相撲のこころ ― 双葉山不滅の六十九連勝 [僕の双葉山]
まえがき
日本人横綱のいない土俵が映し出す国柄。日本人横綱はもう誕生しないのか。
「相撲通の作家、故宮本徳蔵(とくぞう)さんは、1985年の著書『力士漂泊』で「強さ」の極致とは何かと問うた。69連勝の双葉山はどんな敵に対しても〈泰然自若として些少(さしょう)の動揺をも示さず〉に勝った。相手の方が自滅していくような印象すら受けたと書いている▼その双葉山のDVDを見て研究したという白鵬が、33回目の優勝を果たした。69連勝への先年の挑戦は阻まれたが、今回は「角界の父」と慕った大鵬の記録を久々に塗り替える偉業だ。テレビ画面の大鵬をどきどきしながら応援した世代としては、誠に感慨深い▼白鵬は、双葉山の「泰然自若」を自分も実践しようとしていると語っている。土俵上の所作一つ一つをゆっくりとする。闘志が顔に出ないと言われるのも、何ものにも動じない心を目ざしているからだ、と。なるほど今場所の姿も実に悠然としている▼今の境地に達するまでの苦労はいかばかりだったか。デビュー直後の序ノ口時代、負け越しを経験し、泣いたという。後に横綱に昇進するような力士なら普通はすんなり行くところで自分はつまずいた、と振り返っている▼言葉や文化の壁もあったろう。しかし、冒頭に引いた宮本さんは、〈チカラビト〉すなわち力士は本来モンゴルで生まれたとする。「国技」の背後にユーラシアの広大な時空を見るべし、と。その出身力士の今日の隆盛は、後に宮本さんも積極的に評価したように時の勢いというべきだろう▼大業は成った。この上はどこまで記録を伸ばすかだ。」(平成十五年一月二十五日(日)の朝日新聞「天声人語」より)
「朝青龍、白鵬、日馬富士、そして鶴竜と、四代続けてモンゴル出身の横綱が生まれた。
横綱は時代の象徴でもある。経済成長とともに輝いた大鵬、バブル絶頂期に活躍した千代の富士、平成の名横綱貴乃花。最高位に就く者には日本人の誰もがあこがれる強さがあった。
このところ毎日のように「日本人力士がふがいない」と言われる。
世の中が便利になり、教育も変わった。一人一人の権利意識が強まり、「頑張らなくていい」「勝たなくていい」文化になってしまった。家族の単位で見れば、親と子の関係が希薄になり、個人主義が広がった。
春場所中に引退したブルガリア出身の琴欧洲の言葉が忘れられない。「親に仕送りするために相撲界に入ったのに、日本人はどうして入門してからも親に仕送りをしてもらうの。おかしいね」
彼が入門を決意したのは交通事故にあって働けなくなった父の代わりに、家計を助けるためでもあった。強くならないまま国に帰ることができようか。果たして、大関に昇進し、優勝もした。
暴行騒動で突然引退した朝青龍に人情家の一面を見たこともある。
ある日の稽古終わりに「日本の力士は平気で親の悪口を言う。俺はそれが許せない。モンゴルでは絶対に考えられない。親は大切にするものでしょ」と真剣なまなざしで訴えかけてきた。
自分のことは後回しにして、家族や恩師、郷里のことを思えば簡単に辞められるはずがない。親も同じで昔は「強くなるまで帰ってくるな」だったのが、いまは「苦しければすぐに帰ってこい」に様変わりしてしまった。
鶴竜は自ら入門を直訴する手紙をしたため、モンゴルから日本の大相撲関係者に送った。日本語がまったくわからない小さな少年だったという。それがいまは立派な力士になった。師匠を慕う姿勢や稽古場での向上心を見るにつけ、初心を忘れていないことは明らかだ。
スカウトされて連れられてきた力士と、自ら懇願して門をたたいてくる力士とでは気概がまったく違う。
日本の力士だけがふがいないのではない。酒や米がその土地その土地の土壌や気候で味を決めるように、国柄が力士をつくるのである。
いまのわが国を見つめると、何もかもが弱腰だ。近隣諸国に言いたい放題にされてはいないか。外国から来た力士に顔を張られても、怒って向かっていく力士がいないのと同じように。
土俵は、いまの日本を映し出す鏡なのかもしれない。」
これは、元小結・舞の海秀平の「舞の海相撲評論〈二〇一四・四・三、サンケイ新聞〉より。
目次
第一章 後の先
第二章 入幕まで
第三章 入幕から六十九連勝が始まるまで
第四章 六十九連勝始まる(六十九連勝仮想実況放送)
第五章 安芸の海に敗れる
第一章 後の先
「これが負けか…」
白鵬は記者のインタビューには一切応じず、この一言を呟いて福岡国際センターを後にした。
平成二十二年(二〇一〇年)十一月十五日、九州場所二日目結びの一番。白鵬は稀勢の里に寄り切られて客席まで飛ばされ、尻餅をつき照れ笑いした。この場所、連勝を六十三に伸ばしていた白鵬は、八日目に双葉山の六十九連勝に並び、九日目には七十連勝という大記録を樹立するだろうことは誰しも疑わなかった。
七十四年前の昭和十四年(一九三九年)一月十五日、双葉山を左外掛けから浴びせ倒した安芸ノ海もまた、双葉山の相手ではないと見られていた。
白鵬の「これが負けか」の一言には自らの敗因を納得しているようなところがある。では安芸の海に負けた直後の双葉山はどんな言葉を吐いたのだろう。
翌十六日の東京朝日新聞は次のように書いている。
支度部屋に入るなり双葉は、〝アゝ―〟と一寸顔をゆがめた。〝下がり〟を弟子に渡して支度部屋の風呂場で足だけ軽く洗った後、過去六十九連勝の足跡の激闘を回想し〝我ながら良くこゝまできつるもの哉〟といった一寸深刻な顔で〝ああくそ〟と呟くと、どっかり胡座をかく。床山が髪を撫ではじめた。
記者「どんな気持です」
双葉「えゝ、あまり好い気持ではないです」
記者「どうして敗けたんです」
双葉「どうしてったって、敗けましたよ」と複雑な微笑をする。
同じ支度部屋で男女ノ川の弟子等が、これを取りなすかのやうに、
「調子を下ろしたんだよ。敗けを知らないからのう」
双葉の弟子達はみんな無言で突立ったきり。ザンギリ頭が〝入口をしめろい〟― 双葉は青と黒の細かい格子縞のドテラを肩にかけると裏口から弟子四、五人に護られて静かに帰って行った。
双葉山は「ああくそ」と吐いた。それは自ら招いた後悔の念か。
白鵬に戻ろう。白鵬が敗れた翌日の読売新聞と東京スポーツ新聞に「後の先」の文字があった。
白鵬は双葉山が仕掛けておいた罠にはまった。最近の白鵬は双葉山の相撲をビデオで研究していた。悟りかけていたのが将棋などの「後の先」という考え方である。後手をひいたようで、先手になるような手。(読売新聞「編集手帳」)
朝青竜は生涯「勝ちに行く」相撲であった。白鵬は「いい相撲」を心がけてここまで来た。しかし、「いい相撲」を負ける心配のない「横綱相撲」に進化させなければ、果てしなく勝ち続けることはできない。そこで辿り着いたのが双葉山の考えていた「後の先」であった。後手をひいたようで先手になるような手。一旦受けにまわり手番を握られるが、相手も受けにまわらなければならず、結果的に手番を確保できる。
この日は中盤以降、稀勢の里に一方的に攻めまくられて負けた。奇襲戦法ではなく、堂々たる稀勢の里の「横綱相撲」であった。「後の先」の意識がどこかにあって、攻めが疎かになり、後手に回ったに違いない。「後の先」にはそういった危険が潜んでいる。双葉山が安芸ノ海に敗れたときも、両廻しが取れないという守勢の局面で繰り出された外掛けで負けたように記憶している。(東京スポーツ新聞)
私は昭和十九年(一九四四年一月八日)生れなので双葉山の相撲は記録映像でしか知らない。しかし、子供の頃から大相撲を見続けてきた眼には、それが古い映像であっても、栃錦、若乃花、大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花そして白鵬といった強い横綱と較べて双葉山の相撲力は一歩も二歩も抜きん出ているように映る。
そんなわけで私は、双葉山がなぜ安芸の海に敗れたのか、その原因を知りたいという思いを現在まで半世紀以上も抱き続けている。
その敗因は世間ではいろいろ言われているのであるが、私は直接の原因は双葉山の立ち合いにあったと考えている。「後の先」が「先」を取る間もなく負けてしまった。なぜか。双葉山は安芸の海に敗れた直後、若い時分からの心の友であった※中谷清一に宛てて「我未だ木鶏足り得ず」という電報を打った。その文面の裏側には「後の先」という取り口が失敗に帰したことの含みが隠されているように思える。
※双葉山と中谷清一の親交に関しての資料は殆んど無い。ただ双葉山の自伝「相撲求道録」に中谷清一の名前が出てくる。それによると、双葉山より五、六歳年上で初めて会ったのは昭和九年頃とある。東洋思想家・安岡正篤の門下生で横綱審議委員会初代委員長を務めた竹葉 秀雄の親友。竹葉秀雄は四国宇和島で塾を開いていたが、双葉山は四国巡業の際には立ち寄ったという。おそらく二人はここで一緒に受講したかもしれない。
また、吉川英治の『武蔵落穂集』(昭和十二年・大阪朝日新聞文芸欄)には次のように述べられている。
『大阪の中谷清一君が、何でもけふの双葉山と玉錦のすまうをみろといふ。中谷君は堂島の人であるが、双葉山をその無名時代から鞭撻し、ひいきといふよりは、双葉山にとって無二の心友なのである。
双葉山をして相撲道の宮本武蔵に大成させ、自分の晩年は灰屋紹由(京都の風流人)のやうになりたいといつてゐる人である。』
私見だが「後の先」とは、相手よりも遅れて立つ、つまり受けて立つのであるが、体が合った瞬間には有利な体勢にもってゆける立ち合いをいうのではなかろうか。言い換えれば、後の先をとるということは、相手を先に立たせ、瞬時に相手の動きを感じとって、自分有利の体勢に持ち込む極意ということになる。だから並外れた直感力、瞬発力を要する。その頃、双葉山はまだ「後の先」を真に体得していなかった。これが直接の原因ではなかったか。
双葉山―安芸の海戦は初顔合わせだった。双葉山は場所前の巡業で「一丁こい」と声をかけたが、安芸の海は盲腸手術直後、具合が良くないという理由で双葉山の胸を借りることをしなかった。相撲の世界には「ガイにする」という言葉がある。横綱は次の場所で顔の合いそうな若手力士を引っ張り出しては稽古をする。相手の力量を知ると同時に、思い切り痛めつけてやるのだ。こうしておいて本場所で顔を合わせると、相手は横綱にひと睨みされただけで精神的に負けてしまう。これを「ガイにする」と言う。つまり安芸の海はガイにされなかった。初対戦のときの映像を見ると、塩を撒く安芸の海の姿は実に堂々としている。
しかし、場所前に立ち合わなかった本当の理由は、体調不調ではなくて、何とかして一矢報いたいと念願する出羽ノ海一門の作戦だったとも言われている。つまり双葉山に対して安芸の海の力量や取り口の長所短所を覚らせないようにしていたというのである。双葉山にとっては安芸の海は未知数だった。
それに双葉山の体調も前年の中国北支慰問巡業中に罹ったアメーバ赤痢によって万全ではなかったと思われる。
そしてもうひとつ、双葉山は立ち合いざま安芸の海に左眼を張られたことでおおいに慌てたのではなかろうか。なぜなら双葉山の右眼は失明して全く見えなかったからだ。当時このことは一部の人を除いて誰も知らなかっただろうから、双葉山自身、一瞬覚られたと思ったかもしれない。そのような想像をしながら何度も当時の映像を見た。安芸の海は立ち上がりざま双葉山の左眼を張っている。後年、双葉山は、「後の先」を体得しようとした理由は相撲取りとして致命的なハンデである片眼を克服するためだと言っている。しかし、このとき双葉山の身体的ハンデにつけ込む作戦があらかじめこうじられていたとしたら…。
いずれにしても双葉山の「後の先」の立ち合いは失敗した。
武道における「後の先」は、安全な間合いを保ちながら相手の攻撃を待ち、相手が仕掛けてきた時点ではじめて動くことをいうそうだ。相手の出方を見て、これをさばいた後に技を出す。秀吉が朝鮮征伐を命じた天正十九年(一五九一年)馬庭念流の樋口又七郎定次(何と双葉山と同名の定次とは!)によって創始された。この「後手必勝」の剣の、敵の攻撃を見切る時期は七分三分。相手の攻撃が始まって、こちらに届くまでを十とした場合、六分の所で動けば相手の攻撃は変化可能。八分では一歩間違えば間に合わない。三分残った時点で対処すれば相手の攻撃はついてくることができない。後手をもって勝つには、相手の攻撃をどこまで我慢できるか、その目安が七分三分なのである。
見切った後の立ち方も七分三分。中腰になった態勢で重心は常に後ろ足に七分、前足に三分かける。この立ち方ならば、後ろ足を強く踏むだけで俊敏に前に出ることができる。「後の先」には「先の先」以上の勇気と技量がいる。「後の先」は抜群の精神力の持主でなければ使えない。しかし双葉山も白鵬もあたかも魔がさしたように立ち合いで失敗したのである。
ついでながら、「王将」で有名な坂田三吉の端歩突き(一手遅れる手)を「後の先」と言う人がいるが、いかがなものか?三吉は二度やって二度とも敗れているのである。
岡野功(おかのいさお)の後の先
一九四四年(昭和一九年一月二十日生)は日本の柔道家、流通経済大学名誉教授。一九六四(昭和三十九年)東京オリンピックの柔道男子中量級金メダリスト。
茨城県龍ケ崎市出身。福井英一の漫画『イガグリくん』に影響を受け中学から柔道を始める。茨城県立竜ヶ崎第一高等学校卒。中央大学法学部に在学中の一九六四年(昭和三十九年)東京オリンピックに中量級の日本代表として出場し、金メダルを獲得。翌一九六五年(昭和四十年)の世界選手権でも優勝し、わずか21歳にして柔道中量級における世界のトップ選手となる。一九六七年(昭和四十二年)には全日本選手権で優勝し、中量級選手としては当時史上初となる柔道三冠を獲得。一九六四年の東京オリンピックの中量級金メダリストで、全日本選手権でも2回優勝(史上最軽量優勝者)。一九六五年の世界柔道選手権(中量級)でも優勝し、日本でも数少ない五輪・日本・世界の三冠制覇をなしとげた。
手による帯から下の直接攻撃禁止について
自分はあまり国際試合を直接見ていないので、帯から下の手による攻撃を禁じる新しいルールが実際にどのように適用されているかは正確につかめていない。しかしこの新しいルールについて聞いたとき、これでは相手が攻めてきたときに「後の先」をとることが難しくなり、無差別の試合などでの面白さを減少させることを懸念した。
「後の先」をとるには大きく二つの方法がある。ひとつは、相手の技を返すこと。もうひとつは、相手の攻撃を受けて自分の得意技に変化することである。新しいルールにより、捨て身小内刈、肩車、足を持っての大内刈などが出来なくなり、掬い投げや相手の腰を抱き込んだりして技をかけにくくすると考えた。これでは「小よく大を制する」無差別級の試合が成り立たなくなる。せめて、ごく一部の技を指定して禁止する方法もあろう。ただ、その後アメリカに行った際、練習や試合を見て、この新しいルールにより、多くの柔道家が足を狙うのではなく柔道の本来的な技である内股、体落、背負投などをより一生懸命身につけようと練習していたことに気付いた。よりまともな柔道をするようになった面は良いが、他方で、個性的な技が少なくなり、技や攻防がシンプルになって面白みが減じる側面もあると感じた。この新しいルールが今後どう展開するか注視していきたい。
白鵬の対話から
先の先で攻めていく方法と後の先とのバランスが大切である。待っていて相手に攻めさせたんじゃ呼吸が一呼吸ずれれば自分がやられてしまう。相手の出方を眼で確認するのではなく肌で感じて体をさばく。一瞬速く体をさばく作業が必要になってくる。
まず形を持て。だけれども、それに拘っていたのでは一流とは言えない。相手の出方に応じて、臨機応に対応しろ。ですから後の先というのは、レベルから言うと臨機応変の範疇に入ってくる。武道の世界には「形を持って形に拘らないレベルに達した人を名人・達人と言う。(岡野功)
さて、この稿は三章までは序章のようなものである。第二章は双葉山入門以前の明治・大正時代の角界の概要、第三章は昭和二年に入門、七年の春秋園事件(天龍事件)を経て入幕、十一年春場所六日目、横綱玉錦に敗れるまでを記した。決して体格に恵まれず大して期待もされていなかった時代の記録であるが、この時代を知ることによって、その後の無敵双葉山の姿が鮮明に浮かびあがってくるはずである。
第四章の「六十九連勝始まる(六十九連勝仮想実況放送)」では、雑誌の記事や映像をもとに、立ち合いと双葉山の組み手である右四つを強調して書いてみた。しかし残念ながら「後の先」の取り口を解説するまでには到っていないようだ。この「後の先」のイメージについては、私の言葉足らずの勝手な仮想実況放送に眼を通していただきながら、読者のご賢察に俟つしかない。
第二章 入幕まで
1 明治・大正時代の角界
明治三十四年(一九〇一年) 一月 十八代横綱に大砲
明治三十六年(一九〇三年) 六月 十九代横綱に常陸山
二十代横綱に梅ヶ谷
明治三十七年(一九〇四年) 四月 二十一代横綱に若島(大阪相撲)
明治四十二年(一九〇九年) 六月 国技館開設 幕内力士十日間出場
東西対抗優勝制度制定
明治四十四年(一九一一年) 一月 新橋クラブ事件
五月 二十二代横綱に太刀山
大正元年 (一九一二年)十二月 二十三代横綱に大木戸(大阪相撲)
大正三年 (一九一四年) 一月 横綱・常陸山引退(五月出羽ノ海を襲名)
大正四年 (一九一五年) 一月 横綱・梅ヶ谷引退(五月 雷を襲名)
二月 二十四代横綱に鳳
五月 小結・緑島、引退して年寄・立浪を襲名
大正五年 (一九一六年) 五月 二十五代横綱に西の海
大正六年 (一九一七年) 五月 二十六代横綱に大錦
十一月 国技館全焼
大正七年 (一九一八年) 一月 春場所を靖国神社境内で挙行
太刀山、引退(年寄・東関を襲名)
四月 二十八代横綱に大錦(大阪相撲)
五月 二十七代横綱に栃木山
大ノ里、入幕
大正九年 (一九二〇年) 一月 再建国技館開館
大正十一年 (一九二二年) 二月 二十九代横綱に宮城山(大阪相撲)
大正十二年 (一九二三年) 一月 三河島事件 清水川入幕
五月 十一日間興行に延長
三十代横綱に源氏山
九月 国技館、関東大震災で被災
大正十三年 (一九二四年) 一月 春場所は名古屋で十一日間興行
横綱・源氏山、西ノ海に改名
五月 国技館、修復成る
三十一代横綱に常の花
十一月 第一回全日本力士選手権競技会開催
大正十四年(一九二五年) 五月 栃木山引退(年寄・春日野を襲名)
十二月 財団法人大日本相撲協会設立
大正十五年(一九二六年) 一月 玉錦、入幕
2 双葉山入門時の角界の動き
昭和二年(一九二七年)
一月
東京相撲協会と大阪相撲協会が合併
一月と五月の東京場所に、関西場所(二場所)が加えられた。(三月 大阪、十月 京都で関西場所)
昭和三年 (一九二八年)
一月
・ラジオ放送が始まり、放送時間内に取組を終らせるため、仕切り時間が幕内十分、十両七分、幕下以下五分に制限された。これまで夜九時頃までかかっていた取組は、午後五時四十分の打ち出しとなった。(なお昭和二十年に幕内五分、十両四分、幕下三分、昭和二十五年に幕内四分、十両三分、幕下二分になり現在に至っている。)
・仕切り線(間隔六十センチ)が設けられた。これによって頭をくっつけあう仕切りがなくなった。
・十両力士は十一日間連日出場となる
・男女ノ川が入幕
三月
不戦勝制度を制定
五月
天龍入幕 男女ノ川、朝潮に改名 武蔵山入幕
九月
名古屋で第六回関西場所
昭和五年(一九三〇年)四月
天長節に皇居内で天覧相撲を開催、これを機に五月場所から四本柱を背に座っていた勝負検査役は土俵から下りた。検査役は東西の力士控え席の中心に一人ずつ、正面土俵下の中央に一人、向正面の左右に一人ずつ、合計五人が控えた。これにより観客はもとより検査役も見よくなった。
3 双葉山の入門から幕下までの戦跡
昭和二年
三月 大阪 前相撲 十六歳(一メートル七十三センチ七十三キロ)
五月 東京 新序 三勝三敗
十月 京都 東序の口二十七枚目 四勝二敗
昭和三年
一月 東京 東序の口九枚目 五勝一敗
三月 名古屋 西序二段三十四枚目 四勝二敗 十七歳
五月 東京 東序二段十六枚目 三勝三敗
