は次のように書いている。

支度部屋に入るなり双葉は、〝アゝ―〟と一寸顔をゆがめた。〝下がり〟を弟子に渡して支度部屋の風呂場で足だけ軽く洗った後、過去六十九連勝の足跡の激闘を回想し〝我ながら良くこゝまできつるもの哉〟といった一寸深刻な顔で〝ああくそ〟と呟くと、どっかり胡座をかく。床山が髪を撫ではじめた。
記者「どんな気持です」
双葉「えゝ、あまり好い気持ではないです」
記者「どうして敗けたんです」
双葉「どうしてったって、敗けましたよ」と複雑な微笑をする。
同じ支度部屋で男女ノ川の弟子等が、これを取りなすかのやうに、
「調子を下ろしたんだよ。敗けを知らないからのう」
双葉の弟子達はみんな無言で突立ったきり。ザンギリ頭が〝入口をしめろい〟― 双葉は青と黒の細かい格子縞のドテラを肩にかけると裏口から弟子四、五人に護られて静かに帰って行った。

双葉山は「ああくそ」と吐いた。それは自ら招いた後悔の念か。

白鵬に戻ろう。白鵬が敗れた翌日の読売新聞と東京スポーツ新聞に「後の先」の文字があった。

白鵬は双葉山が仕掛けておいた罠にはまった。最近の白鵬は双葉山の相撲をビデオで研究していた。悟りかけていたのが将棋などの「後の先」という考え方である。後手をひいたようで、先手になるような手。(読売新聞「編集手帳」)

朝青竜は生涯「勝ちに行く」相撲であった。白鵬は「いい相撲」を心がけてここまで来た。しかし、「いい相撲」を負ける心配のない「横綱相撲」に進化させなければ、果てしなく勝ち続けることはできない。そこで辿り着いたのが双葉山の考えていた「後の先」であった。後手をひいたようで先手になるような手。一旦受けにまわり手番を握られるが、相手も受けにまわらなければならず、結果的に手番を確保できる。
この日は中盤以降、稀勢の里に一方的に攻めまくられて負けた。奇襲戦法ではなく、堂々たる稀勢の里の「横綱相撲」であった。「後の先」の意識がどこかにあって、攻めが疎かになり、後手に回ったに違いない。「後の先」にはそういった危険が潜んでいる。双葉山が安芸ノ海に敗れたときも、両廻しが取れないという守勢の局面で繰り出された外掛けで負けたように記憶している。(東京スポーツ新聞)

私は昭和十九年(一九四四年一月八日)生れなので双葉山の相撲は記録映像でしか知らない。しかし、子供の頃から大相撲を見続けてきた眼には、それが古い映像であっても、栃錦、若乃花、大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花そして白鵬といった強い横綱と較べて双葉山の相撲力は一歩も二歩も抜きん出ているように映る。
そんなわけで私は、双葉山がなぜ安芸の海に敗れたのか、その原因を知りたいという思いを現在まで半世紀以上も抱き続けている。
その敗因は世間ではいろいろ言われているのであるが、私は直接の原因は双葉山の立ち合いにあったと考えている。「後の先」が「先」を取る間もなく負けてしまった。なぜか。双葉山は安芸の海に敗れた直後、若い時分からの心の友であった※中谷清一に宛てて「我未だ木鶏足り得ず」という電報を打った。その文面の裏側には「後の先」という取り口が失敗に帰したことの含みが隠されているように思える。

※双葉山と中谷清一の親交に関しての資料は殆んど無い。ただ双葉山の自伝「相撲求道録」に中谷清一の名前が出てくる。それによると、双葉山より五、六歳年上で初めて会ったのは昭和九年頃とある。東洋思想家・安岡正篤の門下生で横綱審議委員会初代委員長を務めた竹葉 秀雄の親友。竹葉秀雄は四国宇和島で塾を開いていたが、双葉山は四国巡業の際には立ち寄ったという。おそらく二人はここで一緒に受講したかもしれない。
また、吉川英治の『武蔵落穂集』(昭和十二年・大阪朝日新聞文芸欄)には次のように述べられている。
『大阪の中谷清一君が、何でもけふの双葉山と玉錦のすまうをみろといふ。中谷君は堂島の人であるが、双葉山をその無名時代から鞭撻し、ひいきといふよりは、双葉山にとって無二の心友なのである。
双葉山をして相撲道の宮本武蔵に大成させ、自分の晩年は灰屋紹由(京都の風流人)のやうになりたいといつてゐる人である。』

私見だが「後の先」とは、相手よりも遅れて立つ、つまり受けて立つのであるが、体が合った瞬間には有利な体勢にもってゆける立ち合いをいうのではなかろうか。言い換えれば、後の先をとるということは、相手を先に立たせ、瞬時に相手の動きを感じとって、自分有利の体勢に持ち込む極意ということになる。だから並外れた直感力、瞬発力を要する。その頃、双葉山はまだ「後の先」を真に体得していなかった。これが直接の原因ではなかったか。
双葉山―安芸の海戦は初顔合わせだった。双葉山は場所前の巡業で「一丁こい」と声をかけたが、安芸の海は盲腸手術直後、具合が良くないという理由で双葉山の胸を借りることをしなかった。相撲の世界には「ガイにする」という言葉がある。横綱は次の場所で顔の合いそうな若手力士を引っ張り出しては稽古をする。相手の力量を知ると同時に、思い切り痛めつけてやるのだ。こうしておいて本場所で顔を合わせると、相手は横綱にひと睨みされただけで精神的に負けてしまう。これを「ガイにする」と言う。つまり安芸の海はガイにされなかった。初対戦のときの映像を見ると、塩を撒く安芸の海の姿は実に堂々としている。
しかし、場所前に立ち合わなかった本当の理由は、体調不調ではなくて、何とかして一矢報いたいと念願する出羽ノ海一門の作戦だったとも言われている。つまり双葉山に対して安芸の海の力量や取り口の長所短所を覚らせないようにしていたというのである。双葉山にとっては安芸の海は未知数だった。
それに双葉山の体調も前年の中国北支慰問巡業中に罹ったアメーバ赤痢によって万全ではなかったと思われる。
そしてもうひとつ、双葉山は立ち合いざま安芸の海に左眼を張られたことでおおいに慌てたのではなかろうか。なぜなら双葉山の右眼は失明して全く見えなかったからだ。当時このことは一部の人を除いて誰も知らなかっただろうから、双葉山自身、一瞬覚られたと思ったかもしれない。そのような想像をしながら何度も当時の映像を見た。安芸の海は立ち上がりざま双葉山の左眼を張っている。後年、双葉山は、「後の先」を体得しようとした理由は相撲取りとして致命的なハンデである片眼を克服するためだと言っている。しかし、このとき双葉山の身体的ハンデにつけ込む作戦があらかじめこうじられていたとしたら…。
いずれにしても双葉山の「後の先」の立ち合いは失敗した。

武道における「後の先」は、安全な間合いを保ちながら相手の攻撃を待ち、相手が仕掛けてきた時点ではじめて動くことをいうそうだ。相手の出方を見て、これをさばいた後に技を出す。秀吉が朝鮮征伐を命じた天正十九年(一五九一年)馬庭念流の樋口又七郎定次(何と双葉山と同名の定次とは!)によって創始された。この「後手必勝」の剣の、敵の攻撃を見切る時期は七分三分。相手の攻撃が始まって、こちらに届くまでを十とした場合、六分の所で動けば相手の攻撃は変化可能。八分では一歩間違えば間に合わない。三分残った時点で対処すれば相手の攻撃はついてくることができない。後手をもって勝つには、相手の攻撃をどこまで我慢できるか、その目安が七分三分なのである。
見切った後の立ち方も七分三分。中腰になった態勢で重心は常に後ろ足に七分、前足に三分かける。この立ち方ならば、後ろ足を強く踏むだけで俊敏に前に出ることができる。「後の先」には「先の先」以上の勇気と技量がいる。「後の先」は抜群の精神力の持主でなければ使えない。しかし双葉山も白鵬もあたかも魔がさしたように立ち合いで失敗したのである。
ついでながら、「王将」で有名な坂田三吉の端歩突き(一手遅れる手)を「後の先」と言う人がいるが、いかがなものか?三吉は二度やって二度とも敗れているのである。

岡野功(おかのいさお)の後の先
一九四四年(昭和一九年一月二十日生)は日本の柔道家、流通経済大学名誉教授。一九六四(昭和三十九年)東京オリンピックの柔道男子中量級金メダリスト。
茨城県龍ケ崎市出身。福井英一の漫画『イガグリくん』に影響を受け中学から柔道を始める。茨城県立竜ヶ崎第一高等学校卒。中央大学法学部に在学中の一九六四年(昭和三十九年)東京オリンピックに中量級の日本代表として出場し、金メダルを獲得。翌一九六五年(昭和四十年)の世界選手権でも優勝し、わずか21歳にして柔道中量級における世界のトップ選手となる。一九六七年(昭和四十二年)には全日本選手権で優勝し、中量級選手としては当時史上初となる柔道三冠を獲得。一九六四年の東京オリンピックの中量級金メダリストで、全日本選手権でも2回優勝(史上最軽量優勝者)。一九六五年の世界柔道選手権(中量級)でも優勝し、日本でも数少ない五輪・日本・世界の三冠制覇をなしとげた。

手による帯から下の直接攻撃禁止について
自分はあまり国際試合を直接見ていないので、帯から下の手による攻撃を禁じる新しいルールが実際にどのように適用されているかは正確につかめていない。しかしこの新しいルールについて聞いたとき、これでは相手が攻めてきたときに「後の先」をとることが難しくなり、無差別の試合などでの面白さを減少させることを懸念した。
「後の先」をとるには大きく二つの方法がある。ひとつは、相手の技を返すこと。もうひとつは、相手の攻撃を受けて自分の得意技に変化することである。新しいルールにより、捨て身小内刈、肩車、足を持っての大内刈などが出来なくなり、掬い投げや相手の腰を抱き込んだりして技をかけにくくすると考えた。これでは「小よく大を制する」無差別級の試合が成り立たなくなる。せめて、ごく一部の技を指定して禁止する方法もあろう。ただ、その後アメリカに行った際、練習や試合を見て、この新しいルールにより、多くの柔道家が足を狙うのではなく柔道の本来的な技である内股、体落、背負投などをより一生懸命身につけようと練習していたことに気付いた。よりまともな柔道をするようになった面は良いが、他方で、個性的な技が少なくなり、技や攻防がシンプルになって面白みが減じる側面もあると感じた。この新しいルールが今後どう展開するか注視していきたい。

白鵬の対話から

先の先で攻めていく方法と後の先とのバランスが大切である。待っていて相手に攻めさせたんじゃ呼吸が一呼吸ずれれば自分がやられてしまう。相手の出方を眼で確認するのではなく肌で感じて体をさばく。一瞬速く体をさばく作業が必要になってくる。
まず形を持て。だけれども、それに拘っていたのでは一流とは言えない。相手の出方に応じて、臨機応に対応しろ。ですから後の先というのは、レベルから言うと臨機応変の範疇に入ってくる。武道の世界には「形を持って形に拘らないレベルに達した人を名人・達人と言う。(岡野功)

さて、この稿は三章までは序章のようなものである。第二章は双葉山入門以前の明治・大正時代の角界の概要、第三章は昭和二年に入門、七年の春秋園事件(天龍事件)を経て入幕、十一年春場所六日目、横綱玉錦に敗れるまでを記した。決して体格に恵まれず大して期待もされていなかった時代の記録であるが、この時代を知ることによって、その後の無敵双葉山の姿が鮮明に浮かびあがってくるはずである。
第四章の「六十九連勝始まる(六十九連勝仮想実況放送)」では、雑誌の記事や映像をもとに、立ち合いと双葉山の組み手である右四つを強調して書いてみた。しかし残念ながら「後の先」の取り口を解説するまでには到っていないようだ。この「後の先」のイメージについては、私の言葉足らずの勝手な仮想実況放送に眼を通していただきながら、読者のご賢察に俟つしかない。

第二章  入幕まで

1 明治・大正時代の角界

明治三十四年(一九〇一年) 一月  十八代横綱に大砲
明治三十六年(一九〇三年) 六月  十九代横綱に常陸山
                 二十代横綱に梅ヶ谷
明治三十七年(一九〇四年) 四月  二十一代横綱に若島(大阪相撲)
明治四十二年(一九〇九年) 六月  国技館開設 幕内力士十日間出場
                 東西対抗優勝制度制定
明治四十四年(一九一一年) 一月  新橋クラブ事件
             五月  二十二代横綱に太刀山
大正元年  (一九一二年)十二月  二十三代横綱に大木戸(大阪相撲)
大正三年  (一九一四年) 一月  横綱・常陸山引退(五月出羽ノ海を襲名)
大正四年  (一九一五年) 一月  横綱・梅ヶ谷引退(五月 雷を襲名)
             二月  二十四代横綱に鳳
             五月  小結・緑島、引退して年寄・立浪を襲名
大正五年  (一九一六年) 五月  二十五代横綱に西の海
大正六年  (一九一七年) 五月  二十六代横綱に大錦
            十一月  国技館全焼
大正七年  (一九一八年) 一月  春場所を靖国神社境内で挙行
                 太刀山、引退(年寄・東関を襲名)
             四月  二十八代横綱に大錦(大阪相撲)
             五月  二十七代横綱に栃木山
                 大ノ里、入幕
大正九年  (一九二〇年) 一月  再建国技館開館
大正十一年 (一九二二年) 二月  二十九代横綱に宮城山(大阪相撲)
大正十二年 (一九二三年) 一月  三河島事件 清水川入幕
             五月  十一日間興行に延長
                 三十代横綱に源氏山
             九月  国技館、関東大震災で被災
大正十三年 (一九二四年) 一月  春場所は名古屋で十一日間興行
                 横綱・源氏山、西ノ海に改名
             五月  国技館、修復成る
                 三十一代横綱に常の花
            十一月  第一回全日本力士選手権競技会開催
大正十四年(一九二五年)  五月  栃木山引退(年寄・春日野を襲名)
            十二月  財団法人大日本相撲協会設立
大正十五年(一九二六年)  一月  玉錦、入幕

2 双葉山入門時の角界の動き

昭和二年(一九二七年)

一月 
東京相撲協会と大阪相撲協会が合併
一月と五月の東京場所に、関西場所(二場所)が加えられた。(三月 大阪、十月 京都で関西場所)

昭和三年 (一九二八年)
一月 
・ラジオ放送が始まり、放送時間内に取組を終らせるため、仕切り時間が幕内十分、十両七分、幕下以下五分に制限された。これまで夜九時頃までかかっていた取組は、午後五時四十分の打ち出しとなった。(なお昭和二十年に幕内五分、十両四分、幕下三分、昭和二十五年に幕内四分、十両三分、幕下二分になり現在に至っている。)
・仕切り線(間隔六十センチ)が設けられた。これによって頭をくっつけあう仕切りがなくなった。
・十両力士は十一日間連日出場となる
男女ノ川が入幕
三月 
不戦勝制度を制定
五月 
天龍入幕 男女ノ川、朝潮に改名 武蔵山入幕
九月 
名古屋で第六回関西場所

昭和五年(一九三〇年)四月

天長節に皇居内で天覧相撲を開催、これを機に五月場所から四本柱を背に座っていた勝負検査役は土俵から下りた。検査役は東西の力士控え席の中心に一人ずつ、正面土俵下の中央に一人、向正面の左右に一人ずつ、合計五人が控えた。これにより観客はもとより検査役も見よくなった。

3 双葉山の入門から幕下までの戦跡

昭和二年
三月 大阪  前相撲 十六歳(一メートル七十三センチ七十三キロ)
五月 東京  新序        三勝三敗
十月 京都  東序の口二十七枚目 四勝二敗

昭和三年
一月 東京  東序の口九枚目   五勝一敗
三月 名古屋 西序二段三十四枚目 四勝二敗 十七歳
五月 東京  東序二段十六枚目  三勝三敗
十月 広島  同         四勝二敗

昭和四年
一月 東京  東三段目三十三枚目 三勝三敗
三月 大阪  同         五勝一敗 十八歳
五月 東京  西三段目七枚目   四勝二敗
十月 名古屋 同         三勝三敗

昭和五年
一月 東京  西幕下二十四枚目  四勝二敗
三月 大阪  同         三勝三敗 十九歳
五月 東京  東幕下十四枚目   四勝二敗
十月 福岡  同         三勝三敗

昭和六年
一月 東京  西幕下三枚目    六勝一敗
三月 京都  同         五勝二敗 二十歳

4 十両から入幕までの戦跡

昭和六年(一九三一年)
四月二十九日、前年に引き続き皇居内で天覧相撲が開催された。これを機会に協会では土俵の屋根を入母屋造りから神明造りにした。また土俵の直径を十三尺から十五尺(四・五四五メートル)に拡げ、二重土俵を一重土俵に改めた。

夏場所  五月十四日から十一日間  東京・両国国技館
西十両五枚目  三勝八敗 二十歳三ヶ月

大阪場所 十月九日から晴天十一日間 中之島玉江橋畔仮設国技館
西十両五枚目  七勝四敗

第一回大日本相撲選士権大会 六月六日から三日間 東京・両国国技館

第一日目・第二部(紅組)第一回戦 双葉山(突き落し)常昇
第二日目・第二部(紅組)第二回戦 高ノ花(寄り切り)双葉山

昭和五年と六年の天覧相撲を記念し、毎年五月の夏場所後、両国国技館で大日本相撲選士権大会が開催されることになった。第一回大会の選士権者には春日野親方、二位玉錦、三位は天龍だった。春日野親方は大正時代の名横綱・栃木山。引退後六年を経て三十九歳であった。

第三章  入幕から六十九連勝が始まるまで

1 昭和七年(一九三二年)

春秋園事件

一月五日、東京・春場所の新番付が発表された。横綱不在であるが、小結・武蔵山が関脇を飛び越して新大関となり、東に玉錦、能代潟、西に武蔵山、大ノ里の四人の大関が並んだ。また前頭三枚目の清水川も小結を飛び越して東関脇へ昇進した。天龍は東関脇から西関脇へと降格した。
武蔵山は、四年夏場所新入幕で東八枚目に抜擢されて以来負け越し知らず。一年後の五年夏場所には新小結に昇進、六年三月京都場所は十勝一敗で清水川と優勝を分けた。同年夏場所は十勝一敗で優勝、十月大阪場所は八勝二敗一休だった。
一方、天龍は六年五月場所の番付で東関脇、武蔵山は東小結であった。天龍は、六年一月場所は西関脇で八勝三敗、同年三月京都場所でも八勝三敗、四月の第一回大日本相撲選士権大会で玉錦に次ぐ第三位(武蔵山は第三回戦で鏡岩に敗退)。夏場所は六勝五敗、十月の大阪場所は八勝三敗だった。
このような番付編成を見た一部の関係者やファンは、春秋園事件を、天龍が弟弟子の武蔵山に追い越された腹いせにやったとかんぐった。そして、二人が共に大関になっていれば起きなかっただろうと噂した。しかし事件発生の真因は、以前からくすぶり続けていた出羽海一門の力士たちの師匠・出羽海親方や協会に対する不満であった。
当時の角界は、横綱は別として大関以下三役でさえ力士の対面を保つことが困難なほど低収入であった。彼らは贔屓筋の袖にすがり、風呂に入れば大きな体を折り曲げて彼らの体を流したり、宴席では太鼓もちのようなことまでしていた。当時相撲取りは男芸者などと言われもした。天龍は、亡き大師匠の元横綱・栃木山の「相撲取りは力技を競うサムライ、つまり力士だ」という言葉を実現しようと立ち上がったのであった。そういう天龍の気持がなかったら、名大関・大ノ里は同調しなかっただろうし、多くの力士たちも天龍の傘下に集まらなかっただろう。
この新番付が発表された一月五日の翌六日の昼過ぎ、大井町の料亭・春秋園に出羽海一門の力士三十二人が集結した。内訳は、西方力士の全員二十人と十両の十一人、それに幕下一人であった。出羽海部屋所属以外では三人。当時、出羽海部屋は幕内東西いずれかの片方を独占していた。
天龍は大ノ里と共に、力士の生活状況の改善と協会改革の必要性を十カ条の項目にして協会に要求した。

協会ノ会計制度ヲ確立サレタイ。
競技時間ヲ改正サレタイ。
観覧料を低下シテ、大衆の相撲テアラシメタイ。
相撲茶屋ヲ撤廃サレタイ。
年寄制度を漸次二撤廃サレタイ。
養老年金制度ヲ確立サレタイ。
地方巡業制度ヲ根本的二改メラレタイ。
力士の生活ヲ安定サレタイ。
冗員を努メテ整理サレタイ。
力士協会ヲ設立シ、モツハラ力士ノ共済制度ヲ確立サレタイ。

天龍、大ノ里、武蔵山、綾桜の四人は、この要求書を協会へ持参した。しかし要求は受け入れられず、彼らは一月十日、「大日本新興力士団」を結成した。このため、十二日、協会は春場所を無期延期とした。ところが同日、武蔵山は力士団を脱退し一行から離れた。また十四日、大日本関東国粋会(右翼団体)が調停に乗り出した。この「顔役」たちの圧力に対して、力士団は出羽ケ嶽一人を除いて全員が力士の象徴である髷を切って抵抗した。同日、新聞に武蔵山の拳闘界(ボクシング界)転身の声明書が出たが、武蔵山は翌二十五日協会に復帰した。二月二日、協会の全役員は総辞職し、新役員が選出された。二十六日、鏡岩、男女ノ川などの東方力士(十七人)も「革新力士団」を結成し、名古屋に本拠地を置いた。新興力士団は、二月四日、根岸の旧尾高邸跡地で六日間の旗揚げ興行を開催した。
協会は二月十三日、両力士団の四十八人を除名し、無期延期にしていた春場所を二月二十二日より一門総当り制で八日間の開催とし、残留力士で再編成した新番付を発表した。
新番付は幕内十両ともに東西十人ずつ。関取は一月五日発表の番付より二十二人少ない四十人。新入幕は十両から旭川、双葉山、大ノ浜の三人、幕下から五人の計八人という異例の抜擢昇進であった。なお、双葉山は昭和六年夏に新十両五枚目で三勝八敗、十月の大阪場所では同位置で七勝四敗、翌七年正月の番付では十両七枚目に下がっていた。新番付での双葉山は西前頭四枚目。

春場所 二月二十二日から八日間 東京・両国国技館

双葉山 西前頭四枚目  二十一歳一ヵ月 一七九センチ・九十キロ

初日  双葉山(吊り出し)鷹城山(西前頭六枚目)
二日目 双葉山(寄り倒し)瓊の浦(西前頭七枚目)
三日目 双葉山(叩き込み)古賀の浦(西前頭二枚目)
四日目 双葉山(打っ棄り)若瀬川(西前頭三枚目) 
激しい突き合いから右四つとなり、寄りたてられた双葉山が土俵際で吊り出し気味の打っ棄りで勝った。この日まで四連勝。