十月 広島 同 四勝二敗
昭和四年
一月 東京 東三段目三十三枚目 三勝三敗
三月 大阪 同 五勝一敗 十八歳
五月 東京 西三段目七枚目 四勝二敗
十月 名古屋 同 三勝三敗
昭和五年
一月 東京 西幕下二十四枚目 四勝二敗
三月 大阪 同 三勝三敗 十九歳
五月 東京 東幕下十四枚目 四勝二敗
十月 福岡 同 三勝三敗
昭和六年
一月 東京 西幕下三枚目 六勝一敗
三月 京都 同 五勝二敗 二十歳
4 十両から入幕までの戦跡
昭和六年(一九三一年)
四月二十九日、前年に引き続き皇居内で天覧相撲が開催された。これを機会に協会では土俵の屋根を入母屋造りから神明造りにした。また土俵の直径を十三尺から十五尺(四・五四五メートル)に拡げ、二重土俵を一重土俵に改めた。
夏場所 五月十四日から十一日間 東京・両国国技館
西十両五枚目 三勝八敗 二十歳三ヶ月
大阪場所 十月九日から晴天十一日間 中之島玉江橋畔仮設国技館
西十両五枚目 七勝四敗
第一回大日本相撲選士権大会 六月六日から三日間 東京・両国国技館
第一日目・第二部(紅組)第一回戦 双葉山(突き落し)常昇
第二日目・第二部(紅組)第二回戦 高ノ花(寄り切り)双葉山
昭和五年と六年の天覧相撲を記念し、毎年五月の夏場所後、両国国技館で大日本相撲選士権大会が開催されることになった。第一回大会の選士権者には春日野親方、二位玉錦、三位は天龍だった。春日野親方は大正時代の名横綱・栃木山。引退後六年を経て三十九歳であった。
第三章 入幕から六十九連勝が始まるまで
1 昭和七年(一九三二年)
春秋園事件
一月五日、東京・春場所の新番付が発表された。横綱不在であるが、小結・武蔵山が関脇を飛び越して新大関となり、東に玉錦、能代潟、西に武蔵山、大ノ里の四人の大関が並んだ。また前頭三枚目の清水川も小結を飛び越して東関脇へ昇進した。天龍は東関脇から西関脇へと降格した。
武蔵山は、四年夏場所新入幕で東八枚目に抜擢されて以来負け越し知らず。一年後の五年夏場所には新小結に昇進、六年三月京都場所は十勝一敗で清水川と優勝を分けた。同年夏場所は十勝一敗で優勝、十月大阪場所は八勝二敗一休だった。
一方、天龍は六年五月場所の番付で東関脇、武蔵山は東小結であった。天龍は、六年一月場所は西関脇で八勝三敗、同年三月京都場所でも八勝三敗、四月の第一回大日本相撲選士権大会で玉錦に次ぐ第三位(武蔵山は第三回戦で鏡岩に敗退)。夏場所は六勝五敗、十月の大阪場所は八勝三敗だった。
このような番付編成を見た一部の関係者やファンは、春秋園事件を、天龍が弟弟子の武蔵山に追い越された腹いせにやったとかんぐった。そして、二人が共に大関になっていれば起きなかっただろうと噂した。しかし事件発生の真因は、以前からくすぶり続けていた出羽海一門の力士たちの師匠・出羽海親方や協会に対する不満であった。
当時の角界は、横綱は別として大関以下三役でさえ力士の対面を保つことが困難なほど低収入であった。彼らは贔屓筋の袖にすがり、風呂に入れば大きな体を折り曲げて彼らの体を流したり、宴席では太鼓もちのようなことまでしていた。当時相撲取りは男芸者などと言われもした。天龍は、亡き大師匠の元横綱・栃木山の「相撲取りは力技を競うサムライ、つまり力士だ」という言葉を実現しようと立ち上がったのであった。そういう天龍の気持がなかったら、名大関・大ノ里は同調しなかっただろうし、多くの力士たちも天龍の傘下に集まらなかっただろう。
この新番付が発表された一月五日の翌六日の昼過ぎ、大井町の料亭・春秋園に出羽海一門の力士三十二人が集結した。内訳は、西方力士の全員二十人と十両の十一人、それに幕下一人であった。出羽海部屋所属以外では三人。当時、出羽海部屋は幕内東西いずれかの片方を独占していた。
天龍は大ノ里と共に、力士の生活状況の改善と協会改革の必要性を十カ条の項目にして協会に要求した。
協会ノ会計制度ヲ確立サレタイ。
競技時間ヲ改正サレタイ。
観覧料を低下シテ、大衆の相撲テアラシメタイ。
相撲茶屋ヲ撤廃サレタイ。
年寄制度を漸次二撤廃サレタイ。
養老年金制度ヲ確立サレタイ。
地方巡業制度ヲ根本的二改メラレタイ。
力士の生活ヲ安定サレタイ。
冗員を努メテ整理サレタイ。
力士協会ヲ設立シ、モツハラ力士ノ共済制度ヲ確立サレタイ。
天龍、大ノ里、武蔵山、綾桜の四人は、この要求書を協会へ持参した。しかし要求は受け入れられず、彼らは一月十日、「大日本新興力士団」を結成した。このため、十二日、協会は春場所を無期延期とした。ところが同日、武蔵山は力士団を脱退し一行から離れた。また十四日、大日本関東国粋会(右翼団体)が調停に乗り出した。この「顔役」たちの圧力に対して、力士団は出羽ケ嶽一人を除いて全員が力士の象徴である髷を切って抵抗した。同日、新聞に武蔵山の拳闘界(ボクシング界)転身の声明書が出たが、武蔵山は翌二十五日協会に復帰した。二月二日、協会の全役員は総辞職し、新役員が選出された。二十六日、鏡岩、男女ノ川などの東方力士(十七人)も「革新力士団」を結成し、名古屋に本拠地を置いた。新興力士団は、二月四日、根岸の旧尾高邸跡地で六日間の旗揚げ興行を開催した。
協会は二月十三日、両力士団の四十八人を除名し、無期延期にしていた春場所を二月二十二日より一門総当り制で八日間の開催とし、残留力士で再編成した新番付を発表した。
新番付は幕内十両ともに東西十人ずつ。関取は一月五日発表の番付より二十二人少ない四十人。新入幕は十両から旭川、双葉山、大ノ浜の三人、幕下から五人の計八人という異例の抜擢昇進であった。なお、双葉山は昭和六年夏に新十両五枚目で三勝八敗、十月の大阪場所では同位置で七勝四敗、翌七年正月の番付では十両七枚目に下がっていた。新番付での双葉山は西前頭四枚目。
春場所 二月二十二日から八日間 東京・両国国技館
双葉山 西前頭四枚目 二十一歳一ヵ月 一七九センチ・九十キロ
初日 双葉山(吊り出し)鷹城山(西前頭六枚目)
二日目 双葉山(寄り倒し)瓊の浦(西前頭七枚目)
三日目 双葉山(叩き込み)古賀の浦(西前頭二枚目)
四日目 双葉山(打っ棄り)若瀬川(西前頭三枚目)
激しい突き合いから右四つとなり、寄りたてられた双葉山が土俵際で吊り出し気味の打っ棄りで勝った。この日まで四連勝。
五日目 大潮〈東前頭二枚目)(寄り倒し)双葉山
体力にまさる大潮が右四つから双葉山を寄り倒した。
六日目 双葉山(押し切り)若葉山(東前頭筆頭)
双葉山は力相撲の若葉山を右ノド輪で攻め、突き出した。
七日目 射水川〈東前頭六枚目〉(はたき込み)双葉山
千秋楽 大邱山〈西十両筆頭〉(切り返し)双葉山
八日間を五勝三敗で終った双葉山は、幕内特進組では旭川と並ぶ最良の成績だった。古参力士で実力派の古賀ノ浦、若瀬川、若葉山には勝った。しかし、彼らは、それぞれの立場で春秋園事件に巻き込まれたために稽古不足で、心身ともに万全ではなかった。双葉山は二十一歳(明治四十五年・一九一二年二月九日生)になったばかりの若さもあり、事件の外にいてその影響を受けなかったことが有利にはたらいた。
なお双葉山は千秋楽に大邱山に負け、これ以降二、三年は双葉山よりも大邱山が将来を有望視されていた。つまり大邱山は双葉山が強くなるまでの好敵手であった。また二日目に対戦した瓊の浦は後の両国である。
幕内優勝は関脇・清水川(八戦全勝)。この場所の総収入は二万五千円と従来の一日分の収入しかなく、収支は大欠損となった。
名古屋場所 三月十八日より晴天十日間 名古屋市の騎兵第三駐隊跡広場
双葉山 西前頭四枚目
初日 双葉山(浴びせ倒し)国ノ浜〈西前頭五枚目〉
二日目 双葉山(突き放し)鷹城山〈西前頭六枚目〉
三日目 大潮〈東前頭二枚目〉(寄り切り)双葉山
四日目 双葉山(寄り切り)若瀬川〈西前頭三枚目〉
五日目 瓊の浦〈西前頭七枚目〉(下手投げ)双葉山
六日目 双葉山(上手投げ)射水川〈東前頭六枚目〉
七日目 双葉山(寄り切り)大邱山〈西十両筆頭〉
八日目 双葉山(外掛け)吉ノ石〈東十両筆頭〉
九日目 双葉山(寄り倒し)巴潟〈西十両四枚目〉
千秋楽 双葉山(打っ棄り)古賀ノ浦〈西前頭二枚目〉
当時は東京で一月春場所、五月夏場所をやり、三月、十月に関西場所をやっていた。関西場所は新番付を作らず東京場所と同位置のままで取り、東京の二場所の成績で次の東京場所の番付を編成していた。しかし、昭和七年は春秋園事件のため異常な番付で春場所と名古屋が行われ、協会は先場所優勝、この場所八勝二敗の西関脇・清水川を大関へ昇進させた。幕内優勝は九勝一敗の小結・沖ツ海。双葉山も八勝二敗の好成績だった。
夏場所 五月十三日より十一日間 東京・両国国技館
双葉山 東前頭二枚目 二十一歳三カ月
初日 双葉山(踏み越し)幡瀬川〈西関脇〉
新進・双葉山と相撲の神様・幡瀬川との対戦。立ち上るや激しい突き合いから右四つに組んだ。双葉山が寄りたてると、幡瀬川は土俵を回って逃げ、そのとき土俵の外に足を踏み越してしまった。
二日目 清水川〈東張出大関〉(上手投げ)双葉山
双葉山が突っ込んだが、清水川は右四つに受け止め得意の上手投げで退けた。大関・清水川と特進組の双葉山との力の差が出た。
三日目 武蔵山〈西大関〉(寄り切り)双葉山
四日目 玉 錦〈東大関〉(極め出し)双葉山
五日目 若葉山〈東小結〉(押し倒し)双葉山
六日目 沖ツ海〈東関脇〉(突き出し)双葉山
七日目 双葉山(押し切り)巴潟〈東前頭六枚目〉
八日目 双葉山(寄り倒し)大邱山〈西前頭四枚目〉
九日目 双葉山(押し切り)出羽ケ嶽〈西付出〉
双葉山が巨漢に初挑戦した。双葉山が鋭く突っ込んで出羽ケ嶽を押したて押し切った。
十日目 双葉山(寄り倒し)古賀ノ浦〈西前頭二枚目〉
千秋楽 双葉山(掬い投げ)能代潟〈西張出大関〉
双葉山は六勝五敗と勝ち越した。特進組では双葉山が東前頭二枚目と最高位に上がり、早くも三役と顔を合わせた。しかしさすがに玉錦、武蔵山、清水川、沖ツ海という実力派には歯が立たなかった。
幕内優勝は東大関・玉錦。東張出大関・清水川も玉錦と同成績の八勝一敗だったが、規定によって玉錦の上位者優勝となった。
なお、この場所、双葉山の親友・巴潟(後の九代友綱・工藤誠一)が入幕し、七日目に双葉山と対戦した。
第二回大日本相撲選士権 六月五、六日の二日間。両国国技館
優勝は玉錦。選士権挑戦(三番勝負)は大関・玉錦が年寄・春日野に二連勝
京都場所 十月十三日から晴天十一日間。京都市東山三条
双葉山(東前頭二枚目)は蓄膿症手術のため全休した。
幕内優勝は大関・清水川(九勝二敗)。場所後の二十四日、番付編成会議で大関・玉錦が横綱に推挙され、十一月十七日、熊本市の吉田司家で、三十二代横綱免許授与式が行われた。露払い・双葉山、太刀持ち・大邱山。行司は式守伊之助から昇格した二十代・木村庄之助(昭和十年五月、人望、見識共に備わった名行司の証「松翁」の称号を与えられ、以降、番付上に冠した)。
2 昭和八年(一九三三年)
前年十二月、春秋事件で脱退した力士の大半が帰参し、この春場所から参加した。復帰組の土俵入りは別個に行った。
一方、天龍、大ノ里らは一月六日、大日本関西相撲協会を設立、二月十一日より大阪堂島ビル前で晴天七日間の旗揚げ興行を行った。これを機に大日本相撲協会は、昭和二年以来開催してきた関西本場所を廃止、東京での春秋二回の二場所制に戻った。なお、このときに天龍、大ノ里、錦洋、山錦は角界から追放された。関西相撲協会は、昭和十二年十二月までの四年間存続した。
春場所 一月十三日より十一日間 東京・両国国技館
前年十二月に脱退力士団から帰参した力士(十二人)を別番付として発表し、二枚番付とした。男女ノ川は、脱退前は朝潮の四股名で取っていたが、革新力士団では男女ノ川と名乗っていた。復帰の別番付では朝潮となっていたが、この場所では男女ノ川で土俵にあがった。
この場所は新横綱・玉錦の場所であった。これに加えて協会は、帰参力士たちを脱退時の番付位置に戻した。このため五枚目に下がった双葉山は、帰参力士たち(「別席」と表示)と対戦することになった。
双葉山は京都場所を休場したため、三枚下がって前頭五枚目になった。
双葉山 東前頭五枚目
(二十一歳十一ヵ月 一メートル七十四センチ、九十八キロ)
初日 双葉山(上手投げ)鏡岩〈別席〉
左四つからの上手投げ。
二日目 双葉山(寄り切り)海光山〈別席〉
三日目 双葉山(首投げ)宝川〈別席〉
四日目 双葉山(浴びせ倒し)大邱山〈東前頭筆頭〉
五日目 錦華山〈別席〉(つきひざ)双葉山
金華山の上手投げを双葉山は掬い投げに打ち返したが先に膝をついてしまった。
六日目 双葉山(打っ棄り)筑波嶺〈西前頭六枚目〉
七日目 双葉山(打っ棄り)新海〈別席〉
八日目 双葉山(寄り倒し)外ケ浜〈別席〉
九日目 双葉山(押し出し)出羽ケ嶽〈西前頭筆頭〉
十日目 朝潮改め男女ノ川〈別席〉(小手投げ)双葉山
連勝の男女ノ川との対戦。双葉山は突き立てて双差しとなったが、男女ノ川の小手投げに屈した。
千秋楽 双葉山(二丁投げ)若葉山〈西前頭二枚目〉
若葉山にハズで押し込まれたが、双葉山は二丁投げで逆転勝ち。
双葉山は九勝二敗の好成績を残した。対戦相手も大邱山と筑波嶺を除き、全て春秋園事件前の幕内力士ばかりであった。双葉山以外の特進力士たちも帰参力士に対してみな善戦した。(「第六章 「双葉関の思い出」参照)
幕内優勝は復帰別席の男女ノ川(十一戦全勝)。この場所から玉錦、武蔵山、男女ノ川、清水川、沖ツ海、高登の六大力士時代が始まり、双葉山時代までの相撲界を支えていくことになる。
夏場所 五月十二日より十一日間 東京・両国国技館
双葉山 東前頭二枚目 (二十二歳三カ月)
初日 双葉山(打っ棄り)錦華山〈西前頭六枚目〉
二日目 玉錦〈東横綱〉(突き出し)双葉山
三日目 清水川〈西大関〉(上手投げ)双葉山
四日目 男女ノ川〈西小結〉(突き出し)双葉山
五日目 沖ツ海〈東関脇〉(寄り倒し)双葉山
六日目 武蔵山〈東大関〉(下手投げ)双葉山
七日目 双葉山(上手投げ)瓊の浦〈東前頭筆頭〉
八日目 幡瀬川〈東前頭四枚目〉(打っ棄り)双葉山
九日目 綾桜〈東前頭六枚目〉(打っ棄り)双葉山
十日目 双葉山(打っ棄り)能代潟〈西前頭筆頭〉
千秋楽 双葉山(打っ棄り)吉野岩〈西前頭五枚目〉
幕内優勝は玉錦が横綱として初めての優勝を飾った。通算では六回目。
双葉山の成績は四勝七敗。二日目、玉錦に負けたが、これが横綱との初対戦だった。この場所、双葉山は上位の壁の厚さをいやというほど味わった。正攻法の双葉山の取り口では上位には勝てないという評価が大勢を占めていた。しかし、六日目、武蔵山に負けた一番は、双葉山の上手投げを武蔵山が下手投げに打ち返したもので、あわや双葉山の上手投げが決まったかと思われた。双葉山の切れのある投げの本領が垣間見えた一番だった。
五月二十七日 水交社天覧相撲 東京・芝公園水交社
玉錦が武蔵山を寄り切って優勝。
六月三、四日 第三回大日本相撲選士権
今年から年寄は参加せず、現役力士のみで行なった。選士権は前年に続き玉錦が獲得
十一月 明治神宮全日本力士選士権
玉錦が優勝。
この年七月三日、「力士会」(会長・玉錦、副会長・武蔵山)が発足した。
九月三十日、大関を目前にしていた関脇・沖ツ海(北城戸福松)が巡業先の萩市で河豚中毒死。二十四歳だった。沖ツ海は五月夏場所、十日目に大関・武蔵山と対戦、水入り二番後取り直しの後も水が入り、遂に引分けとなる大熱戦を演じた。
3 昭和九年(一九三四年)
春場所 一月十二日より十一日間 東京・両国国技館
横綱・玉錦が突き指のため休場した。
小結・男女ノ川が関脇に昇進した。
双葉山は、前年九月、河豚中毒で急死した関脇・沖ツ海にはこれまで二戦して二敗。大型力士の中で双葉山が勝てなかったのは沖ツ海だけだった。もし沖ツ海が健在であったなら、その後の双葉山時代も様子が変っていたことだろう。双葉山対沖ツ海の好取組はなくなったが、前年夏場所後の巡業での双葉山の充実振りが評判となり、協会も双葉山の活躍に期待をかけていた。
双葉山 前頭四枚目 (二十二歳十一カ月)
初日は五十銭均一の大衆デー。午前三時に開場、午前六時には満員木戸止めになった。なお昭和九年桝席の料金は一人三円五十銭。天丼四十銭、コーヒーは十五銭(「値段の風俗史」)だった。
初日 大邱山〈東前頭二枚目〉(寄り倒し)双葉山
立ち合い激しく突き合った。大邱山が右差しで寄れば、双葉山は回り込んで残し、左を巻き替えた。そこを大邱山が上手投げを打って崩し、すかさず寄り倒した。
二日目 男女ノ川〈西関脇〉(寄り倒し)双葉山
立ち合いに双葉山が左に飛んで上手を取ったが、男女ノ川がうまく体をあずけて寄り倒した。
三日目 双葉山(寄り倒し)瓊の浦〈東前頭六枚目〉
四日目 能代潟〈東小結〉(寄り倒し)双葉山
五日目 双葉山(打っ棄り)外ヶ浜〈西前頭十三枚目〉
六日目 双葉山(首投げ)大潮〈西小結〉
七日目 双葉山(突き倒し)新海〈東前頭四枚目〉
八日目 双葉山(外掛け)大浪〈西前頭六枚目〉
九日目 幡瀬川〈東前頭筆頭〉(寄り倒し)双葉山
十日目 双葉山(寄り倒し)綾桜〈東前頭五枚目〉
千秋楽 海光山〈東前頭九枚目〉(打っ棄り)双葉山
双葉山の成績は六勝五敗。横綱・玉錦と関脇・高登が休場。四枚目の双葉山にとっては先場所に較べて対戦相手に恵まれた。この場所も正攻法の相撲で、時には勝つための策があってもよいという批評も聞かれた。それに相手の声で立っていたため、まだ立ち合いの呼吸が吞み込めていないという指摘があった。しかしこの二点は双葉山本来のもので、この時代の双葉山は体重も軽く地力が伴っていなかったことと、他人には内緒にしていた失明の右眼に大きな欠陥があったことによる。
幕内優勝は関脇・男女ノ川(九勝二敗)。八年春場所に続いて二度目。一月二十三日の番付編成会議で男女ノ川の大関昇進が決定した。
夏場所 五月十一日より十一日間 東京・両国国技館
男女ノ川が大関に昇進した。一横綱(玉錦)三大関(武蔵山、清水川、男女ノ川)、関脇に老雄・能代潟と相撲の神様・幡瀬川が返り咲き、大邱山と鏡岩が新小結となった。双葉山は自己最高位の西前頭筆頭に進んだ。
双葉山 西前頭筆頭(二十三歳三カ月)
初日 新海〈東前頭筆頭〉(寄り倒し)双葉山
二日目 武蔵山〈東大関〉(寄り倒し)双葉山
右四つから武蔵山が双差しを狙ったが、双葉山は許さなかった。一呼吸後、武蔵山が吊り身で寄り立てると、双葉山は土俵際で打っ棄りをみせたが及ばず寄り倒された。
三日目 双葉山(下手投げ)能代潟〈東関脇〉
四日目 清水川〈西大関〉(外掛け)双葉山
右四つから清水川が双差しとなり、吊りに出るとみせて左から下手投げで双葉山を崩し、すかさず右外掛けで決めた。
五日目 双葉山(首投げ)土州山〈西前頭四枚目〉
六日目 玉錦〈東横綱〉(寄り倒し)双葉山
双葉山は右四つかたの強烈な下手投げで玉錦をぐらつかせたが、玉錦、よく残して寄り倒した。場所後、玉錦は双葉山について次のようにコメントした。
「双葉山の相撲はまともに出るので損だという人もあるが、まだ前途洋洋たる青年力士だから、これがかえって彼の将来を大きくするゆえんだと思う。堂々と戦ういまの取り口を賞賛すると同時に慫慂したい」
七日目 双葉山(掬い投げ)大潮〈東前頭五枚目〉
八日目 双葉山(打っ棄り)和歌島〈東前頭七枚目〉
九日目 高登〈東前頭三枚目〉(寄り切り)双葉山
十日目 双葉山(首投げ)鏡岩〈西小結〉
千秋楽 双葉山(首投げ)大邱山〈東小結〉
双葉山は千秋楽東小結の大邱山に勝って六勝五敗と勝ち越し、三役の切符を手中にした。この場所、大邱山が特進力士第一号の三役となり双葉山の好敵手とされていたが、大邱山は五勝六敗と負け越したため、次場所は双葉山と小結を入れ替わることになった。
幕内優勝は十一戦全勝の大関・清水川。清水川は七年春場所(関脇)、同年京都場所(大関)で優勝。通算三度目の優勝。新大関・男女ノ川は五勝六敗と負け越した。
五月二十七日
海軍経理学校天覧相撲 海軍経理学校
優勝は番神山(夏場所では西前頭八枚目)
六月四日
第四回大日本相撲選士権
大関・武蔵山が玉錦との三番勝負の末、初の選士権者に。
4 昭和十年(一九三五年)
春場所 一月二十一日より十一日間 東京・両国国技館
関脇に綾川と新海、小結に双葉山が昇進。巨漢・出羽ケ嶽は西十六枚目の幕尻まで下がった。
横綱・玉錦が年寄・二所の関を襲名、二枚鑑札が認められた。この場所、粂川部屋預かりだった新入幕の玉の海は元の二所の関部屋に復帰した。
明治四十年(一九〇九年)二枚鑑札で二所ノ関を襲名した関脇・海山は、翌年の一月場所に引退、友綱部屋に預けてあった内弟子を連れて二所ノ関部屋を創設した。弟子には恵まれなかったが、唯一、玉錦を大関に育てあげた。しかし玉錦の横綱昇進の直前に死去し、弟子は粂川部屋に預けられた。当時の二所ノ関部屋は稽古場さえなかったが、玉錦は猛稽古により一代で部屋を大きくし、関脇・玉ノ海、幕内・海光山などの関取を育てた。(昭和十三年十二月、玉錦が急死すると、翌年一月、関脇・玉ノ海が二十六歳で二枚鑑札で二所ノ関部屋を継承した。)
双葉山 東小結(二十三歳十一カ月)
初日 双葉山(二枚蹴り)新海〈西関脇〉
二日目 松前山〈西前頭筆頭〉(吊り出し)双葉山
三日目 錦華山〈西前頭四枚目〉(突き倒し)双葉山
四日目 双葉山(引き分け)武蔵山〈西大関〉
武蔵山が右で前ミツを取ると、双葉山も右を差して右四つになった。武蔵山が寄って出ると、双葉山は首投げで防ぎ、右四つとなってもみ合い、勝負がつかなかった。取り直し後も同じような相撲で、遂に引き分けとなった。
五日目 綾川〈東関脇〉(叩き込み)双葉山
六日目 玉錦〈東横綱〉(寄り倒し)双葉山
七日目 双葉山(突き倒し)番神山〈東小結〉
八日目 双葉山(下手投げ)高登〈西小結〉
九日目 双葉山(上手投げ)清水川〈東大関〉
十日目
能代潟〈東前頭筆頭〉(外掛け)双葉山
千秋楽 男女ノ川〈西張出大関〉(小手投げ)双葉山
双葉山が頭を下げて右で前ミツを引いて出たが、男女ノ川は突き放した。双葉山は出し投げ、下手投げ、首投げと連続して攻めると、男女ノ川は棒立ちとなった。そこを双葉山が左を差して寄れば、男女ノ川は強引に右小手投げで決めた。
双葉山は四勝六敗一分と負け越し、折角の三役も一場所で明け渡すことになった。しかしこの場所の双葉山の取り口を先代春日野は次のように賞賛した。
「武蔵山と堂々と四つに渡り合って、さすがの武蔵山も玉砕することができず、水入りの大相撲は近来の秀逸である。かてて加えて男女ノ川と堂々と渡り合ったところ、まさに三役の名を恥ずかしめない。」
幕内優勝は横綱玉錦。横綱として二回目、通算七回目の優勝。
四月 靖国神社奉納大相撲 東京・九段の靖国神社相撲場
夏場所 五月十日より十一日間 東京・両国国技館
横綱・玉錦に二連勝して安定した強みをみせている大関・武蔵山が横綱を賭ける場所であった。
巴潟が新小結(西)となった。双葉山は東前頭筆頭に降格した。
武蔵山の先輩で昭和の巨人といわれた出羽ケ嶽が、前場所西幕尻で三勝八敗と負け越したため西十両二枚目に下がった。出羽ケ嶽と入れ替わって笠置山が入幕した。初日、十両土俵入りに出羽ケ嶽が恥ずかしそうに入場すると、満員の観衆は大声援で迎えた。また笠置山も母校・早稲田大学の化粧廻し姿で現れると、「都の西北」の合唱と共に大拍手が沸いた。
双葉山 前頭筆頭 二十四歳三カ月
初日 鏡岩〈西前頭筆頭〉(寄り切り)双葉山
双葉山が突いて出ると、鏡岩も突き返した。追い込まれた双葉山は土俵を回り外掛けで防いだが、鏡岩は右を差し強引に寄り切った。
二日目 清水川〈西張出大関〉(上手投げ)双葉山
三日目 双葉山(上手投げ)新海〈東関脇〉
四日目 玉錦〈東横綱〉(寄り倒し)双葉山
五日目 双葉山(上手捻り)幡瀬川〈東小結〉
幡瀬川は右を差し、寄るとみせてサッと引き技をみせた。双葉山がぐらつくと、すかさず双差しになって寄った。双葉山は外掛けで防ぎ、左上手で捻って決めた。
六日目 男女ノ川〈西大関〉(浴びせ倒し)双葉山
双葉山が突っ張り、ノド輪で攻めたが、男女ノ川は動じなかった。双葉山が双差しになって出ると、男女ノ川はこれをカンヌキに極めて寄り進み、巨体を浴びせて倒した。
七日目 双葉山(打っ棄り)大邱山〈東前頭三枚目〉
双方右四つでもみ合い、大邱山の鋭い寄り身に土俵際に追いつめられた双葉山が弓なりになって打っ棄った。
八日目 武蔵山〈東大関〉(寄り倒し)双葉山
武蔵山が右を差して寄って出た。この寄りに双葉山は右へ逃げ、右で武蔵山の首を巻いてこらえたが、武蔵山はかまわず寄り倒した。
九日目 巴潟〈西小結〉(押し出し)双葉山
十日目 双葉山(押し出し)出羽湊〈西前頭7枚目〉
千秋楽 綾昇〈西前頭五枚目〉(内掛け)双葉山
綾昇が右から左と双差しになり、足クセで双葉山を脅かした。双葉山は左を巻き替え左四つになったが、綾昇は体を寄せて内掛けで倒した。
双葉山は四勝七敗と二場所続けて負け越した。ファンは双葉山に絶望した。双葉山自身も「果たしてやっていけるだろうか」と悩んだ。しかし本人にとっては相撲が面白くなってきた時期であり、身体も充実してきていたが、体重はまだ九十八キロで百キロに満たなかった。
幕内優勝は横綱玉錦(十勝一敗)。春場所に続いて横綱として三回目、通算八回目の優勝を遂げた。土俵は一人横綱・玉錦の時代となった。
場所後の五月二十一日、次場所の番付編成会議開かれ、大関・武蔵山の横綱が決定、六月に昇進した。武蔵山の夏場所の成績は九勝二敗だったが、三場所合計二十六勝六敗一分の成績が認められた。二十五歳でのスピード出世は「飛行機」と称され、筋骨逞しい身体と都会的なマスクで女性に人気があった。
同日、第二十代木村庄之助に「松翁」の称号が許された。松翁は行司最高の栄誉で天保年間の八代庄之助以来二人目。
五月二十四日 台湾震災寄付大相撲 東京・両国国技館
五月二十七日 水交社天覧相撲 東京・芝公園 水交社
準決勝
武蔵山(寄りきり)旭川
双葉山(寄りきり)玉錦
決勝
武蔵山(押し倒し)双葉山
六月一日 第五回大日本大相撲選士権
第一部準決勝
綾昇(外掛け)双葉山
優勝は昨年に続き武蔵山。三番勝負で玉ノ海(夏場所は東前頭十二枚目)に勝った。
十一月三日 明治神宮全日本力士選士権
優勝は大関男女ノ川。
第四章 六十九連勝始まる
1 昭和十一年(一九三六年)
一月五日、春場所番付発表。武蔵山が横綱となり六年ぶりに二横綱となった。
相撲史にあっては双葉山が、春場所六日目、玉錦に敗れた翌七日目から六十九連勝のスタートを切った。五月場所、双葉山は初めて玉錦に勝ち、覇者交代の時期を迎えた年であった。
春場所 一月十日(金)より十一日間 東京・両国国技館
この場所、武蔵山が新横綱として登場した。当時最大の人気力士は、前年の春夏と連続優勝した東の正横綱・玉錦ではなく、武蔵山であった。武蔵山は前場所千秋楽、横綱を賭けた一番で玉錦に敗れた。そのとき女性ファンの悲鳴は国技館の大鉄傘を貫くほどだった。場所後、玉錦には敗れたものの九勝二敗の武蔵山は横綱に推挙された。武蔵山の横綱になる前二場所の成績は、昭和十年春が八勝二敗一分、夏が九勝二敗。玉錦の昭和七年春八勝一敗、夏十勝一敗に較べると甘い。ひとり横綱の現状ということもあり、武蔵山人気に便乗した推挙であった。
一方、双葉山は前年の春場所、東小結で四勝六敗一引分、夏場所が東前頭筆頭で四勝七敗。合わせると八勝十三敗一引分で前頭三枚目に下がってしまった。双葉山は、当時、新聞に将来に期待が持てないと書かれたことで自分の力量に失望した。そして前頭の収入では父親の借金(当時の金で五千円)返済の目途が立たないという絶望を味わった。そこで大分の父親に廃業の決意を告白した。しかし、周囲の説得と激励で廃業を思いとどめた。(「第六章 双葉関の思い出」参照)
双葉山 東前頭三枚目
(二十三歳十一カ月 身長一七九センチ 体重 一〇九キロ)
初日
新海〈西前頭五枚目〉(打っ棄り)双葉山
二日
双葉山(下手投げ)武蔵山〈西横綱〉
立ち合い突き合って右四つ。双葉山は左の上手を取って寄る。武蔵山は左から上手投げを打ったが双葉山は右から下手投げを打ち返した。初めて武蔵山に勝った一番。なお、武蔵山は八日目、右腕痛と胃潰瘍のため途中休場。
三日目
双葉山(打っ棄り)清水川〈西大関〉
四日目 双葉山(打っ棄り)鏡岩〈西関脇〉
五日目 双葉山(上手投げ)男女ノ川〈東大関〉
双葉山が立ち合いから積極的に突いて出た。左を差し右からの攻めに男女ノ川は土俵際に詰まったが残して寄り返した。土俵中央でひと呼吸の後男女ノ川は双葉山の左を右で抱えて小手に振ったが双葉山は二枚腰でよく残した。なおも男女ノ川が出ようとするところを右からの上手投げに決めた。
武蔵山に次いで男女ノ川にも勝ち、勝っていないのは玉錦だけとなった。
六日目 玉錦〈東横綱〉(引き落とし)双葉山
双葉山は頭を下げて激しく突いたが出足が伴わない。双葉の腰が伸び、玉錦が右から肩すかし気味に引き落とした。
勢いに乗って出る双葉山を玉錦はうまくさばいた。今場所大敵を撃破してきた双葉山も玉錦には勝てなかった。玉錦に敗れたことで双葉山の目標が玉錦ひとりに絞られた。この敗戦が六十九連勝直前の敗戦である。
六十九連勝仮想実況放送
一勝目
七日目 一月十六日(木)
双葉山(打っ棄り)瓊(たま)の浦〈西前頭四枚目〉
アナウンサー 両者立ち上がった。直ぐにがっぷり右四つに組みました。瓊、しきりに左を捲きかえようとしています。これを双葉、許さない。左四つ得意の瓊の浦にとっては、この体勢は不利であります。瓊、右から櫓投げをみせた。瓊、吊り身になって東土俵に寄った。寄った。双葉、俵に足がかかった。瓊、外掛け。双葉、こらえた。双葉こらえた。双葉、右へ切り返した。双葉、打っ棄り。双葉の切り返し気味の打っ棄りが決まりました。
解説者 双葉山は終始守勢でしたが、幸いにも土俵際で瓊の浦が外掛けにきたので見事に打っ棄りが利きましたね。土俵際の外掛けや内掛けは無謀というほかありません。まあ瓊の浦としては双葉山に十分に組まれていましたので、あれ以上の攻めを望むのは無理でしょう。
二連勝
八日目 十七日(金)
双葉山(二枚蹴り)出羽湊〈東前頭五枚目〉
アナ 体が柔らかく腰がよい双葉山、対しまして出羽湊は筋肉質で力が強い。ともに右のあい四つであります。さあ立あがった。双方右下手を引きました。左上手も引きました。がっぷりの右四つであります。出羽しきりに櫓の気を見せております。対して双葉、腰を低くして慎重に構えています。出羽、蹴返した。双葉も二枚蹴り。双方足技で応酬しております。出羽、上手投げ。双葉残りました。双葉、出羽、土俵中央で動きが止まりました。…ついに水入りであります。
さあ試合再開であります。がっぷり右四つのまま双方動きません。慎重であります。このままいけば引き分けか二番後取り直しになりそうであります。あっ、双葉、右足をとばし二丁投げにいった。続いて内掛け。出羽、残した。双葉、二枚蹴り。出羽、たまらず左へ横転しました。双葉山の連続技の急襲が功を奏しました。
解説 出羽湊としては立合い咄嗟に櫓に振れなかったのが最も大きい敗因でしょうねえ。双葉山は取りにくい出羽湊に対して焦らず待機したうえ、見事曲者を討ち取りました。組んでからの技はともに変化がありますが、出羽湊は体が軽いだけに勝負が長引くと不利ですねえ。
三連勝
九日目 十八日(土)
双葉山(打っ棄り)綾 昇〈東小結〉
アナ 立あがりました。双葉激しく綾の喉を攻めた。双葉のノド輪。綾これをよくこらえて残した。綾、右をはずにして押し戻した。双方、土俵中央でがっぷりと右四つになりました。双葉、綾、ともに技を仕掛ける機をうかがっております。綾、一歩寄った。左から強引な上手投げ。双葉、残しました。綾、寄った。双葉後退、双葉後退。双葉の足が俵に掛かった。双葉、残った。残った。双葉、綾を大きく右に打っ棄った。双葉、辛くも打っ棄りで勝ちました。
解説 綾昇は勝ちを焦りましたねえ。打っ棄りに対する腰の備えがありません。双葉山の思う壺にはまってしまいました。双葉山が綾昇の仕掛けを待ったのは、双葉山の相撲に一日の長があるのでしょう。まあしかし今場所の双葉山は勝ち運にめぐまれているのだから、もっと積極的な取り口を示してほしいものです。
四連勝
十日目 十九日(日)
双葉山(下手投げ)笠置山〈東前頭二枚目〉
アナ 笠置山は左、双葉山は右の喧嘩四つ。しかし双葉は左でもかなり取ることができます。笠置は得意の左を差して土俵際まで寄ったとしても、双葉には打っ棄りの手がありますから十分注意しなければなりません。
さあ行司軍配がかえった。双葉、突っ張った。笠置右にひらいた。笠置、双葉の前ミツを右から押しつけ寄った。双葉のこした。双葉、右がはいった。双葉、下手投げを打って寄り返した。両者がっぷり右四つに組みました。双葉、なかなか攻めません。笠置、右の蹴返しをみせた。双葉、動じません。今度は双葉、右の二枚蹴り。笠置、のこした。左を一歩踏み出した。双葉、右の下手投げ。笠置、左から体を寄せた。笠置、わずかに先に落ちたか。軍配は双葉山。双葉山の下手投げの勝ちであります。
解説 好勝負でしたねえ。どちらも新進気鋭の花形力士だけに、土俵上に火花を散らしました。双葉の勝因は右四つに組み止めた点です。それだけ双葉の相撲に強みがあることを裏書きしたといえますねえ。双葉山の四連勝はいずれも紙一重の勝利です。どちらが勝ってもおかしくないという相撲です。しかし双葉山の相撲はそこを勝ってゆくところが強くなった証拠ですね。春日野さんが「双葉は誰とやってもちょっとだけ強い」と言っているのも肯けます。
五連勝
十一日目・千秋楽 一月二十日(月)
双葉山(すくい投げ)駒の里〈西前頭十枚目〉
今場所の双葉山
双葉山の正攻法の取り口は、格上の敵に対していわゆる番狂わせを演じるということはなかった。たとえば大邱山が女ノ川を捨て身の首投げで倒したような派手な相撲は取れなかった。おそらく双葉山の相撲に対する信念がケレンな相撲を取らせなかったのだろう。それまで玉錦、武蔵川、男女ノ川、清水川といった地力のある上位力士に勝てなかったのも、体重百キロに満たない非力な双葉山の正攻法の取り口にあった。ただ双葉山には無類の※二枚腰があり、土俵際打っ棄りで勝つことが多く、「打っ棄り双葉」と揶揄されていた。
ところが前年春場所に武蔵山と二度の水入りの後の引き分け、清水川には上手投げで勝ち、かなり力がついてきたことを示した。そして今場所を九勝二敗の準優勝で飾り、ついに武蔵山、男女ノ川を破り、歯の立たなかった二人と五分あるいはそれ以上に戦えることを証明した。
※双葉山自身は二枚腰について、「いっぺん腰が崩れても、もう一つの腰が残っているというほどの意味でもあろうかと思います。だとするならば、これは自分でも自覚していたところなのです」と語っている。(『相撲求道録』)
夏場所
両国国技館 五月十四日(木)~二十四日(月)の十一日間
双葉山(西関脇)二十四歳三ヶ月
双葉山は昭和十年春場所の小結以来の二度目の三役。それも小結を飛び越えての新関脇の場所である。今場所は男女ノ川が横綱に昇進して、玉錦、武蔵山、男女ノ川の三横綱となった。このため番付は体裁上、男女ノ川は大関と横綱を兼務し、横綱大関と称した。先場所の武蔵川に続く横綱昇進であったが、二人とも玉錦には分が悪く、昇進基準は武蔵山の時同様甘かった。(十年夏八勝三敗、十一年春九勝二敗)。二人とも横綱という看板は立派だが相撲内容はいまひとつであった。なお、十両幕尻の出羽ケ嶽は休場のため幕下へ転落した。
双葉山は春場所後の巡業中に体重が増え一〇九キロとなった。当時双葉山贔屓の相撲作家・鈴木彦次郎は大きくなった双葉山の後姿を見て、はて誰だろうと、前へ回って見たほどだったという。双葉山は稽古中の強さも増し今場所は大きな期待がかけられていた。
関脇に昇進した双葉山は、名を定次から定兵衛と改めた。祖父を偲んでの改名だったが、そこへ思いがけない祖母の死が、郷里から送られて来た大分新聞に掲載されてあった。直ぐに電報を打ってその事実を確認した。祖母は臨終の床で大事な本場所を控えている双葉山の気持を逸らせぬよう「定次には知らせるな」と言い遺した。双葉山は九歳の時に母に死に別れた。その後はこの祖母に育てられた。祖母を母と思い慕っていた双葉の悲嘆は深かった。「おばあさんの気持を汲み落胆しないでがんばってくれ。定次の出世が一番の供養になるのだ」と父から便りが来た。従ってこの夏場所は双葉山にとっては、亡き祖母へはなむけする弔い合戦だった。元来信仰心の強い双葉山、自身、必死の覚悟で土俵に臨んだと言っている。
六連勝
初日 ― 五月十四日(木)
双葉山(上手投げ)新 海〈東前頭三枚目〉
アナ 双葉山は今場所も先場所同様、しょっぱなに新海をぶつけられました。双葉は新海とはこれまで一勝二敗と分が悪く、足癖の蛸足・新海を苦手にしております。
さあ、双方立った。小兵の新海、素早く双葉の懐に入りました。新海、双差し。新海、右内掛けに出た。双葉、これに対して慌てません。双葉、左上手から抜き上げるような大きな上手投げ。きれいに決まりました。
七連勝
二日目 ― 十五日(金)
双葉山(上手投げ)両國〈東前頭一枚目〉
アナ 瓊の浦改め両國。双葉の六連勝は先場所七日目の二人の対戦から始まっております。左上手まわしを引けば負けないという双葉は元気一杯。それに対しまして左に下手まわしを取れば水車のような早業、櫓投げがある両國。この一戦、喧嘩四つの差し手争いがどうなりますか。
さあ双方気が合って立ち上がった。両国の右がずぶりとはいりました。双葉もすばやく左上手を引いた。双葉、右ノド輪で両國に左をとらせない。双葉寄った。両國半身になって左で双葉の手首をつかんだ。両國喉輪をはずした。しかし両國後がない。双葉、上手投げ。見事に決まりました。
解説 双葉が右から右からと攻めたのはすこぶる味のあるところで、両國は体のない悲しさ、あの喉輪を防ぐことがすべてでしたね。両國は立合い素早く双葉に左上手を引かれて、左が差せなかったのが敗因でしょう。双葉山の順当な勝利でした。
八連勝
三日目 ― 十六日(土)
双葉山(下手投げ)駒の里〈西前頭二枚目〉
アナ 今場所、双葉山も駒の里も元気一杯であります。満場この一番に期待が盛り上がっております。
さあ、行事・木村玉之助の軍配が返った。駒、右の前ミツを取った。左をはずにして寄った。なおも寄った。双葉残した。双葉右を差した。双方、土俵中央に戻りました。駒、ふたたび寄った。双葉、右へ回った。双葉、右からの強烈な下手投げ。見事に決まりました。
解説 いい勝負でしたね。しかし上背のない駒の里はあれが精一杯。双葉は長身と腰の重さと、稽古十分の賜物の一番です。
九連勝
四日目 ― 十七日(日)
双葉山(下手投げ)笠置山〈東前頭三枚目〉
アナ 今場所の双葉山は初日から四連勝と破竹の勢いであります。対する笠置山は四連敗。今日あたり強敵双葉を破って面目回復といきたいところ。双葉の左四つに笠置は右四つの喧嘩四つ。この一番差し手争いが見ものであります。
両者立ち上がりました。笠置、頭から当たりました。左差しをねらっております。しかし双葉、差させません。猛烈な差し手争いです。笠置、右を差しました。笠置、猛烈に寄った。双葉、笠置の差し手を左から巻いて引き上げた。双葉、左で上手まわしを引き懸命に寄り返した。笠置ふたたび東土俵へ寄った。双葉こらえた。双葉、また寄り返した。今度は笠置、こらえて右へ回った。笠置、苦しい。双葉、右を差した。強烈な引きつけ。双葉、下手投げ。決まりました。今場所も笠置山の雪辱は成りませんでした。
解説 笠置山も精一杯奮闘しました。双葉を土俵際へ追い詰めたとき、いまひとつ力があれば勝っていたかもしれませんね。しかし、やはり双葉の打っ棄りを警戒して寄り立てることができませんでしたねえ。それにしても立合い笠置山の意外の右差しは双葉の機先を制しました。まあ今の双葉にはこの注文相撲は無理でしょうね。
十連勝
五日目 ― 十八日(月)
双葉山(寄り切り)出羽湊〈西前頭筆頭〉
アナ 双方立ち上がるなり右四つに組み合いました。双葉、得意の左上手をしっかりと引いております。出羽、左を捲きかえようとしますが双葉これをゆるしません。双葉、寄った。出羽、二枚蹴り。続いて下手投げ。これは双葉には効きません。双葉、出羽の体をぐいと引きつけました。双葉、寄った。腰を落としてじりじりと寄った。双葉そのまま寄り切りました。