五日目 大潮〈東前頭二枚目)(寄り倒し)双葉山
体力にまさる大潮が右四つから双葉山を寄り倒した。

六日目 双葉山(押し切り)若葉山(東前頭筆頭)
双葉山は力相撲の若葉山を右ノド輪で攻め、突き出した。

七日目 射水川〈東前頭六枚目〉(はたき込み)双葉山

千秋楽 大邱山〈西十両筆頭〉(切り返し)双葉山

八日間を五勝三敗で終った双葉山は、幕内特進組では旭川と並ぶ最良の成績だった。古参力士で実力派の古賀ノ浦、若瀬川、若葉山には勝った。しかし、彼らは、それぞれの立場で春秋園事件に巻き込まれたために稽古不足で、心身ともに万全ではなかった。双葉山は二十一歳(明治四十五年・一九一二年二月九日生)になったばかりの若さもあり、事件の外にいてその影響を受けなかったことが有利にはたらいた。
なお双葉山は千秋楽に大邱山に負け、これ以降二、三年は双葉山よりも大邱山が将来を有望視されていた。つまり大邱山は双葉山が強くなるまでの好敵手であった。また二日目に対戦した瓊の浦は後の両国である。

幕内優勝は関脇・清水川(八戦全勝)。この場所の総収入は二万五千円と従来の一日分の収入しかなく、収支は大欠損となった。

名古屋場所 三月十八日より晴天十日間 名古屋市の騎兵第三駐隊跡広場
      双葉山 西前頭四枚目
初日  双葉山(浴びせ倒し)国ノ浜〈西前頭五枚目〉
二日目 双葉山(突き放し)鷹城山〈西前頭六枚目〉
三日目 大潮〈東前頭二枚目〉(寄り切り)双葉山
四日目 双葉山(寄り切り)若瀬川〈西前頭三枚目〉
五日目 瓊の浦〈西前頭七枚目〉(下手投げ)双葉山
六日目 双葉山(上手投げ)射水川〈東前頭六枚目〉
七日目 双葉山(寄り切り)大邱山〈西十両筆頭〉
八日目 双葉山(外掛け)吉ノ石〈東十両筆頭〉
九日目 双葉山(寄り倒し)巴潟〈西十両四枚目〉
千秋楽 双葉山(打っ棄り)古賀ノ浦〈西前頭二枚目〉

当時は東京で一月春場所、五月夏場所をやり、三月、十月に関西場所をやっていた。関西場所は新番付を作らず東京場所と同位置のままで取り、東京の二場所の成績で次の東京場所の番付を編成していた。しかし、昭和七年は春秋園事件のため異常な番付で春場所と名古屋が行われ、協会は先場所優勝、この場所八勝二敗の西関脇・清水川を大関へ昇進させた。幕内優勝は九勝一敗の小結・沖ツ海。双葉山も八勝二敗の好成績だった。

夏場所 五月十三日より十一日間 東京・両国国技館
    双葉山 東前頭二枚目 二十一歳三カ月
初日  双葉山(踏み越し)幡瀬川〈西関脇〉
新進・双葉山と相撲の神様・幡瀬川との対戦。立ち上るや激しい突き合いから右四つに組んだ。双葉山が寄りたてると、幡瀬川は土俵を回って逃げ、そのとき土俵の外に足を踏み越してしまった。

二日目 清水川〈東張出大関〉(上手投げ)双葉山
双葉山が突っ込んだが、清水川は右四つに受け止め得意の上手投げで退けた。大関・清水川と特進組の双葉山との力の差が出た。
三日目 武蔵山〈西大関〉(寄り切り)双葉山
四日目 玉 錦〈東大関〉(極め出し)双葉山
五日目 若葉山〈東小結〉(押し倒し)双葉山
六日目 沖ツ海〈東関脇〉(突き出し)双葉山
七日目 双葉山(押し切り)巴潟〈東前頭六枚目〉
八日目 双葉山(寄り倒し)大邱山〈西前頭四枚目〉
九日目 双葉山(押し切り)出羽ケ嶽〈西付出〉
双葉山が巨漢に初挑戦した。双葉山が鋭く突っ込んで出羽ケ嶽を押したて押し切った。

十日目 双葉山(寄り倒し)古賀ノ浦〈西前頭二枚目〉
千秋楽 双葉山(掬い投げ)能代潟〈西張出大関〉

双葉山は六勝五敗と勝ち越した。特進組では双葉山が東前頭二枚目と最高位に上がり、早くも三役と顔を合わせた。しかしさすがに玉錦、武蔵山、清水川、沖ツ海という実力派には歯が立たなかった。
幕内優勝は東大関・玉錦。東張出大関・清水川も玉錦と同成績の八勝一敗だったが、規定によって玉錦の上位者優勝となった。
なお、この場所、双葉山の親友・巴潟(後の九代友綱・工藤誠一)が入幕し、七日目に双葉山と対戦した。

第二回大日本相撲選士権 六月五、六日の二日間。両国国技館
優勝は玉錦。選士権挑戦(三番勝負)は大関・玉錦が年寄・春日野に二連勝

京都場所 十月十三日から晴天十一日間。京都市東山三条
双葉山(東前頭二枚目)は蓄膿症手術のため全休した。
幕内優勝は大関・清水川(九勝二敗)。場所後の二十四日、番付編成会議で大関・玉錦が横綱に推挙され、十一月十七日、熊本市の吉田司家で、三十二代横綱免許授与式が行われた。露払い・双葉山、太刀持ち・大邱山。行司は式守伊之助から昇格した二十代・木村庄之助(昭和十年五月、人望、見識共に備わった名行司の証「松翁」の称号を与えられ、以降、番付上に冠した)。

2 昭和八年(一九三三年)

前年十二月、春秋事件で脱退した力士の大半が帰参し、この春場所から参加した。復帰組の土俵入りは別個に行った。
一方、天龍、大ノ里らは一月六日、大日本関西相撲協会を設立、二月十一日より大阪堂島ビル前で晴天七日間の旗揚げ興行を行った。これを機に大日本相撲協会は、昭和二年以来開催してきた関西本場所を廃止、東京での春秋二回の二場所制に戻った。なお、このときに天龍、大ノ里、錦洋、山錦は角界から追放された。関西相撲協会は、昭和十二年十二月までの四年間存続した。

春場所 一月十三日より十一日間 東京・両国国技館

前年十二月に脱退力士団から帰参した力士(十二人)を別番付として発表し、二枚番付とした。男女ノ川は、脱退前は朝潮の四股名で取っていたが、革新力士団では男女ノ川と名乗っていた。復帰の別番付では朝潮となっていたが、この場所では男女ノ川で土俵にあがった。
この場所は新横綱・玉錦の場所であった。これに加えて協会は、帰参力士たちを脱退時の番付位置に戻した。このため五枚目に下がった双葉山は、帰参力士たち(「別席」と表示)と対戦することになった。
双葉山は京都場所を休場したため、三枚下がって前頭五枚目になった。

双葉山 東前頭五枚目
    (二十一歳十一ヵ月 一メートル七十四センチ、九十八キロ)

初日  双葉山(上手投げ)鏡岩〈別席〉
    左四つからの上手投げ。
二日目 双葉山(寄り切り)海光山〈別席〉
三日目 双葉山(首投げ)宝川〈別席〉
四日目 双葉山(浴びせ倒し)大邱山〈東前頭筆頭〉
五日目 錦華山〈別席〉(つきひざ)双葉山
金華山の上手投げを双葉山は掬い投げに打ち返したが先に膝をついてしまった。
六日目 双葉山(打っ棄り)筑波嶺〈西前頭六枚目〉
七日目 双葉山(打っ棄り)新海〈別席〉
八日目 双葉山(寄り倒し)外ケ浜〈別席〉
九日目 双葉山(押し出し)出羽ケ嶽〈西前頭筆頭〉
十日目 朝潮改め男女ノ川〈別席〉(小手投げ)双葉山
連勝の男女ノ川との対戦。双葉山は突き立てて双差しとなったが、男女ノ川の小手投げに屈した。
千秋楽 双葉山(二丁投げ)若葉山〈西前頭二枚目〉
若葉山にハズで押し込まれたが、双葉山は二丁投げで逆転勝ち。

双葉山は九勝二敗の好成績を残した。対戦相手も大邱山と筑波嶺を除き、全て春秋園事件前の幕内力士ばかりであった。双葉山以外の特進力士たちも帰参力士に対してみな善戦した。(「第六章 「双葉関の思い出」参照)
幕内優勝は復帰別席の男女ノ川(十一戦全勝)。この場所から玉錦、武蔵山、男女ノ川、清水川、沖ツ海、高登の六大力士時代が始まり、双葉山時代までの相撲界を支えていくことになる。

夏場所 五月十二日より十一日間 東京・両国国技館
    双葉山 東前頭二枚目 (二十二歳三カ月)
初日  双葉山(打っ棄り)錦華山〈西前頭六枚目〉
二日目 玉錦〈東横綱〉(突き出し)双葉山
三日目 清水川〈西大関〉(上手投げ)双葉山
四日目 男女ノ川〈西小結〉(突き出し)双葉山
五日目 沖ツ海〈東関脇〉(寄り倒し)双葉山
六日目 武蔵山〈東大関〉(下手投げ)双葉山
七日目 双葉山(上手投げ)瓊の浦〈東前頭筆頭〉
八日目 幡瀬川〈東前頭四枚目〉(打っ棄り)双葉山
九日目 綾桜〈東前頭六枚目〉(打っ棄り)双葉山
十日目 双葉山(打っ棄り)能代潟〈西前頭筆頭〉
千秋楽 双葉山(打っ棄り)吉野岩〈西前頭五枚目〉

幕内優勝は玉錦が横綱として初めての優勝を飾った。通算では六回目。
双葉山の成績は四勝七敗。二日目、玉錦に負けたが、これが横綱との初対戦だった。この場所、双葉山は上位の壁の厚さをいやというほど味わった。正攻法の双葉山の取り口では上位には勝てないという評価が大勢を占めていた。しかし、六日目、武蔵山に負けた一番は、双葉山の上手投げを武蔵山が下手投げに打ち返したもので、あわや双葉山の上手投げが決まったかと思われた。双葉山の切れのある投げの本領が垣間見えた一番だった。

五月二十七日 水交社天覧相撲 東京・芝公園水交社
       玉錦が武蔵山を寄り切って優勝。
六月三、四日 第三回大日本相撲選士権 
今年から年寄は参加せず、現役力士のみで行なった。選士権は前年に続き玉錦が獲得
十一月 明治神宮全日本力士選士権 
    玉錦が優勝。
この年七月三日、「力士会」(会長・玉錦、副会長・武蔵山)が発足した。
九月三十日、大関を目前にしていた関脇・沖ツ海(北城戸福松)が巡業先の萩市で河豚中毒死。二十四歳だった。沖ツ海は五月夏場所、十日目に大関・武蔵山と対戦、水入り二番後取り直しの後も水が入り、遂に引分けとなる大熱戦を演じた。

3 昭和九年(一九三四年)

春場所 一月十二日より十一日間 東京・両国国技館

横綱・玉錦が突き指のため休場した。
小結・男女ノ川が関脇に昇進した。
双葉山は、前年九月、河豚中毒で急死した関脇・沖ツ海にはこれまで二戦して二敗。大型力士の中で双葉山が勝てなかったのは沖ツ海だけだった。もし沖ツ海が健在であったなら、その後の双葉山時代も様子が変っていたことだろう。双葉山対沖ツ海の好取組はなくなったが、前年夏場所後の巡業での双葉山の充実振りが評判となり、協会も双葉山の活躍に期待をかけていた。

双葉山 前頭四枚目 (二十二歳十一カ月)

初日は五十銭均一の大衆デー。午前三時に開場、午前六時には満員木戸止めになった。なお昭和九年桝席の料金は一人三円五十銭。天丼四十銭、コーヒーは十五銭(「値段の風俗史」)だった。

初日  大邱山〈東前頭二枚目〉(寄り倒し)双葉山
立ち合い激しく突き合った。大邱山が右差しで寄れば、双葉山は回り込んで残し、左を巻き替えた。そこを大邱山が上手投げを打って崩し、すかさず寄り倒した。

二日目 男女ノ川〈西関脇〉(寄り倒し)双葉山
立ち合いに双葉山が左に飛んで上手を取ったが、男女ノ川がうまく体をあずけて寄り倒した。

三日目 双葉山(寄り倒し)瓊の浦〈東前頭六枚目〉
四日目 能代潟〈東小結〉(寄り倒し)双葉山
五日目 双葉山(打っ棄り)外ヶ浜〈西前頭十三枚目〉
六日目 双葉山(首投げ)大潮〈西小結〉
七日目 双葉山(突き倒し)新海〈東前頭四枚目〉
八日目 双葉山(外掛け)大浪〈西前頭六枚目〉
九日目 幡瀬川〈東前頭筆頭〉(寄り倒し)双葉山
十日目 双葉山(寄り倒し)綾桜〈東前頭五枚目〉
千秋楽 海光山〈東前頭九枚目〉(打っ棄り)双葉山

双葉山の成績は六勝五敗。横綱・玉錦と関脇・高登が休場。四枚目の双葉山にとっては先場所に較べて対戦相手に恵まれた。この場所も正攻法の相撲で、時には勝つための策があってもよいという批評も聞かれた。それに相手の声で立っていたため、まだ立ち合いの呼吸が吞み込めていないという指摘があった。しかしこの二点は双葉山本来のもので、この時代の双葉山は体重も軽く地力が伴っていなかったことと、他人には内緒にしていた失明の右眼に大きな欠陥があったことによる。
幕内優勝は関脇・男女ノ川(九勝二敗)。八年春場所に続いて二度目。一月二十三日の番付編成会議で男女ノ川の大関昇進が決定した。

夏場所 五月十一日より十一日間 東京・両国国技館

男女ノ川が大関に昇進した。一横綱(玉錦)三大関(武蔵山、清水川、男女ノ川)、関脇に老雄・能代潟と相撲の神様・幡瀬川が返り咲き、大邱山と鏡岩が新小結となった。双葉山は自己最高位の西前頭筆頭に進んだ。

双葉山 西前頭筆頭(二十三歳三カ月)

初日  新海〈東前頭筆頭〉(寄り倒し)双葉山

二日目 武蔵山〈東大関〉(寄り倒し)双葉山
右四つから武蔵山が双差しを狙ったが、双葉山は許さなかった。一呼吸後、武蔵山が吊り身で寄り立てると、双葉山は土俵際で打っ棄りをみせたが及ばず寄り倒された。

三日目 双葉山(下手投げ)能代潟〈東関脇〉

四日目 清水川〈西大関〉(外掛け)双葉山
右四つから清水川が双差しとなり、吊りに出るとみせて左から下手投げで双葉山を崩し、すかさず右外掛けで決めた。

五日目 双葉山(首投げ)土州山〈西前頭四枚目〉

六日目 玉錦〈東横綱〉(寄り倒し)双葉山
双葉山は右四つかたの強烈な下手投げで玉錦をぐらつかせたが、玉錦、よく残して寄り倒した。場所後、玉錦は双葉山について次のようにコメントした。
「双葉山の相撲はまともに出るので損だという人もあるが、まだ前途洋洋たる青年力士だから、これがかえって彼の将来を大きくするゆえんだと思う。堂々と戦ういまの取り口を賞賛すると同時に慫慂したい」

七日目 双葉山(掬い投げ)大潮〈東前頭五枚目〉

八日目 双葉山(打っ棄り)和歌島〈東前頭七枚目〉
 
九日目 高登〈東前頭三枚目〉(寄り切り)双葉山

十日目 双葉山(首投げ)鏡岩〈西小結〉

千秋楽 双葉山(首投げ)大邱山〈東小結〉

双葉山は千秋楽東小結の大邱山に勝って六勝五敗と勝ち越し、三役の切符を手中にした。この場所、大邱山が特進力士第一号の三役となり双葉山の好敵手とされていたが、大邱山は五勝六敗と負け越したため、次場所は双葉山と小結を入れ替わることになった。
幕内優勝は十一戦全勝の大関・清水川。清水川は七年春場所(関脇)、同年京都場所(大関)で優勝。通算三度目の優勝。新大関・男女ノ川は五勝六敗と負け越した。

五月二十七日
海軍経理学校天覧相撲  海軍経理学校
優勝は番神山(夏場所では西前頭八枚目)

六月四日
第四回大日本相撲選士権 
大関・武蔵山が玉錦との三番勝負の末、初の選士権者に。

4 昭和十年(一九三五年)

春場所 一月二十一日より十一日間 東京・両国国技館

関脇に綾川と新海、小結に双葉山が昇進。巨漢・出羽ケ嶽は西十六枚目の幕尻まで下がった。
横綱・玉錦が年寄・二所の関を襲名、二枚鑑札が認められた。この場所、粂川部屋預かりだった新入幕の玉の海は元の二所の関部屋に復帰した。
明治四十年(一九〇九年)二枚鑑札で二所ノ関を襲名した関脇・海山は、翌年の一月場所に引退、友綱部屋に預けてあった内弟子を連れて二所ノ関部屋を創設した。弟子には恵まれなかったが、唯一、玉錦を大関に育てあげた。しかし玉錦の横綱昇進の直前に死去し、弟子は粂川部屋に預けられた。当時の二所ノ関部屋は稽古場さえなかったが、玉錦は猛稽古により一代で部屋を大きくし、関脇・玉ノ海、幕内・海光山などの関取を育てた。(昭和十三年十二月、玉錦が急死すると、翌年一月、関脇・玉ノ海が二十六歳で二枚鑑札で二所ノ関部屋を継承した。)

双葉山 東小結(二十三歳十一カ月)

初日  双葉山(二枚蹴り)新海〈西関脇〉

二日目 松前山〈西前頭筆頭〉(吊り出し)双葉山

三日目 錦華山〈西前頭四枚目〉(突き倒し)双葉山

四日目 双葉山(引き分け)武蔵山〈西大関〉

武蔵山が右で前ミツを取ると、双葉山も右を差して右四つになった。武蔵山が寄って出ると、双葉山は首投げで防ぎ、右四つとなってもみ合い、勝負がつかなかった。取り直し後も同じような相撲で、遂に引き分けとなった。

五日目 綾川〈東関脇〉(叩き込み)双葉山

六日目 玉錦〈東横綱〉(寄り倒し)双葉山

七日目 双葉山(突き倒し)番神山〈東小結〉

八日目 双葉山(下手投げ)高登〈西小結〉

九日目 双葉山(上手投げ)清水川〈東大関〉

十日目
能代潟〈東前頭筆頭〉(外掛け)双葉山

千秋楽 男女ノ川〈西張出大関〉(小手投げ)双葉山
双葉山が頭を下げて右で前ミツを引いて出たが、男女ノ川は突き放した。双葉山は出し投げ、下手投げ、首投げと連続して攻めると、男女ノ川は棒立ちとなった。そこを双葉山が左を差して寄れば、男女ノ川は強引に右小手投げで決めた。

双葉山は四勝六敗一分と負け越し、折角の三役も一場所で明け渡すことになった。しかしこの場所の双葉山の取り口を先代春日野は次のように賞賛した。
「武蔵山と堂々と四つに渡り合って、さすがの武蔵山も玉砕することができず、水入りの大相撲は近来の秀逸である。かてて加えて男女ノ川と堂々と渡り合ったところ、まさに三役の名を恥ずかしめない。」
幕内優勝は横綱玉錦。横綱として二回目、通算七回目の優勝。

四月 靖国神社奉納大相撲  東京・九段の靖国神社相撲場

夏場所 五月十日より十一日間 東京・両国国技館

横綱・玉錦に二連勝して安定した強みをみせている大関・武蔵山が横綱を賭ける場所であった。
巴潟が新小結(西)となった。双葉山は東前頭筆頭に降格した。
武蔵山の先輩で昭和の巨人といわれた出羽ケ嶽が、前場所西幕尻で三勝八敗と負け越したため西十両二枚目に下がった。出羽ケ嶽と入れ替わって笠置山が入幕した。初日、十両土俵入りに出羽ケ嶽が恥ずかしそうに入場すると、満員の観衆は大声援で迎えた。また笠置山も母校・早稲田大学の化粧廻し姿で現れると、「都の西北」の合唱と共に大拍手が沸いた。

双葉山 前頭筆頭 二十四歳三カ月

初日  鏡岩〈西前頭筆頭〉(寄り切り)双葉山
双葉山が突いて出ると、鏡岩も突き返した。追い込まれた双葉山は土俵を回り外掛けで防いだが、鏡岩は右を差し強引に寄り切った。

二日目 清水川〈西張出大関〉(上手投げ)双葉山

三日目 双葉山(上手投げ)新海〈東関脇〉

四日目 玉錦〈東横綱〉(寄り倒し)双葉山

五日目 双葉山(上手捻り)幡瀬川〈東小結〉
幡瀬川は右を差し、寄るとみせてサッと引き技をみせた。双葉山がぐらつくと、すかさず双差しになって寄った。双葉山は外掛けで防ぎ、左上手で捻って決めた。

六日目 男女ノ川〈西大関〉(浴びせ倒し)双葉山
双葉山が突っ張り、ノド輪で攻めたが、男女ノ川は動じなかった。双葉山が双差しになって出ると、男女ノ川はこれをカンヌキに極めて寄り進み、巨体を浴びせて倒した。

七日目 双葉山(打っ棄り)大邱山〈東前頭三枚目〉
双方右四つでもみ合い、大邱山の鋭い寄り身に土俵際に追いつめられた双葉山が弓なりになって打っ棄った。

八日目 武蔵山〈東大関〉(寄り倒し)双葉山
武蔵山が右を差して寄って出た。この寄りに双葉山は右へ逃げ、右で武蔵山の首を巻いてこらえたが、武蔵山はかまわず寄り倒した。

九日目 巴潟〈西小結〉(押し出し)双葉山

十日目 双葉山(押し出し)出羽湊〈西前頭7枚目〉

千秋楽 綾昇〈西前頭五枚目〉(内掛け)双葉山
綾昇が右から左と双差しになり、足クセで双葉山を脅かした。双葉山は左を巻き替え左四つになったが、綾昇は体を寄せて内掛けで倒した。

双葉山は四勝七敗と二場所続けて負け越した。ファンは双葉山に絶望した。双葉山自身も「果たしてやっていけるだろうか」と悩んだ。しかし本人にとっては相撲が面白くなってきた時期であり、身体も充実してきていたが、体重はまだ九十八キロで百キロに満たなかった。
幕内優勝は横綱玉錦(十勝一敗)。春場所に続いて横綱として三回目、通算八回目の優勝を遂げた。土俵は一人横綱・玉錦の時代となった。
場所後の五月二十一日、次場所の番付編成会議開かれ、大関・武蔵山の横綱が決定、六月に昇進した。武蔵山の夏場所の成績は九勝二敗だったが、三場所合計二十六勝六敗一分の成績が認められた。二十五歳でのスピード出世は「飛行機」と称され、筋骨逞しい身体と都会的なマスクで女性に人気があった。
同日、第二十代木村庄之助に「松翁」の称号が許された。松翁は行司最高の栄誉で天保年間の八代庄之助以来二人目。

五月二十四日 台湾震災寄付大相撲  東京・両国国技館

五月二十七日 水交社天覧相撲    東京・芝公園 水交社
準決勝
武蔵山(寄りきり)旭川
双葉山(寄りきり)玉錦
決勝
武蔵山(押し倒し)双葉山

六月一日 第五回大日本大相撲選士権 
第一部準決勝
綾昇(外掛け)双葉山
優勝は昨年に続き武蔵山。三番勝負で玉ノ海(夏場所は東前頭十二枚目)に勝った。

十一月三日 明治神宮全日本力士選士権 
優勝は大関男女ノ川。


第四章  六十九連勝始まる

1 昭和十一年(一九三六年)

一月五日、春場所番付発表。武蔵山が横綱となり六年ぶりに二横綱となった。
相撲史にあっては双葉山が、春場所六日目、玉錦に敗れた翌七日目から六十九連勝のスタートを切った。五月場所、双葉山は初めて玉錦に勝ち、覇者交代の時期を迎えた年であった。

春場所 一月十日(金)より十一日間 東京・両国国技館

この場所、武蔵山が新横綱として登場した。当時最大の人気力士は、前年の春夏と連続優勝した東の正横綱・玉錦ではなく、武蔵山であった。武蔵山は前場所千秋楽、横綱を賭けた一番で玉錦に敗れた。そのとき女性ファンの悲鳴は国技館の大鉄傘を貫くほどだった。場所後、玉錦には敗れたものの九勝二敗の武蔵山は横綱に推挙された。武蔵山の横綱になる前二場所の成績は、昭和十年春が八勝二敗一分、夏が九勝二敗。玉錦の昭和七年春八勝一敗、夏十勝一敗に較べると甘い。ひとり横綱の現状ということもあり、武蔵山人気に便乗した推挙であった。
一方、双葉山は前年の春場所、東小結で四勝六敗一引分、夏場所が東前頭筆頭で四勝七敗。合わせると八勝十三敗一引分で前頭三枚目に下がってしまった。双葉山は、当時、新聞に将来に期待が持てないと書かれたことで自分の力量に失望した。そして前頭の収入では父親の借金(当時の金で五千円)返済の目途が立たないという絶望を味わった。そこで大分の父親に廃業の決意を告白した。しかし、周囲の説得と激励で廃業を思いとどめた。(「第六章 双葉関の思い出」参照)

双葉山 東前頭三枚目
    (二十三歳十一カ月 身長一七九センチ 体重 一〇九キロ)

初日
新海〈西前頭五枚目〉(打っ棄り)双葉山

二日
双葉山(下手投げ)武蔵山〈西横綱〉
立ち合い突き合って右四つ。双葉山は左の上手を取って寄る。武蔵山は左から上手投げを打ったが双葉山は右から下手投げを打ち返した。初めて武蔵山に勝った一番。なお、武蔵山は八日目、右腕痛と胃潰瘍のため途中休場。

三日目
双葉山(打っ棄り)清水川〈西大関〉

四日目 双葉山(打っ棄り)鏡岩〈西関脇〉

五日目 双葉山(上手投げ)男女ノ川〈東大関〉
双葉山が立ち合いから積極的に突いて出た。左を差し右からの攻めに男女ノ川は土俵際に詰まったが残して寄り返した。土俵中央でひと呼吸の後男女ノ川は双葉山の左を右で抱えて小手に振ったが双葉山は二枚腰でよく残した。なおも男女ノ川が出ようとするところを右からの上手投げに決めた。
武蔵山に次いで男女ノ川にも勝ち、勝っていないのは玉錦だけとなった。

六日目 玉錦〈東横綱〉(引き落とし)双葉山
双葉山は頭を下げて激しく突いたが出足が伴わない。双葉の腰が伸び、玉錦が右から肩すかし気味に引き落とした。
勢いに乗って出る双葉山を玉錦はうまくさばいた。今場所大敵を撃破してきた双葉山も玉錦には勝てなかった。玉錦に敗れたことで双葉山の目標が玉錦ひとりに絞られた。この敗戦が六十九連勝直前の敗戦である。

六十九連勝仮想実況放送

一勝目

七日目 一月十六日(木)

双葉山(打っ棄り)瓊(たま)の浦〈西前頭四枚目〉

アナウンサー 両者立ち上がった。直ぐにがっぷり右四つに組みました。瓊、しきりに左を捲きかえようとしています。これを双葉、許さない。左四つ得意の瓊の浦にとっては、この体勢は不利であります。瓊、右から櫓投げをみせた。瓊、吊り身になって東土俵に寄った。寄った。双葉、俵に足がかかった。瓊、外掛け。双葉、こらえた。双葉こらえた。双葉、右へ切り返した。双葉、打っ棄り。双葉の切り返し気味の打っ棄りが決まりました。

解説者 双葉山は終始守勢でしたが、幸いにも土俵際で瓊の浦が外掛けにきたので見事に打っ棄りが利きましたね。土俵際の外掛けや内掛けは無謀というほかありません。まあ瓊の浦としては双葉山に十分に組まれていましたので、あれ以上の攻めを望むのは無理でしょう。

二連勝

八日目 十七日(金)

双葉山(二枚蹴り)出羽湊〈東前頭五枚目〉

アナ 体が柔らかく腰がよい双葉山、対しまして出羽湊は筋肉質で力が強い。ともに右のあい四つであります。さあ立あがった。双方右下手を引きました。左上手も引きました。がっぷりの右四つであります。出羽しきりに櫓の気を見せております。対して双葉、腰を低くして慎重に構えています。出羽、蹴返した。双葉も二枚蹴り。双方足技で応酬しております。出羽、上手投げ。双葉残りました。双葉、出羽、土俵中央で動きが止まりました。…ついに水入りであります。
さあ試合再開であります。がっぷり右四つのまま双方動きません。慎重であります。このままいけば引き分けか二番後取り直しになりそうであります。あっ、双葉、右足をとばし二丁投げにいった。続いて内掛け。出羽、残した。双葉、二枚蹴り。出羽、たまらず左へ横転しました。双葉山の連続技の急襲が功を奏しました。

解説 出羽湊としては立合い咄嗟に櫓に振れなかったのが最も大きい敗因でしょうねえ。双葉山は取りにくい出羽湊に対して焦らず待機したうえ、見事曲者を討ち取りました。組んでからの技はともに変化がありますが、出羽湊は体が軽いだけに勝負が長引くと不利ですねえ。

三連勝

九日目 十八日(土)

双葉山(打っ棄り)綾 昇〈東小結〉

アナ 立あがりました。双葉激しく綾の喉を攻めた。双葉のノド輪。綾これをよくこらえて残した。綾、右をはずにして押し戻した。双方、土俵中央でがっぷりと右四つになりました。双葉、綾、ともに技を仕掛ける機をうかがっております。綾、一歩寄った。左から強引な上手投げ。双葉、残しました。綾、寄った。双葉後退、双葉後退。双葉の足が俵に掛かった。双葉、残った。残った。双葉、綾を大きく右に打っ棄った。双葉、辛くも打っ棄りで勝ちました。

解説 綾昇は勝ちを焦りましたねえ。打っ棄りに対する腰の備えがありません。双葉山の思う壺にはまってしまいました。双葉山が綾昇の仕掛けを待ったのは、双葉山の相撲に一日の長があるのでしょう。まあしかし今場所の双葉山は勝ち運にめぐまれているのだから、もっと積極的な取り口を示してほしいものです。

四連勝

十日目 十九日(日)

双葉山(下手投げ)笠置山〈東前頭二枚目〉

アナ 笠置山は左、双葉山は右の喧嘩四つ。しかし双葉は左でもかなり取ることができます。笠置は得意の左を差して土俵際まで寄ったとしても、双葉には打っ棄りの手がありますから十分注意しなければなりません。
さあ行司軍配がかえった。双葉、突っ張った。笠置右にひらいた。笠置、双葉の前ミツを右から押しつけ寄った。双葉のこした。双葉、右がはいった。双葉、下手投げを打って寄り返した。両者がっぷり右四つに組みました。双葉、なかなか攻めません。笠置、右の蹴返しをみせた。双葉、動じません。今度は双葉、右の二枚蹴り。笠置、のこした。左を一歩踏み出した。双葉、右の下手投げ。笠置、左から体を寄せた。笠置、わずかに先に落ちたか。軍配は双葉山。双葉山の下手投げの勝ちであります。

解説 好勝負でしたねえ。どちらも新進気鋭の花形力士だけに、土俵上に火花を散らしました。双葉の勝因は右四つに組み止めた点です。それだけ双葉の相撲に強みがあることを裏書きしたといえますねえ。双葉山の四連勝はいずれも紙一重の勝利です。どちらが勝ってもおかしくないという相撲です。しかし双葉山の相撲はそこを勝ってゆくところが強くなった証拠ですね。春日野さんが「双葉は誰とやってもちょっとだけ強い」と言っているのも肯けます。

五連勝

十一日目・千秋楽 一月二十日(月)

双葉山(すくい投げ)駒の里〈西前頭十枚目〉


今場所の双葉山

双葉山の正攻法の取り口は、格上の敵に対していわゆる番狂わせを演じるということはなかった。たとえば大邱山が女ノ川を捨て身の首投げで倒したような派手な相撲は取れなかった。おそらく双葉山の相撲に対する信念がケレンな相撲を取らせなかったのだろう。それまで玉錦、武蔵川、男女ノ川、清水川といった地力のある上位力士に勝てなかったのも、体重百キロに満たない非力な双葉山の正攻法の取り口にあった。ただ双葉山には無類の※二枚腰があり、土俵際打っ棄りで勝つことが多く、「打っ棄り双葉」と揶揄されていた。
ところが前年春場所に武蔵山と二度の水入りの後の引き分け、清水川には上手投げで勝ち、かなり力がついてきたことを示した。そして今場所を九勝二敗の準優勝で飾り、ついに武蔵山、男女ノ川を破り、歯の立たなかった二人と五分あるいはそれ以上に戦えることを証明した。

※双葉山自身は二枚腰について、「いっぺん腰が崩れても、もう一つの腰が残っているというほどの意味でもあろうかと思います。だとするならば、これは自分でも自覚していたところなのです」と語っている。(『相撲求道録』)

夏場所

両国国技館 五月十四日(木)~二十四日(月)の十一日間

双葉山(西関脇)二十四歳三ヶ月

 双葉山は昭和十年春場所の小結以来の二度目の三役。それも小結を飛び越えての新関脇の場所である。今場所は男女ノ川が横綱に昇進して、玉錦、武蔵山、男女ノ川の三横綱となった。このため番付は体裁上、男女ノ川は大関と横綱を兼務し、横綱大関と称した。先場所の武蔵川に続く横綱昇進であったが、二人とも玉錦には分が悪く、昇進基準は武蔵山の時同様甘かった。(十年夏八勝三敗、十一年春九勝二敗)。二人とも横綱という看板は立派だが相撲内容はいまひとつであった。なお、十両幕尻の出羽ケ嶽は休場のため幕下へ転落した。
双葉山は春場所後の巡業中に体重が増え一〇九キロとなった。当時双葉山贔屓の相撲作家・鈴木彦次郎は大きくなった双葉山の後姿を見て、はて誰だろうと、前へ回って見たほどだったという。双葉山は稽古中の強さも増し今場所は大きな期待がかけられていた。

 関脇に昇進した双葉山は、名を定次から定兵衛と改めた。祖父を偲んでの改名だったが、そこへ思いがけない祖母の死が、郷里から送られて来た大分新聞に掲載されてあった。直ぐに電報を打ってその事実を確認した。祖母は臨終の床で大事な本場所を控えている双葉山の気持を逸らせぬよう「定次には知らせるな」と言い遺した。双葉山は九歳の時に母に死に別れた。その後はこの祖母に育てられた。祖母を母と思い慕っていた双葉の悲嘆は深かった。「おばあさんの気持を汲み落胆しないでがんばってくれ。定次の出世が一番の供養になるのだ」と父から便りが来た。従ってこの夏場所は双葉山にとっては、亡き祖母へはなむけする弔い合戦だった。元来信仰心の強い双葉山、自身、必死の覚悟で土俵に臨んだと言っている。

六連勝

初日 ― 五月十四日(木)

双葉山(上手投げ)新 海〈東前頭三枚目〉

アナ 双葉山は今場所も先場所同様、しょっぱなに新海をぶつけられました。双葉は新海とはこれまで一勝二敗と分が悪く、足癖の蛸足・新海を苦手にしております。
さあ、双方立った。小兵の新海、素早く双葉の懐に入りました。新海、双差し。新海、右内掛けに出た。双葉、これに対して慌てません。双葉、左上手から抜き上げるような大きな上手投げ。きれいに決まりました。

七連勝

二日目 ― 十五日(金)

双葉山(上手投げ)両國〈東前頭一枚目〉

アナ 瓊の浦改め両國。双葉の六連勝は先場所七日目の二人の対戦から始まっております。左上手まわしを引けば負けないという双葉は元気一杯。それに対しまして左に下手まわしを取れば水車のような早業、櫓投げがある両國。この一戦、喧嘩四つの差し手争いがどうなりますか。
さあ双方気が合って立ち上がった。両国の右がずぶりとはいりました。双葉もすばやく左上手を引いた。双葉、右ノド輪で両國に左をとらせない。双葉寄った。両國半身になって左で双葉の手首をつかんだ。両國喉輪をはずした。しかし両國後がない。双葉、上手投げ。見事に決まりました。

解説 双葉が右から右からと攻めたのはすこぶる味のあるところで、両國は体のない悲しさ、あの喉輪を防ぐことがすべてでしたね。両國は立合い素早く双葉に左上手を引かれて、左が差せなかったのが敗因でしょう。双葉山の順当な勝利でした。

八連勝

三日目 ― 十六日(土)

双葉山(下手投げ)駒の里〈西前頭二枚目〉

アナ 今場所、双葉山も駒の里も元気一杯であります。満場この一番に期待が盛り上がっております。
さあ、行事・木村玉之助の軍配が返った。駒、右の前ミツを取った。左をはずにして寄った。なおも寄った。双葉残した。双葉右を差した。双方、土俵中央に戻りました。駒、ふたたび寄った。双葉、右へ回った。双葉、右からの強烈な下手投げ。見事に決まりました。

解説 いい勝負でしたね。しかし上背のない駒の里はあれが精一杯。双葉は長身と腰の重さと、稽古十分の賜物の一番です。

九連勝

四日目 ― 十七日(日)

双葉山(下手投げ)笠置山〈東前頭三枚目〉

アナ 今場所の双葉山は初日から四連勝と破竹の勢いであります。対する笠置山は四連敗。今日あたり強敵双葉を破って面目回復といきたいところ。双葉の左四つに笠置は右四つの喧嘩四つ。この一番差し手争いが見ものであります。
両者立ち上がりました。笠置、頭から当たりました。左差しをねらっております。しかし双葉、差させません。猛烈な差し手争いです。笠置、右を差しました。笠置、猛烈に寄った。双葉、笠置の差し手を左から巻いて引き上げた。双葉、左で上手まわしを引き懸命に寄り返した。笠置ふたたび東土俵へ寄った。双葉こらえた。双葉、また寄り返した。今度は笠置、こらえて右へ回った。笠置、苦しい。双葉、右を差した。強烈な引きつけ。双葉、下手投げ。決まりました。今場所も笠置山の雪辱は成りませんでした。

解説 笠置山も精一杯奮闘しました。双葉を土俵際へ追い詰めたとき、いまひとつ力があれば勝っていたかもしれませんね。しかし、やはり双葉の打っ棄りを警戒して寄り立てることができませんでしたねえ。それにしても立合い笠置山の意外の右差しは双葉の機先を制しました。まあ今の双葉にはこの注文相撲は無理でしょうね。

十連勝

五日目 ― 十八日(月)

双葉山(寄り切り)出羽湊〈西前頭筆頭〉

アナ 双方立ち上がるなり右四つに組み合いました。双葉、得意の左上手をしっかりと引いております。出羽、左を捲きかえようとしますが双葉これをゆるしません。双葉、寄った。出羽、二枚蹴り。続いて下手投げ。これは双葉には効きません。双葉、出羽の体をぐいと引きつけました。双葉、寄った。腰を落としてじりじりと寄った。双葉そのまま寄り切りました。

解説 双葉の完勝ですね。双葉は今場所連日の好成績ですが、寄り身らしい寄り身がないですね。欲を言えば、もっと積極的な相撲も見たいものです。

十一連勝

六日目 ― 十九日(火)

双葉山(上手投げ)綾昇〈東小結〉

アナ さて今日は、あの世界の喜劇王・※チャップリンさんとフランスの詩人の※ジャン・コクトーさんが桟敷席にみえております。チャップリンさんの相撲観戦は昭和七年の夏場所以来四年ぶりです。コクトーさんは八十日間で世界をまわる旅の途中で日本に立ち寄ったそうであります。大相撲がお二人の青い眼にどのように映っているのでしょうか、興味のあるところです。
さて今場所最初の三役同士の対戦であります。今場所の興味の中心は鏡岩、双葉山、そして綾昇の大関争いでありますが、綾昇は場所直前に左足を傷めて踏んばりがきかず得意の足くせを発揮することができません。五日目まですでに三つの黒星でありますが、昨日の一番から足の包帯もとれて具合は良くなってきた模様であります。綾昇にとっては是が非でも勝っておきたい一番であります。一方の双葉山、初日以来堅実な相撲ぶりを見せて連勝を続け、いたって元気であります。
さあ木村玉之助の軍配が返りました。綾、右を差そうとしますが、双葉差させません。結局がっぷりの右四つとなりました。双方土俵を右へ右へ回っております。双葉、右下手からの下手捻り。綾、こらえた。双葉ふたたび下手捻り。綾こらえました。双方土俵中央で動きが止まりました。
…行司・玉之助、双方に水入りを伝えました。水入りまでの試合時間は何と五分二十秒であります。
試合再会であります。玉の助、足の位置を確かめて双方のまわしをポンと叩いた。双葉、右の二枚蹴り、続けて蹴返し。双葉、吊り身になって正面に寄って出ました。綾、左足をとばし打っ棄り気味に吊った。綾、今度は右の内掛け、続けて下手投げ。双葉、掛けられた足をはねあげた。すぐに上手投げ。上手投げ。双葉の投げが豪快に決まりました。
水入り後の試合時間は三分五秒、合計八分二十五秒の大一番でした。

解説 敗因は無理な内掛けですね。綾はひとまずじっと引き分けになるのを待って、あらためて立ち合うべきだったと思います。これで双葉は大関の第一関門を突破しましたね。

次に記すのは、ジャン・コクトーの『僕の初旅・世界一周』(ジャン・コクトー全集Ⅴ評論)より抜粋した大相撲印象記である。案内したのは画家の藤田嗣治と詩人の堀口大学。コクトーの文章は堀口大学の翻訳によるもの。

『翌日、重苦しい午前のあとで、フジタと堀口が、僕らを国技館へ相撲見物に案内してくれた。聞けば、興行は早朝から始まっているのだそうだ。
入口の一つにたどり着くまでに、沼のような泥濘(ぬかるみ)を渡らなければならない。屋台店が出ていて、羊羹だの蜜柑だの、お土産だの、人気力士の絵葉書だのを売っている。スペインの闘牛場の雑閙(ざつとう)そのままだ。ふと気づくと、僕はいきなり、巨大なサーカスの中に来ている。高い天井まで見物人でいっぱいだ。座布団や、空(から)の土瓶や、蜜柑の皮や、下駄やフェルト帽やの敷藁の上いちめんに、人間の詰まっている桟敷の仕切りに、僕はつまずいて倒れそうになる。或る名士が、僕らを自分の桟敷に入れてくれた。椅子のない地べたに、ぺったり坐って見物するのだ。サーカスの真中に、土俵が小高く築かれている。白、黒、緑、赤の四本の柱が、塔のような屋根を支えている。空色の総紐(ふさひも)で吊るし上げた紫の垂幕が、土俵の上に引き廻されている。天上の硝子(がらす)屋根のまわりには、学生や兵隊からなる鈴なりの人間の上に、年々の優勝者の巨大な額が掛け連ねてある。
土俵の上では、銀のキモノ、漆(うるし)の烏帽子、昆虫の触角という扮装(いでたち)に、彼等の職権を象徴する硝子(がらす)無しの鏡のようなものを持ち添えた行司に見守られて、両力士は、互いに観察し合っている。立合いはほんの数秒しかかからないのだが、仕切りの一度一度が、沈黙に区切られる叫喚の嵐を捲き起す。力士たちは、桃いろの若い巨人で、シクスティン礼拝堂の天井画から抜け出して来た類(たぐい)稀な人種のように思える。或る者は伝来の訓練によって、巨大な腹と成熟しきった婦人の乳房とを見せている。ただし、この乳房も腹も、決して肥大漢のそれではない。それは古昔(むかし)の美学に準拠して特殊の割合で分布された力を示している。他の者は、僕等の国の競技場で見かけると同じ筋骨を見せている。くすんだ色の腹巻が腰を巻き、股間を過ぎ、臀を割り、つっぱらかった縄の廻し(スカート)を腰のまわりにぶら下げている。蹲(しゃが)む時、これ等の縄が後方へ逆立って、彼らに雄鶏か山荒しのような姿を見せてくれる。いずれのタイプの力士も、髷を戴いて、かわいらしい女性的な相貌をしている。頭の真中にのっかった油で固めた上向きの束ね髪、うしろは扇の形に広がって。
浄めの塩を土俵に振りまいてしまうと、両力士は股をひろげ、両手を腿にあて、悠々と、力をこめて交互に片足ずつを踏みしめる。この熊踊りが、両者の筋肉を準備する。彼らは向い合って身をかがめ、何やら絶対な一瞬を、平衡の奇跡を、気合の投合を待つものらしい。
両者は互いにきっかけを狙い、呼吸をはかり、緊張したかと思うと、ふと言い合わせたように力を抜き、ポーズを崩し、見向きもせずに、土俵を下りる。行司はこの実りのない試みに十分間を与える。突如に電流が通じる、巨大な肉塊が、打合い、摑み合い、叩き合い、蹴合い、地から抜き合うと見る間に、写真師の稲妻一閃、人間の巨木がマグネシウムの雷に根こそぎされて土俵の下へころげ落ちる。
最後の一つ手前の一番は近代風な体格の、鼻の低い美丈夫と、拳闘家のほっそりした腰の上に太鼓腹をのっけた仏陀のような、土つかずの勇士を闘わせた。僕ら稀有な好取組に恵まれた。両力士が立上って四つに組むと同時に、完全な平衡が双方を絶対不動の位置においてしまった。目を細くしてじっと見ているとただ一頭の巨獣、この不動の二つの肉体から成る桃いろの一頭の牡牛が見えるだけだ。この橋の形の不動が、いつまでもつづくので、場内には誰一人、息をつく者もなく、人は疑うのだった。いつかこれが終る時があろうかと、もしかすると二つの相搏(う)つ力が、目の前で化石してしまうのではないだろうかと。この平衡が堪え難いものになって来る、軍配の合図で、行司が二つの肉体を引き離す。喝采が起る。水入り後の両力士は、同じ体勢を見出さなければならないのだが、精気の分配は、とかく同じとは行きかねる、それかあらぬか、両者が土俵へ上り、組み直す一瞬、見物は敬意に満ちた沈黙のうちに息を殺してこれを見守る。するとまたしても、不動の平衡が出来上る。やがて足が絡み、やがて帯と肉との間に指がもぐり込み、まわしのさがりが逆立ち、筋肉が膨れ上がり、足が土俵に根を下ろし、血が皮膚にのぼり、土俵一面を薄桃いろに染め出す。不意に「土つかず」が藁屑ほどの隙をを見つけ、呼吸をはかって平衡を破る。マグネシウムが閃いて、人体が作っていた橋杭の一本が抜けて飛び、逆しまに倒れる。
勝力士は土俵に塩をまく。負けた方が起き上がり、土俵の一角にのぼり跪いて頭を下げる。
この場所もまた、この相撲界の偶像が、優勝盃を受けるはずだ。そして彼の写真が、菊五郎のそれと一緒に、商売女の部屋を飾るはずだ。支度部屋へ案内される。円天井の廊下みたいなところで、女のように優しい目付きの、女のように髪を結った桃いろ大理石の若い神々が、風呂を浴びている。或る者は湯気の雲に包まれて湯を浴び、或る者は白牡丹を染め抜いた黒字の着物を着て徘徊し、また或る者は蓬髪の下から僕らに微笑を送っている。この連中は、ちゃんと立派に油で固めた髷が結えるまでこうしてもじゃもじゃさせて待っているのだ。
僕は勝って引揚げて来た横綱に近づく。彼は石の台座にあぐらをかいて、折から床山に漆のような髷を結わせているところだ。黒漆に赤漆。この無邪気な巨人は、全身が桃いろですべすべしている。写真師のために並んで立った僕は、大きな桃いろの復活祭の卵によりかかっているような気持だ。フィレアス・フォッグとパスパルトゥーに取巻かれたこの横綱の写真は、翌晩僕らが見物に行った玉の井の入口で、僕らを待ち受けることになる。』