解説 双葉の完勝ですね。双葉は今場所連日の好成績ですが、寄り身らしい寄り身がないですね。欲を言えば、もっと積極的な相撲も見たいものです。
十一連勝
六日目 ― 十九日(火)
双葉山(上手投げ)綾昇〈東小結〉
アナ さて今日は、あの世界の喜劇王・※チャップリンさんとフランスの詩人の※ジャン・コクトーさんが桟敷席にみえております。チャップリンさんの相撲観戦は昭和七年の夏場所以来四年ぶりです。コクトーさんは八十日間で世界をまわる旅の途中で日本に立ち寄ったそうであります。大相撲がお二人の青い眼にどのように映っているのでしょうか、興味のあるところです。
さて今場所最初の三役同士の対戦であります。今場所の興味の中心は鏡岩、双葉山、そして綾昇の大関争いでありますが、綾昇は場所直前に左足を傷めて踏んばりがきかず得意の足くせを発揮することができません。五日目まですでに三つの黒星でありますが、昨日の一番から足の包帯もとれて具合は良くなってきた模様であります。綾昇にとっては是が非でも勝っておきたい一番であります。一方の双葉山、初日以来堅実な相撲ぶりを見せて連勝を続け、いたって元気であります。
さあ木村玉之助の軍配が返りました。綾、右を差そうとしますが、双葉差させません。結局がっぷりの右四つとなりました。双方土俵を右へ右へ回っております。双葉、右下手からの下手捻り。綾、こらえた。双葉ふたたび下手捻り。綾こらえました。双方土俵中央で動きが止まりました。
…行司・玉之助、双方に水入りを伝えました。水入りまでの試合時間は何と五分二十秒であります。
試合再会であります。玉の助、足の位置を確かめて双方のまわしをポンと叩いた。双葉、右の二枚蹴り、続けて蹴返し。双葉、吊り身になって正面に寄って出ました。綾、左足をとばし打っ棄り気味に吊った。綾、今度は右の内掛け、続けて下手投げ。双葉、掛けられた足をはねあげた。すぐに上手投げ。上手投げ。双葉の投げが豪快に決まりました。
水入り後の試合時間は三分五秒、合計八分二十五秒の大一番でした。
解説 敗因は無理な内掛けですね。綾はひとまずじっと引き分けになるのを待って、あらためて立ち合うべきだったと思います。これで双葉は大関の第一関門を突破しましたね。
次に記すのは、ジャン・コクトーの『僕の初旅・世界一周』(ジャン・コクトー全集Ⅴ評論)より抜粋した大相撲印象記である。案内したのは画家の藤田嗣治と詩人の堀口大学。コクトーの文章は堀口大学の翻訳によるもの。
『翌日、重苦しい午前のあとで、フジタと堀口が、僕らを国技館へ相撲見物に案内してくれた。聞けば、興行は早朝から始まっているのだそうだ。
入口の一つにたどり着くまでに、沼のような泥濘(ぬかるみ)を渡らなければならない。屋台店が出ていて、羊羹だの蜜柑だの、お土産だの、人気力士の絵葉書だのを売っている。スペインの闘牛場の雑閙(ざつとう)そのままだ。ふと気づくと、僕はいきなり、巨大なサーカスの中に来ている。高い天井まで見物人でいっぱいだ。座布団や、空(から)の土瓶や、蜜柑の皮や、下駄やフェルト帽やの敷藁の上いちめんに、人間の詰まっている桟敷の仕切りに、僕はつまずいて倒れそうになる。或る名士が、僕らを自分の桟敷に入れてくれた。椅子のない地べたに、ぺったり坐って見物するのだ。サーカスの真中に、土俵が小高く築かれている。白、黒、緑、赤の四本の柱が、塔のような屋根を支えている。空色の総紐(ふさひも)で吊るし上げた紫の垂幕が、土俵の上に引き廻されている。天上の硝子(がらす)屋根のまわりには、学生や兵隊からなる鈴なりの人間の上に、年々の優勝者の巨大な額が掛け連ねてある。
土俵の上では、銀のキモノ、漆(うるし)の烏帽子、昆虫の触角という扮装(いでたち)に、彼等の職権を象徴する硝子(がらす)無しの鏡のようなものを持ち添えた行司に見守られて、両力士は、互いに観察し合っている。立合いはほんの数秒しかかからないのだが、仕切りの一度一度が、沈黙に区切られる叫喚の嵐を捲き起す。力士たちは、桃いろの若い巨人で、シクスティン礼拝堂の天井画から抜け出して来た類(たぐい)稀な人種のように思える。或る者は伝来の訓練によって、巨大な腹と成熟しきった婦人の乳房とを見せている。ただし、この乳房も腹も、決して肥大漢のそれではない。それは古昔(むかし)の美学に準拠して特殊の割合で分布された力を示している。他の者は、僕等の国の競技場で見かけると同じ筋骨を見せている。くすんだ色の腹巻が腰を巻き、股間を過ぎ、臀を割り、つっぱらかった縄の廻し(スカート)を腰のまわりにぶら下げている。蹲(しゃが)む時、これ等の縄が後方へ逆立って、彼らに雄鶏か山荒しのような姿を見せてくれる。いずれのタイプの力士も、髷を戴いて、かわいらしい女性的な相貌をしている。頭の真中にのっかった油で固めた上向きの束ね髪、うしろは扇の形に広がって。
浄めの塩を土俵に振りまいてしまうと、両力士は股をひろげ、両手を腿にあて、悠々と、力をこめて交互に片足ずつを踏みしめる。この熊踊りが、両者の筋肉を準備する。彼らは向い合って身をかがめ、何やら絶対な一瞬を、平衡の奇跡を、気合の投合を待つものらしい。
両者は互いにきっかけを狙い、呼吸をはかり、緊張したかと思うと、ふと言い合わせたように力を抜き、ポーズを崩し、見向きもせずに、土俵を下りる。行司はこの実りのない試みに十分間を与える。突如に電流が通じる、巨大な肉塊が、打合い、摑み合い、叩き合い、蹴合い、地から抜き合うと見る間に、写真師の稲妻一閃、人間の巨木がマグネシウムの雷に根こそぎされて土俵の下へころげ落ちる。
最後の一つ手前の一番は近代風な体格の、鼻の低い美丈夫と、拳闘家のほっそりした腰の上に太鼓腹をのっけた仏陀のような、土つかずの勇士を闘わせた。僕ら稀有な好取組に恵まれた。両力士が立上って四つに組むと同時に、完全な平衡が双方を絶対不動の位置においてしまった。目を細くしてじっと見ているとただ一頭の巨獣、この不動の二つの肉体から成る桃いろの一頭の牡牛が見えるだけだ。この橋の形の不動が、いつまでもつづくので、場内には誰一人、息をつく者もなく、人は疑うのだった。いつかこれが終る時があろうかと、もしかすると二つの相搏(う)つ力が、目の前で化石してしまうのではないだろうかと。この平衡が堪え難いものになって来る、軍配の合図で、行司が二つの肉体を引き離す。喝采が起る。水入り後の両力士は、同じ体勢を見出さなければならないのだが、精気の分配は、とかく同じとは行きかねる、それかあらぬか、両者が土俵へ上り、組み直す一瞬、見物は敬意に満ちた沈黙のうちに息を殺してこれを見守る。するとまたしても、不動の平衡が出来上る。やがて足が絡み、やがて帯と肉との間に指がもぐり込み、まわしのさがりが逆立ち、筋肉が膨れ上がり、足が土俵に根を下ろし、血が皮膚にのぼり、土俵一面を薄桃いろに染め出す。不意に「土つかず」が藁屑ほどの隙をを見つけ、呼吸をはかって平衡を破る。マグネシウムが閃いて、人体が作っていた橋杭の一本が抜けて飛び、逆しまに倒れる。
勝力士は土俵に塩をまく。負けた方が起き上がり、土俵の一角にのぼり跪いて頭を下げる。
この場所もまた、この相撲界の偶像が、優勝盃を受けるはずだ。そして彼の写真が、菊五郎のそれと一緒に、商売女の部屋を飾るはずだ。支度部屋へ案内される。円天井の廊下みたいなところで、女のように優しい目付きの、女のように髪を結った桃いろ大理石の若い神々が、風呂を浴びている。或る者は湯気の雲に包まれて湯を浴び、或る者は白牡丹を染め抜いた黒字の着物を着て徘徊し、また或る者は蓬髪の下から僕らに微笑を送っている。この連中は、ちゃんと立派に油で固めた髷が結えるまでこうしてもじゃもじゃさせて待っているのだ。
僕は勝って引揚げて来た横綱に近づく。彼は石の台座にあぐらをかいて、折から床山に漆のような髷を結わせているところだ。黒漆に赤漆。この無邪気な巨人は、全身が桃いろですべすべしている。写真師のために並んで立った僕は、大きな桃いろの復活祭の卵によりかかっているような気持だ。フィレアス・フォッグとパスパルトゥーに取巻かれたこの横綱の写真は、翌晩僕らが見物に行った玉の井の入口で、僕らを待ち受けることになる。』
文中、「そして彼の写真が、菊五郎のそれと一緒にフアンの部屋を飾る筈だ。」とあるのは、前日、歌舞伎座で六代目尾上菊五郎の『鏡獅子』を観たことによる。
また、『相撲』(昭和十一年六月号)に寄稿した文章には、
『私は今度、日本独特のスポーツである相撲を初めて観た。競技そのものも面白かったし、競技場を埋める大観衆の熱狂ぶりも面白く感じた。それにあの競技場の建築も、こせこせしたところがなく、線がのびのびとしていて気持が良い。
力士の体については、―これは逆説的な言い方かも知れぬが―彼等の体の線には、「不均衡の美」というものがある。特殊の筋肉美であるから、美術的な鑑賞の対象にも十分なると思う。
それから特に面白いと思ったのは、「仕切」というものである。意味を聞きながら観ると、非常に味のあるものであることが判った。私も思わずつり込まれて、体を固くしてしまった。「仕切」は、片方が相手の隙を窺って、自分のコンディションの良い時に立つのではなく、二人の呼吸がぴったり合った時にはじめて立つという意味を聞いて、大変すがすがしい感じをうけた。
玉錦と支度部屋で写真を撮った―私は爪楊枝、彼は吐月峰。この記念写真は、今度の旅行で一番良い土産になった。』
なお同月の『相撲』には当時序二段で日系二世の福錦がチャップリンにインタビューした記事も載っている。
『チャップリンが相撲を見に来たのは五日目と六日目の二回でした。そして始めの日は午後一時半頃、翌日は午後三時半頃から来ました。
始めて来た日に「仕切り」を見て、「待った」をやるのがどうしても解らなかった様子で、「一方が立ったのに、どうして相手が立たないのか」と尋ねられました。そこで「呼吸」が合わなければ立てないのだ、ということを、いろいろ工夫して言葉を換えて説明してやりましたが、なかなかのみこめないので困りましたが、最後に「ファイティング・スピリッツがイクオールになった時に立つのだ」―闘争精神が合致した時に立つのだ―というように説明してやって、漸く納得させました。
この問題でも解るように、私達が何の説明も加えられず、自然に体得しているところの「立ち合いの呼吸、阿吽の呼吸」などというものは、ひとりチャップリンばかりでなく、外国人にはなかなかのみこめないものと思われます。
それから、「相撲はボクシングの稽古のためになるか」という質問を受けましたが、ボクシングのことは私はよく知らないので、私の答えたことが当っているかどうか解りませんが、兎に角こう返事をしました。「ボクシングの方は腰を軽くして足の運びを軽く速くするように稽古をするが、相撲はなるべく腰を重くして、しかも足を速く運ぶように稽古をする。いわば重心の置き方が違うから、相撲がボクシングの稽古のためになるかどうかよく解らない」と言ってやりました。もし相撲がボクシングの技量を向上させるために役に立つものならば、それを取り入れようと思ったのかどうか解りませんが、一々ボクシングを土台にして解釈しようとしていたことだけは解りました。
そういうようにボクシングを土台にして考えている故か、相撲の体が大きいことは余り注意を惹かなかった様子で、日本人としては立派な体だと褒めて、食べ物は普通人と較べて、どの位まで多く食べるか、などと尋ねていましたが、体が大きいから食べ物も多く食べるだろう、という考えは日本人でも一般にあるようですから、あまり面白い話でもありますまい。
しかし、ボクシングやレスリングでは重量で等級を定めて、同量の者同士を組合わせているので特に体の大小が目立つような組合わせはありませんので、相撲が体の大小、力の有無に関係なく組合されて、力の不足を技で補うというところに興味を惹かれたらしい様子で、体の大きい者が小さい者に勝った時は、当り前というような顔をしておりましたが、体の小さい者が大きい者を倒すと、手を叩いて喜んでおりました。大きい者が必ずしも小さい者に勝てるものではないということは、チャップリンのみならず一般の外国人が興味を持つ点だろうと思います。
※ ジャン・コクトー(一八八九―一九六三) フランスの作家、詩人、劇作家、画家、脚本家、映画監督。昭和十一年(一九三六年)日本を訪れ、相撲と歌舞伎に感心し、相撲を「バランスの芸術」と呼び、六代目尾上菊五郎に会って握手したが、その際、白粉が剥げないように気を遣ったため菊五郎を感心させた。この時観た鏡獅子が、後の『美女と野獣』のメイクに影響した。周防正行監督の映画『シコふんじゃった。』の冒頭で柄本明演じる大学教授が、この相撲見物の一節を読み上げる場面がある。
※ チャールズ・チャップリン(一八八九―一九七七) イギリスの映画俳優、映画監督。昭和七年(一九三二年)に日本を訪れたときは、映画『街の灯』の宣伝を兼ねた世界一周の途中だった。五月十四日、神戸に上陸して上京。同夜、東京駅で大歓迎を受ける。犬養首相とも会食の予定だった。翌日、大相撲を見物したあと、五・一五事件を知る。チャップリン自身に対しても「日本に退廃文化を流した元凶」として、暗殺が画策されていた。相撲見物がチャップリンの命を救った。
【参考】チャップリンとコクトーの出会い
一九三六年(昭和十一年)コクトーは日本へ向かう船内でチャップリンを見かけた。すぐさま船内で手紙を出した。「ぜひお目にかかりたい、一杯どうですか」。チャップリンは最初、「ジャン・コクトー」の署名をみて「きっとニセモノに違いない。あの洗練されたパリジャンが、こんな南シナ海の真中で何用がある?」と信じなかった。しかし会ってみると本物だった。しかしコクトーは英語がまったくだめ、チャップリンもフランス語が話せないという状況。それでも身振り手振りで通じていく。芸術や哲学など朝の四時まで話し続けた。コクトーはチャップリンから歌舞伎のことを教わって六代目尾上菊五郎の「鏡獅子」などを見て感激。日本の芸術や人柄にふれ二人は共に離日した。船がサンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジに近づいたころチャップリンはコクトーの耳元でささやいた。「私たちは野蛮人の許に帰っていくのだよ」と。
十二連勝
七日目 ― 二十日(水)
双葉山(寄り切り)玉の海(西前頭七枚目)
アナ 玉の海は双葉山と同い年でありますが、玉の海の初土俵は昭和五年十月、双葉山は昭和二年の三月でありますから玉の海が三年半も遅い。この場所初めて顔が会うという一番であります。
さあ軍配が返った。玉、右を差した。双葉も同時に左上手を引いた。玉、双葉の右を差させないように双葉の手首を押さえている。双葉、引き摺るような上手投げ。玉、残った。ここで双葉、右も取りました。双葉、じりじりと向正面に寄りました。双葉、寄った。寄った。そのまま一気に寄り切りました。
解説 双葉は四つになると、じっくり取るようになりました。昨日の綾昇にしても今日の玉の海にしても奇策を用いる術がありません。もっとも玉の海も双葉山同様、真っ正直な取り口ですので、この初対面の一番は双葉山に相撲を取らせてもらえませんでした。双葉の充実した進境が窺われる一番でしたね。
十三連勝
八日目 ―二十一日(木)
双葉山(打棄り)鏡岩〈東関脇〉
アナ 東西の両関脇、昨日まで共に七連勝と勝ちっぱなし。双方大関を賭けての一戦であります。本日はこの好取組によって午前中札止めとなっております。立ち合いといい取り口といい、いよいよ悠々迫らざる風貌を具えてきた双葉山に対しまして、大器晩成、研鑽よく揺るがぬ堅牢味を加え充実した鏡岩。まさに今場所一番の好取組であります。
双葉は右、鏡は左の喧嘩四つ、さあ立った。鏡、頭をつけて双差し。鏡、押した。双葉、こらえた。双葉、巻き返した。双方ここでがっぷり右四つとなりました。鏡、左上手から捻った。鏡、寄った。双葉、右の二枚蹴り。双葉、寄り返した。両者、土俵中央に戻りました。大相撲であります。大相撲であります。双方大きく息を整えております。あっ、鏡、猛然と二枚蹴り。双葉の体が崩れた。鏡、寄った。寄った。双葉、危ない。双葉、俵に足がかかった。双葉、こらえた。双葉、こらえた。双葉、右へ大きく打棄った。双葉の打っ棄り。絵に描いたような打っ棄りが決まりました。先場所に続いて鏡山を打棄りで屠りました。
解説 左を得意とする鏡岩が双葉山に右を引っ張りこまれたあと、巧みに巻き返られて右四つになったことが、まず敗因の第一です。まあ技術的なことはさておいて、両者の持ち味が十分に発揮された一番でした。春場所同様同じ手で敗れた鏡岩にとっては、無念の一敗ですが、勝敗を超えての一番、こんな感動的な相撲は滅多に見られるものじゃあないです。しかし、双葉山にはまだ打っ棄り腰が残っていますねえ。
十四連勝
九日目 二十二日(金)
双葉山(浴びせ倒し)玉錦〈東横綱〉
アナ いよいよ全勝の玉錦に、これまた全勝の双葉山の一戦であります。双葉山は玉錦にこれまで六回顔が合って一度も勝っていないだけに、双葉山の初勝利を期待してか満場固唾を飲んで土俵を見守っております。双方、淡々と仕切りが続いております。
あっ、双葉、時間前に突っかけた。玉、これを受けません。
…七回目の仕切りであります。玉、ゆっくりと左こぶしを下ろしました。双葉、立った。玉、受けて立った。双葉、激しく突き立てた。玉、突き返した。玉、右差し、左をおっつけた。双葉も右を差そうとしている。双葉、さっと左上手を引いた。双葉、右を差した。がっぷり四つ、双方右四つになりました。玉、左を捲きかえた。すかさず双葉、正面土俵に寄った。寄った。玉、こらえた、玉、こらえた。玉錦の顔が朱色に染まった。玉の体が伸び切った。弓のように反った。玉、双葉の首を捲いた。玉、左へ打っ棄りをみせた。双葉、腰を落とした。双葉、体を浴びせた。なおも浴びせた。双葉、玉錦を浴びせ倒しました。双葉山、はじめて玉錦に勝ちました。
館内は騒然としております。座布団、ビール瓶が飛んでおります。まさに覇者交代の歴史的大一番であります。
解説 双葉の勝因は、立合いに突っ張って左上手まわしを引いて右四つになったこと、玉錦が左を捲きかえてくるところをつけ入って寄ったこと、そして土俵際に左上手まわしを放して玉錦の胸を突いて玉錦の打っ棄りをさせなかったことの三っつにあります。双葉の相撲には微塵も軽率のところがなく非の打ち所がありませんでしたね。玉錦の寄りを恐れずに突進した積極的な相撲が快勝をもたらしました。それにしても双葉山の体は目に見えて大きくなりましたねえ。
十五連勝
十日目 二十三日(土)
双葉山(掬い投げ)男女ノ川〈東横綱大関〉
アナ 双葉の声で双方立ち上がった。激しい付き合い。双葉、素早く両差しになった。男女、その両手をカンヌキに極めました。男女、そのまま正面に寄った。双葉、右足を一歩下げた。双葉、体を大きくひらいて左から強烈な掬い投げ。男女の川の巨体が右腰からどっと崩れ落ちました。
十六連勝
十一日目 二十四日(日)千秋楽
双葉山(打っ棄り)清水川〈西大関〉
アナ 千秋楽、双葉山はこの一番に勝てば全勝優勝であります。前の三日間、鏡岩を打っ棄り、玉錦を浴びせ倒し、男女ノ川を掬い投げで屠って、完全に勝利の波に乗っております。かたや力量すでに峠を越した観のある老雄・清水川ではありますが、いつものほがらかな悪びれぬ土俵態度には、どこか余裕すら感じさせます。
さあ、立ち上がりました。右四つです。清水、額を双葉の胸につけました。両手を引き十分な構えであります。清水、掬った。これを双葉、下手投げで応じた。清水、双葉の投げを外掛けで防いだ。双方土俵中央に戻りました。
あっ、清水、上手投げの強襲、清水、寄った。双葉、残った。双葉の足が俵に掛かった。清水、右の外掛け。双葉、外掛けを外した。清水、なおも寄った。双葉弓なりになった。清水の腹が双葉の腰に乗った。双葉、左へ打っ棄った。双葉の伝家の宝刀が出ました。
場所前に育ての親のお祖母さんを亡くした双葉山の弔い合戦は、何と全勝優勝。まさにお祖母さんの霊が乗り移ったとしか言いようがありません。