文中、「そして彼の写真が、菊五郎のそれと一緒にフアンの部屋を飾る筈だ。」とあるのは、前日、歌舞伎座で六代目尾上菊五郎の『鏡獅子』を観たことによる。

また、『相撲』(昭和十一年六月号)に寄稿した文章には、

『私は今度、日本独特のスポーツである相撲を初めて観た。競技そのものも面白かったし、競技場を埋める大観衆の熱狂ぶりも面白く感じた。それにあの競技場の建築も、こせこせしたところがなく、線がのびのびとしていて気持が良い。
力士の体については、―これは逆説的な言い方かも知れぬが―彼等の体の線には、「不均衡の美」というものがある。特殊の筋肉美であるから、美術的な鑑賞の対象にも十分なると思う。
それから特に面白いと思ったのは、「仕切」というものである。意味を聞きながら観ると、非常に味のあるものであることが判った。私も思わずつり込まれて、体を固くしてしまった。「仕切」は、片方が相手の隙を窺って、自分のコンディションの良い時に立つのではなく、二人の呼吸がぴったり合った時にはじめて立つという意味を聞いて、大変すがすがしい感じをうけた。
玉錦と支度部屋で写真を撮った―私は爪楊枝、彼は吐月峰。この記念写真は、今度の旅行で一番良い土産になった。』

なお同月の『相撲』には当時序二段で日系二世の福錦がチャップリンにインタビューした記事も載っている。

『チャップリンが相撲を見に来たのは五日目と六日目の二回でした。そして始めの日は午後一時半頃、翌日は午後三時半頃から来ました。
始めて来た日に「仕切り」を見て、「待った」をやるのがどうしても解らなかった様子で、「一方が立ったのに、どうして相手が立たないのか」と尋ねられました。そこで「呼吸」が合わなければ立てないのだ、ということを、いろいろ工夫して言葉を換えて説明してやりましたが、なかなかのみこめないので困りましたが、最後に「ファイティング・スピリッツがイクオールになった時に立つのだ」―闘争精神が合致した時に立つのだ―というように説明してやって、漸く納得させました。
この問題でも解るように、私達が何の説明も加えられず、自然に体得しているところの「立ち合いの呼吸、阿吽の呼吸」などというものは、ひとりチャップリンばかりでなく、外国人にはなかなかのみこめないものと思われます。
それから、「相撲はボクシングの稽古のためになるか」という質問を受けましたが、ボクシングのことは私はよく知らないので、私の答えたことが当っているかどうか解りませんが、兎に角こう返事をしました。「ボクシングの方は腰を軽くして足の運びを軽く速くするように稽古をするが、相撲はなるべく腰を重くして、しかも足を速く運ぶように稽古をする。いわば重心の置き方が違うから、相撲がボクシングの稽古のためになるかどうかよく解らない」と言ってやりました。もし相撲がボクシングの技量を向上させるために役に立つものならば、それを取り入れようと思ったのかどうか解りませんが、一々ボクシングを土台にして解釈しようとしていたことだけは解りました。
そういうようにボクシングを土台にして考えている故か、相撲の体が大きいことは余り注意を惹かなかった様子で、日本人としては立派な体だと褒めて、食べ物は普通人と較べて、どの位まで多く食べるか、などと尋ねていましたが、体が大きいから食べ物も多く食べるだろう、という考えは日本人でも一般にあるようですから、あまり面白い話でもありますまい。
しかし、ボクシングやレスリングでは重量で等級を定めて、同量の者同士を組合わせているので特に体の大小が目立つような組合わせはありませんので、相撲が体の大小、力の有無に関係なく組合されて、力の不足を技で補うというところに興味を惹かれたらしい様子で、体の大きい者が小さい者に勝った時は、当り前というような顔をしておりましたが、体の小さい者が大きい者を倒すと、手を叩いて喜んでおりました。大きい者が必ずしも小さい者に勝てるものではないということは、チャップリンのみならず一般の外国人が興味を持つ点だろうと思います。

※ ジャン・コクトー(一八八九―一九六三) フランスの作家、詩人、劇作家、画家、脚本家、映画監督。昭和十一年(一九三六年)日本を訪れ、相撲と歌舞伎に感心し、相撲を「バランスの芸術」と呼び、六代目尾上菊五郎に会って握手したが、その際、白粉が剥げないように気を遣ったため菊五郎を感心させた。この時観た鏡獅子が、後の『美女と野獣』のメイクに影響した。周防正行監督の映画『シコふんじゃった。』の冒頭で柄本明演じる大学教授が、この相撲見物の一節を読み上げる場面がある。
※ チャールズ・チャップリン(一八八九―一九七七) イギリスの映画俳優、映画監督。昭和七年(一九三二年)に日本を訪れたときは、映画『街の灯』の宣伝を兼ねた世界一周の途中だった。五月十四日、神戸に上陸して上京。同夜、東京駅で大歓迎を受ける。犬養首相とも会食の予定だった。翌日、大相撲を見物したあと、五・一五事件を知る。チャップリン自身に対しても「日本に退廃文化を流した元凶」として、暗殺が画策されていた。相撲見物がチャップリンの命を救った。

【参考】チャップリンとコクトーの出会い
一九三六年(昭和十一年)コクトーは日本へ向かう船内でチャップリンを見かけた。すぐさま船内で手紙を出した。「ぜひお目にかかりたい、一杯どうですか」。チャップリンは最初、「ジャン・コクトー」の署名をみて「きっとニセモノに違いない。あの洗練されたパリジャンが、こんな南シナ海の真中で何用がある?」と信じなかった。しかし会ってみると本物だった。しかしコクトーは英語がまったくだめ、チャップリンもフランス語が話せないという状況。それでも身振り手振りで通じていく。芸術や哲学など朝の四時まで話し続けた。コクトーはチャップリンから歌舞伎のことを教わって六代目尾上菊五郎の「鏡獅子」などを見て感激。日本の芸術や人柄にふれ二人は共に離日した。船がサンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジに近づいたころチャップリンはコクトーの耳元でささやいた。「私たちは野蛮人の許に帰っていくのだよ」と。

十二連勝

七日目 ― 二十日(水)

双葉山(寄り切り)玉の海(西前頭七枚目)

アナ 玉の海は双葉山と同い年でありますが、玉の海の初土俵は昭和五年十月、双葉山は昭和二年の三月でありますから玉の海が三年半も遅い。この場所初めて顔が会うという一番であります。
さあ軍配が返った。玉、右を差した。双葉も同時に左上手を引いた。玉、双葉の右を差させないように双葉の手首を押さえている。双葉、引き摺るような上手投げ。玉、残った。ここで双葉、右も取りました。双葉、じりじりと向正面に寄りました。双葉、寄った。寄った。そのまま一気に寄り切りました。

解説 双葉は四つになると、じっくり取るようになりました。昨日の綾昇にしても今日の玉の海にしても奇策を用いる術がありません。もっとも玉の海も双葉山同様、真っ正直な取り口ですので、この初対面の一番は双葉山に相撲を取らせてもらえませんでした。双葉の充実した進境が窺われる一番でしたね。

十三連勝

八日目 ―二十一日(木)

双葉山(打棄り)鏡岩〈東関脇〉

アナ 東西の両関脇、昨日まで共に七連勝と勝ちっぱなし。双方大関を賭けての一戦であります。本日はこの好取組によって午前中札止めとなっております。立ち合いといい取り口といい、いよいよ悠々迫らざる風貌を具えてきた双葉山に対しまして、大器晩成、研鑽よく揺るがぬ堅牢味を加え充実した鏡岩。まさに今場所一番の好取組であります。
双葉は右、鏡は左の喧嘩四つ、さあ立った。鏡、頭をつけて双差し。鏡、押した。双葉、こらえた。双葉、巻き返した。双方ここでがっぷり右四つとなりました。鏡、左上手から捻った。鏡、寄った。双葉、右の二枚蹴り。双葉、寄り返した。両者、土俵中央に戻りました。大相撲であります。大相撲であります。双方大きく息を整えております。あっ、鏡、猛然と二枚蹴り。双葉の体が崩れた。鏡、寄った。寄った。双葉、危ない。双葉、俵に足がかかった。双葉、こらえた。双葉、こらえた。双葉、右へ大きく打棄った。双葉の打っ棄り。絵に描いたような打っ棄りが決まりました。先場所に続いて鏡山を打棄りで屠りました。

解説 左を得意とする鏡岩が双葉山に右を引っ張りこまれたあと、巧みに巻き返られて右四つになったことが、まず敗因の第一です。まあ技術的なことはさておいて、両者の持ち味が十分に発揮された一番でした。春場所同様同じ手で敗れた鏡岩にとっては、無念の一敗ですが、勝敗を超えての一番、こんな感動的な相撲は滅多に見られるものじゃあないです。しかし、双葉山にはまだ打っ棄り腰が残っていますねえ。

十四連勝

九日目 二十二日(金)

双葉山(浴びせ倒し)玉錦〈東横綱〉

アナ いよいよ全勝の玉錦に、これまた全勝の双葉山の一戦であります。双葉山は玉錦にこれまで六回顔が合って一度も勝っていないだけに、双葉山の初勝利を期待してか満場固唾を飲んで土俵を見守っております。双方、淡々と仕切りが続いております。
あっ、双葉、時間前に突っかけた。玉、これを受けません。
…七回目の仕切りであります。玉、ゆっくりと左こぶしを下ろしました。双葉、立った。玉、受けて立った。双葉、激しく突き立てた。玉、突き返した。玉、右差し、左をおっつけた。双葉も右を差そうとしている。双葉、さっと左上手を引いた。双葉、右を差した。がっぷり四つ、双方右四つになりました。玉、左を捲きかえた。すかさず双葉、正面土俵に寄った。寄った。玉、こらえた、玉、こらえた。玉錦の顔が朱色に染まった。玉の体が伸び切った。弓のように反った。玉、双葉の首を捲いた。玉、左へ打っ棄りをみせた。双葉、腰を落とした。双葉、体を浴びせた。なおも浴びせた。双葉、玉錦を浴びせ倒しました。双葉山、はじめて玉錦に勝ちました。
館内は騒然としております。座布団、ビール瓶が飛んでおります。まさに覇者交代の歴史的大一番であります。

解説 双葉の勝因は、立合いに突っ張って左上手まわしを引いて右四つになったこと、玉錦が左を捲きかえてくるところをつけ入って寄ったこと、そして土俵際に左上手まわしを放して玉錦の胸を突いて玉錦の打っ棄りをさせなかったことの三っつにあります。双葉の相撲には微塵も軽率のところがなく非の打ち所がありませんでしたね。玉錦の寄りを恐れずに突進した積極的な相撲が快勝をもたらしました。それにしても双葉山の体は目に見えて大きくなりましたねえ。

十五連勝

十日目 二十三日(土)

双葉山(掬い投げ)男女ノ川〈東横綱大関〉

アナ 双葉の声で双方立ち上がった。激しい付き合い。双葉、素早く両差しになった。男女、その両手をカンヌキに極めました。男女、そのまま正面に寄った。双葉、右足を一歩下げた。双葉、体を大きくひらいて左から強烈な掬い投げ。男女の川の巨体が右腰からどっと崩れ落ちました。

十六連勝

十一日目 二十四日(日)千秋楽

双葉山(打っ棄り)清水川〈西大関〉

アナ 千秋楽、双葉山はこの一番に勝てば全勝優勝であります。前の三日間、鏡岩を打っ棄り、玉錦を浴びせ倒し、男女ノ川を掬い投げで屠って、完全に勝利の波に乗っております。かたや力量すでに峠を越した観のある老雄・清水川ではありますが、いつものほがらかな悪びれぬ土俵態度には、どこか余裕すら感じさせます。
さあ、立ち上がりました。右四つです。清水、額を双葉の胸につけました。両手を引き十分な構えであります。清水、掬った。これを双葉、下手投げで応じた。清水、双葉の投げを外掛けで防いだ。双方土俵中央に戻りました。
あっ、清水、上手投げの強襲、清水、寄った。双葉、残った。双葉の足が俵に掛かった。清水、右の外掛け。双葉、外掛けを外した。清水、なおも寄った。双葉弓なりになった。清水の腹が双葉の腰に乗った。双葉、左へ打っ棄った。双葉の伝家の宝刀が出ました。
場所前に育ての親のお祖母さんを亡くした双葉山の弔い合戦は、何と全勝優勝。まさにお祖母さんの霊が乗り移ったとしか言いようがありません。

解説 やはり双葉山は初めての全勝優勝ということで硬くなっていましたね。清水川は有利な体勢に乗じて、攻めて攻めて最後に玉砕してしまいました。やはり双葉山の強靭なねばり腰にはかないませんでした。まあ打っ棄りという手は腰がよくなければ効きませんが、ぼくは打っ棄りは好きではありません。双葉には今後、玉錦や男女ノ川を破ったような正攻法で勝ち進んでもらいたいですねえ。

場所後の状況

目を見はるような全勝での初優勝の千秋楽の祝宴に玉錦が駆けつけ、新しい若い英雄・双葉山の壮挙を祝福した。かつて小部屋同士という玉錦と双葉山に置かれた立場で、一所懸命稽古をつけてやった双葉山の成長は、玉錦にとってはことのほか嬉しかったろう。
また同じ関脇にいた鏡岩は双葉山と男女ノ川に負けただけで、九勝二敗の好成績をあげ、場所後、双葉山と同時に大関に昇進した。鏡岩は双葉山より十歳も年上であるが、この前後から鏡岩は、引退時に自分の弟子の一切を双葉山に預けたほど、二人の篤い信頼関係が生れてきていた。
場所後、『野球界増刊号 相撲号』に春日野取締(元横綱栃木山)は双葉山の大関昇進を祝して次の一文を掲載した。
「新鋭と噂されていた昨今であるが、かくまでの飛行機昇進ぶりは実に往年の武蔵山をしのばすものがある。場所ごとに躍進の跡を続けていることは、彼の稽古熱心と明敏な頭脳を示すもので、心からのお喜びの言葉を送りたい。ことに玉錦、男女ノ川、清水川の大豪をはじめ、旭日昇天の境地にある綾昇、笠置山、両國、新海などの中堅を遮二無二敵とせず、蹴爪にかけた武者ぶりは、角史空前の出来事といわなくてはならない。彼の取口は従来とかく粗雑に流れて、識者をして考慮すべきものがあると思わしめたが、夏場所に見せた彼の取口は堅実味を盛ってきた。まず立ち上がり突っ張り、しかるのち自己の伝家の宝刀、二枚腰の強靭を利かしての打っ棄り、差し手の辣手(らっしゅ)に物を言わせて快勝をはくした。体重も二貫余り加えたので、彼は正に張りの頂上にある。世の賛仰に毒せぬよう精進してもらいたいと思う。」

五月二十七日、海軍記念日の水行社天覧相撲は戒厳令のため行われなかった。

五月三十日第六回大日本相撲選手権大会が開催された。玉錦は夏場所六日目に磐石との一戦で負傷し、その後休場していたが、負傷も癒えて出場してきた。しかし玉錦は高熱に犯されていた。この大会は優勝者が前年優勝者の武蔵山に挑戦するという形がとられていたが、武蔵山が休場したため、予想どおり玉錦と双葉山の決勝戦(三回勝負)となった。高熱の玉錦は双葉山に二番続けて勝って優勝した。
一番目
玉錦(寄り切り)双葉山
立ち合い玉錦は左から攻めて右を入れ、上手廻しを引きつけてグイグイと寄った。双葉山が右下手投げを打って回ろうとするのもかまわず東土俵へ寄りつめた。このあと双葉山が打っ棄りに出ようとすると、玉錦は右で双葉山の左外モモをかかえてこれを防ぎ、そのまま一気に寄り切った。
二番目
玉錦(寄り倒し)双葉山
組んでは不利と見た双葉山が猛然と突っ張ったが、玉錦は右からはじき返し、うまく右を差して出た。玉錦は両廻しをがっちり引き、巨腹をあおって青柱につめた。双葉山は左へ回ろうとしたがすでに遅く、玉錦が腰を落として、必死に残そうとする双葉山を寄り倒した。

双葉山は夏場所の全勝優勝と大関昇進を果たした後、玉錦、鏡岩、双葉山一行で、長い北海道へ夏巡業に出た。九月下旬には九州に渡り、故郷・大分の中津へ錦を飾った。着くと直ぐに祖母の墓前で大関昇進を報告した。
大分県下の巡業は大成功に終始、その収益で双葉山は父親の借財(五千円)を完済することができた。この返済のために角界に身を投じた双葉山にとって最大の肩の荷が下りたのである。なおこの借財の五千円は、当時の公務員の初任給(七十五円)の六年分の給与に相当する。
十月九日より十一日間、大阪市堂島の臨時相撲場で大阪表大相撲が開催された。大阪での興行は昭和六年十月以来。十日目、全勝同士であたった双葉山は玉錦に寄り倒しで敗れた、優勝は玉錦の十一戦全勝。双葉山は十勝一敗。

前述したように、昭和二年から始まった年二回興行の関西本場所は、七年春の春秋園事件によって脱退組が「関西大相撲協会」を結成したため八年からは廃止され、以降東京場所・春夏二回興行になっていた。しかし七年末から八年一月にかけて武蔵山、綾桜、鏡岩、朝潮(後の男女ノ川)らが復帰し、玉錦や男女ノ川人気で両国国技館は紛争前の賑いに戻ったため、大阪においても興行が打たれるようになった。(東京大相撲の爆発的人気に圧迫された天竜らの関西相撲協会は支那事変の時局下も考え、十二月五日解散した。)


2 昭和十二年(一九三七年)

双葉山の連勝に沸く大相撲人気に後押しされて、五月場所より従来の十一日制から十三日間に興行日数がふえた。
七月七日、盧溝橋で日中両軍が衝突。以後、中国大陸での戦乱は拡大していった。当時、世評は双葉山の常勝ぶりを国技館の英雄から日本の守護神に祭りあげた。

春場所 一月十五日より十一日間 東京・両国国技館

場所前の一月十日、東京・丸の内の東京会舘での新大関昇進の披露宴に双葉山は初めて父親を郷里から上京させた。宴には各界からの名士、幕内力士など三百五十人が参加、盛大に催された。双葉山はこの時、「父の嬉しそうな顔を見て、初めて親孝行をした気がしました」と感激していた。

双葉山は。先場所、祖母を喜ばせるために祖父の定兵衛を名乗ったが、その祖母も今はなく、この場所の番付から定兵衛から本名の定次に戻った。
 初日は恒例の大衆デーで、桝席以外は五十銭均一。ファンは前日の午後四時には切符売り場から四百メートル先の一の橋まで列をなしたので、協会は夜中の十二時半に木戸を開けて入場させた。早朝六時半には「売り切れ満員」の木戸止めとなった。なお当時の桝席(六人詰め)の観覧料は大人一人五円。

双葉山、新大関の場所。番付は、玉錦、武蔵山、男女ノ川の三横綱と大関・清水川、双葉山と同時に昇進した鏡岩の三大関。しかし、その内実は前二場所に続いてこの場所も武蔵山は休場、男女ノ川は前場所五敗も喫する不甲斐なさ。また清水川は三十八歳という高齢。いかに清水川の剛毅をもってしても多くは望めまいといったのが大方の予想だった。
やはり優勝候補の一角は、何といっても玉錦である。前場所、玉錦は初めて双葉山に敗れた。このまま双葉山の快進撃を指をくわえて傍観しているわけにはいかない玉錦が新大関・双葉山をいかに迎え撃つかが今場所の焦点であった。

双葉山 東大関 (二十四歳十一か月)

十七連勝

初日 ― 十五日(金)
双葉山(寄り倒し)両國〈西前頭二枚目〉

アナ 立ち上がった。双葉、左から引っ張り込んだ。両國、右差し、左から押っつけた。両國、頭を下げて出た。双葉、腰を落として右から捲いた。双葉、正面にがぶって寄った。右をのぞかせてのがぶり寄り。ぐいぐいと寄った。なおも寄った。双葉、切り倒しました。

解説 両國はさすがに左上手を取られませんでしたが、右差しのために攻守にぎこちなく敗れてしまいました。十分に組むための工夫が欲しいところです。

十八連勝

二日目 ― 十六日(土)