解説 やはり双葉山は初めての全勝優勝ということで硬くなっていましたね。清水川は有利な体勢に乗じて、攻めて攻めて最後に玉砕してしまいました。やはり双葉山の強靭なねばり腰にはかないませんでした。まあ打っ棄りという手は腰がよくなければ効きませんが、ぼくは打っ棄りは好きではありません。双葉には今後、玉錦や男女ノ川を破ったような正攻法で勝ち進んでもらいたいですねえ。
場所後の状況
目を見はるような全勝での初優勝の千秋楽の祝宴に玉錦が駆けつけ、新しい若い英雄・双葉山の壮挙を祝福した。かつて小部屋同士という玉錦と双葉山に置かれた立場で、一所懸命稽古をつけてやった双葉山の成長は、玉錦にとってはことのほか嬉しかったろう。
また同じ関脇にいた鏡岩は双葉山と男女ノ川に負けただけで、九勝二敗の好成績をあげ、場所後、双葉山と同時に大関に昇進した。鏡岩は双葉山より十歳も年上であるが、この前後から鏡岩は、引退時に自分の弟子の一切を双葉山に預けたほど、二人の篤い信頼関係が生れてきていた。
場所後、『野球界増刊号 相撲号』に春日野取締(元横綱栃木山)は双葉山の大関昇進を祝して次の一文を掲載した。
「新鋭と噂されていた昨今であるが、かくまでの飛行機昇進ぶりは実に往年の武蔵山をしのばすものがある。場所ごとに躍進の跡を続けていることは、彼の稽古熱心と明敏な頭脳を示すもので、心からのお喜びの言葉を送りたい。ことに玉錦、男女ノ川、清水川の大豪をはじめ、旭日昇天の境地にある綾昇、笠置山、両國、新海などの中堅を遮二無二敵とせず、蹴爪にかけた武者ぶりは、角史空前の出来事といわなくてはならない。彼の取口は従来とかく粗雑に流れて、識者をして考慮すべきものがあると思わしめたが、夏場所に見せた彼の取口は堅実味を盛ってきた。まず立ち上がり突っ張り、しかるのち自己の伝家の宝刀、二枚腰の強靭を利かしての打っ棄り、差し手の辣手(らっしゅ)に物を言わせて快勝をはくした。体重も二貫余り加えたので、彼は正に張りの頂上にある。世の賛仰に毒せぬよう精進してもらいたいと思う。」
五月二十七日、海軍記念日の水行社天覧相撲は戒厳令のため行われなかった。
五月三十日第六回大日本相撲選手権大会が開催された。玉錦は夏場所六日目に磐石との一戦で負傷し、その後休場していたが、負傷も癒えて出場してきた。しかし玉錦は高熱に犯されていた。この大会は優勝者が前年優勝者の武蔵山に挑戦するという形がとられていたが、武蔵山が休場したため、予想どおり玉錦と双葉山の決勝戦(三回勝負)となった。高熱の玉錦は双葉山に二番続けて勝って優勝した。
一番目
玉錦(寄り切り)双葉山
立ち合い玉錦は左から攻めて右を入れ、上手廻しを引きつけてグイグイと寄った。双葉山が右下手投げを打って回ろうとするのもかまわず東土俵へ寄りつめた。このあと双葉山が打っ棄りに出ようとすると、玉錦は右で双葉山の左外モモをかかえてこれを防ぎ、そのまま一気に寄り切った。
二番目
玉錦(寄り倒し)双葉山
組んでは不利と見た双葉山が猛然と突っ張ったが、玉錦は右からはじき返し、うまく右を差して出た。玉錦は両廻しをがっちり引き、巨腹をあおって青柱につめた。双葉山は左へ回ろうとしたがすでに遅く、玉錦が腰を落として、必死に残そうとする双葉山を寄り倒した。
双葉山は夏場所の全勝優勝と大関昇進を果たした後、玉錦、鏡岩、双葉山一行で、長い北海道へ夏巡業に出た。九月下旬には九州に渡り、故郷・大分の中津へ錦を飾った。着くと直ぐに祖母の墓前で大関昇進を報告した。
大分県下の巡業は大成功に終始、その収益で双葉山は父親の借財(五千円)を完済することができた。この返済のために角界に身を投じた双葉山にとって最大の肩の荷が下りたのである。なおこの借財の五千円は、当時の公務員の初任給(七十五円)の六年分の給与に相当する。
十月九日より十一日間、大阪市堂島の臨時相撲場で大阪表大相撲が開催された。大阪での興行は昭和六年十月以来。十日目、全勝同士であたった双葉山は玉錦に寄り倒しで敗れた、優勝は玉錦の十一戦全勝。双葉山は十勝一敗。
前述したように、昭和二年から始まった年二回興行の関西本場所は、七年春の春秋園事件によって脱退組が「関西大相撲協会」を結成したため八年からは廃止され、以降東京場所・春夏二回興行になっていた。しかし七年末から八年一月にかけて武蔵山、綾桜、鏡岩、朝潮(後の男女ノ川)らが復帰し、玉錦や男女ノ川人気で両国国技館は紛争前の賑いに戻ったため、大阪においても興行が打たれるようになった。(東京大相撲の爆発的人気に圧迫された天竜らの関西相撲協会は支那事変の時局下も考え、十二月五日解散した。)
2 昭和十二年(一九三七年)
双葉山の連勝に沸く大相撲人気に後押しされて、五月場所より従来の十一日制から十三日間に興行日数がふえた。
七月七日、盧溝橋で日中両軍が衝突。以後、中国大陸での戦乱は拡大していった。当時、世評は双葉山の常勝ぶりを国技館の英雄から日本の守護神に祭りあげた。
春場所 一月十五日より十一日間 東京・両国国技館
場所前の一月十日、東京・丸の内の東京会舘での新大関昇進の披露宴に双葉山は初めて父親を郷里から上京させた。宴には各界からの名士、幕内力士など三百五十人が参加、盛大に催された。双葉山はこの時、「父の嬉しそうな顔を見て、初めて親孝行をした気がしました」と感激していた。
双葉山は。先場所、祖母を喜ばせるために祖父の定兵衛を名乗ったが、その祖母も今はなく、この場所の番付から定兵衛から本名の定次に戻った。
初日は恒例の大衆デーで、桝席以外は五十銭均一。ファンは前日の午後四時には切符売り場から四百メートル先の一の橋まで列をなしたので、協会は夜中の十二時半に木戸を開けて入場させた。早朝六時半には「売り切れ満員」の木戸止めとなった。なお当時の桝席(六人詰め)の観覧料は大人一人五円。
双葉山、新大関の場所。番付は、玉錦、武蔵山、男女ノ川の三横綱と大関・清水川、双葉山と同時に昇進した鏡岩の三大関。しかし、その内実は前二場所に続いてこの場所も武蔵山は休場、男女ノ川は前場所五敗も喫する不甲斐なさ。また清水川は三十八歳という高齢。いかに清水川の剛毅をもってしても多くは望めまいといったのが大方の予想だった。
やはり優勝候補の一角は、何といっても玉錦である。前場所、玉錦は初めて双葉山に敗れた。このまま双葉山の快進撃を指をくわえて傍観しているわけにはいかない玉錦が新大関・双葉山をいかに迎え撃つかが今場所の焦点であった。
双葉山 東大関 (二十四歳十一か月)
十七連勝
初日 ― 十五日(金)
双葉山(寄り倒し)両國〈西前頭二枚目〉
アナ 立ち上がった。双葉、左から引っ張り込んだ。両國、右差し、左から押っつけた。両國、頭を下げて出た。双葉、腰を落として右から捲いた。双葉、正面にがぶって寄った。右をのぞかせてのがぶり寄り。ぐいぐいと寄った。なおも寄った。双葉、切り倒しました。
解説 両國はさすがに左上手を取られませんでしたが、右差しのために攻守にぎこちなく敗れてしまいました。十分に組むための工夫が欲しいところです。
十八連勝
二日目 ― 十六日(土)
双葉山(寄り切り)玉の海〈東前頭三枚目〉
アナ 両者立ち上がりました、はげしい押し合い。玉、右を差した。双葉、これを左に引っ張りこんだ。双葉、右から喉を押した。玉、懸命に首を捻ってこれを外しました。玉、双差し。玉、双差し。双葉、左上手を引きつけた。双葉、寄った、寄った。玉、右から蹴返し。双葉、右を巻きかえた。双葉、寄った、寄った。寄り切りました。
解説 剛毅な玉の海も、ああ堅実にしかもぐいぐい攻められてはいかんともし難いですね。
十九連勝
三日目 ― 十六日(日)
双葉山(突き出し)和歌島〈東小結〉
アナ 土俵度胸では当代一二を争う双葉山と和歌島の対戦であります。和歌島、注文をつけてはなかなか立とうとしません。和歌島、慎重に構えております。
和歌、ようやく立ち上った。和歌の頭突き。双葉受けた。和歌、もろ手で突いた。突っ張った。双葉、後退した。双葉、のこした。今度は双葉が突いた。双葉、逆襲。あっ、和歌、腰がはいったか、一瞬がくりとした。双葉、なおも突いた。突いた。そのまま和歌を突き出しました。
解説 和歌島の立合いの突っ張りには鋭い気魄がありました。さすがの双葉もこれには少し慌てましたね。しかし双葉は難なく逆転してしまいました。強いですねえ。
二十連勝
四日目 ― 十七日(月)
双葉山(押し倒し)磐石〈東前頭一枚目〉
アナ 立ちました。双葉、磐石をのど輪で攻め立てた。磐石、後退した。磐石残った。双葉、もろ筈になった。双葉、押した。押した。一気に押し倒しました。
二十一連勝
五日目 ― 十八日(火)
双葉山(寄り倒し)笠置山〈西関脇〉
アナ 立つや双方右四つ。双葉、寄った。寄った。双葉、寄り倒しました。新関脇の笠置山は病後のせいか、まったく元気がありません。
二十二連勝
六日目 ― 十九日(水)
双葉山(上手投げ)出羽湊〈東関脇〉
アナ 軍配が上がった。がっぷり右四つであります。あっ、双葉の上手投げ。双葉、電光石火の上手投げで出羽湊を切って落としました。
二十三連勝
七日目 ― 二十日(木)
双葉山(寄り切り)桂川〈西前頭筆頭〉
アナ 双葉山、今日は小兵の桂川との一戦であります。さあ立った。桂川、一気に双葉のふところに飛び込みました。桂川、双葉の前まわしを取った。桂川、いい形になりました。しかし双葉は、すでに上手まわしをつかんでおります。桂川、出ました。双葉、回り込んだ。双葉、逆に寄り返した。双葉、寄った。寄った。そのまま寄り切りました。
二十四連勝
八日目 ― 二十一日(金)
双葉山(打っ棄り)鏡岩〈西張出大関〉
アナ 双葉山、鏡岩ともに新大関同士の一戦であります。今場所、鏡岩は五勝二敗と好調であります。
両者、立ち上がりました。鏡、右を差した。左も差した。鏡、双差し。双葉、右をまきかえた。がっぷり右四つとなりました。双葉、鏡の右を切った。双葉、蹴返し。鏡、これを残した。鏡、寄った。双葉、寄り返した。両者、土俵中央に戻りました。鏡、右まわしを引いた。ふたたびがっぷり右四つであります。大相撲であります。双方、数呼吸。勝機をねらっております。
双葉、左から引きつけた。右の下手投げ。鏡、左から上手投げを打ち返した。鏡、寄った。鏡、寄った。双葉、こらえた。双葉、右へ打っ棄った。決まった。双葉の打っ棄り。鏡岩、土俵下へ転落しました。
解説 ほとんど先場所同様の決まり方でしたね。先場所は鏡が東から出て西で決まりましたが、今場所は西から出て東で決まりました。それも土俵ぎわまで一尺を残しての打っ棄りでした。そういえば先々場所も決まり手は右への打っ棄りでした。同じ手が三場所続いたのは珍しいですねえ。
二十五連勝
九日目 ― 二十二日(土)
双葉山(寄り切り)清水川〈西大関〉
アナ あっ、双方、時間前に立った。※四分で立ちました。双葉、右から喉をはげしく押した。清水、左から押っつけて右に逃げました。ここで、がっぷりの右四つとなりました。右四つは双葉有利であります。双葉、寄った。清水、こらえた。双葉、なおも寄った。清水、後がない。双葉、ぐっと腰を落とした。双葉、そのまま寄り切りました。双葉山の完勝であります。
解説 双葉山の作戦が功を奏しました。相撲ぶりといい、気合といい双葉の進境著しいものがあります。
※仕切り制限時間は、昭和三年一月、幕内十分、十両七分、幕下以下五分と定められた。なお、昭和十七年一月に幕内七分、十両五分、幕下四分に、昭和二十年十一月に幕内五分、十両四分、幕下三分に短縮。昭和二十五年九月に、幕内四分、十両三分、幕下二分になり現在に至っている。
二十六連勝
十日目 ― 二十三日(日)
双葉山(寄り倒し)大邱山〈東前頭二枚目〉
アナ 立ち上がりました。大邱、もろはずに押し立てた。双葉、のこった。両者、右四つ。互いにまわしを引きつけあっております。大邱の左は一重まわし。双葉、右から二枚蹴り。大邱、まわってのこした。双葉、右から内掛け。大邱、これものこした。今度は大邱、左の上手投げ。しかし一重まわしでは効きません。双葉、右から引きつけての下手投げ。双葉、寄った。寄った。そのまま一気に寄り倒しました。
解説 大邱は必勝を期して、左から上手を取って左へ回ろうとしましたが、一重まわしのため、あべこべに双葉に引きつけられました。これでは勝ち目はありません。
二十七連勝
十一目 千秋楽 ― 二十四日(月)
双葉山(上手投げ)男女ノ川〈西横綱〉
アナ 初日から六連勝した横綱玉錦が六日目磐石戦で土俵下に落ち、上膞下端骨症で七日目から休場。そのため、この双葉山対男女ノ川の一番が今場所の締めとなりました。
さあ、両者、立ち上がりました。双葉、右を差した。男女もさっと右を差した。男女、左に双葉の差し手を押さえて、寄った。双葉、右に回った。男女、腰を割って出た。双葉、男女の首をかかえた。双葉、左からの強烈な上手投げ。男女ノ川、たまらず土俵に左手をついてしまいました。
解説 男女ノ川も右四つですが、ともかく組み止めてほっと一安心した気分がありましたね。男女ノ川が、構えて出ようとした瞬間に、強烈な投げを打たれてしまいました。男女ノ川の完敗です。
総括 新大関双葉山は連続全勝優勝を成し遂げた。先場所全勝の双葉山に対して、いかに強くなったとはいえ、まさか今場所も全勝で優勝するとは専門家筋も相撲ファンも思ってもいなかった。双葉山本人さえ、ほんとうに自分は強くなったのだろうか、といぶかっていた。というのも前年、夏場所後の第六回大日本相撲選士権大会では双葉山は玉錦に二番続けて負けているからだ。その意味でも双葉山は、玉錦との力の差がどのくらいになったのか、この本場所で見極めたかったであろう。しかし、玉錦が六日目、磐石との一戦で負傷して七日目から休場し、双葉山との顔合わせは実現しなかった。
そうは言っても、双葉山の二場所連続全勝優勝は、太刀山、栃木山に並ぶ大記録であった。
夏場所 五月七日より十三日間 東京・両国国技館
双葉山 東大関 (二十五歳三か月)
先場所の一月は双葉山人気による連日の大入り満員で、毎日、詰めかける数千人のファンを追い返すという未曾有の賑い。その対策として、この夏場所から興行日数を二日間延長して、十三日間興行に踏み切るという大相撲の歴史の中で初めての画期的な場所であった。※江戸の昔より相撲取りは「一年を十日で暮らす良い男」と囃されていたが、百五十九年後の大正十二年に一日ふやして十一日制になっていた。以後昭和十二年までの十四年間、十一日制に慣れてきた力士たちだった。当時幕内力士には綾川の四十歳をトップに三十歳代が二十人もいたため、彼らから「二日間も延長しては体がもたん」と苦情が出た。また一方では、十三日間では、さすがの双葉山もきっと負ける日があるだろう、とささやかれてもいた。しかし、いずれにしても場所前の焦点はやはり、双葉山の連勝がどこまで続くか、双葉山は再び玉錦を破ることができるか、この二点に絞られていた。
※ 安永七年(一七七八年)三月以前は八日間、その後十日間となり、大正十二年一月以後十一間となった。なお、十五日制になったのは昭和十四年五月場所以降である。
この場所も前場所同様初日の五十銭均一大衆デーには、前夜からファンが両国国技館を取り巻き開場を待つという盛況で、その数四千余人。このため五月七日の初日は午前零時半に開場となった。
二十八連勝
初日 ― 七日(金)
双葉山(突き出し)土州山〈東前頭四枚目〉
アナ 立ち上がりました。土州、突いた。双葉、突き返した。双葉、なおも突いた。突いた。双葉、土州を土俵下に突き飛ばしました。
解説 長身の土州山は突っ張りがあるだけのまともな相撲ですから、双葉にとっては組みしやすい相手ですね。突っ張りには突っ張りが常道。初日の相手としては軽かったですねえ。
二十九連勝
二日目 ―八日(土)
双葉山(腰くだけ)綾川〈西前頭三枚目〉
アナ 立ち上がりました。双方、激しく突いた。綾川、右からいなした。双葉、正面土俵に大きく泳いだ。双葉、背を向けて土俵に詰まった。双葉あぶない。双葉、あぶない。あっ、綾川の足がもつれた。綾川、そのまま腰くだけの格好で倒れてしまいました。
解説 綾川、腰がくだけて自滅しましたね。双葉が背中を見せたときに一押しすれば勝ったのに、惜しい一番です。勝ちを焦ったか、それとも年令の所為でしょうか。残念な一番でした。
三十連勝
三日目 ― 九日(日)
双葉山(下手捻り)前田山〈東前頭五枚目〉
アナ 初顔合わせの一番であります。行司が双方の息をうかがっております。
さあ時間です。前田山の声で双方立ち上がった。前田、張った。前田、猛烈な張り手。二発、三発。双葉、眼があけられない。双葉、よくこれに耐えております。双葉の顔面が朱色の染まりました。今度は双葉が突き返した。前田、左右を差しにきた。双葉、かまわずに寄った。寄った。双葉、左を差した。双葉、左から強烈な下手捻り。前田、たまらず土俵の外へ飛び出しました。
解説 向う気の強い前田山ですが、張らずに突っ張ればよかった。張ったためにかえっていけなくしましたね。しかしまあ敗れたとはいえ、前田山の相撲は双葉山との初戦にふさわしい暴れぶりでしたね。
三十一連勝
四日目 ― 十日(月)
双葉山(上手投げ)和歌島〈東前頭二枚目〉
アナ 伊之助の軍配が返った。和歌、右を差した。双葉も左上手をとっている。和歌、寄った。一気に寄った。和歌、右から下手投げ。双葉、上手投げを打ち返した。引き摺るような上手投げ。双葉山の得意の投げが決まりました。
解説 先場所、和歌島は頭突きからの突っ張りで双葉を苦しめましたが、この一番も和歌島らしい思い切りの良い取り口であわやと思わせました。しかし、相手に相撲を取らせておいて、最後は屠ってしまう双葉山には余裕があります。双葉山の「後の先」の片鱗が見えた一番でしたね。
三十二連勝
五日目 十一日(火)
双葉山(押し出し)海光山〈西前頭二枚目〉
三十三連勝
六日目 十二日(水)
双葉山(寄り倒し)九州山〈東前頭筆頭〉
アナ さあ立った。激しい突き合い。九州、右にひらいてはたいた。双葉、のこった。また激しい突き合い。九州、右を差して左を押っつけた。双葉、左上手をとって正面に寄った。九州、下手投げで防いだ。九州、左に回って正面に寄った。双葉、のこした、のこしました。九州、二枚蹴り。これも効きません。双葉、白柱へ寄った。九州、のこった。九州、内掛け。九州、左を差した。九州、もろ差し。しっかりと両まわしを引いた。九州、顎を双葉の右肩下につけた。九州、徐々に体勢を固めております。おっと双葉、右にひねった。双葉、寄った。九州、のこした。両者、土俵中央に戻りました。大観衆の拍手が沸いております。大相撲となりました。双葉、下手投げを打った。九州、のこした。双葉の右は一枚まわしです。双葉、今度は右にひねった。双葉、東土俵へ寄った。寄った。九州、後がない。九州、反り身で懸命にのこした。双葉、なおも寄った。寄った。双葉、寄り倒しました。
解説 大敵双葉山に対して、九州山は大健闘しましたねえ。最後は九州山、力尽きてしまいました。今場所に入って一番の大相撲じゃないですか。しかし双葉山と組んでしまっては策のほどこしようがありません。慎重に構えて最後の最後は勝利を収めるという双葉山の計算された一番と言ってもよいでしょう。
三十四連勝
七日目 十三日(木)
双葉山(寄り倒し)五ツ島〈西前頭筆頭〉
アナ 初顔合わせの一番であります。さあ立った。双葉、寄った。ぐんぐん寄った。五ツ島、後がない。五ツ島打っ棄りをみせた。双葉、そのまま浴びせ倒しました。
三十五連勝
八日目 十四日(金)
双葉山(寄り切り)玉の海〈東小結〉
アナ 立ちました。玉、右を差した。玉、まわしを引いた。しかし一重まわしであります。双葉、左で玉の上手をさぐっております。玉、肘を張ってこれを引かせません。玉、左押っつけ。玉、寄った。玉、双差し。玉、双差しになった。双葉、これをカンヌキにしてこらえた。玉、なおも寄った。渾身の力で寄った。双葉、後がない。双葉、土俵際でこらえた。双葉、土俵に根が生えたように動かない。双葉、寄り戻した。ここで双葉、ようやく上手まわしを取った。右の下手も取りました。玉、双葉の右を切った。双葉、玉の胸に頭をつけた。双葉、押した。押した。玉、俵に足が掛かった。双葉、ぐいと腰を落とした。双葉、両手を伸ばして玉を寄り切りました。
解説 いやあ、双方力の入った大相撲でした。玉の海の惜しい一番でした。さすがに玉の海の豪腕も効きませんでしたね。しかし、双葉山は、ひとまわり体が大きくなって体力も充実しておりますね。双葉山が見せた見事な押し相撲でした。
三十六連勝
九日目 十五日(土)
双葉山(上手投げ)磐石〈西前頭五枚目〉
アナ 立ち上がりました。双葉、猛烈なノド輪。双葉、押した。磐石、西土俵に詰まった。磐石、押し戻した。土俵中央、双方、右四つとなりました。磐石、ぐいと出た。双葉、右から掬った。双葉、左の上手投げ。あざやかに決まりました。
解説 双方喧嘩四つですから、双葉有利の右四つでは、磐石はどうしようもありませんね。
三十七連勝
十日目 十六日(日)
双葉山(寄り倒し)大邱山〈東関脇〉
アナ 本日は日曜の休日とあって、初日同様相撲ファンは双葉山をひと目見ようと前夜から長蛇の行列。午前三時には三千人にもおよび、早朝七時にはチケットは完売。双葉山をひと目見ようと国技館ははち切れんばかりの大入り満員となりました。さあ待ちに待った双葉山と大邱山の一番であります。
行司軍配が返りました。大邱、右を差した。双葉、これをかかえた。双葉、大邱の左上手を嫌って、左の巻きかえに出た。大邱、寄った。双葉、これを右下手投げで防いだ。大邱、上手投げ。決まりません。大邱、引きつけて寄った。双葉、左へ回りこんだ。双葉、寄り返した。双葉、寄った。寄った。大邱、俵に詰まった。大邱、打っ棄りをみせた。双葉、寄った。寄った。双葉、寄り倒しました。
これで双葉山は十連勝。前の取組で大関鏡山が大関清水川に敗れましたので一敗は清水川一人。今場所も双葉山が負けなしのトップに立っております。
三十八連勝
十一日目 十七日(月)
双葉山(搦み投げ)清水川〈西大関〉
アナ 東大関双葉山十戦全勝、かたや西大関清水川は九勝一敗。今場所の優勝争いを左右する東西両大関の大一番であります。
行司伊之助の軍配が返りました。双葉、右からのノド輪。清水、これを外した。双葉右四つ。十分に清水の両まわしを引いております。清水川は双葉山の右下手を取って、左を抱え込んでおります。清水、寄った。清水、左まわしを取った。清水、寄った。双葉、これを左から大きく上手投げ。清水、右の外掛けで防いだ。双葉、この外掛けをはねあげた。あっ、清水、そのままもんどりうって土俵下に落ちました。双葉山の豪快な上手投げ。見事に決まりました。
解説 右の外四つからの上手投げを得意する清水川が右を深く差したのがいけません。清水川は左を差して右から抱え込んだ方が有利に戦えたと思います。双葉山は右四つ得意とはいえ、先場所清水の得意に組まれた経験から、今場所いち早く左上手を引きつけたことは、双葉山の進歩でしょう。
(なお、この場所限りで清水川は引退した。)
三十九連勝
十二日目 十八日(火)
双葉山(下手投げ)玉錦〈東横綱〉
アナ 本日の結びの一番であります。双葉は今日まで全勝。一方、玉錦は九勝二敗。玉錦は風邪のため前夜から三十八度の高熱を発して、本来ならばこの一番は休む予定のところでありますが、ファンのためと、敢然と出場してきたのであります。角界の頂点、東正横綱を張る玉錦、思えば一年前の十一年夏場所、関脇でありました双葉山に一敗地にまみれましたが、今場所、玉錦の雪辱なりますか。興味の尽きない大一番であります。
双方、手が下りました。双葉、声をかけて立ち上がりました。おっと玉、立ちません。玉、嫌いました。さあ、二度目はどうか。庄之助の軍配が返った。立ち上がりました。玉、突いた。玉、出た。玉、右を差した。玉、出た。双葉、上手下手ともに引いた。双葉、下がりながらの下手投げ。玉、大きく傾いた。玉の左足が双葉の右足にかかった。双葉、玉の外掛けを跳ね上げた。双葉、下手投げ。双葉の強烈な下手投げ。玉錦、双葉山の下敷きに倒れました。
解説 双葉としては申し分ない一番でした。しかし、玉錦にとっては、高熱を押しての出場ということもあり、立ち合いに気負いがあり満足のいく相撲ではありませんでしたね。来場所は十分な体調での両雄の勝負を期待したいですね。
当時、朝日新聞紙上に『宮本武蔵』を連載していた吉川英治は、この一番を観戦した。場所後に双葉山の友人の中谷清一は彼を招き数人で食事をした。吉川英治も同席した。その時の吉川英治の双葉山に対する思いが『武蔵落穂集』(昭和十二年・大阪朝日新聞文芸欄)に述べられている。
大阪の中谷清一君が、何でもけふの双葉山と玉錦のすまうをみろといふ。中谷君は堂島の人であるが、双葉山をその無名時代から鞭撻し、ひいきといふよりは、双葉山にとって無二の心友なのである。
双葉山をして相撲道の宮本武蔵に大成させ、自分の晩年は灰屋紹由(京都の風流人)のやうになりたいといつてゐる人である。
場所の後で、その中谷氏の席で双葉山と落ち合ひ、僕ら四、五人食事をしてゐると、この人気男を繞って、八方から客席の電話だの、妓たちの狂態に近い歓声があつまつてくる。人気といふものは浮気ないたづら者である。双葉がもし次の場所に黒ボシの過半数を取れば、この雰圍氣は何処かへ行つてしまふのだ。
低い所から落せば欠けない物を、勝手に高所までさし上げて行つて落すのが人気の特質である。作家の場合などよりももつと痛切に相撲取などはそれを感じるにちがひない。何とかいふ殿様だの、三菱の重役連だのといふ電話も頻々とかかつてゐたが、双葉山はその間に、田舎の父親の事でも思ひだしてゐるらしく、無口に酒を舐めてゐるだけだつた。
誰かが色紙に寄せ書きをし始め、彼もそれへ穐吉定次と不器用な手つきで書いてゐたので、僕も端へ一句かう買いて、そばにゐる安岡正篤氏に示したら、おもしろいと同感してくれた。だが双葉山には同感か同うか。
江戸中で一人さみしき勝角力
また、吉川英治の『草思堂随筆・俗つれづれ草』には、「勝負師の涙」と題した一文がある。
大きな眼で視ると、人類の生存のすがたはそのまま勝負の世界といえるかもしれない。人間は朝眼をさますとたんから寝る迄、無意識にも或る勝負への働きをしている者だと云えなくもないからだ。
勝負師の勝負生活は、それのきびしい縮図である。故にまた傍観者の興味も大きい。傍観者といえ、じつは自分も勝負の輪廻に生かされている人間なので、事、人間同士の勝負とあらば、仮説的な土俵の形式でも、大方の棋番に過ぎないばあいでも、血をわかして関心を持つ、持たずに居られない本能を駆られる。(中略)以前、双葉山が全勝の常勝将軍であった頃、場所からS伯だの、ひいきの実業家たちと共に、双葉を拉して、辰巳家の本拠にひきあげ、お作ばあさんが、一切合財のさしずで、八方からかかる双葉へのお座敷電話をみな断り、天下の人気横綱を独占して、歓呼乱杯。ここへは、招かずして新橋、柳ばしの美妓が群れ集まり、わが世の五月を謳歌した一夜がある。その折、誰の発意だったか、双葉の為に寄せ書して双葉の父なる人へ送ろうと云い出し、S伯まずお得意の席画を描き、財界政界の名士がそれに合讃した―で、ぼくにも順番が廻って来て、何か一筆書けという。そこで即興の一句をぼくも書いた。句は、
江戸中で一人さびしき勝角力
というのであった。
だれもみなヘンな顔をした。「淋しい」という語への不審であろう。だがさすがにその夜の常勝横綱の双葉だけは、いささか分ってくれたらしい。ぼくの眼を見て眼で黙礼した。その眼には、今でも覚えているが、彼の良い一面の涙がういていた。(中略)見物心理でわれわれが勝負を騒ぎ囃す〝おもしろさのわけ〟もそこにある。人間は罪の子なり、と神様はいう。それも一つのいい方にちがいない。だが人間はうまれつき勝負の子なのだ。だから多かれ少なかれ、勝負師の涙をもっていない人間はない。
四十連勝
十三日 千秋楽 十九日(水)
双葉山(打っ棄り)鏡岩〈西張出大関〉
アナ 今日、東横綱・玉錦は三十九度の高熱で休場。対戦相手の清水川は、すでに松翁・庄之助より不戦勝の勝名乗りを受けております。したがいまして、これより千秋楽結びの一番は、東大関双葉山対西大関鏡岩の一戦とあいなりました。行司は式守伊之助であります。
さあ東西の両雄、立ち上がりました。鏡、右を差し左も入れました。鏡、双差し。十分の体勢であります。鏡、寄った。土俵際まで寄った。鏡、吊った。双葉も右上手から吊り上げた。双葉、そのまま右へ打っ棄った。双葉、今場所も鏡岩を打っ棄りで屠りました。
解説 鏡岩は立ち上がり十分になって安心しましたね。前三場所打っ棄られたこともあって慎重になっていましたね。それにしても双葉山は鏡岩には余裕をもっています。これで双葉山は三場所連続の全勝優勝を果たしました。大相撲の歴史に燦然と輝く偉業です。これで横綱が確実に約束されました。連続優勝で横綱になったのは過去に太刀山と栃木山がいますが、連続全勝優勝で横綱になったのは双葉山がはじめてです。まったく大したものです。
アナ 今場所を振り返ってみて、どうでしたか。
解説 双葉山は昭和十一年春場所七日目から通算四十連勝。まる二年間、無敗という充実振りを示しましたね。国技館は連日の満員、いろいろ言われた十三日間興行という試みも双葉山のお蔭で大成功のうちに終始しました。
しかし、武蔵山、男女ノ川の二横綱の休場、出場はしたものの玉錦は年齢的な衰えが見えてきました。それに大関・清水川の引退。これからは双葉山時代の到来です。双葉山に挑む者、双葉山を倒す者として、前田山を筆頭に玉の海や九州山などの新しい勢いに期待することになるでしょうね。
場所後の五月二十日、番付編成会議で双葉山は横綱に推挙され、同月二十六日、東京の細川邸で横綱の仮免許を受けた。海軍記念日の翌二十七日、水交社天覧相撲において、太刀持ち・名寄岩、露払い・羽黒山を従えて、雲竜型の土俵入りを初めて披露した。双葉山は、この晴れ姿を全紙大の写真にして、癌を患い福岡の九大付属病院に入院中の父親のもとへ送った。
二日後の二十九日、両国国技館で第七回選士権大会が開催された。玉錦は病気で棄権。双葉山は決勝戦で前田山を倒して優勝した。
六月九日、大阪市旭区関目町に完成した関目国技館で、竣工記念の「大相撲大阪場所」(十三日間)が開催された。両国国技館の一万六千人の収容に対して二万人以上の収容能力があった。この国技館に前夜の午後八時半よりファンがつめかけ、東京の本場所を上回る人気を呼んだ。玉錦、武蔵山、男女ノ川の三横綱が休場したにもかかわらず前売入場券は、双葉山の土俵入り見たさにプレミアムがついて飛ぶように売れた。
ところがこの興行で双葉山は初日に綾川に外掛け、四日目に和歌嶋に同じく外掛けで敗れるという番狂わせが生じた。地元の新聞は号外を発行した。給金直しのない地方場所(準場所)では力士たちは気楽に相撲を取っていたのだが、双葉山の連勝が止まらなくなると、幕内力士の半分を占めていた出羽の海部屋の力士は双葉山に対しては本場所並みの真剣さで対戦していた。したがって大阪での双葉山の敗戦は却って人気に拍車をかけたのであった。
この綾川との一番を晩年綾川自身が述懐している。(相撲評論家・池田雅雄宛の手紙・昭和五十一年)
あれはもう四十年前でしょうか。大阪関目の国技館開館の初日でございます。開館場所なので、ファンにしては大喜びでございます。それはそれは朝早くから大入りの満員の盛況でございました。その初日から双葉山対綾川の結びの一番がございましたが、四十歳の綾川では、観客から見れば、何ら期待の一番ではございません。そのとき土俵の検査役は、栃木山の春日野でしたか、常の花の藤島でしたか忘れましたが、立会いの綾川は二本差しました。双差しですね。そのまま寄り身を見せましたが、いやはや、あの無敵といわれた双葉山、一寸も動きません。よって右の差し手から大きく、すくい投げを見せました。ところが、双葉山の右足は、綾川の左足に近づきましたので、それで夢中でしたですが、綾川の左足は、待ってましたとばかり、双葉山の右足に大きく外掛けを掛けました。みごとに決まって、双葉山の胴体の上に綾川はまともに乗っかりました。綾川は夢中でしたので、何が何だか、無我の境と申しましょうか。行司からの勝名乗りを受ける綾川という声も聞こえませんでした。その時です。観客は総立ちになりまして、座布団は雨アラレのように降りました。座布団はよろしいのですが、リンゴ、ミカン、驚きましたのは、タバコ盆にビールの空きビンでございます。検査役は座布団を頭からかぶって、その場から動くことができませんでした。綾川も検査役同様、座布団を頭からかぶって土俵を降り、花道を引き上げようと思いましたが、その花道は大変です。観客は綾川が引き上げる花道をふさいでいます。若い者が四、五人来て、ようやく花道を開けてくれたので仕度部屋へようやく引き揚げました。だが観客は仕度部屋にドッと押しかけ、綾川バンザイと高々と叫ぶ人もいました。そうかと思うと綾川の体にかじりつく人もいました。こうした騒ぎの大変の中に、サインを頼む人が四、五十人もいましたが、場所中に必ず書いて差し上げるからと約束して帰ってもらい、ようやく自分の体になりました。しかし、帰らぬ人の中には、お祝いに料理屋に行こうと、誘い出しにかかる観客も、四、五人いました。ようやく静かになったので、明治大学の相撲部員二人と共に、屋台店に行って祝杯をあげましたが、三人は肩を組んで、嬉し泣きに泣きました(綾川は当時、明大相撲部のコーチをしていた)。次の日(二日目)、場所に行きましたところ、これもまた祝電が五十通余、綾川の明け荷の上にありました。知人のファンからは約二十通くらいあり、あとの三十通は知らないファンの方で、どうも思い出せない人々からでしたが、本当にありがたいことと両手をあわせました。大阪朝日、大阪毎日新聞は大変でございます。三面(社会面)には写真も大きく出まして、ファンからもこの新聞をたくさん送ってきました。五月東京へ帰ってからも大変でした。出羽の海部屋のファンからも、また後輩の若手力士―信夫山(秀之助)、笠置山、安芸ノ海、綾昇、綾若もおりましたが、土俵はただ双葉山打倒、その声だけが高かったのです。ファンからもただただ本場所で双葉山を破れ、その一言だけでした。一門の力士一同の顔色は変わっていました。
この敗因について双葉山はわからないと語っているが、前夜贔屓の歓待で一睡もしていなかったという。この便りをもらった池田雅雄は、結果論ではあるが、二年後に双葉山の七十連勝を阻んだ安芸ノ海の外掛けを、出羽一門の秘剣になったと書いている。
この場所、双葉山は四日目にも和歌嶋の外掛けに敗れて十一勝二敗に終ったが、和歌嶋に破れた時には地元の新聞社は再び号外を出すほどの騒ぎであった。
なお、大阪場所の優勝は十二勝一敗の出羽の海部屋の綾昇だった。
大阪場所を打ち上げたあと、六月二十五日から、名古屋市東区新町の仮設国技館(トタン屋根)で十一日間の興行を打った。ここも大阪に負けず徹夜のファンが押しかけ、連日の大入り満員。双葉山は千秋楽に男女ノ川を倒して十一戦全勝した。
七月五日の千秋楽を打ち上げた双葉山一行は、玉錦一行と西下し、朝鮮、満州(今の東北)方面へ向った。双葉山自身は一行より一日早く出発し、博多の九大病院に癌で入院している父親を見舞った後、門司で同船した。
大連、奉天、新京、平城と回り、無事に巡業を終えて、八月十三日、再び九大病院に駆けつけた。父親の末期の体はむくんでいた。それと知らぬ父親は双葉山に手足を見せ、「ホレ、こんなに肉がついてきた」と喜んでいたそうだ。
八月二十日夜、山口、福井の興行を終え山代温泉に泊まっていた双葉山は父親の訃報を受けた。双葉山一行は一週間の休みをとり、玉錦一行は単独興行に出た。翌二十一日、郷里の中津市布津部で父親の遺体を荼毘に付した。
双葉山は、この父親の作った莫大な借金を返済するために相撲の世界に身を投じ、それを成し得ていた。当初の目的を達成し、今後は父親孝行をするために相撲に精進しようと決心していただけに、双葉山のショックは大きかった。
双葉山は十日の喪中の間、先の京城巡業で同郷の朝鮮総督・南次郎大将が父親への見舞いとして贈った漢詩をながめて過した。
名を成し父母を顕はせし双葉山は孝子なり
孝子を育てし父母は仁者なり
七月七日、盧溝橋事件が勃発、日中戦争が起こった。日本は非常時の臨時体制に入り、十月二十五日より二回目の興行の大阪国技館は黒幕で閉ざされるという戦時色の中で蓋を開けた。この場所、四横綱二大関が顔を揃えた。双葉山は十三戦全勝で優勝したが、千秋楽の玉錦との対戦は水入りとなり、試合再開後さらに水が入って、十分後取り直しという大一番となった。これが本場所であれば後世に残る名勝負だと、検査役の錦島(元大蛇潟山)は高く評価した。
なお前回双葉山を外掛けで破った綾川との対戦は、双葉山の吊りを綾川が外掛けで防いだが、双葉山がそのまま寄り倒した。しかし双葉山に踏み越しありと松翁木村庄之助の軍配は綾川に上がった。物言いとなり取り直しの結果、双葉山が両手で上手廻しを引いて強引に寄り切って勝ち、綾川の二連勝は成らなかった。
大阪場所を打ち上げた双葉山・清水川一行は九州巡業へ向った。双葉山は、巡業後の十一月、熊本市の吉田司家において横綱本免許状を受けた。同地での披露宴には郷里の関係者、熊本県知事、熊本師団長など多数が参列した。
当時、読売新聞記者の小島六郎は「人間双葉山」と題して『野球界 増大號』に次の記事を載せた。
(前略)双葉山は土俵に立つと決して笑ったことがない。花道を通ってくる時でも控えの溜りにじっと腕を組んで待っている時でも、いったん入場したら最後いかなる場合でも笑顔をみせたことはない。いまだ年僅か二十六歳。土俵の経験からしたら玉錦、清水川、鏡岩、さては土州山、綾川、新海、幡瀬川等々よりずっと後輩である。まず普通の人間であったなら、あれだけの人気を得て、あれだけ騒がれたなら、いかに緊張していようとも、意識的に余裕をみせようとする気分的弱点を多分に持つものである。(中略)もっとも単に笑わないといったところで、土俵外の双葉山は実によく笑うのである。あの小さな目をさらに細くして、いかにも心から笑うような笑顔を絶えずみせるのである。土俵生活と私生活との区別を、意識してやっているとしたら、彼は余程修練を身につけているものであり、また無意識の間にそれをやっているのであったなら、彼は先天的に恵まれた性格を受けている。
双葉山は土俵に出ると、出た時一度水をつけるきり、あとは一度も水をつけたことがない。これは武士がいったん戦場に立った以上水盃は一度であるという精神からだという人がある。だが相撲には仕切直しというものが許されている。武士はいったん戦場に立って刀と刀を合わせたならば、呼吸が合わないからまた出直しして勝負しようなどということは許されない。したがってもし双葉山が水盃は一度という精神なら、いささかこの理屈はこじつけなものになってしまう。
私は双葉山の水つけ一度をそんな風に解釈したくない。それは彼が土俵に立って少しも笑わないと同じように、彼の肚だと解釈したい。水を何度もつけたり、鼻をかんだり、体の汗をふいたりすることが別に面倒くさいわけではないが、平素からそれは一度でこと足る修練を体得しての結果だと思うのである。意識、無意識を問わず、肚がなくてはできることではない。
彼が土俵上で焦らず騒がず落ちつき払って大敵を突破するのも、この肚から出発したものである。土俵度胸というものは肚がなくてできるものでない。(中略)この意味で、私は人間双葉山は実にしっかりした肚のある、二十六歳の若さにしては、珍しいくらい完成度のある力士だと思うのである。
当時の幕内の仕切り制限時間は十分で、現在の四分にくらべて二倍半。平均して七分前後に立っていた。したがって仕切り直しの回数も多く現在よりはるかにゆっくりしていた。また水をつけることも、化粧紙で鼻をかんだり、顔や脇の下の汗を拭く回数が多く見られた。その中にあって双葉山の水一回は際立って目立ったのである。後にその訳を双葉山自身は「ワシは目が悪かったのでなるべく余計な動作をしたくなかっただけだ」と言っていた。
昭和十二年十二月、四年続いた関西相撲協会が解散した。この時、天竜は、まだ十分相撲が取れる十七人の力士を連れて、出羽ノ海親方(元・常ノ花)に詫びを入れた。この十七人の帰参は叶ったが、番付は脱退時の一段各下、幕内は十両、十両は幕下、それ以下は新弟子扱いにして編入された。天竜の盟友・大ノ里は翌十三年一月二十二日、大連で入院中に死亡した。享年四十五歳。