双葉山(寄り切り)玉の海〈東前頭三枚目〉

アナ 両者立ち上がりました、はげしい押し合い。玉、右を差した。双葉、これを左に引っ張りこんだ。双葉、右から喉を押した。玉、懸命に首を捻ってこれを外しました。玉、双差し。玉、双差し。双葉、左上手を引きつけた。双葉、寄った、寄った。玉、右から蹴返し。双葉、右を巻きかえた。双葉、寄った、寄った。寄り切りました。

解説 剛毅な玉の海も、ああ堅実にしかもぐいぐい攻められてはいかんともし難いですね。

十九連勝

三日目 ― 十六日(日)

双葉山(突き出し)和歌島〈東小結〉

アナ 土俵度胸では当代一二を争う双葉山と和歌島の対戦であります。和歌島、注文をつけてはなかなか立とうとしません。和歌島、慎重に構えております。
和歌、ようやく立ち上った。和歌の頭突き。双葉受けた。和歌、もろ手で突いた。突っ張った。双葉、後退した。双葉、のこした。今度は双葉が突いた。双葉、逆襲。あっ、和歌、腰がはいったか、一瞬がくりとした。双葉、なおも突いた。突いた。そのまま和歌を突き出しました。

解説 和歌島の立合いの突っ張りには鋭い気魄がありました。さすがの双葉もこれには少し慌てましたね。しかし双葉は難なく逆転してしまいました。強いですねえ。

二十連勝

四日目 ― 十七日(月)

双葉山(押し倒し)磐石〈東前頭一枚目〉

アナ 立ちました。双葉、磐石をのど輪で攻め立てた。磐石、後退した。磐石残った。双葉、もろ筈になった。双葉、押した。押した。一気に押し倒しました。

二十一連勝

五日目 ― 十八日(火)

双葉山(寄り倒し)笠置山〈西関脇〉

アナ 立つや双方右四つ。双葉、寄った。寄った。双葉、寄り倒しました。新関脇の笠置山は病後のせいか、まったく元気がありません。

二十二連勝

六日目 ― 十九日(水)

双葉山(上手投げ)出羽湊〈東関脇〉

アナ 軍配が上がった。がっぷり右四つであります。あっ、双葉の上手投げ。双葉、電光石火の上手投げで出羽湊を切って落としました。

二十三連勝

七日目 ― 二十日(木)

双葉山(寄り切り)桂川〈西前頭筆頭〉

アナ 双葉山、今日は小兵の桂川との一戦であります。さあ立った。桂川、一気に双葉のふところに飛び込みました。桂川、双葉の前まわしを取った。桂川、いい形になりました。しかし双葉は、すでに上手まわしをつかんでおります。桂川、出ました。双葉、回り込んだ。双葉、逆に寄り返した。双葉、寄った。寄った。そのまま寄り切りました。

二十四連勝

八日目 ― 二十一日(金)

双葉山(打っ棄り)鏡岩〈西張出大関〉

アナ 双葉山、鏡岩ともに新大関同士の一戦であります。今場所、鏡岩は五勝二敗と好調であります。
両者、立ち上がりました。鏡、右を差した。左も差した。鏡、双差し。双葉、右をまきかえた。がっぷり右四つとなりました。双葉、鏡の右を切った。双葉、蹴返し。鏡、これを残した。鏡、寄った。双葉、寄り返した。両者、土俵中央に戻りました。鏡、右まわしを引いた。ふたたびがっぷり右四つであります。大相撲であります。双方、数呼吸。勝機をねらっております。
双葉、左から引きつけた。右の下手投げ。鏡、左から上手投げを打ち返した。鏡、寄った。鏡、寄った。双葉、こらえた。双葉、右へ打っ棄った。決まった。双葉の打っ棄り。鏡岩、土俵下へ転落しました。

解説 ほとんど先場所同様の決まり方でしたね。先場所は鏡が東から出て西で決まりましたが、今場所は西から出て東で決まりました。それも土俵ぎわまで一尺を残しての打っ棄りでした。そういえば先々場所も決まり手は右への打っ棄りでした。同じ手が三場所続いたのは珍しいですねえ。

二十五連勝

九日目 ― 二十二日(土)

双葉山(寄り切り)清水川〈西大関〉

アナ あっ、双方、時間前に立った。※四分で立ちました。双葉、右から喉をはげしく押した。清水、左から押っつけて右に逃げました。ここで、がっぷりの右四つとなりました。右四つは双葉有利であります。双葉、寄った。清水、こらえた。双葉、なおも寄った。清水、後がない。双葉、ぐっと腰を落とした。双葉、そのまま寄り切りました。双葉山の完勝であります。

解説 双葉山の作戦が功を奏しました。相撲ぶりといい、気合といい双葉の進境著しいものがあります。

※仕切り制限時間は、昭和三年一月、幕内十分、十両七分、幕下以下五分と定められた。なお、昭和十七年一月に幕内七分、十両五分、幕下四分に、昭和二十年十一月に幕内五分、十両四分、幕下三分に短縮。昭和二十五年九月に、幕内四分、十両三分、幕下二分になり現在に至っている。

二十六連勝

十日目 ― 二十三日(日)

双葉山(寄り倒し)大邱山〈東前頭二枚目〉

アナ 立ち上がりました。大邱、もろはずに押し立てた。双葉、のこった。両者、右四つ。互いにまわしを引きつけあっております。大邱の左は一重まわし。双葉、右から二枚蹴り。大邱、まわってのこした。双葉、右から内掛け。大邱、これものこした。今度は大邱、左の上手投げ。しかし一重まわしでは効きません。双葉、右から引きつけての下手投げ。双葉、寄った。寄った。そのまま一気に寄り倒しました。

解説 大邱は必勝を期して、左から上手を取って左へ回ろうとしましたが、一重まわしのため、あべこべに双葉に引きつけられました。これでは勝ち目はありません。

二十七連勝

十一目 千秋楽 ― 二十四日(月)

双葉山(上手投げ)男女ノ川〈西横綱〉
アナ 初日から六連勝した横綱玉錦が六日目磐石戦で土俵下に落ち、上膞下端骨症で七日目から休場。そのため、この双葉山対男女ノ川の一番が今場所の締めとなりました。
さあ、両者、立ち上がりました。双葉、右を差した。男女もさっと右を差した。男女、左に双葉の差し手を押さえて、寄った。双葉、右に回った。男女、腰を割って出た。双葉、男女の首をかかえた。双葉、左からの強烈な上手投げ。男女ノ川、たまらず土俵に左手をついてしまいました。

解説 男女ノ川も右四つですが、ともかく組み止めてほっと一安心した気分がありましたね。男女ノ川が、構えて出ようとした瞬間に、強烈な投げを打たれてしまいました。男女ノ川の完敗です。

総括 新大関双葉山は連続全勝優勝を成し遂げた。先場所全勝の双葉山に対して、いかに強くなったとはいえ、まさか今場所も全勝で優勝するとは専門家筋も相撲ファンも思ってもいなかった。双葉山本人さえ、ほんとうに自分は強くなったのだろうか、といぶかっていた。というのも前年、夏場所後の第六回大日本相撲選士権大会では双葉山は玉錦に二番続けて負けているからだ。その意味でも双葉山は、玉錦との力の差がどのくらいになったのか、この本場所で見極めたかったであろう。しかし、玉錦が六日目、磐石との一戦で負傷して七日目から休場し、双葉山との顔合わせは実現しなかった。
そうは言っても、双葉山の二場所連続全勝優勝は、太刀山、栃木山に並ぶ大記録であった。


夏場所 五月七日より十三日間 東京・両国国技館

双葉山 東大関 (二十五歳三か月)

先場所の一月は双葉山人気による連日の大入り満員で、毎日、詰めかける数千人のファンを追い返すという未曾有の賑い。その対策として、この夏場所から興行日数を二日間延長して、十三日間興行に踏み切るという大相撲の歴史の中で初めての画期的な場所であった。※江戸の昔より相撲取りは「一年を十日で暮らす良い男」と囃されていたが、百五十九年後の大正十二年に一日ふやして十一日制になっていた。以後昭和十二年までの十四年間、十一日制に慣れてきた力士たちだった。当時幕内力士には綾川の四十歳をトップに三十歳代が二十人もいたため、彼らから「二日間も延長しては体がもたん」と苦情が出た。また一方では、十三日間では、さすがの双葉山もきっと負ける日があるだろう、とささやかれてもいた。しかし、いずれにしても場所前の焦点はやはり、双葉山の連勝がどこまで続くか、双葉山は再び玉錦を破ることができるか、この二点に絞られていた。

※ 安永七年(一七七八年)三月以前は八日間、その後十日間となり、大正十二年一月以後十一間となった。なお、十五日制になったのは昭和十四年五月場所以降である。

この場所も前場所同様初日の五十銭均一大衆デーには、前夜からファンが両国国技館を取り巻き開場を待つという盛況で、その数四千余人。このため五月七日の初日は午前零時半に開場となった。

二十八連勝

初日 ― 七日(金)

双葉山(突き出し)土州山〈東前頭四枚目〉

アナ 立ち上がりました。土州、突いた。双葉、突き返した。双葉、なおも突いた。突いた。双葉、土州を土俵下に突き飛ばしました。

解説 長身の土州山は突っ張りがあるだけのまともな相撲ですから、双葉にとっては組みしやすい相手ですね。突っ張りには突っ張りが常道。初日の相手としては軽かったですねえ。

二十九連勝

二日目 ―八日(土)

双葉山(腰くだけ)綾川〈西前頭三枚目〉

アナ 立ち上がりました。双方、激しく突いた。綾川、右からいなした。双葉、正面土俵に大きく泳いだ。双葉、背を向けて土俵に詰まった。双葉あぶない。双葉、あぶない。あっ、綾川の足がもつれた。綾川、そのまま腰くだけの格好で倒れてしまいました。

解説 綾川、腰がくだけて自滅しましたね。双葉が背中を見せたときに一押しすれば勝ったのに、惜しい一番です。勝ちを焦ったか、それとも年令の所為でしょうか。残念な一番でした。

三十連勝

三日目 ― 九日(日)

双葉山(下手捻り)前田山〈東前頭五枚目〉

アナ 初顔合わせの一番であります。行司が双方の息をうかがっております。
さあ時間です。前田山の声で双方立ち上がった。前田、張った。前田、猛烈な張り手。二発、三発。双葉、眼があけられない。双葉、よくこれに耐えております。双葉の顔面が朱色の染まりました。今度は双葉が突き返した。前田、左右を差しにきた。双葉、かまわずに寄った。寄った。双葉、左を差した。双葉、左から強烈な下手捻り。前田、たまらず土俵の外へ飛び出しました。

解説 向う気の強い前田山ですが、張らずに突っ張ればよかった。張ったためにかえっていけなくしましたね。しかしまあ敗れたとはいえ、前田山の相撲は双葉山との初戦にふさわしい暴れぶりでしたね。

三十一連勝

四日目 ― 十日(月)

双葉山(上手投げ)和歌島〈東前頭二枚目〉

アナ 伊之助の軍配が返った。和歌、右を差した。双葉も左上手をとっている。和歌、寄った。一気に寄った。和歌、右から下手投げ。双葉、上手投げを打ち返した。引き摺るような上手投げ。双葉山の得意の投げが決まりました。

解説 先場所、和歌島は頭突きからの突っ張りで双葉を苦しめましたが、この一番も和歌島らしい思い切りの良い取り口であわやと思わせました。しかし、相手に相撲を取らせておいて、最後は屠ってしまう双葉山には余裕があります。双葉山の「後の先」の片鱗が見えた一番でしたね。

三十二連勝

五日目 十一日(火)

双葉山(押し出し)海光山〈西前頭二枚目〉

三十三連勝

六日目 十二日(水)

双葉山(寄り倒し)九州山〈東前頭筆頭〉

アナ さあ立った。激しい突き合い。九州、右にひらいてはたいた。双葉、のこった。また激しい突き合い。九州、右を差して左を押っつけた。双葉、左上手をとって正面に寄った。九州、下手投げで防いだ。九州、左に回って正面に寄った。双葉、のこした、のこしました。九州、二枚蹴り。これも効きません。双葉、白柱へ寄った。九州、のこった。九州、内掛け。九州、左を差した。九州、もろ差し。しっかりと両まわしを引いた。九州、顎を双葉の右肩下につけた。九州、徐々に体勢を固めております。おっと双葉、右にひねった。双葉、寄った。九州、のこした。両者、土俵中央に戻りました。大観衆の拍手が沸いております。大相撲となりました。双葉、下手投げを打った。九州、のこした。双葉の右は一枚まわしです。双葉、今度は右にひねった。双葉、東土俵へ寄った。寄った。九州、後がない。九州、反り身で懸命にのこした。双葉、なおも寄った。寄った。双葉、寄り倒しました。

解説 大敵双葉山に対して、九州山は大健闘しましたねえ。最後は九州山、力尽きてしまいました。今場所に入って一番の大相撲じゃないですか。しかし双葉山と組んでしまっては策のほどこしようがありません。慎重に構えて最後の最後は勝利を収めるという双葉山の計算された一番と言ってもよいでしょう。

三十四連勝

七日目 十三日(木)

双葉山(寄り倒し)五ツ島〈西前頭筆頭〉

アナ 初顔合わせの一番であります。さあ立った。双葉、寄った。ぐんぐん寄った。五ツ島、後がない。五ツ島打っ棄りをみせた。双葉、そのまま浴びせ倒しました。

三十五連勝

八日目 十四日(金)

双葉山(寄り切り)玉の海〈東小結〉

アナ 立ちました。玉、右を差した。玉、まわしを引いた。しかし一重まわしであります。双葉、左で玉の上手をさぐっております。玉、肘を張ってこれを引かせません。玉、左押っつけ。玉、寄った。玉、双差し。玉、双差しになった。双葉、これをカンヌキにしてこらえた。玉、なおも寄った。渾身の力で寄った。双葉、後がない。双葉、土俵際でこらえた。双葉、土俵に根が生えたように動かない。双葉、寄り戻した。ここで双葉、ようやく上手まわしを取った。右の下手も取りました。玉、双葉の右を切った。双葉、玉の胸に頭をつけた。双葉、押した。押した。玉、俵に足が掛かった。双葉、ぐいと腰を落とした。双葉、両手を伸ばして玉を寄り切りました。

解説 いやあ、双方力の入った大相撲でした。玉の海の惜しい一番でした。さすがに玉の海の豪腕も効きませんでしたね。しかし、双葉山は、ひとまわり体が大きくなって体力も充実しておりますね。双葉山が見せた見事な押し相撲でした。

三十六連勝

九日目 十五日(土)

双葉山(上手投げ)磐石〈西前頭五枚目〉

アナ 立ち上がりました。双葉、猛烈なノド輪。双葉、押した。磐石、西土俵に詰まった。磐石、押し戻した。土俵中央、双方、右四つとなりました。磐石、ぐいと出た。双葉、右から掬った。双葉、左の上手投げ。あざやかに決まりました。

解説 双方喧嘩四つですから、双葉有利の右四つでは、磐石はどうしようもありませんね。

三十七連勝

十日目 十六日(日)

双葉山(寄り倒し)大邱山〈東関脇〉

アナ 本日は日曜の休日とあって、初日同様相撲ファンは双葉山をひと目見ようと前夜から長蛇の行列。午前三時には三千人にもおよび、早朝七時にはチケットは完売。双葉山をひと目見ようと国技館ははち切れんばかりの大入り満員となりました。さあ待ちに待った双葉山と大邱山の一番であります。
行司軍配が返りました。大邱、右を差した。双葉、これをかかえた。双葉、大邱の左上手を嫌って、左の巻きかえに出た。大邱、寄った。双葉、これを右下手投げで防いだ。大邱、上手投げ。決まりません。大邱、引きつけて寄った。双葉、左へ回りこんだ。双葉、寄り返した。双葉、寄った。寄った。大邱、俵に詰まった。大邱、打っ棄りをみせた。双葉、寄った。寄った。双葉、寄り倒しました。
これで双葉山は十連勝。前の取組で大関鏡山が大関清水川に敗れましたので一敗は清水川一人。今場所も双葉山が負けなしのトップに立っております。

三十八連勝

十一日目 十七日(月)

双葉山(搦み投げ)清水川〈西大関〉

アナ 東大関双葉山十戦全勝、かたや西大関清水川は九勝一敗。今場所の優勝争いを左右する東西両大関の大一番であります。
行司伊之助の軍配が返りました。双葉、右からのノド輪。清水、これを外した。双葉右四つ。十分に清水の両まわしを引いております。清水川は双葉山の右下手を取って、左を抱え込んでおります。清水、寄った。清水、左まわしを取った。清水、寄った。双葉、これを左から大きく上手投げ。清水、右の外掛けで防いだ。双葉、この外掛けをはねあげた。あっ、清水、そのままもんどりうって土俵下に落ちました。双葉山の豪快な上手投げ。見事に決まりました。

解説 右の外四つからの上手投げを得意する清水川が右を深く差したのがいけません。清水川は左を差して右から抱え込んだ方が有利に戦えたと思います。双葉山は右四つ得意とはいえ、先場所清水の得意に組まれた経験から、今場所いち早く左上手を引きつけたことは、双葉山の進歩でしょう。
(なお、この場所限りで清水川は引退した。)

三十九連勝

十二日目 十八日(火)

双葉山(下手投げ)玉錦〈東横綱〉

アナ 本日の結びの一番であります。双葉は今日まで全勝。一方、玉錦は九勝二敗。玉錦は風邪のため前夜から三十八度の高熱を発して、本来ならばこの一番は休む予定のところでありますが、ファンのためと、敢然と出場してきたのであります。角界の頂点、東正横綱を張る玉錦、思えば一年前の十一年夏場所、関脇でありました双葉山に一敗地にまみれましたが、今場所、玉錦の雪辱なりますか。興味の尽きない大一番であります。
双方、手が下りました。双葉、声をかけて立ち上がりました。おっと玉、立ちません。玉、嫌いました。さあ、二度目はどうか。庄之助の軍配が返った。立ち上がりました。玉、突いた。玉、出た。玉、右を差した。玉、出た。双葉、上手下手ともに引いた。双葉、下がりながらの下手投げ。玉、大きく傾いた。玉の左足が双葉の右足にかかった。双葉、玉の外掛けを跳ね上げた。双葉、下手投げ。双葉の強烈な下手投げ。玉錦、双葉山の下敷きに倒れました。

解説 双葉としては申し分ない一番でした。しかし、玉錦にとっては、高熱を押しての出場ということもあり、立ち合いに気負いがあり満足のいく相撲ではありませんでしたね。来場所は十分な体調での両雄の勝負を期待したいですね。

当時、朝日新聞紙上に『宮本武蔵』を連載していた吉川英治は、この一番を観戦した。場所後に双葉山の友人の中谷清一は彼を招き数人で食事をした。吉川英治も同席した。その時の吉川英治の双葉山に対する思いが『武蔵落穂集』(昭和十二年・大阪朝日新聞文芸欄)に述べられている。

大阪の中谷清一君が、何でもけふの双葉山と玉錦のすまうをみろといふ。中谷君は堂島の人であるが、双葉山をその無名時代から鞭撻し、ひいきといふよりは、双葉山にとって無二の心友なのである。
双葉山をして相撲道の宮本武蔵に大成させ、自分の晩年は灰屋紹由(京都の風流人)のやうになりたいといつてゐる人である。
場所の後で、その中谷氏の席で双葉山と落ち合ひ、僕ら四、五人食事をしてゐると、この人気男を繞って、八方から客席の電話だの、妓たちの狂態に近い歓声があつまつてくる。人気といふものは浮気ないたづら者である。双葉がもし次の場所に黒ボシの過半数を取れば、この雰圍氣は何処かへ行つてしまふのだ。
低い所から落せば欠けない物を、勝手に高所までさし上げて行つて落すのが人気の特質である。作家の場合などよりももつと痛切に相撲取などはそれを感じるにちがひない。何とかいふ殿様だの、三菱の重役連だのといふ電話も頻々とかかつてゐたが、双葉山はその間に、田舎の父親の事でも思ひだしてゐるらしく、無口に酒を舐めてゐるだけだつた。
誰かが色紙に寄せ書きをし始め、彼もそれへ穐吉定次と不器用な手つきで書いてゐたので、僕も端へ一句かう買いて、そばにゐる安岡正篤氏に示したら、おもしろいと同感してくれた。だが双葉山には同感か同うか。
江戸中で一人さみしき勝角力

また、吉川英治の『草思堂随筆・俗つれづれ草』には、「勝負師の涙」と題した一文がある。

大きな眼で視ると、人類の生存のすがたはそのまま勝負の世界といえるかもしれない。人間は朝眼をさますとたんから寝る迄、無意識にも或る勝負への働きをしている者だと云えなくもないからだ。
勝負師の勝負生活は、それのきびしい縮図である。故にまた傍観者の興味も大きい。傍観者といえ、じつは自分も勝負の輪廻に生かされている人間なので、事、人間同士の勝負とあらば、仮説的な土俵の形式でも、大方の棋番に過ぎないばあいでも、血をわかして関心を持つ、持たずに居られない本能を駆られる。(中略)以前、双葉山が全勝の常勝将軍であった頃、場所からS伯だの、ひいきの実業家たちと共に、双葉を拉して、辰巳家の本拠にひきあげ、お作ばあさんが、一切合財のさしずで、八方からかかる双葉へのお座敷電話をみな断り、天下の人気横綱を独占して、歓呼乱杯。ここへは、招かずして新橋、柳ばしの美妓が群れ集まり、わが世の五月を謳歌した一夜がある。その折、誰の発意だったか、双葉の為に寄せ書して双葉の父なる人へ送ろうと云い出し、S伯まずお得意の席画を描き、財界政界の名士がそれに合讃した―で、ぼくにも順番が廻って来て、何か一筆書けという。そこで即興の一句をぼくも書いた。句は、
江戸中で一人さびしき勝角力
というのであった。
だれもみなヘンな顔をした。「淋しい」という語への不審であろう。だがさすがにその夜の常勝横綱の双葉だけは、いささか分ってくれたらしい。ぼくの眼を見て眼で黙礼した。その眼には、今でも覚えているが、彼の良い一面の涙がういていた。(中略)見物心理でわれわれが勝負を騒ぎ囃す〝おもしろさのわけ〟もそこにある。人間は罪の子なり、と神様はいう。それも一つのいい方にちがいない。だが人間はうまれつき勝負の子なのだ。だから多かれ少なかれ、勝負師の涙をもっていない人間はない。

四十連勝

十三日 千秋楽 十九日(水)

双葉山(打っ棄り)鏡岩〈西張出大関〉

アナ 今日、東横綱・玉錦は三十九度の高熱で休場。対戦相手の清水川は、すでに松翁・庄之助より不戦勝の勝名乗りを受けております。したがいまして、これより千秋楽結びの一番は、東大関双葉山対西大関鏡岩の一戦とあいなりました。行司は式守伊之助であります。
さあ東西の両雄、立ち上がりました。鏡、右を差し左も入れました。鏡、双差し。十分の体勢であります。鏡、寄った。土俵際まで寄った。鏡、吊った。双葉も右上手から吊り上げた。双葉、そのまま右へ打っ棄った。双葉、今場所も鏡岩を打っ棄りで屠りました。

解説 鏡岩は立ち上がり十分になって安心しましたね。前三場所打っ棄られたこともあって慎重になっていましたね。それにしても双葉山は鏡岩には余裕をもっています。これで双葉山は三場所連続の全勝優勝を果たしました。大相撲の歴史に燦然と輝く偉業です。これで横綱が確実に約束されました。連続優勝で横綱になったのは過去に太刀山と栃木山がいますが、連続全勝優勝で横綱になったのは双葉山がはじめてです。まったく大したものです。

アナ 今場所を振り返ってみて、どうでしたか。

解説 双葉山は昭和十一年春場所七日目から通算四十連勝。まる二年間、無敗という充実振りを示しましたね。国技館は連日の満員、いろいろ言われた十三日間興行という試みも双葉山のお蔭で大成功のうちに終始しました。
しかし、武蔵山、男女ノ川の二横綱の休場、出場はしたものの玉錦は年齢的な衰えが見えてきました。それに大関・清水川の引退。これからは双葉山時代の到来です。双葉山に挑む者、双葉山を倒す者として、前田山を筆頭に玉の海や九州山などの新しい勢いに期待することになるでしょうね。

場所後の五月二十日、番付編成会議で双葉山は横綱に推挙され、同月二十六日、東京の細川邸で横綱の仮免許を受けた。海軍記念日の翌二十七日、水交社天覧相撲において、太刀持ち・名寄岩、露払い・羽黒山を従えて、雲竜型の土俵入りを初めて披露した。双葉山は、この晴れ姿を全紙大の写真にして、癌を患い福岡の九大付属病院に入院中の父親のもとへ送った。
二日後の二十九日、両国国技館で第七回選士権大会が開催された。玉錦は病気で棄権。双葉山は決勝戦で前田山を倒して優勝した。
六月九日、大阪市旭区関目町に完成した関目国技館で、竣工記念の「大相撲大阪場所」(十三日間)が開催された。両国国技館の一万六千人の収容に対して二万人以上の収容能力があった。この国技館に前夜の午後八時半よりファンがつめかけ、東京の本場所を上回る人気を呼んだ。玉錦、武蔵山、男女ノ川の三横綱が休場したにもかかわらず前売入場券は、双葉山の土俵入り見たさにプレミアムがついて飛ぶように売れた。
 ところがこの興行で双葉山は初日に綾川に外掛け、四日目に和歌嶋に同じく外掛けで敗れるという番狂わせが生じた。地元の新聞は号外を発行した。給金直しのない地方場所(準場所)では力士たちは気楽に相撲を取っていたのだが、双葉山の連勝が止まらなくなると、幕内力士の半分を占めていた出羽の海部屋の力士は双葉山に対しては本場所並みの真剣さで対戦していた。したがって大阪での双葉山の敗戦は却って人気に拍車をかけたのであった。

この綾川との一番を晩年綾川自身が述懐している。(相撲評論家・池田雅雄宛の手紙・昭和五十一年)

あれはもう四十年前でしょうか。大阪関目の国技館開館の初日でございます。開館場所なので、ファンにしては大喜びでございます。それはそれは朝早くから大入りの満員の盛況でございました。その初日から双葉山対綾川の結びの一番がございましたが、四十歳の綾川では、観客から見れば、何ら期待の一番ではございません。そのとき土俵の検査役は、栃木山の春日野でしたか、常の花の藤島でしたか忘れましたが、立会いの綾川は二本差しました。双差しですね。そのまま寄り身を見せましたが、いやはや、あの無敵といわれた双葉山、一寸も動きません。よって右の差し手から大きく、すくい投げを見せました。ところが、双葉山の右足は、綾川の左足に近づきましたので、それで夢中でしたですが、綾川の左足は、待ってましたとばかり、双葉山の右足に大きく外掛けを掛けました。みごとに決まって、双葉山の胴体の上に綾川はまともに乗っかりました。綾川は夢中でしたので、何が何だか、無我の境と申しましょうか。行司からの勝名乗りを受ける綾川という声も聞こえませんでした。その時です。観客は総立ちになりまして、座布団は雨アラレのように降りました。座布団はよろしいのですが、リンゴ、ミカン、驚きましたのは、タバコ盆にビールの空きビンでございます。検査役は座布団を頭からかぶって、その場から動くことができませんでした。綾川も検査役同様、座布団を頭からかぶって土俵を降り、花道を引き上げようと思いましたが、その花道は大変です。観客は綾川が引き上げる花道をふさいでいます。若い者が四、五人来て、ようやく花道を開けてくれたので仕度部屋へようやく引き揚げました。だが観客は仕度部屋にドッと押しかけ、綾川バンザイと高々と叫ぶ人もいました。そうかと思うと綾川の体にかじりつく人もいました。こうした騒ぎの大変の中に、サインを頼む人が四、五十人もいましたが、場所中に必ず書いて差し上げるからと約束して帰ってもらい、ようやく自分の体になりました。しかし、帰らぬ人の中には、お祝いに料理屋に行こうと、誘い出しにかかる観客も、四、五人いました。ようやく静かになったので、明治大学の相撲部員二人と共に、屋台店に行って祝杯をあげましたが、三人は肩を組んで、嬉し泣きに泣きました(綾川は当時、明大相撲部のコーチをしていた)。次の日(二日目)、場所に行きましたところ、これもまた祝電が五十通余、綾川の明け荷の上にありました。知人のファンからは約二十通くらいあり、あとの三十通は知らないファンの方で、どうも思い出せない人々からでしたが、本当にありがたいことと両手をあわせました。大阪朝日、大阪毎日新聞は大変でございます。三面(社会面)には写真も大きく出まして、ファンからもこの新聞をたくさん送ってきました。五月東京へ帰ってからも大変でした。出羽の海部屋のファンからも、また後輩の若手力士―信夫山(秀之助)、笠置山、安芸ノ海、綾昇、綾若もおりましたが、土俵はただ双葉山打倒、その声だけが高かったのです。ファンからもただただ本場所で双葉山を破れ、その一言だけでした。一門の力士一同の顔色は変わっていました。

この敗因について双葉山はわからないと語っているが、前夜贔屓の歓待で一睡もしていなかったという。この便りをもらった池田雅雄は、結果論ではあるが、二年後に双葉山の七十連勝を阻んだ安芸ノ海の外掛けを、出羽一門の秘剣になったと書いている。
この場所、双葉山は四日目にも和歌嶋の外掛けに敗れて十一勝二敗に終ったが、和歌嶋に破れた時には地元の新聞社は再び号外を出すほどの騒ぎであった。
なお、大阪場所の優勝は十二勝一敗の出羽の海部屋の綾昇だった。

大阪場所を打ち上げたあと、六月二十五日から、名古屋市東区新町の仮設国技館(トタン屋根)で十一日間の興行を打った。ここも大阪に負けず徹夜のファンが押しかけ、連日の大入り満員。双葉山は千秋楽に男女ノ川を倒して十一戦全勝した。
七月五日の千秋楽を打ち上げた双葉山一行は、玉錦一行と西下し、朝鮮、満州(今の東北)方面へ向った。双葉山自身は一行より一日早く出発し、博多の九大病院に癌で入院している父親を見舞った後、門司で同船した。
大連、奉天、新京、平城と回り、無事に巡業を終えて、八月十三日、再び九大病院に駆けつけた。父親の末期の体はむくんでいた。それと知らぬ父親は双葉山に手足を見せ、「ホレ、こんなに肉がついてきた」と喜んでいたそうだ。
八月二十日夜、山口、福井の興行を終え山代温泉に泊まっていた双葉山は父親の訃報を受けた。双葉山一行は一週間の休みをとり、玉錦一行は単独興行に出た。翌二十一日、郷里の中津市布津部で父親の遺体を荼毘に付した。
双葉山は、この父親の作った莫大な借金を返済するために相撲の世界に身を投じ、それを成し得ていた。当初の目的を達成し、今後は父親孝行をするために相撲に精進しようと決心していただけに、双葉山のショックは大きかった。 
双葉山は十日の喪中の間、先の京城巡業で同郷の朝鮮総督・南次郎大将が父親への見舞いとして贈った漢詩をながめて過した。

名を成し父母を顕はせし双葉山は孝子なり
孝子を育てし父母は仁者なり

七月七日、盧溝橋事件が勃発、日中戦争が起こった。日本は非常時の臨時体制に入り、十月二十五日より二回目の興行の大阪国技館は黒幕で閉ざされるという戦時色の中で蓋を開けた。この場所、四横綱二大関が顔を揃えた。双葉山は十三戦全勝で優勝したが、千秋楽の玉錦との対戦は水入りとなり、試合再開後さらに水が入って、十分後取り直しという大一番となった。これが本場所であれば後世に残る名勝負だと、検査役の錦島(元大蛇潟山)は高く評価した。
なお前回双葉山を外掛けで破った綾川との対戦は、双葉山の吊りを綾川が外掛けで防いだが、双葉山がそのまま寄り倒した。しかし双葉山に踏み越しありと松翁木村庄之助の軍配は綾川に上がった。物言いとなり取り直しの結果、双葉山が両手で上手廻しを引いて強引に寄り切って勝ち、綾川の二連勝は成らなかった。

大阪場所を打ち上げた双葉山・清水川一行は九州巡業へ向った。双葉山は、巡業後の十一月、熊本市の吉田司家において横綱本免許状を受けた。同地での披露宴には郷里の関係者、熊本県知事、熊本師団長など多数が参列した。
当時、読売新聞記者の小島六郎は「人間双葉山」と題して『野球界 増大號』に次の記事を載せた。

(前略)双葉山は土俵に立つと決して笑ったことがない。花道を通ってくる時でも控えの溜りにじっと腕を組んで待っている時でも、いったん入場したら最後いかなる場合でも笑顔をみせたことはない。いまだ年僅か二十六歳。土俵の経験からしたら玉錦、清水川、鏡岩、さては土州山、綾川、新海、幡瀬川等々よりずっと後輩である。まず普通の人間であったなら、あれだけの人気を得て、あれだけ騒がれたなら、いかに緊張していようとも、意識的に余裕をみせようとする気分的弱点を多分に持つものである。(中略)もっとも単に笑わないといったところで、土俵外の双葉山は実によく笑うのである。あの小さな目をさらに細くして、いかにも心から笑うような笑顔を絶えずみせるのである。土俵生活と私生活との区別を、意識してやっているとしたら、彼は余程修練を身につけているものであり、また無意識の間にそれをやっているのであったなら、彼は先天的に恵まれた性格を受けている。
双葉山は土俵に出ると、出た時一度水をつけるきり、あとは一度も水をつけたことがない。これは武士がいったん戦場に立った以上水盃は一度であるという精神からだという人がある。だが相撲には仕切直しというものが許されている。武士はいったん戦場に立って刀と刀を合わせたならば、呼吸が合わないからまた出直しして勝負しようなどということは許されない。したがってもし双葉山が水盃は一度という精神なら、いささかこの理屈はこじつけなものになってしまう。
私は双葉山の水つけ一度をそんな風に解釈したくない。それは彼が土俵に立って少しも笑わないと同じように、彼の肚だと解釈したい。水を何度もつけたり、鼻をかんだり、体の汗をふいたりすることが別に面倒くさいわけではないが、平素からそれは一度でこと足る修練を体得しての結果だと思うのである。意識、無意識を問わず、肚がなくてはできることではない。
彼が土俵上で焦らず騒がず落ちつき払って大敵を突破するのも、この肚から出発したものである。土俵度胸というものは肚がなくてできるものでない。(中略)この意味で、私は人間双葉山は実にしっかりした肚のある、二十六歳の若さにしては、珍しいくらい完成度のある力士だと思うのである。

当時の幕内の仕切り制限時間は十分で、現在の四分にくらべて二倍半。平均して七分前後に立っていた。したがって仕切り直しの回数も多く現在よりはるかにゆっくりしていた。また水をつけることも、化粧紙で鼻をかんだり、顔や脇の下の汗を拭く回数が多く見られた。その中にあって双葉山の水一回は際立って目立ったのである。後にその訳を双葉山自身は「ワシは目が悪かったのでなるべく余計な動作をしたくなかっただけだ」と言っていた。

昭和十二年十二月、四年続いた関西相撲協会が解散した。この時、天竜は、まだ十分相撲が取れる十七人の力士を連れて、出羽ノ海親方(元・常ノ花)に詫びを入れた。この十七人の帰参は叶ったが、番付は脱退時の一段各下、幕内は十両、十両は幕下、それ以下は新弟子扱いにして編入された。天竜の盟友・大ノ里は翌十三年一月二十二日、大連で入院中に死亡した。享年四十五歳。

3 昭和十三年(一九三八年)

日中戦争が始まり戦時下の大相撲は、南京陥落と双葉山の連戦連勝の快進撃とが重なり、国技館は連日の大入り満員が続いた。館内には「挙国一致」「堅忍持久」「国民精神総動員」と書かれた垂れ幕が掲げられ戦時色が濃厚になった。
双葉山が晴れて三十五代の横綱になった。この春場所は、東に玉錦、男女ノ川。西に双葉山、武蔵山と四横綱が揃った。これは大正七年以来二十年ぶりのこと。しかもこの春場所の二タ月前に行われた大阪場所で双葉山は玉錦と水入りの大相撲の末、勝利しての全勝優勝を飾っていた。東都のファンは、玉錦に代わって大相撲の顔となった新横綱双葉山の土俵入りを今か今かと待ち望んでいた。
なお、この場所、(翌十四年春場所で双葉山の七十連勝を阻んだ)安芸の海が入幕した。

春場所 一月十三日より十三日間 東京・両国国技館

双葉山 西横綱 二十五歳十一ヶ月 一七九センチ・百二十八キロ

四十一連勝

初日 ―十三日(木)

双葉山(寄り切り)大潮(東前頭三枚目)

双葉山にとっては新横綱の初日だったが、相手が老雄・大潮でもあり、相撲はまともなので難なく寄り切った。

四十二連勝

二日目 ― 十四日(金)

双葉山(上手投げ)九州山〈西小結〉

アナ 双葉は前場所、九州山に苦しめられているせいか、こころなしか仕切りも慎重であります。双葉、声をかけて立とうとしましたが、九州立てません。依然と仕切り直しが続いております。
双方さあ立った。九州、右からの強烈な突っ張り。機を見て双葉の懐に入ろうとしております。双葉、これを突き放しました。双葉、九州を寄せつけません。双葉、なおも突っ張った。しかし双葉、足が出ません。双葉、慎重であります。九州、突っ張返した。九州、渡し込み。双葉、のこった。双葉も九州も互いに組ませません。双方、手四つになりました。じっと機をうかがっております。九州、飛び込みました。右を差した。双葉の右まわしを引いた。双葉、これを小手に捲き、九州の腕をきめて寄った。九州、腰を引き回りながら食い下がった。双葉、左上手をさぐっております。九州なかなか引かせません。双葉もまた九州の左を殺しております。双方、壮絶な揉み合い、揉み合い。あっ、先に双葉が左上手を引いた。双葉、右で筈に押し上げた。双葉、寄った、寄った。九州、こらえた。こらえた。双葉、今度は右で九州の首を抱えた。双葉、豪快な上手投げ。決まりました。双葉、九州山を腰に乗せて見事に上手投げで決めました。

解説 双葉山の余裕のある落ち着いた取り口でした。上手を取ったら九州山も如何ともしがたいですねえ。

四十三連勝

三日目 ― 十五日(土)

双葉山(押し倒し)出羽湊〈東前頭二枚目〉

四十四連勝

四日目 ― 十六日(日)

双葉山(寄り切り)磐石〈東前頭筆頭〉

四十五連勝

五日目 ― 十七日(月)

双葉山(寄り切り)玉の海〈東張出関脇〉

アナ 立ちました。双方押し合った。玉、右差し左筈。双葉、左上手、右を押っつけています。双葉、寄りました。玉、懸命にこらえました。玉、寄り戻しました。双葉、上手を引きつけ、ぐいぐい正面に寄りました。玉、右からの下手投げで防戦。かまわず双葉、左上手をぐいと伸ばした。双葉、玉の海を寄り切りました。

解説 双葉の本格的な寄り身。寄り切りのお手本です。

四十六連勝

六日目 ― 十八日(火)

双葉山(下手投げ)綾昇〈西前頭筆頭〉

アナ 本日の結びの一番。立て行事・木村庄之助の軍配が返りました。おっと、綾、右にひらいていなした。双葉、泳いだ。しかし双葉、すぐに綾を右四つに組み止めました。綾昇は右下手、双葉山は鉄壁の左上手であります。綾、左で双葉の前まわしを引いた。綾、双差し。綾、寄った。猛然と寄った。双葉、回り込んだ。双葉、右を差そうとして体が立った。すかさず綾、寄った。双葉、危ない。双葉、こらえた。双葉、こらえた。こらえながら右の下手をとった。双葉、下手投げ。決まりました。

解説 綾昇の作戦は肯けますが、やはり双葉に上手を許しては容易に勝機はつかめません。しかし綾昇はよく健闘しました。

四十七連勝

七日目 十九日(水)

双葉山(下手投げ)前田山〈東小結〉

アナ 前場所十一勝二敗の好成績で小結に昇進した前田山、今場所も五勝一敗と好調を維持しております。無論、双葉も絶好調であります。行司は木村玉之助。
軍配が返りました。前田山、双葉の左を筈押し。双葉、すぐに前田の左上手を取りました。双葉、上手を引きつけ正面に寄った。前田山、右下手を引いた。前田、腰を下ろして寄り戻した。上手も引いた。左から外掛け。前田、下手を抜いて浴びせた。双葉の体が反った。双葉、反りながら双差し。双葉、左を引きつけての下手投げ。見事に決まりました。

解説 前田山の外掛けが双葉の上手の方だったので、さして効果はありませんでした。作戦はよかったが、双葉に早く右を引きつけられてはいけません。

四十八連勝

八日目 二十日(木)

双葉山(寄り倒し)大邱山〈東関脇〉

アナ 立ちました。大邱、頭からぶちかました。双葉、これをはっしと受け止めました。双葉、すぐに右を入れた。左上手も引きました。双葉、万全の体勢。双葉、吊りました。たまらず大邱、左で双葉の首を捲いた。大邱、のこした。双葉、右からの下手投げ。双葉、西土俵に寄った。大邱、こらえた。大邱、うっちゃりに出た。双葉、かまわず寄った。寄った。双葉、そのまま寄り倒しました。

四十九連勝

九日目 二十一日(金)

双葉山(吊り出し)両國〈西関脇〉

アナ 立ち上がりました。双葉、右を引っ張りこんで右四つ。両國、すぐに左を捲きかえ双差し。兩國、しっかりと腰を落した。両國、左を深く取った。右から櫓に振った。両國のペースであります。今度は双葉、両上手からの強引な櫓。双葉、もう一度櫓に振った。双葉寄った。寄った。両國、後がない。両國、倒れながら左へ打っ棄った。双方重なって倒れました。
伊之助の軍配は双葉山に上がっております。あっ、土俵下に控えております玉錦が手を上げております。※物言いです。並んで控えている勝ち残りの男女ノ川からも物言いがつきました。行司・伊之助が土俵下に降りました。五人の検査役が玉錦のもとに集まっております。玉錦、口をとがらせてさかんに何か言っております。玉錦、検査役の説明に首を振っております。館内は蜂の巣を突いたように騒然となっております。双葉は白柱の下で、まったく無表情であります。自分のこととは無関係といった態度で静かに立っております。この物言い、どのように見ましたか?