3 昭和十三年(一九三八年)
日中戦争が始まり戦時下の大相撲は、南京陥落と双葉山の連戦連勝の快進撃とが重なり、国技館は連日の大入り満員が続いた。館内には「挙国一致」「堅忍持久」「国民精神総動員」と書かれた垂れ幕が掲げられ戦時色が濃厚になった。
双葉山が晴れて三十五代の横綱になった。この春場所は、東に玉錦、男女ノ川。西に双葉山、武蔵山と四横綱が揃った。これは大正七年以来二十年ぶりのこと。しかもこの春場所の二タ月前に行われた大阪場所で双葉山は玉錦と水入りの大相撲の末、勝利しての全勝優勝を飾っていた。東都のファンは、玉錦に代わって大相撲の顔となった新横綱双葉山の土俵入りを今か今かと待ち望んでいた。
なお、この場所、(翌十四年春場所で双葉山の七十連勝を阻んだ)安芸の海が入幕した。
春場所 一月十三日より十三日間 東京・両国国技館
双葉山 西横綱 二十五歳十一ヶ月 一七九センチ・百二十八キロ
四十一連勝
初日 ―十三日(木)
双葉山(寄り切り)大潮(東前頭三枚目)
双葉山にとっては新横綱の初日だったが、相手が老雄・大潮でもあり、相撲はまともなので難なく寄り切った。
四十二連勝
二日目 ― 十四日(金)
双葉山(上手投げ)九州山〈西小結〉
アナ 双葉は前場所、九州山に苦しめられているせいか、こころなしか仕切りも慎重であります。双葉、声をかけて立とうとしましたが、九州立てません。依然と仕切り直しが続いております。
双方さあ立った。九州、右からの強烈な突っ張り。機を見て双葉の懐に入ろうとしております。双葉、これを突き放しました。双葉、九州を寄せつけません。双葉、なおも突っ張った。しかし双葉、足が出ません。双葉、慎重であります。九州、突っ張返した。九州、渡し込み。双葉、のこった。双葉も九州も互いに組ませません。双方、手四つになりました。じっと機をうかがっております。九州、飛び込みました。右を差した。双葉の右まわしを引いた。双葉、これを小手に捲き、九州の腕をきめて寄った。九州、腰を引き回りながら食い下がった。双葉、左上手をさぐっております。九州なかなか引かせません。双葉もまた九州の左を殺しております。双方、壮絶な揉み合い、揉み合い。あっ、先に双葉が左上手を引いた。双葉、右で筈に押し上げた。双葉、寄った、寄った。九州、こらえた。こらえた。双葉、今度は右で九州の首を抱えた。双葉、豪快な上手投げ。決まりました。双葉、九州山を腰に乗せて見事に上手投げで決めました。
解説 双葉山の余裕のある落ち着いた取り口でした。上手を取ったら九州山も如何ともしがたいですねえ。
四十三連勝
三日目 ― 十五日(土)
双葉山(押し倒し)出羽湊〈東前頭二枚目〉
四十四連勝
四日目 ― 十六日(日)
双葉山(寄り切り)磐石〈東前頭筆頭〉
四十五連勝
五日目 ― 十七日(月)
双葉山(寄り切り)玉の海〈東張出関脇〉
アナ 立ちました。双方押し合った。玉、右差し左筈。双葉、左上手、右を押っつけています。双葉、寄りました。玉、懸命にこらえました。玉、寄り戻しました。双葉、上手を引きつけ、ぐいぐい正面に寄りました。玉、右からの下手投げで防戦。かまわず双葉、左上手をぐいと伸ばした。双葉、玉の海を寄り切りました。
解説 双葉の本格的な寄り身。寄り切りのお手本です。
四十六連勝
六日目 ― 十八日(火)
双葉山(下手投げ)綾昇〈西前頭筆頭〉
アナ 本日の結びの一番。立て行事・木村庄之助の軍配が返りました。おっと、綾、右にひらいていなした。双葉、泳いだ。しかし双葉、すぐに綾を右四つに組み止めました。綾昇は右下手、双葉山は鉄壁の左上手であります。綾、左で双葉の前まわしを引いた。綾、双差し。綾、寄った。猛然と寄った。双葉、回り込んだ。双葉、右を差そうとして体が立った。すかさず綾、寄った。双葉、危ない。双葉、こらえた。双葉、こらえた。こらえながら右の下手をとった。双葉、下手投げ。決まりました。
解説 綾昇の作戦は肯けますが、やはり双葉に上手を許しては容易に勝機はつかめません。しかし綾昇はよく健闘しました。
四十七連勝
七日目 十九日(水)
双葉山(下手投げ)前田山〈東小結〉
アナ 前場所十一勝二敗の好成績で小結に昇進した前田山、今場所も五勝一敗と好調を維持しております。無論、双葉も絶好調であります。行司は木村玉之助。
軍配が返りました。前田山、双葉の左を筈押し。双葉、すぐに前田の左上手を取りました。双葉、上手を引きつけ正面に寄った。前田山、右下手を引いた。前田、腰を下ろして寄り戻した。上手も引いた。左から外掛け。前田、下手を抜いて浴びせた。双葉の体が反った。双葉、反りながら双差し。双葉、左を引きつけての下手投げ。見事に決まりました。
解説 前田山の外掛けが双葉の上手の方だったので、さして効果はありませんでした。作戦はよかったが、双葉に早く右を引きつけられてはいけません。
四十八連勝
八日目 二十日(木)
双葉山(寄り倒し)大邱山〈東関脇〉
アナ 立ちました。大邱、頭からぶちかました。双葉、これをはっしと受け止めました。双葉、すぐに右を入れた。左上手も引きました。双葉、万全の体勢。双葉、吊りました。たまらず大邱、左で双葉の首を捲いた。大邱、のこした。双葉、右からの下手投げ。双葉、西土俵に寄った。大邱、こらえた。大邱、うっちゃりに出た。双葉、かまわず寄った。寄った。双葉、そのまま寄り倒しました。
四十九連勝
九日目 二十一日(金)
双葉山(吊り出し)両國〈西関脇〉
アナ 立ち上がりました。双葉、右を引っ張りこんで右四つ。両國、すぐに左を捲きかえ双差し。兩國、しっかりと腰を落した。両國、左を深く取った。右から櫓に振った。両國のペースであります。今度は双葉、両上手からの強引な櫓。双葉、もう一度櫓に振った。双葉寄った。寄った。両國、後がない。両國、倒れながら左へ打っ棄った。双方重なって倒れました。
伊之助の軍配は双葉山に上がっております。あっ、土俵下に控えております玉錦が手を上げております。※物言いです。並んで控えている勝ち残りの男女ノ川からも物言いがつきました。行司・伊之助が土俵下に降りました。五人の検査役が玉錦のもとに集まっております。玉錦、口をとがらせてさかんに何か言っております。玉錦、検査役の説明に首を振っております。館内は蜂の巣を突いたように騒然となっております。双葉は白柱の下で、まったく無表情であります。自分のこととは無関係といった態度で静かに立っております。この物言い、どのように見ましたか?
解説 まあ相撲はあきらかに双葉のものですねえ。しかし、勝敗となると、両國が倒れるのと双葉の足が出るのと、どちらが早いかということになりますが、確かにこれは微妙です。両國の体が生きていたか死んでいたかという点もむずかしいところですねえ。
アナ ようやく検査役の協議が終ったようです。協議の結果を玉錦、男女ノ川両横綱に報告しております。結果は双葉山に歩があったようです。玉錦、これを受け入れないもようであります。顔を真っ赤にして興奮しております。館内もますます騒然としてきました。まさに日本一の大物言いとなりました。
…やがて物言いは二十五分になろうとしております。ここで玉錦ようやく納得したようであります。伊之助が土俵に上がりました。
取り直しであります。観衆は大喜びであります。もう一番、双葉山を見られるとあって満員の観衆は割れんばかりの拍手喝采を送っております。
さあ、両者立ち上がりました。双葉、右を呼び込んでの右四つ。兩国、上手が引けません。双葉、強烈な下手投げ。両国、のこりました。双葉、吊った。吊った。吊り上げた。高々と吊り出しました。
解説 いやあ、大変な一番でしたねえ。双葉山の連勝も四十八で消えるかと思わせた一番でした。私も取り直しが妥当なところだったと思いますが、玉錦、男女ノ川両横綱の頑強な物言いに、この三人の置かれた立場というものもうかがわれて興味深い一番でした。
【註】物言い
取組後の行司軍配に異議のある場合、勝負審判は即座に手を挙げることによって意思表示をする。その後五人の勝負審判が土俵上で協議を行う。(現在ではビデオ室と連絡を取り、ビデオ映像も参考にする)協議が合意に達すると、行司の下した判定の如何を問わず、改めて勝負の結果が発表される。
多くの場合は、体が落ちる、あるいは土俵を割る瞬間が同時(同体)として、勝敗の決定をせず、取り直しとなるか、そのまま行司軍配通りの結果となるが、稀に行司の軍配と逆の結果となる場合もあり、このケースは行司差し違えという。なお、行司は必ずどちらかに軍配を上げねばならず、同体という判定は行司にとっては存在しない。また行司は反則負けの判定をしてはならないため、たとえば髷をつかんでいるところが見えていたような場合でも物言いがつかなければ軍配どおりになる。
また、土俵下の控え力士も物言いをつけることができるが、協議に参加することは出来ない。審判委員は控え力士から物言いが出た場合には必ず協議を行わなければならない。なお、行司は取組の状況を述べる以外は協議に参加できない。
この双葉山対両國の一戦。双葉山の六十九連勝が四十八で止まっていたかもしれない歴史的物言いと語り継がれる。現存する映像や写真で見ると双葉山の右足は大きく踏み越してはいるが、両國の体は完全に死に体である。
五十連勝
十日目 二十二日(土)
双葉山(押し出し)鏡岩〈西大関〉
アナ 立ちました。鏡、右が入った。鏡、左も差した。鏡、双差しであります。双葉も右で上手を引いた。左で鏡岩の左を抱えています。鏡、有利。鏡、左から下手捻り。鏡、寄った。鏡、寄った。双葉、土俵に詰まった。双葉、右上手から捻った。今度は鏡が土俵に詰まった。鏡、棒立ち。双葉、右を放し、左で鏡の胸を押した。思わず鏡、土俵を飛び出しました。
解説 鏡岩は十分になったにもかかわらず、その十分を発揮できませんでした。双葉山は充実しておりますねえ。
五十一連勝
十一日目 二十三日(日)
双葉山(上手投げ)男女ノ川〈東横綱大関〉
アナ 立ち上がりました。双葉、右の筈押し。男女ノ川、これを外した。双葉、上突っ張り。男女ノ川も突き返した。双葉、男女ノ川の右をとったりにいった。男女ノ川、これについていった。男女ノ川、左にまわって左四つに組み止めました。男女ノ川、双葉の右を抱えて寄った。双葉、左へ回り込んだ。双葉、右を捲きかえた。男女ノ川も捲きかえた。双方、右四つとなりました。両者、両まわしを引いて土俵中央であります。男女ノ川腰を割ってじりっじりっと寄った。双葉、上手投げを打った。男女ノ川、のこった。男女ノ川、また出ました。双葉、上手投げ。男女ノ川、たまらずに左手を土俵につきました。
解説 男女ノ川は、四つに組んだときの引きつけが足りません。これが敗因といえば敗因ですね。
五十二連勝
十二日目 二十四日(月)
双葉山(寄り切り)笠置山〈西前頭四枚目〉
五十三連勝
十三日目 千秋楽 二十五日(火)
双葉山(上手投げ)玉錦〈東横綱〉
アナ 今場所期待の一番でありますが、玉錦は三十八度の高熱を押しての出場であります。角界随一の稽古好きの玉錦ではありますが、ここへ来てなにかと故障が続いております。両者、両手を下ろしました。双葉、時間前につっかけた。玉、立てない。両者ふたたび手を下ろしました。あっ、また双葉つっかけた。玉、立てません。玉、高熱のためか息苦しそうであります。さあ、十分間の制限時間がいっぱいとなりました。
庄之助の軍配が返りました。双方、正面から当った。また当った。玉、右を差した。玉、寄った。寄った。双葉、寄り返した。玉、ふたたび寄った。双葉、玉の右を筈に左上手を引きつけた。双葉、筈押し。玉、寄り返した。玉、左上手をうかがっている。双葉、上手を引きつけた。双葉、上手投げ。鮮やかに決まりました。双葉、ついに四場所連続全勝優勝を達成しました。
解説 双葉の、理にかなった相撲でした。右差し、ぐいと引きつけての強烈な上手投げが鋭く決まりました。まさに伝家の宝刀、投げたというよりも切ったといった上手投げですねえ。これで双葉山は玉錦に三連勝ですか。この一番で大相撲の看板がはっきりと入れ替わりましたね。
双葉山はこれで五十三連勝。これまでは太刀山や栃木山の場合、何場所土つかずといった言い方をしていて、何連勝というような言い方はなかったですよ。さて双葉山はこれからどの位勝ち星を連ねてゆくのでしょう。楽しみです。
総括
常陸山は泉川、太刀山は突っ張り、栃木山ははず押しという得意技で敵を倒したが、双葉山は、相手の出方による多彩な技で敵を屠ってきた。ここ五場所の決まり手をみると、上手投げと寄り切りが最も多く夫々十三回、寄り倒しが七回である。打っ棄りは三回で、「打っ棄り双葉」の異名は返上された。当時、出羽一門の合言葉は「双葉に左上手をとらせるな」であった。
場所後の二十七日、双葉山は横綱披露宴を取り止め、その費用をすべて陸海両省へ献金した。
四月一日より第三回大阪大場所(十三日間)が開催され、双葉山が全勝優勝した。
夏場所 五月十一日より十三日間 東京・両国国技館
双葉山 東横綱 二十六歳三ヶ月
ついに双葉山は先輩・玉錦を抜いて東の正横綱という最高位を占めた。名実共に角界の第一人者となった。前年からはじまった日中戦争が日本を軍国色一色に塗りつぶし、双葉山の相撲振りは「皇軍無敵の進撃」と並び称されて文字どおり国民的英雄となった。
四横綱時代の二場所目を迎え、三場所休場していた武蔵山が出場した。前田山が小結一ト場所で大関に抜擢された(昭和十二年夏場所東前頭五枚目で九勝二敗、昭和十三年春場所東小結で十一勝二敗)。また双葉山の弟弟子の名寄岩が関脇に、羽黒山が小結に昇進した。
五十四連勝
初日 ―十一日(水)
双葉山(押し切り)海光山〈西前頭四枚目〉
五十五連勝
二日目 十二日(木)
双葉山(寄り切り)玉の海〈西前頭筆頭〉
アナ 立ち上がった。玉、左で前まわしを引いた。玉、右四つ、いい形になった。双葉も左上手引いた。双葉寄った。寄った。玉、双葉の差し手を巻いて残った。玉、寄り返した。玉、左からの蹴返し。双葉、ぐらついた。双葉、こらえた。双葉、左上手を引きつけた。双葉、寄った。玉、右へまわって逃げた。双葉、なおも寄った。寄った、寄った。双葉、ぐいと腰をおろして右で玉のまわしを押した。双葉、寄り切りました。
解説 玉の海は健闘しましたが、双葉山は冷静でしたね。
五十六連勝
三日目 十三日(金)
双葉山(寄り倒し)両國〈西前頭二枚目〉
双葉、すぐに左上手をとって、右から割り出し気味に寄り倒した。
五十七連勝
四日目 十四日(土)
双葉山(すくい投げ)五ツ島〈東前頭二枚目〉
アナ さあ立った。五ツ島、右差し。左で双葉の右を嫌いながら寄った。双葉、上手を取った。双葉、右をのぞかせて下から起した。双葉、西土俵に寄った。寄った。五ツ島こらえた。双葉、右からの強烈なすくい投げ。決まりました。
解説 双葉の呼び戻し気味のすくい投げは強烈でした。この技は余程力に差のある場合でないとできません。実力派の五ツ島に決めたあたり、すごいというほかありませんね。
五十八連勝
五日目 十五日(日)
双葉山(寄り切り)磐石〈東関脇〉
アナ 立ちました。双葉、上突っ張り。双葉、右はずに押した。磐石、これをこらえながら右を差した。双葉、寄った。双葉、すかさず上手を取りました。磐石、土俵に詰まった。磐石、左から小手に振って回り込んだ。双葉、右腕をかえして出た。磐石、左の外掛け。双葉、体を寄せた。双葉、寄り切りました。
解説 磐石は左をねらいましたが、双葉の右の押ッつけで差せませんでした。これでは十分に力が出せません。
五十九連勝
六日目 十六日(月)
双葉山(寄り切り)大邱山〈東前頭筆頭〉
アナ さあ立った。大邱、思い切って当っていった。大邱、右を差した。左上手も取った。大邱、頭をつけた。大邱、上手投げ。双葉、体をあずけてのこした。大邱、ふたたび上手投げ。双葉、のこした。のこしました。今度は双葉が寄った。寄った。なおも寄った。大邱山、土俵を割りました。
六十連勝
七日目 十七日(火)
双葉山(上手投げ)綾昇〈西小結〉
アナ 双方立ち上りました。右四つ。あっ、双葉の上手投げ。一瞬にして決まりました。
解説 右から綾昇の体を呼び込んでおいて、さっと体を開いての上手投げでした。まるで絵に描いたように見事に決まりましたね。これで連勝記録が六十に到達しました。これからどの位勝ち続けるのかはかりしれません。百連勝も夢ではありませんねえ。
六十一連勝
八日目 十八日(水)
双葉山(上手投げ)和歌島〈東前頭四枚目〉
さあ立った。双葉、右四つに受けた。双葉、割り出し気味に寄った。双葉、右で和歌島の首を押さえつけた。上手投げ。決まりました。
六十二連勝
九日目 十九日(木)
双葉山(吊り出し)前田山〈東大関〉
アナ 行司軍配が返りました。前田、右差し。左も差した。前田、双差し。双葉は両上手を引いております。前田、寄った。寄った。双葉左へ回って寄り返した。双葉、右を巻き替えなした。両まわしをがっちり取った。双葉、腰を落として正面へ寄った。前田、後退。双葉、吊った。吊った。吊り出しました。
六十三連勝
十日目 二十日(金)
双葉山(割り出し)鏡岩〈西大関〉
アナ 立ちあがるや鏡、双差し。鏡、猛然と寄った。寄った。双葉、右から上手投げでかわした。鏡、頭を下げてなおも寄った。双葉、右上手を引きつけ、回り込んだ。ここで鏡岩の頭が上がりました。双葉、左から強烈な筈押し。双葉、押した。押した。押し出しました。
解説 鏡岩も十分になって二度よいところがありましたが、双葉山の腰が重く、寄り切れませんでした。
六十四連勝
十一日目 二十一日(土)
双葉山(押し出し)武蔵山〈西張出横綱〉
アナ 両者五場所ぶりの対決であります。さあ立ちあがりました。双葉、もろ筈。双葉、押した。押した。武蔵、右で双葉の首をまいた。かまわず双葉、押した、押した。押し出しました。
解説 武蔵山は上ずった立会いをして、双葉山に一気に押し立てられましたね。武蔵山に相撲を取らせませんでした。双葉山は、真っ直ぐに出て、武蔵山に受ける暇を与えませんでした。双葉山の完勝です。
六十五連勝
十二日目 二十二日(日)
双葉山(突き出し)男女ノ川〈東張出横綱〉
アナ 立ち上がりました。双葉、激しい上突っ張り。男女ノ川も突っ張りで応戦。双葉、なおも突っ張り。男女ノ川、後退。土俵に詰まった。双葉、両手で突き出しました。
解説 男女ノ川の突っ張りはまったく威力がありませんね。今日も双葉山
の相撲でした。
六十六連勝
十三日目 千秋楽 二十三日(月)
双葉山(寄り倒し)玉錦〈西横綱〉
アナ 玉錦は十日目男女ノ川、十二日目武蔵山に負けたとはいえ、やはり双葉山の相手は玉錦しかいません。今場所、最後の大一番であります。
松翁・木村庄之助の軍配が返りました。双葉、すぐに左上手を取った。右も入れた。玉、下手は取ったが、上手が取れない。双葉、ぐいと上手を引きつけた。双葉、呼び戻し。玉、右から外掛け。双葉、弓なりになった。双葉、玉の外掛けを外した。双葉、また呼び戻し。玉、土俵際に詰まった。玉、のこった。のこしました。双方、土俵中央に戻りました。玉錦は右下手、双葉は左上手を引き、双葉は右は腕をかえしています。玉、さかんに上手をさぐっている。双葉、肘と腰を巧みにつかってとらせません。両者、構えたまま動きません。動きが止まっております。
…行司・庄之助、両者に水入りを告げました。
松翁、両者の手の位置と足の位置を決めました。双葉、玉の右下手を引いています。庄之助、すかさずこれを外させました。さあ試合再会であります。
庄之助、双方のまわしをポンと叩きました。
玉、一気に寄った。双葉、右に回りこんだ。双葉、寄り返した。双葉、猛然と寄った。双葉、寄った。玉、懸命にのこした。玉、打棄りをみせた。双葉、腰を割って上手まわしをはなした。玉の胸をぐいと押した。双葉、玉錦を寄り倒しました。
解説 玉錦の大健闘は、さすがに千秋楽を飾るにふさわしい戦いでした。それにしても、双葉山は六十六連勝、五場所連続全勝という空前の記録を打ち立てましたね。この前人未到の大記録は、谷風梶之助の六十二連勝を破ったことになります。しかし、江戸時代の相撲は日数も少ないし、引き分けや預り、休みなどをはさんでいるので記録での比較はできません。明治時代には初代梅ケ谷の五十九連勝、太刀山の五十六連勝がありますが、いずれも引分け、預りのあるノンビリした時代でしたから、連勝の条件は双葉山時代のほうが遥かに厳しいと言えます。