解説 まあ相撲はあきらかに双葉のものですねえ。しかし、勝敗となると、両國が倒れるのと双葉の足が出るのと、どちらが早いかということになりますが、確かにこれは微妙です。両國の体が生きていたか死んでいたかという点もむずかしいところですねえ。

アナ ようやく検査役の協議が終ったようです。協議の結果を玉錦、男女ノ川両横綱に報告しております。結果は双葉山に歩があったようです。玉錦、これを受け入れないもようであります。顔を真っ赤にして興奮しております。館内もますます騒然としてきました。まさに日本一の大物言いとなりました。
…やがて物言いは二十五分になろうとしております。ここで玉錦ようやく納得したようであります。伊之助が土俵に上がりました。
取り直しであります。観衆は大喜びであります。もう一番、双葉山を見られるとあって満員の観衆は割れんばかりの拍手喝采を送っております。
さあ、両者立ち上がりました。双葉、右を呼び込んでの右四つ。兩国、上手が引けません。双葉、強烈な下手投げ。両国、のこりました。双葉、吊った。吊った。吊り上げた。高々と吊り出しました。

解説 いやあ、大変な一番でしたねえ。双葉山の連勝も四十八で消えるかと思わせた一番でした。私も取り直しが妥当なところだったと思いますが、玉錦、男女ノ川両横綱の頑強な物言いに、この三人の置かれた立場というものもうかがわれて興味深い一番でした。

【註】物言い
取組後の行司軍配に異議のある場合、勝負審判は即座に手を挙げることによって意思表示をする。その後五人の勝負審判が土俵上で協議を行う。(現在ではビデオ室と連絡を取り、ビデオ映像も参考にする)協議が合意に達すると、行司の下した判定の如何を問わず、改めて勝負の結果が発表される。
多くの場合は、体が落ちる、あるいは土俵を割る瞬間が同時(同体)として、勝敗の決定をせず、取り直しとなるか、そのまま行司軍配通りの結果となるが、稀に行司の軍配と逆の結果となる場合もあり、このケースは行司差し違えという。なお、行司は必ずどちらかに軍配を上げねばならず、同体という判定は行司にとっては存在しない。また行司は反則負けの判定をしてはならないため、たとえば髷をつかんでいるところが見えていたような場合でも物言いがつかなければ軍配どおりになる。
また、土俵下の控え力士も物言いをつけることができるが、協議に参加することは出来ない。審判委員は控え力士から物言いが出た場合には必ず協議を行わなければならない。なお、行司は取組の状況を述べる以外は協議に参加できない。
この双葉山対両國の一戦。双葉山の六十九連勝が四十八で止まっていたかもしれない歴史的物言いと語り継がれる。現存する映像や写真で見ると双葉山の右足は大きく踏み越してはいるが、両國の体は完全に死に体である。

五十連勝

十日目 二十二日(土)

双葉山(押し出し)鏡岩〈西大関〉

アナ 立ちました。鏡、右が入った。鏡、左も差した。鏡、双差しであります。双葉も右で上手を引いた。左で鏡岩の左を抱えています。鏡、有利。鏡、左から下手捻り。鏡、寄った。鏡、寄った。双葉、土俵に詰まった。双葉、右上手から捻った。今度は鏡が土俵に詰まった。鏡、棒立ち。双葉、右を放し、左で鏡の胸を押した。思わず鏡、土俵を飛び出しました。

解説 鏡岩は十分になったにもかかわらず、その十分を発揮できませんでした。双葉山は充実しておりますねえ。

五十一連勝

十一日目 二十三日(日)

双葉山(上手投げ)男女ノ川〈東横綱大関〉

アナ 立ち上がりました。双葉、右の筈押し。男女ノ川、これを外した。双葉、上突っ張り。男女ノ川も突き返した。双葉、男女ノ川の右をとったりにいった。男女ノ川、これについていった。男女ノ川、左にまわって左四つに組み止めました。男女ノ川、双葉の右を抱えて寄った。双葉、左へ回り込んだ。双葉、右を捲きかえた。男女ノ川も捲きかえた。双方、右四つとなりました。両者、両まわしを引いて土俵中央であります。男女ノ川腰を割ってじりっじりっと寄った。双葉、上手投げを打った。男女ノ川、のこった。男女ノ川、また出ました。双葉、上手投げ。男女ノ川、たまらずに左手を土俵につきました。

解説 男女ノ川は、四つに組んだときの引きつけが足りません。これが敗因といえば敗因ですね。

五十二連勝

十二日目 二十四日(月)

双葉山(寄り切り)笠置山〈西前頭四枚目〉

五十三連勝

十三日目 千秋楽 二十五日(火)

双葉山(上手投げ)玉錦〈東横綱〉

アナ 今場所期待の一番でありますが、玉錦は三十八度の高熱を押しての出場であります。角界随一の稽古好きの玉錦ではありますが、ここへ来てなにかと故障が続いております。両者、両手を下ろしました。双葉、時間前につっかけた。玉、立てない。両者ふたたび手を下ろしました。あっ、また双葉つっかけた。玉、立てません。玉、高熱のためか息苦しそうであります。さあ、十分間の制限時間がいっぱいとなりました。
庄之助の軍配が返りました。双方、正面から当った。また当った。玉、右を差した。玉、寄った。寄った。双葉、寄り返した。玉、ふたたび寄った。双葉、玉の右を筈に左上手を引きつけた。双葉、筈押し。玉、寄り返した。玉、左上手をうかがっている。双葉、上手を引きつけた。双葉、上手投げ。鮮やかに決まりました。双葉、ついに四場所連続全勝優勝を達成しました。

解説 双葉の、理にかなった相撲でした。右差し、ぐいと引きつけての強烈な上手投げが鋭く決まりました。まさに伝家の宝刀、投げたというよりも切ったといった上手投げですねえ。これで双葉山は玉錦に三連勝ですか。この一番で大相撲の看板がはっきりと入れ替わりましたね。
双葉山はこれで五十三連勝。これまでは太刀山や栃木山の場合、何場所土つかずといった言い方をしていて、何連勝というような言い方はなかったですよ。さて双葉山はこれからどの位勝ち星を連ねてゆくのでしょう。楽しみです。

総括
常陸山は泉川、太刀山は突っ張り、栃木山ははず押しという得意技で敵を倒したが、双葉山は、相手の出方による多彩な技で敵を屠ってきた。ここ五場所の決まり手をみると、上手投げと寄り切りが最も多く夫々十三回、寄り倒しが七回である。打っ棄りは三回で、「打っ棄り双葉」の異名は返上された。当時、出羽一門の合言葉は「双葉に左上手をとらせるな」であった。

場所後の二十七日、双葉山は横綱披露宴を取り止め、その費用をすべて陸海両省へ献金した。
四月一日より第三回大阪大場所(十三日間)が開催され、双葉山が全勝優勝した。

夏場所 五月十一日より十三日間 東京・両国国技館

双葉山 東横綱 二十六歳三ヶ月

ついに双葉山は先輩・玉錦を抜いて東の正横綱という最高位を占めた。名実共に角界の第一人者となった。前年からはじまった日中戦争が日本を軍国色一色に塗りつぶし、双葉山の相撲振りは「皇軍無敵の進撃」と並び称されて文字どおり国民的英雄となった。
四横綱時代の二場所目を迎え、三場所休場していた武蔵山が出場した。前田山が小結一ト場所で大関に抜擢された(昭和十二年夏場所東前頭五枚目で九勝二敗、昭和十三年春場所東小結で十一勝二敗)。また双葉山の弟弟子の名寄岩が関脇に、羽黒山が小結に昇進した。

五十四連勝

初日 ―十一日(水)

双葉山(押し切り)海光山〈西前頭四枚目〉

五十五連勝

二日目 十二日(木)

双葉山(寄り切り)玉の海〈西前頭筆頭〉

アナ 立ち上がった。玉、左で前まわしを引いた。玉、右四つ、いい形になった。双葉も左上手引いた。双葉寄った。寄った。玉、双葉の差し手を巻いて残った。玉、寄り返した。玉、左からの蹴返し。双葉、ぐらついた。双葉、こらえた。双葉、左上手を引きつけた。双葉、寄った。玉、右へまわって逃げた。双葉、なおも寄った。寄った、寄った。双葉、ぐいと腰をおろして右で玉のまわしを押した。双葉、寄り切りました。

解説 玉の海は健闘しましたが、双葉山は冷静でしたね。

五十六連勝

三日目 十三日(金)

双葉山(寄り倒し)両國〈西前頭二枚目〉

双葉、すぐに左上手をとって、右から割り出し気味に寄り倒した。

五十七連勝

四日目 十四日(土)

双葉山(すくい投げ)五ツ島〈東前頭二枚目〉

アナ さあ立った。五ツ島、右差し。左で双葉の右を嫌いながら寄った。双葉、上手を取った。双葉、右をのぞかせて下から起した。双葉、西土俵に寄った。寄った。五ツ島こらえた。双葉、右からの強烈なすくい投げ。決まりました。

解説 双葉の呼び戻し気味のすくい投げは強烈でした。この技は余程力に差のある場合でないとできません。実力派の五ツ島に決めたあたり、すごいというほかありませんね。

五十八連勝

五日目 十五日(日)

双葉山(寄り切り)磐石〈東関脇〉

アナ 立ちました。双葉、上突っ張り。双葉、右はずに押した。磐石、これをこらえながら右を差した。双葉、寄った。双葉、すかさず上手を取りました。磐石、土俵に詰まった。磐石、左から小手に振って回り込んだ。双葉、右腕をかえして出た。磐石、左の外掛け。双葉、体を寄せた。双葉、寄り切りました。

解説 磐石は左をねらいましたが、双葉の右の押ッつけで差せませんでした。これでは十分に力が出せません。

五十九連勝

六日目 十六日(月)

双葉山(寄り切り)大邱山〈東前頭筆頭〉

アナ さあ立った。大邱、思い切って当っていった。大邱、右を差した。左上手も取った。大邱、頭をつけた。大邱、上手投げ。双葉、体をあずけてのこした。大邱、ふたたび上手投げ。双葉、のこした。のこしました。今度は双葉が寄った。寄った。なおも寄った。大邱山、土俵を割りました。

六十連勝

七日目 十七日(火)

双葉山(上手投げ)綾昇〈西小結〉

アナ 双方立ち上りました。右四つ。あっ、双葉の上手投げ。一瞬にして決まりました。

解説 右から綾昇の体を呼び込んでおいて、さっと体を開いての上手投げでした。まるで絵に描いたように見事に決まりましたね。これで連勝記録が六十に到達しました。これからどの位勝ち続けるのかはかりしれません。百連勝も夢ではありませんねえ。

六十一連勝

八日目 十八日(水)

双葉山(上手投げ)和歌島〈東前頭四枚目〉

さあ立った。双葉、右四つに受けた。双葉、割り出し気味に寄った。双葉、右で和歌島の首を押さえつけた。上手投げ。決まりました。

六十二連勝

九日目 十九日(木)

双葉山(吊り出し)前田山〈東大関〉

アナ 行司軍配が返りました。前田、右差し。左も差した。前田、双差し。双葉は両上手を引いております。前田、寄った。寄った。双葉左へ回って寄り返した。双葉、右を巻き替えなした。両まわしをがっちり取った。双葉、腰を落として正面へ寄った。前田、後退。双葉、吊った。吊った。吊り出しました。

六十三連勝

十日目 二十日(金)

双葉山(割り出し)鏡岩〈西大関〉

アナ 立ちあがるや鏡、双差し。鏡、猛然と寄った。寄った。双葉、右から上手投げでかわした。鏡、頭を下げてなおも寄った。双葉、右上手を引きつけ、回り込んだ。ここで鏡岩の頭が上がりました。双葉、左から強烈な筈押し。双葉、押した。押した。押し出しました。

解説 鏡岩も十分になって二度よいところがありましたが、双葉山の腰が重く、寄り切れませんでした。

六十四連勝

十一日目 二十一日(土)

双葉山(押し出し)武蔵山〈西張出横綱〉

アナ 両者五場所ぶりの対決であります。さあ立ちあがりました。双葉、もろ筈。双葉、押した。押した。武蔵、右で双葉の首をまいた。かまわず双葉、押した、押した。押し出しました。

解説 武蔵山は上ずった立会いをして、双葉山に一気に押し立てられましたね。武蔵山に相撲を取らせませんでした。双葉山は、真っ直ぐに出て、武蔵山に受ける暇を与えませんでした。双葉山の完勝です。

六十五連勝

十二日目 二十二日(日)

双葉山(突き出し)男女ノ川〈東張出横綱〉

アナ 立ち上がりました。双葉、激しい上突っ張り。男女ノ川も突っ張りで応戦。双葉、なおも突っ張り。男女ノ川、後退。土俵に詰まった。双葉、両手で突き出しました。

解説 男女ノ川の突っ張りはまったく威力がありませんね。今日も双葉山
の相撲でした。

六十六連勝

十三日目 千秋楽 二十三日(月)
双葉山(寄り倒し)玉錦〈西横綱〉

アナ 玉錦は十日目男女ノ川、十二日目武蔵山に負けたとはいえ、やはり双葉山の相手は玉錦しかいません。今場所、最後の大一番であります。
松翁・木村庄之助の軍配が返りました。双葉、すぐに左上手を取った。右も入れた。玉、下手は取ったが、上手が取れない。双葉、ぐいと上手を引きつけた。双葉、呼び戻し。玉、右から外掛け。双葉、弓なりになった。双葉、玉の外掛けを外した。双葉、また呼び戻し。玉、土俵際に詰まった。玉、のこった。のこしました。双方、土俵中央に戻りました。玉錦は右下手、双葉は左上手を引き、双葉は右は腕をかえしています。玉、さかんに上手をさぐっている。双葉、肘と腰を巧みにつかってとらせません。両者、構えたまま動きません。動きが止まっております。
…行司・庄之助、両者に水入りを告げました。

松翁、両者の手の位置と足の位置を決めました。双葉、玉の右下手を引いています。庄之助、すかさずこれを外させました。さあ試合再会であります。
庄之助、双方のまわしをポンと叩きました。
玉、一気に寄った。双葉、右に回りこんだ。双葉、寄り返した。双葉、猛然と寄った。双葉、寄った。玉、懸命にのこした。玉、打棄りをみせた。双葉、腰を割って上手まわしをはなした。玉の胸をぐいと押した。双葉、玉錦を寄り倒しました。

解説 玉錦の大健闘は、さすがに千秋楽を飾るにふさわしい戦いでした。それにしても、双葉山は六十六連勝、五場所連続全勝という空前の記録を打ち立てましたね。この前人未到の大記録は、谷風梶之助の六十二連勝を破ったことになります。しかし、江戸時代の相撲は日数も少ないし、引き分けや預り、休みなどをはさんでいるので記録での比較はできません。明治時代には初代梅ケ谷の五十九連勝、太刀山の五十六連勝がありますが、いずれも引分け、預りのあるノンビリした時代でしたから、連勝の条件は双葉山時代のほうが遥かに厳しいと言えます。
今場所の双葉山は、体重も百三十キロにふえました。男女ノ川や玉錦といった重量級の力士にも身体負けしないようになりました。双葉山の連勝がどこまで伸びてゆくのか、来場所も大いに期待できますね。

双葉山の回顧(昭和十三年『相撲』七月号)

おかげさまで、身体も引き続き好調で今場所をつとめることができました。土俵に上がった感?そうですね。まだ全然固くならんというわけではありませんでしたが、今場所あたりは気持は割合に楽なように感じました。と言っても、一番一番慎重に念を入れたことは申すまでもありません。どの一番だって注意深くやらぬ相撲はありません。しかし立ってしまえばもう夢中です。全力を挙げて行きつくところまで行こうとするだけです。十三日間の相撲を顧みると、千秋楽の玉錦との一番が、私としては最も豪(えら)い相撲だったかと思います。
今度も全勝できたのは全く仕合せでした。全勝はそりゃもう嬉しいですよ、精魂こめた結晶ですから、正直何度全勝してもその嬉しさに変りはありません。来場所も大いにやります。

鏡岩の回顧(昭和十三年『相撲』七月号)

双葉関との勝負は、僕の作戦が狂った、僕が一気に押してゆくつもりでしたが、立ち上がるや、パッと懐をあけられたので、双差しに飛び込んでしまったのです。根が四つ相撲ですから押そうと目論んでも相手に一寸形を変えられると、懐に飛び込んでしまうのです。それにしても、双葉山関の強さはどうでしょう。場所ごとに完全になってゆくとは、あの人のことです。僕達力士になって二十年、これほど強い力士を見たことがありません。横綱になってもまだどんどん技量が進歩しているところが豪いです。今場所など、相手が出て来れば出て来たところで仕事をする、相手が出なければ自分が出る、悠々として変化に応じている。去年の一月や、五月から較べてみたら、実に格段の進歩を遂げているじやありませんか。ああなるとあんまり見事で負かすのが惜しくなる。といって負かさずにもおかれませんし、来場所あたり、僕も大いに打倒双葉山の大旆をかざして、一ト器量あげたいものです。

上司小剣(当時の角通第一人者)の双葉山攻略法(『相撲 夏場所特輯』「夏場所を観て」)

双葉山は強いにちがいない。しかしいささか勝ち過ぎているように考えられる。「勝つ」ということと「強い」ということを、同一のものとすればそれまでだし、また双葉山の研究心と気魄と、その摂生とが「勝つ」原因をなし、従って「強い」ということにもなるのだがやはり人間である以上、どこか欠点がないとは言えぬ。ここにいう欠点とは、専ら土俵の上のそれで、人物としてではないことはもちろんである。(中略)双葉山の欠点を最もよく知っていたのは昨年引退した綾川だそうで、どっちへ弱いということをよく心得ていたと聞いたが、すでに力士としての晩暮に属し、十分研究の結果を応用できなかった。しかし、去年の五月場所の二日目だったか、突き合った綾川がトッタリのように引っ張ってイナしたときは、双葉は大いに危なくハッと思わせたが、年のせいか綾川は滑ったために、もろくも突き倒されたように見えた。それでも大阪場所では一度勝ったし、一度は取りなおしまでこぎつけた。

舟橋聖一(作家)の観察(『相撲 夏場所特輯』「夏場所を観て」)

やはり、何といっても目ざましい勝ちっぷりは、双葉山であった。春場所よりも更に一段、堅実味をましていた。ある力士の話に、双葉山に手をつかまれると、指と指の間が、裂けていくのではないかと思われる程、痛くって、手首の方まで、しびれるようだということだったが、なるほど、そのくらい強くなくては、ああは勝ち放せるものであるまい。
しかし、つい最近まで松前山に竪(たて)褌(まわし)をとられて吊り気味に寄り切られたり、新海にうまく立たれて吊り気味に寄り切られたり、綾錦にもろくも土俵の中央で内掛けに倒されたりしていた双葉山を見ているものの目には、短日日の人間が、こうまで強く鍛えられるとは、なかなか信じられぬほどである。けれども、彼は今や、ほんとうに強い。力と業、それにあの冷静な頭脳が、物を言っている。四つ相撲の敵手(あいて)の肩越しに、土俵の寸法を覗いて見ることの出来る程、彼は冷静な頭脳と目を持っている。これと反対なのは、同じ横綱の男女ノ川である。男女ノ川が、ある記者に、人間がほんとうの力を出すときは、半狂人になるのだと語ったという話が、新聞に出ていたが、双葉山と男女ノ川の距離は、そこにある。

夏場所後の状況

双葉山の五場所連続優勝、六十六連勝の大記録樹立を祝して、五月三十一日、東京丸の内の東京会館で祝賀会が開催された。永井逓信大臣をはじめ出席者六百名。

六月四日、両国国技館での「第八回大日本相撲選士権大会」では前年に引き続き双葉山が優勝した。

六月十日から名古屋表大相撲が行なわれた。十三日間本場所並みの大併合興行であった。玉錦と武蔵山は休業したが、一万五千人収容の仮設国技館は連日の大入り満員。初日には白衣の傷痍軍人が四千人詰めかけた。ここでも双葉山が全勝優勝した

六月二十四日から阪急沿線の西宮球場の特設相撲場で関西西宮巡業大相撲が十三日間の日程で行なわれた。この興行には玉錦一行は東北、北海道、樺太への巡業のため参加せず、双葉山、男女ノ川、武蔵山、鏡岩の合併相撲であった。ところが十一日目(七月四日)、台風の豪雨による大災害のため、十日目で打ち切られた。(この大災害はいわゆる「阪神大水害」と言われ、谷崎潤一郎の「細雪」にその様子が描写されている。)
この場所双葉山は、三日目、九州山の渡し込みの奇襲に敗れるという波乱があった。また武蔵山は巴潟との一戦で右大腿部脱臼、五日目以後休場した。
特筆すべきことは最後の十日目は日曜日であったため、三万五千人という相撲の歴史始まって以来の入場者数だった。

七月十日、双葉山一行、男女ノ川一行、武蔵山一行、鏡岩一行合併による「朝鮮、満州巡業と慰問相撲」が実施された。釜山を振り出しに大邱、京城、平城、旅順、大連、奉天、新京と回った後、一行は分離して皇軍慰問相撲を行なった。その後、双葉山一行はライハル、チチハル、公主嶺、山海関、大同、張家口、北京、天津で慰問相撲を行なった。

九月十五日より十三日間、大阪関目の大阪国技館で第四回大阪大場所大相撲が開催された。双葉山は長途の皇軍慰問・朝鮮満州巡業で健康を害し、医師の勧告で休場した。実は双葉山は巡業中から発熱・下血を繰り返していたが、この場所前に再発、発熱と下痢症状を起こし急遽大阪の高安病院に入院した。病名は※アミーバ赤痢。口も利けないほどの重症であった。

※アミーバ赤痢 感染源はサル、ネズミ、シスト(寄生虫)に汚染された飲食物など。感染経路はシストの経口感染。ハエ、ゴキブリによる機械的伝播も起こる。腸アメーバ症と腸外アメーバ症がある。大腸・直腸・肝臓に潰瘍を生じ、いちごゼリー状の粘液血便を一日数回から数十回する。断続的な下痢、腸内にガスがたまり痙攣性の腹痛を生じる。通常は発症しても軽症であるが衰弱により死亡することもある。原虫が門脈を経由し肝臓に達し腸外アメーバ症を発症する場合もある。しばしば慢性化し再発を繰り返す傾向がある。

次は当時、雑誌『相撲』に寄せられた記事であるが、大陸巡業中の双葉山の身体の状態が記されていたので拾ってみた。

式守與之吉の日誌

八月三十日 北京初日。(中略)双葉山関の如き、満州に入って北京に乗込むまで僅か二十日間で食物が違ったためか体重が三貫匁も減つてしまったといふ。暑さは暑し、今さら洋服を着るわけにもゆかず、さうかと云つて浴衣がけで旅行するのは日本力士の面子にかゝはると云ふので、支那服を購入したが、胸の周りが窮屈なので胸だけは開き、それにヘルメットをかぶつて、どこからみても堂々たる?スタイルである。
なほ一行が困つたのは飲料水である。コレラが流行してゐるので、飲み慣れぬ水を飲ましてお相撲さんお腹でもこわしたら大変だと云ふので、結局湯ざましをこしらえるので大釜で湯を沸かすことになつたが、土俵上で湯ざましを用ふるといふことは相撲界空前のことであろう。

検査役・中川要次郎の「北支皇軍慰問所感」

(前略)ところが、日程も了りに近づいた頃、双葉山が、健康を害しましたため、非常に心配致したのでありますが、将兵諸氏の熱誠なる歓迎と、当人の責任感から、我慢に我慢を重ねて、各地の兵站病院をも訪問し、傷兵諸氏を慰問し、手数入やら稽古を御覧にいれて、所定の日程を了つた次第であります。

天津の新民会河北省指導部・小山清蔵の「天津より」

(前略)殊に双葉山が病を押して、各地の傷病兵を慰問し、各病院において土俵入りを行ったことは、非常に深き感銘を興へたところにて、各方面における人気宜しきを見て感激仕候。
既に大阪表大相撲も開場せられ当方面のことはお聞き及びのことゝは存じ候へども、双葉山は体重四貫ほど減少、三十貫余となり、関脇時代の体重に等しく相成、驚きをり申候。これは、北支各方面の慰問に無理を重ねたるため健康を害せし結果にて、大いに同情すべきところに御座候。併し、小生と相撲場にて立話をせし当日は非常に朗らかにて、小生も嬉しく存じ候。元来、元気且つ真面目なる彼のこと故、恢復も早かるべしと愚考致しをり候。

二週間余りの入院生活を終えた双葉山の体重は百十一キロ、十九キロも痩せた双葉山の太鼓腹は見る影もなく萎んでしまっていた。

さて、この大阪場所二日目、九州山に召集令状が来た。九州山は取り組みに先立ち土俵上、拡声器で召集の挨拶をした。満員の観客は起立して万歳三唱、九州山の壮行を祝福した。

双葉山の十月巡業は依然として体長不調で、途中、神戸からの参加となった。相撲は取らず土俵入りだけを務めた。
十一月一日から七日間、全組合合併による小倉表大相撲が到津の仮設相撲場で行なわれた。病状回復に専念していた双葉山は三日目より出場し、四勝一敗二休。この一敗は玉錦との対戦による。

小倉場所を打ち上げた双葉山一行は男女ノ川、鏡岩と組合をつくり、玉錦、武蔵山一行と別れ、十一月八日故郷に近い宇佐町を手始めに、別府から四国へわたり、十九日新居浜で単独組合となって岡山、広島、山口県下を巡った。十二月四日、呉市で三日間の興行中の千秋楽の朝、宿で朝食の膳に向っていた双葉山のもとに玉錦の訃報が入った(玉錦は急性盲腸炎で大阪の日生病院に入院していた)。双葉山にとっては一ト月前、不調とはいえ玉錦に敗れた小倉の土俵が最後となった。

十二月十七日、両国へ帰った双葉山は直ちに中里研究所で精密検査を受けた。身体は異常なしとの太鼓判を押されたが、体重は三十一貫(百十六キロ)、病気前の三十四貫五百にはとおく及ばなかった。

4 昭和十四年(一九三九年)

支那事変の激化で応召・入営力士が増えた。番付には、その力士の上に「応召」「入営」と書かれた。この年の五月十一日、ノモンハン事件が起こり、八月二十日、関東軍の精鋭が全滅した。九月四日、第二次世界大戦が勃発した。
二月十六日   ポストなど鉄製不急品の回収開始
三月三十日   軍事教練、大学でも必修となる
五月十一日   ノモンハン事件起こる
六月十六日   街のネオンサイン全廃
七月六日    零式戦闘機、初飛行
七月八日    国民徴用令公布
八月二十日   ノモンハンで日本軍敗北
九月四日    第二次大戦勃発
十一月二十五日 白米が禁止となる

春場所 一月十二日より十三日間 東京・両国国技館

双葉山 東横綱 (二十六歳十一月)

前年の暮、玉錦は巡業先で不運な死を遂げた。玉錦は双葉山にとっては胸を借りて育った大先輩、最後まで大きな壁として立ちふさがった唯一の目標だった。そんな玉錦の名のない番付はさびしいものであったが、この春場所を迎える双葉山についても、協会内部では一抹の心配があった。それは前年の北支巡業でアメーバ赤痢に罹って体重が二十キロも減り、体調は必ずしもかんばしくないということであった。

六十七連勝

初日 十二日(木)

双葉山(寄り倒し)五ツ島〈東前頭六枚目〉

アナ 双方、息が合って立ち上がりました。五ツ島、右を差した。左で双葉の右おっつけた。双葉、グイと右を入れました。双葉、左の上手も取った。五ツ島の下手投げ。双葉、かまわず寄った。寄った。そのまま一気に五ツ島を寄り倒しました。

解説 五ツ島は左で双葉山の右を殺そうとするうまい立合いを見せました。五ツ島の下手投げも苦しまぎれで、双葉山には少しも利きませんでした。

六十八連勝

二日目 十三日(金)

双葉山(突き放し)竜王山〈東前頭五枚目〉

アナ 十分間の仕切り制限時間が過ぎました。竜王山、なかなか立てません。行司に促がされております。
さあ双方、立ち上がった。竜王、突っ張り、猛烈な突っ張り。双葉、これを下から攻めて防いだ。竜王、左から張った。双葉、竜王の張り手に動じない。今度は双葉が突いた。強烈な突き。双葉、一ト突きで竜王山を西土俵へ突き放しました。

解説 双葉山に対して竜王山は時間一杯で立てなかったのが敗因ですね。それに顎を下げて出足をよくし、下から突っ張りあげるようにしなければ、突っ張りの効果はありません。それにしても勝負が決まった瞬間、土俵下の写真班のフラッシュはものすごいですねえ。

六十九連勝

三日目 十四日(土)

双葉山(上手投げ)駒の里〈西前頭四枚目〉

アナ さあ立った。双葉右四つに組み止めました。駒、押した。双葉、体を開いての上手投げ。見事に決まりました。


第五章  安藝の海に敗れる

四日目 十五日(日)

安藝の海〈東前頭四枚目〉(外掛け)双葉山

アナ 今場所の双葉山人気は凄まじいものがあります。初日のお客が打ち出し前に国技館を取り巻き、近所からゴミ箱、箒、下駄、それに回向院墓地の卒塔婆まて持ってきては夜じゅう焚火をして暖をとっていたそうであります。そこで協会は木戸を開けて入場させましたので、二日目のお客も今日のお客も打ち出しからずっと国技館住まいというわけであります。それに今日は日曜日。薮入りと重なって両国国技館はひと目双葉山を見ようと立錐の余地もありません。さあこの一番、常勝横綱・双葉山と新鋭・安芸の海の一戦は初顔合わせ。仄聞すると双葉山は安藝の海に一度も稽古をつけたことがないそうであります。打倒・双葉を掲げる出羽一門の兄弟子たちは安芸の海にどんな秘策を与えたのでありましょうか。平幕とはいえ双葉山にとっては油断のできない相手であります。
さあ伊之助の軍配が返った。安藝の声で双方立った。安藝、激しく突っ張った。双葉、突き返した。双葉、右をのぞかせた。安藝、右で前ミツを引いた。安藝、頭をつけた。双葉、廻しが取れない。双葉、掬った。また掬った。安藝、しぶとく残った。双葉、棒立ち。安藝、左から外掛け。双葉、安藝を抱えて掬い投げ。安藝の外掛けが外れた。双葉、右から下手投げ。安藝、左足が大きく跳ね上がった。安藝、右足で踏ンばった。安藝、必死に双葉の体に浴びせた。双葉、左腰から崩れた。行事・伊之助の軍配は安藝の海。安藝の海に上がっております。双葉、敗れる。双葉、敗れる。双葉山が敗れました。時これ昭和十四年一月十五日午後六時、出羽一門の新鋭・安藝の海に屈しました。館内は驚天動地の有様であります。ゴーッと嵐のような喚声が吹き渡っております。座布団が舞っております。手あぶりの小火鉢も飛んでおります。ミカンの雨も降っております。勝名乗りを受ける安藝の海は泣いております。嬉し涙で泣いております。双葉山、まさかの黒星。連勝は六十九でストップ、六十九連勝でストップしました。
…双葉山に一体何があったンでしょうか。

解説 安藝の海が必死になって体を浴びせたとき、双葉山の左足が踏み込み過ぎていましたねえ。双葉山らしからぬ不自然な体勢でした。無理な態勢で投げに出たのは魔がさしたとしか言いようがありません。何がどうなったのか、もう一度、フィルムで確認したいですね。

双葉山敗戦直後の評論

負けるはずはないと思っていた双葉山の敗戦は、報道陣を動転させた。ラジオの中継も新聞記者も、決まり手を「左外掛け」とした。双葉山が敗れるなら弱い方の左足に掛けられたに違いないと思い込んでいたのが間違いのもとであった。勝負の決まる一瞬の写真さえ判定は難しかった。なかでもっともひどかったのは、勝負の一瞬にカメラを構えていた新聞社のカメラマンの前で、駆け出しの記者が思わず両手を挙げて飛び上がってしまったのだ。歴史的瞬間を撮り損ねたカメラマンと記者の間で大騒動となった。

安藝の海は双葉山とは稽古をつけさせず、巡業先でも立ち合わせなかった。これは兄弟子・笠置山の仕組んだ苦肉の秘策であった。笠置山は安藝の海に次のような必勝の取り口を教示した。
「双葉山は相手の声でいつでも立つ。右のおっつけは強烈で左四つの相手でも右四つに誘い込まれる。左上手を取ったら磐石だ。どう攻めても勝ち目はない。腰の構えも自然体だ。足は心持ち左足を前にし、右四つなのに左足を出すというのは余程腰が強い証拠だ。だから上体を起しておいて、双葉山の左足に外掛けを掛けたらあるいは崩れるかもしれない」
勝負はまさに笠置山の言う通りになった。

この一番のあと男女ノ川の結びの一番が終り、客が去ってゆく館内の東の桟敷の中ほどで土俵上にじっと眼を注いでいる人がいた。その人の名は和久田三郎。あの春秋園事件の首謀者・天竜であった。その頃、満州国体育局に勤務していたが帰国して、隆盛を極める大相撲の観戦に来ていたのだ。

この勝負を実況放送していたNHKの和田信賢アナウンサーが評論家の彦山光三に決まり手を訊いたところ、「右の外掛け」と応えた。支度部屋で安藝の海を取り囲む記者連中も右外掛けではなかったと質問したが、「そう言われれば外掛けにいきました」とはっきりしない返事であった。その結果、新聞は安安藝の海の左外掛けと報道してしまった。後日、公開されたニュース映画を見ると、双葉山の右足に安藝の海の左足が掛り、それを外した双葉山が無理な体勢で右からの下手投げを打つものの、安藝の海が必死に体を預けて、そのまま浴びせ倒しているのであった。これを見た彦山光三は「いや、映画だって間違えることがある」と、死ぬまで安藝の海の右外掛けを訂正しなかった。

敗戦の原因

1 取り口から見た敗因

双葉山が前頭三枚目以降、地方場所で敗れた相撲から窺える弱点。

昭和十二年六月九日大阪場所初日 綾川(外掛け)双葉山
立会い、綾川双差し。綾川寄ろうとするが、双葉、全く動かず。そこで綾川、右の差し手から大きく掬い、双葉の右足に左足で外掛け。

昭和十二年六月九日大阪場所四日目 和歌嶋(外掛け)双葉山

2 前夜の状況

双葉山は贔屓筋の歓待で一睡もしていなかった。

3 身体上の原因

アミーバ赤痢による体調不調は回復していなかった。前年暮の玉錦の急死、武蔵山の休場、男女ノ川は出場したが往年の力はなく、協会は双葉山に頼り、ファンもまた双葉山の相撲に期待していた。そんな中双葉山は東横綱の責任を果たすべく出場に踏み切った。この体調不調について双葉山自身は一言も弁解しなかった。
当時、アミーバ赤痢に対処する特効薬はなかった。双葉山はその後も十年近くこの症状に悩まされ続けた。昭和十五年、台湾巡業中に再発し、応急処置をして帰国したが完治せず、終戦後まで出血が続いた。当時、武見太郎(元・日本医師会会長)の診察を受け、ヤトレンやキノホルムを必要最低限だけ、それも何日も間を置いて服用して凌いでいたが、全快したのはサルファ剤や抗生物質の出回った戦後のことである。
出羽が嶽の養父の斉藤茂吉(歌人・精神科医)は双葉山が安藝の海に破れた敗因を当時の歌誌『アララギ』に次のように書いている。

(前略)大勢がたかつて双葉山を調べるなら、何かの『虚』が出て来る筈だからである。この『虚』の問題も、今回の敗因の一つと考へ得るだらう。併し、私はそれよりも身体的の原因に重きを置かうとしてゐる。私は、双葉山の罹かつたアメーバ赤痢といふのを、双葉山自身よりも、ほかの双葉山批評家よりも、余程重く考へてゐるものである。

この歴史的一番の後、双葉山は五日目、兩國に打っ棄られ、六日目に鹿島洋に下手投げを食って三連敗を喫した。そして九日目にも玉の海に寄り切りで敗れ、九勝四敗の成績だった。優勝は西前頭十七枚目の出羽湊(十三戦全勝)だった。
双葉山フィーバーは一旦終ったが、翌二月十六日より十三日間行われた名古屋表大相撲では双葉山が全勝優勝。三月八日よりの第五回大阪大国技館大相撲大阪大場所でも双葉山が十三戦全勝優勝、直後の京都表大相撲も双葉山の十一戦全勝優勝した。この双葉山の復活によって再びおとずれた大相撲人気によって五月場所より十五日間興行となった。なおこの五月場所も双葉山が全勝、六度目の優勝を飾った。
なお、夏場所前の四月二十九日、双葉山は小柴澄子と結婚した。式は飯田町の東京大神宮、披露宴は東京会館。


付け句かるた [付け句かるた]

百人一首は下の句を憶えていることが前提ですが、この遊びも、連句の脇句、或は付け合ひの付け句を憶えていなければなりません。遊び方は百人一首と同じです。読み札は、立句(発句)と脇句(付け句)を続けて読み、取り札は、脇句(付け句)のみの札です。

読み札
雪ながら山もとかすむ夕かな  宗祇
取り札
(ゆ)ゆく水とをく梅にほふ里  肖柏

以下、同様にして遊びます。

昔にもかへでぞ見ゆる宇津の山  鴨長明
(い)いかで都の人につたへむ  飛鳥井雅経
(伊勢物語第九段の「駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり」を本歌としている。巧妙な掛詞を配した究極の連歌。)

ときは今天が下しる五月哉  光秀(ときはいまあまがしたしるさつきかな)
(み)水上まさる庭の夏山  行祐(みなかみまさるにはのなつやま)

海くれて鴨の聲ほのかに白し  芭蕉
(く)串に鯨をあぶる盃  桐葉

何とはなしに何やら床し菫草  芭蕉(なんとはなしになにやらゆかしすみれぐさ)
(か)編笠しきて蛙聴居る  叩端(あみがさしきてかはづききゐる)

花咲きて七日靍見る麓かな  芭蕉(はなさきてなのかつるみるふもとかな)
(お)懼て蛙のわたる細橋  清風(おぢてかはづのわたるほそばし)

菜の花や月は東に日は西に  蕪村(なのはなやつきはひがしにひはにしに)
(や)山もと遠く鷺かすみ行  樗良(やまもととおくさぎかすみゆく)

むめがゝにのつと日の出る山路かな  芭蕉(むめがかにのつとひのでるやまぢかな)
(と)処どころに雉子の啼き立つ  野坡(ところどころにきじのなきたつ)

曲水や江家の作者誰々ぞ  召波(きよくすいやごうけのさくしやだれだれぞ)
(も)唐土使かへり来し春  維駒(もろこしづかひかへりきしはる)

市中はもののにほひや夏の月  凡兆(いちなかはもののにほひやなつのつき)
(あ)あつしあつしと門々の聲   芭蕉(あつしあつしとかどかどのこゑ)

鳶の羽も刷ぬはつしぐれ  去来(とびのはもかひつくろはぬはつしぐれ)
(ひ)一ふき風の木の葉しづまる  芭蕉(ひとふきかぜのこのはじづまる)

箱根こす人もあるらしけさの雪  芭蕉(はこねこすひともあるらしけさのゆき)
(ふ)舟に焚火を入る松の葉  聴雪(ふねにたきびをいるるまつのは)

月見する坐に美しき顏もなし  芭蕉
(に)庭の柿の葉蓑虫になれ  尚白

しほらしき名や小松吹萩薄  芭蕉
(つ)露を見知りて影うつす月  鼓蟾(こせん)

めづらしや山を出羽の初茄子  芭蕉
(せ)蝉に車の音添る井戸  重行

すずしさを我やどにしてねまる也  芭蕉
(つ)つねのかやりに草の葉を焚く  清風

此梅に牛も初音と鳴つへし  桃靑
(ま)ましてや蛙人間の作  信章

風流のはじめやおくの田植歌  芭蕉
(い)覆盆子を折て我まうけ草  等躬(いちごをおりてわれまうけぐさ)

田の春をさすかに鶴の歩みかな  其角
(み)砌にたかき去年の桐の実  文鱗

文月や六日も常の夜には似す  芭蕉
(つ)露に乗せたる桐の一葉  左栗

秋の夜をうち崩したる噺かな  芭蕉
(つ)月まつほとは蒲団身にまく  車庸

あら何ともなやきのふは過きてふぐと汁  桃靑
(さ)寒さしざつて足の先まで  信章

箱根こす人もあるらしけさの雪  芭蕉
(ふ)舟に焚火を入る松の葉  聴雪

枯枝に烏のとまりたるや秋の暮れ  芭蕉
(く)鍬かたげ行人霧の遠里  素堂

この道や行く人なしに秋の暮  芭蕉
(そ)岨の畠の木にかゝる蔦  泥足

月見する坐に美しき顏もなし  芭蕉
(に)庭の柿の葉蓑虫になれ  尚白

五月雨をあつめて涼し最上川  芭蕉
(き)岸に蛍を繋ぐ船杭  一栄

あかあかと日はつれなくも秋の風  芭蕉
(お)晩稲(おくて)の筧ほそう聞ゆる  光淸

いささらば雪見にころぶ所まで  芭蕉
(す)硯の水の氷る朝起  左見

かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗  芭蕉
(ま)まれに蛍のとまる露草  栗斎

有難や雪をかをらす風の音  芭蕉
(す)住程人のむすぶ夏草  露丸(ろぐわん)

温海山や吹浦かけて夕涼  芭蕉
(み)海松かる磯にたゝむ帆筵  不玉

生ながらひとつに氷るなまこ哉  芭蕉
(ほ)ほどけば匂ふ寒菊の菰  岱水

涼しさや海に入れたる最上川  芭蕉  
(つ)月をゆりなす浪の浮海松  不明    

かくれ家や目だたぬ花を軒の栗  芭蕉
(ま)稀にほたるのとまる露草  栗齊

古池や蛙飛びこむ水の音  芭蕉
(あ)蘆のわか葉にかゝる蜘の巣  其角

白菊の目に立てて見る塵もなし  芭蕉
(も)紅葉に水を流す朝月  園女

何の木の花ともしらす匂ひ哉  芭蕉
(こ)こゑに朝日を含むうぐひす  益光

ありがたや雪を薫らす風の音  芭蕉
(す)住みけん人の結ぶ夏草  露丸

秋ちかきこころのよるや四畳半  芭蕉
(し)しどろにふける撫子の露  木節

うぐひすや餅に糞する椽の先  芭蕉
(ひ)日は眞すくに晝のあたゝか  支考

あなむざんやな冑の下のきりぎりす  芭蕉
(ち)ちからも枯れし霜の秋草  享子

あづみ山や吹浦かけて夕すゞみ  芭蕉
(み)海松かる磯に畳む帆むしろ  石玉

旅人と我名よばれん初霽  芭蕉
(ま)亦さゞんかを宿々にして  由之

星崎の闇を見よとや啼く千鳥  芭蕉
(ふ)船調ふる蜑の埋火  安信

京まではまだながぞらや雪の雲  芭蕉
(ち)千鳥しばらく此海の月  菐言

麥生てよき隠家や畠村  芭蕉
(ふ)冬をさかりに椿さく也  越人

はつ龝や海も靑田の一みどり  芭蕉
(の)乘行馬の口とむる月  重辰

狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉  芭蕉
(た)たそやとばしる笠の山茶花  野水

秣(まぐさ)負ふ人を枝折の夏野哉  芭蕉
(あ)靑き覆盆子(いちご)をこぼす椎の葉  翠桃

梅若菜まりこの宿のとろゝ汁  芭蕉
(か)かさあたらしき春の曙  乙州

芹焼やすそ輪の田井の初氷  芭蕉
(あ)擧りて寒し卵生む鶏  濁子

寒菊や粉糠のかゝる臼の端  芭蕉
(さ)提て賣行はした大根  野坡

八九間空で雨降る柳かな  芭蕉
(は)春のからすの畠ほる聲  沾圃

水鶏なくと人のいへばやさや泊り  芭蕉
(な)苗の雫を舟になげ込  露川

夏の夜や崩て明し冷し物  芭蕉
(つ)露ははらりと蓮の椽先  曲翠
 
龝もはやはらつく雨に月の形  芭蕉
(し)下葉色づく菊の結ひ添  キ柳

灰汁桶の雫やみけりきりぎりす  凡兆
(あ)あぶらかすりて酔寝する秋  芭蕉

つゝみかねて月とり落す霽かな  枯国
(こ)こほりふみ行水のいなづま  重五

木のもとに汁も鱠も櫻かな  芭蕉
(に)西日のどかによき天氣なり  珍碩

空豆の花さきにけり麥の縁  狐屋(そらまめのはなさきにけりむぎのへり)
(ひ)昼の水鶏のはしる溝川  芭蕉

振賣の鳫あはれ也ゑびす講  芭蕉
(ふ)降てはやすみ時雨する軒  野坡

雁がねもしづかに聞ばからびずや  越人
(さ)酒しゐならふこの此の月  芭蕉

霜月や鸛の彳々ならびゐて  家兮(しもつきやかうのつくづくならびゐて)
(ふ)冬の朝日のあはれなりけり  芭蕉

炭賣のをのがつまこそ黑からめ 重五
(ひ)ひとの粧ひを鏡磨寒  家兮(ひとのよそひをかがみときさむ)

はつ雪のことしも袴きてかへる  野水
(し)霜にまた見る蕣の食  杜國(しもにまたみるあさがほのしょく)

牡丹散て打かさなりぬ二三片  蕪村(ぼたんちりてうつかさなりぬにさんべん)
(う)卯月廿日のあり明の影  几董(うづきはつかのありあけのかげ)

夕風や水青鷺の脛をうつ  蕪村
(が)蒲二三反凄々と生ふ  宰馬

舂くや穗麦が中の水車  蕪村
(か)片山里に新茶干す頃  几菫

罷り出たるものは物ぐさ太郎月  蕪村
(な)南枝はじめてひらく頭取  杜口

冬木だち月骨髄に入る夜哉  几菫
(こ)此句老杜が寒き膓  蕪村

曲水の江家の作者誰々ぞ  召波(きよくすいやごうけのさくしやだれだれぞ)
(も)唐土使かへり來し春  維駒(もろこしづかひかへりきしはる)

月に漕ぐ呉人(ごびと)はしらじ江鮭(あめのうを)  蕪村
(あ)網干(あぼし)にならぶ苫の秋され  暁台

うぐひすや茨くゞりて高う飛  蕪村
(や)山田に鋤を入るゝ陽炎  几菫

秋もはや其蜩(そのひぐらし)の命かな  蕪村
(く)雲に水有り月に貸す菴(やど)  宋屋 

薄見つ萩やなからん此辺り(このほとり)  蕪村
(か)風より起る秋の夕に  樗良 

花の雲三たび重ねて雲の峯  蕪村
(す)涼しき時におもひ出す陰  麗水

泣(なき)に来て花に隠るゝ思ひかな  蕪村
(つ)露の宿りを訪ふさくら人  しげ

具足師(ぐそくし)のふるきやどりや梅花(うめのはな)  蕪村
(け)下駄の歯がたの残る下萌え  几菫

身の秋や今宵をしのぶ翌(あす)も有(あり)  蕪村
(つ)月を払へば袖にさし入(いる)  月渓(げっけい)

名月を取ってくれろと泣子かな  一茶
(こ)小銭ちらばる茣蓙の秋風  露月

味(うま)さうな雪がふうはりふうはりと  一茶
(み)見ずに値段の出来る黑鴨  素外

夕暮や蚊が啼き出してうつくしき  一茶
(す)すゞしいものは赤いてうちん  一瓢

松陰に寝てくふ六十余州かな  一茶
(つ)鶴と遊ん(あそばん)亀とあそばん  鶴老

あつさりと春は来にけり浅黄空  一茶
(に)西に鶯東(ひんがし)に雪  希杖

此上の貧乏まねくな花芒  一茶
(な)鍋も茶釜も露けかりけり  文虎

蚤飛べよおなじ事なら蓮の上  一茶
(す)すゞみ筵に入相の月  希杖

じつとして馬に齅(かが)るゝ蛙かな  一茶
(た)盥の中に遊ぶ雀子  文虎

上の上極上赤の木の葉かな  一茶
(む)麦蒔てから用のない里  梅塵

人の世は砂歩ても蚤うつる  一茶
(く)雲の峰より生ぬるい風  雪路 

此やうな末世を桜だらけ哉  一茶
(い)今やひがんとほこる鶯  文虎




  
   
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