今場所の双葉山は、体重も百三十キロにふえました。男女ノ川や玉錦といった重量級の力士にも身体負けしないようになりました。双葉山の連勝がどこまで伸びてゆくのか、来場所も大いに期待できますね。
双葉山の回顧(昭和十三年『相撲』七月号)
おかげさまで、身体も引き続き好調で今場所をつとめることができました。土俵に上がった感?そうですね。まだ全然固くならんというわけではありませんでしたが、今場所あたりは気持は割合に楽なように感じました。と言っても、一番一番慎重に念を入れたことは申すまでもありません。どの一番だって注意深くやらぬ相撲はありません。しかし立ってしまえばもう夢中です。全力を挙げて行きつくところまで行こうとするだけです。十三日間の相撲を顧みると、千秋楽の玉錦との一番が、私としては最も豪(えら)い相撲だったかと思います。
今度も全勝できたのは全く仕合せでした。全勝はそりゃもう嬉しいですよ、精魂こめた結晶ですから、正直何度全勝してもその嬉しさに変りはありません。来場所も大いにやります。
鏡岩の回顧(昭和十三年『相撲』七月号)
双葉関との勝負は、僕の作戦が狂った、僕が一気に押してゆくつもりでしたが、立ち上がるや、パッと懐をあけられたので、双差しに飛び込んでしまったのです。根が四つ相撲ですから押そうと目論んでも相手に一寸形を変えられると、懐に飛び込んでしまうのです。それにしても、双葉山関の強さはどうでしょう。場所ごとに完全になってゆくとは、あの人のことです。僕達力士になって二十年、これほど強い力士を見たことがありません。横綱になってもまだどんどん技量が進歩しているところが豪いです。今場所など、相手が出て来れば出て来たところで仕事をする、相手が出なければ自分が出る、悠々として変化に応じている。去年の一月や、五月から較べてみたら、実に格段の進歩を遂げているじやありませんか。ああなるとあんまり見事で負かすのが惜しくなる。といって負かさずにもおかれませんし、来場所あたり、僕も大いに打倒双葉山の大旆をかざして、一ト器量あげたいものです。
上司小剣(当時の角通第一人者)の双葉山攻略法(『相撲 夏場所特輯』「夏場所を観て」)
双葉山は強いにちがいない。しかしいささか勝ち過ぎているように考えられる。「勝つ」ということと「強い」ということを、同一のものとすればそれまでだし、また双葉山の研究心と気魄と、その摂生とが「勝つ」原因をなし、従って「強い」ということにもなるのだがやはり人間である以上、どこか欠点がないとは言えぬ。ここにいう欠点とは、専ら土俵の上のそれで、人物としてではないことはもちろんである。(中略)双葉山の欠点を最もよく知っていたのは昨年引退した綾川だそうで、どっちへ弱いということをよく心得ていたと聞いたが、すでに力士としての晩暮に属し、十分研究の結果を応用できなかった。しかし、去年の五月場所の二日目だったか、突き合った綾川がトッタリのように引っ張ってイナしたときは、双葉は大いに危なくハッと思わせたが、年のせいか綾川は滑ったために、もろくも突き倒されたように見えた。それでも大阪場所では一度勝ったし、一度は取りなおしまでこぎつけた。
舟橋聖一(作家)の観察(『相撲 夏場所特輯』「夏場所を観て」)
やはり、何といっても目ざましい勝ちっぷりは、双葉山であった。春場所よりも更に一段、堅実味をましていた。ある力士の話に、双葉山に手をつかまれると、指と指の間が、裂けていくのではないかと思われる程、痛くって、手首の方まで、しびれるようだということだったが、なるほど、そのくらい強くなくては、ああは勝ち放せるものであるまい。
しかし、つい最近まで松前山に竪(たて)褌(まわし)をとられて吊り気味に寄り切られたり、新海にうまく立たれて吊り気味に寄り切られたり、綾錦にもろくも土俵の中央で内掛けに倒されたりしていた双葉山を見ているものの目には、短日日の人間が、こうまで強く鍛えられるとは、なかなか信じられぬほどである。けれども、彼は今や、ほんとうに強い。力と業、それにあの冷静な頭脳が、物を言っている。四つ相撲の敵手(あいて)の肩越しに、土俵の寸法を覗いて見ることの出来る程、彼は冷静な頭脳と目を持っている。これと反対なのは、同じ横綱の男女ノ川である。男女ノ川が、ある記者に、人間がほんとうの力を出すときは、半狂人になるのだと語ったという話が、新聞に出ていたが、双葉山と男女ノ川の距離は、そこにある。
夏場所後の状況
双葉山の五場所連続優勝、六十六連勝の大記録樹立を祝して、五月三十一日、東京丸の内の東京会館で祝賀会が開催された。永井逓信大臣をはじめ出席者六百名。
六月四日、両国国技館での「第八回大日本相撲選士権大会」では前年に引き続き双葉山が優勝した。
六月十日から名古屋表大相撲が行なわれた。十三日間本場所並みの大併合興行であった。玉錦と武蔵山は休業したが、一万五千人収容の仮設国技館は連日の大入り満員。初日には白衣の傷痍軍人が四千人詰めかけた。ここでも双葉山が全勝優勝した
六月二十四日から阪急沿線の西宮球場の特設相撲場で関西西宮巡業大相撲が十三日間の日程で行なわれた。この興行には玉錦一行は東北、北海道、樺太への巡業のため参加せず、双葉山、男女ノ川、武蔵山、鏡岩の合併相撲であった。ところが十一日目(七月四日)、台風の豪雨による大災害のため、十日目で打ち切られた。(この大災害はいわゆる「阪神大水害」と言われ、谷崎潤一郎の「細雪」にその様子が描写されている。)
この場所双葉山は、三日目、九州山の渡し込みの奇襲に敗れるという波乱があった。また武蔵山は巴潟との一戦で右大腿部脱臼、五日目以後休場した。
特筆すべきことは最後の十日目は日曜日であったため、三万五千人という相撲の歴史始まって以来の入場者数だった。
七月十日、双葉山一行、男女ノ川一行、武蔵山一行、鏡岩一行合併による「朝鮮、満州巡業と慰問相撲」が実施された。釜山を振り出しに大邱、京城、平城、旅順、大連、奉天、新京と回った後、一行は分離して皇軍慰問相撲を行なった。その後、双葉山一行はライハル、チチハル、公主嶺、山海関、大同、張家口、北京、天津で慰問相撲を行なった。
九月十五日より十三日間、大阪関目の大阪国技館で第四回大阪大場所大相撲が開催された。双葉山は長途の皇軍慰問・朝鮮満州巡業で健康を害し、医師の勧告で休場した。実は双葉山は巡業中から発熱・下血を繰り返していたが、この場所前に再発、発熱と下痢症状を起こし急遽大阪の高安病院に入院した。病名は※アミーバ赤痢。口も利けないほどの重症であった。
※アミーバ赤痢 感染源はサル、ネズミ、シスト(寄生虫)に汚染された飲食物など。感染経路はシストの経口感染。ハエ、ゴキブリによる機械的伝播も起こる。腸アメーバ症と腸外アメーバ症がある。大腸・直腸・肝臓に潰瘍を生じ、いちごゼリー状の粘液血便を一日数回から数十回する。断続的な下痢、腸内にガスがたまり痙攣性の腹痛を生じる。通常は発症しても軽症であるが衰弱により死亡することもある。原虫が門脈を経由し肝臓に達し腸外アメーバ症を発症する場合もある。しばしば慢性化し再発を繰り返す傾向がある。
次は当時、雑誌『相撲』に寄せられた記事であるが、大陸巡業中の双葉山の身体の状態が記されていたので拾ってみた。
式守與之吉の日誌
八月三十日 北京初日。(中略)双葉山関の如き、満州に入って北京に乗込むまで僅か二十日間で食物が違ったためか体重が三貫匁も減つてしまったといふ。暑さは暑し、今さら洋服を着るわけにもゆかず、さうかと云つて浴衣がけで旅行するのは日本力士の面子にかゝはると云ふので、支那服を購入したが、胸の周りが窮屈なので胸だけは開き、それにヘルメットをかぶつて、どこからみても堂々たる?スタイルである。
なほ一行が困つたのは飲料水である。コレラが流行してゐるので、飲み慣れぬ水を飲ましてお相撲さんお腹でもこわしたら大変だと云ふので、結局湯ざましをこしらえるので大釜で湯を沸かすことになつたが、土俵上で湯ざましを用ふるといふことは相撲界空前のことであろう。
検査役・中川要次郎の「北支皇軍慰問所感」
(前略)ところが、日程も了りに近づいた頃、双葉山が、健康を害しましたため、非常に心配致したのでありますが、将兵諸氏の熱誠なる歓迎と、当人の責任感から、我慢に我慢を重ねて、各地の兵站病院をも訪問し、傷兵諸氏を慰問し、手数入やら稽古を御覧にいれて、所定の日程を了つた次第であります。
天津の新民会河北省指導部・小山清蔵の「天津より」
(前略)殊に双葉山が病を押して、各地の傷病兵を慰問し、各病院において土俵入りを行ったことは、非常に深き感銘を興へたところにて、各方面における人気宜しきを見て感激仕候。
既に大阪表大相撲も開場せられ当方面のことはお聞き及びのことゝは存じ候へども、双葉山は体重四貫ほど減少、三十貫余となり、関脇時代の体重に等しく相成、驚きをり申候。これは、北支各方面の慰問に無理を重ねたるため健康を害せし結果にて、大いに同情すべきところに御座候。併し、小生と相撲場にて立話をせし当日は非常に朗らかにて、小生も嬉しく存じ候。元来、元気且つ真面目なる彼のこと故、恢復も早かるべしと愚考致しをり候。
二週間余りの入院生活を終えた双葉山の体重は百十一キロ、十九キロも痩せた双葉山の太鼓腹は見る影もなく萎んでしまっていた。
さて、この大阪場所二日目、九州山に召集令状が来た。九州山は取り組みに先立ち土俵上、拡声器で召集の挨拶をした。満員の観客は起立して万歳三唱、九州山の壮行を祝福した。
双葉山の十月巡業は依然として体長不調で、途中、神戸からの参加となった。相撲は取らず土俵入りだけを務めた。
十一月一日から七日間、全組合合併による小倉表大相撲が到津の仮設相撲場で行なわれた。病状回復に専念していた双葉山は三日目より出場し、四勝一敗二休。この一敗は玉錦との対戦による。
小倉場所を打ち上げた双葉山一行は男女ノ川、鏡岩と組合をつくり、玉錦、武蔵山一行と別れ、十一月八日故郷に近い宇佐町を手始めに、別府から四国へわたり、十九日新居浜で単独組合となって岡山、広島、山口県下を巡った。十二月四日、呉市で三日間の興行中の千秋楽の朝、宿で朝食の膳に向っていた双葉山のもとに玉錦の訃報が入った(玉錦は急性盲腸炎で大阪の日生病院に入院していた)。双葉山にとっては一ト月前、不調とはいえ玉錦に敗れた小倉の土俵が最後となった。
十二月十七日、両国へ帰った双葉山は直ちに中里研究所で精密検査を受けた。身体は異常なしとの太鼓判を押されたが、体重は三十一貫(百十六キロ)、病気前の三十四貫五百にはとおく及ばなかった。
4 昭和十四年(一九三九年)
支那事変の激化で応召・入営力士が増えた。番付には、その力士の上に「応召」「入営」と書かれた。この年の五月十一日、ノモンハン事件が起こり、八月二十日、関東軍の精鋭が全滅した。九月四日、第二次世界大戦が勃発した。
二月十六日 ポストなど鉄製不急品の回収開始
三月三十日 軍事教練、大学でも必修となる
五月十一日 ノモンハン事件起こる
六月十六日 街のネオンサイン全廃
七月六日 零式戦闘機、初飛行
七月八日 国民徴用令公布
八月二十日 ノモンハンで日本軍敗北
九月四日 第二次大戦勃発
十一月二十五日 白米が禁止となる
春場所 一月十二日より十三日間 東京・両国国技館
双葉山 東横綱 (二十六歳十一月)
前年の暮、玉錦は巡業先で不運な死を遂げた。玉錦は双葉山にとっては胸を借りて育った大先輩、最後まで大きな壁として立ちふさがった唯一の目標だった。そんな玉錦の名のない番付はさびしいものであったが、この春場所を迎える双葉山についても、協会内部では一抹の心配があった。それは前年の北支巡業でアメーバ赤痢に罹って体重が二十キロも減り、体調は必ずしもかんばしくないということであった。
六十七連勝
初日 十二日(木)
双葉山(寄り倒し)五ツ島〈東前頭六枚目〉
アナ 双方、息が合って立ち上がりました。五ツ島、右を差した。左で双葉の右おっつけた。双葉、グイと右を入れました。双葉、左の上手も取った。五ツ島の下手投げ。双葉、かまわず寄った。寄った。そのまま一気に五ツ島を寄り倒しました。
解説 五ツ島は左で双葉山の右を殺そうとするうまい立合いを見せました。五ツ島の下手投げも苦しまぎれで、双葉山には少しも利きませんでした。
六十八連勝
二日目 十三日(金)
双葉山(突き放し)竜王山〈東前頭五枚目〉
アナ 十分間の仕切り制限時間が過ぎました。竜王山、なかなか立てません。行司に促がされております。
さあ双方、立ち上がった。竜王、突っ張り、猛烈な突っ張り。双葉、これを下から攻めて防いだ。竜王、左から張った。双葉、竜王の張り手に動じない。今度は双葉が突いた。強烈な突き。双葉、一ト突きで竜王山を西土俵へ突き放しました。
解説 双葉山に対して竜王山は時間一杯で立てなかったのが敗因ですね。それに顎を下げて出足をよくし、下から突っ張りあげるようにしなければ、突っ張りの効果はありません。それにしても勝負が決まった瞬間、土俵下の写真班のフラッシュはものすごいですねえ。
六十九連勝
三日目 十四日(土)
双葉山(上手投げ)駒の里〈西前頭四枚目〉
アナ さあ立った。双葉右四つに組み止めました。駒、押した。双葉、体を開いての上手投げ。見事に決まりました。
第五章 安藝の海に敗れる
四日目 十五日(日)
安藝の海〈東前頭四枚目〉(外掛け)双葉山
アナ 今場所の双葉山人気は凄まじいものがあります。初日のお客が打ち出し前に国技館を取り巻き、近所からゴミ箱、箒、下駄、それに回向院墓地の卒塔婆まて持ってきては夜じゅう焚火をして暖をとっていたそうであります。そこで協会は木戸を開けて入場させましたので、二日目のお客も今日のお客も打ち出しからずっと国技館住まいというわけであります。それに今日は日曜日。薮入りと重なって両国国技館はひと目双葉山を見ようと立錐の余地もありません。さあこの一番、常勝横綱・双葉山と新鋭・安芸の海の一戦は初顔合わせ。仄聞すると双葉山は安藝の海に一度も稽古をつけたことがないそうであります。打倒・双葉を掲げる出羽一門の兄弟子たちは安芸の海にどんな秘策を与えたのでありましょうか。平幕とはいえ双葉山にとっては油断のできない相手であります。
さあ伊之助の軍配が返った。安藝の声で双方立った。安藝、激しく突っ張った。双葉、突き返した。双葉、右をのぞかせた。安藝、右で前ミツを引いた。安藝、頭をつけた。双葉、廻しが取れない。双葉、掬った。また掬った。安藝、しぶとく残った。双葉、棒立ち。安藝、左から外掛け。双葉、安藝を抱えて掬い投げ。安藝の外掛けが外れた。双葉、右から下手投げ。安藝、左足が大きく跳ね上がった。安藝、右足で踏ンばった。安藝、必死に双葉の体に浴びせた。双葉、左腰から崩れた。行事・伊之助の軍配は安藝の海。安藝の海に上がっております。双葉、敗れる。双葉、敗れる。双葉山が敗れました。時これ昭和十四年一月十五日午後六時、出羽一門の新鋭・安藝の海に屈しました。館内は驚天動地の有様であります。ゴーッと嵐のような喚声が吹き渡っております。座布団が舞っております。手あぶりの小火鉢も飛んでおります。ミカンの雨も降っております。勝名乗りを受ける安藝の海は泣いております。嬉し涙で泣いております。双葉山、まさかの黒星。連勝は六十九でストップ、六十九連勝でストップしました。
…双葉山に一体何があったンでしょうか。
解説 安藝の海が必死になって体を浴びせたとき、双葉山の左足が踏み込み過ぎていましたねえ。双葉山らしからぬ不自然な体勢でした。無理な態勢で投げに出たのは魔がさしたとしか言いようがありません。何がどうなったのか、もう一度、フィルムで確認したいですね。
双葉山敗戦直後の評論
負けるはずはないと思っていた双葉山の敗戦は、報道陣を動転させた。ラジオの中継も新聞記者も、決まり手を「左外掛け」とした。双葉山が敗れるなら弱い方の左足に掛けられたに違いないと思い込んでいたのが間違いのもとであった。勝負の決まる一瞬の写真さえ判定は難しかった。なかでもっともひどかったのは、勝負の一瞬にカメラを構えていた新聞社のカメラマンの前で、駆け出しの記者が思わず両手を挙げて飛び上がってしまったのだ。歴史的瞬間を撮り損ねたカメラマンと記者の間で大騒動となった。
安藝の海は双葉山とは稽古をつけさせず、巡業先でも立ち合わせなかった。これは兄弟子・笠置山の仕組んだ苦肉の秘策であった。笠置山は安藝の海に次のような必勝の取り口を教示した。
「双葉山は相手の声でいつでも立つ。右のおっつけは強烈で左四つの相手でも右四つに誘い込まれる。左上手を取ったら磐石だ。どう攻めても勝ち目はない。腰の構えも自然体だ。足は心持ち左足を前にし、右四つなのに左足を出すというのは余程腰が強い証拠だ。だから上体を起しておいて、双葉山の左足に外掛けを掛けたらあるいは崩れるかもしれない」
勝負はまさに笠置山の言う通りになった。
この一番のあと男女ノ川の結びの一番が終り、客が去ってゆく館内の東の桟敷の中ほどで土俵上にじっと眼を注いでいる人がいた。その人の名は和久田三郎。あの春秋園事件の首謀者・天竜であった。その頃、満州国体育局に勤務していたが帰国して、隆盛を極める大相撲の観戦に来ていたのだ。
この勝負を実況放送していたNHKの和田信賢アナウンサーが評論家の彦山光三に決まり手を訊いたところ、「右の外掛け」と応えた。支度部屋で安藝の海を取り囲む記者連中も右外掛けではなかったと質問したが、「そう言われれば外掛けにいきました」とはっきりしない返事であった。その結果、新聞は安安藝の海の左外掛けと報道してしまった。後日、公開されたニュース映画を見ると、双葉山の右足に安藝の海の左足が掛り、それを外した双葉山が無理な体勢で右からの下手投げを打つものの、安藝の海が必死に体を預けて、そのまま浴びせ倒しているのであった。これを見た彦山光三は「いや、映画だって間違えることがある」と、死ぬまで安藝の海の右外掛けを訂正しなかった。
敗戦の原因
1 取り口から見た敗因
双葉山が前頭三枚目以降、地方場所で敗れた相撲から窺える弱点。
昭和十二年六月九日大阪場所初日 綾川(外掛け)双葉山
立会い、綾川双差し。綾川寄ろうとするが、双葉、全く動かず。そこで綾川、右の差し手から大きく掬い、双葉の右足に左足で外掛け。
昭和十二年六月九日大阪場所四日目 和歌嶋(外掛け)双葉山
2 前夜の状況
双葉山は贔屓筋の歓待で一睡もしていなかった。
3 身体上の原因
アミーバ赤痢による体調不調は回復していなかった。前年暮の玉錦の急死、武蔵山の休場、男女ノ川は出場したが往年の力はなく、協会は双葉山に頼り、ファンもまた双葉山の相撲に期待していた。そんな中双葉山は東横綱の責任を果たすべく出場に踏み切った。この体調不調について双葉山自身は一言も弁解しなかった。
当時、アミーバ赤痢に対処する特効薬はなかった。双葉山はその後も十年近くこの症状に悩まされ続けた。昭和十五年、台湾巡業中に再発し、応急処置をして帰国したが完治せず、終戦後まで出血が続いた。当時、武見太郎(元・日本医師会会長)の診察を受け、ヤトレンやキノホルムを必要最低限だけ、それも何日も間を置いて服用して凌いでいたが、全快したのはサルファ剤や抗生物質の出回った戦後のことである。
出羽が嶽の養父の斉藤茂吉(歌人・精神科医)は双葉山が安藝の海に破れた敗因を当時の歌誌『アララギ』に次のように書いている。
(前略)大勢がたかつて双葉山を調べるなら、何かの『虚』が出て来る筈だからである。この『虚』の問題も、今回の敗因の一つと考へ得るだらう。併し、私はそれよりも身体的の原因に重きを置かうとしてゐる。私は、双葉山の罹かつたアメーバ赤痢といふのを、双葉山自身よりも、ほかの双葉山批評家よりも、余程重く考へてゐるものである。
この歴史的一番の後、双葉山は五日目、兩國に打っ棄られ、六日目に鹿島洋に下手投げを食って三連敗を喫した。そして九日目にも玉の海に寄り切りで敗れ、九勝四敗の成績だった。優勝は西前頭十七枚目の出羽湊(十三戦全勝)だった。
双葉山フィーバーは一旦終ったが、翌二月十六日より十三日間行われた名古屋表大相撲では双葉山が全勝優勝。三月八日よりの第五回大阪大国技館大相撲大阪大場所でも双葉山が十三戦全勝優勝、直後の京都表大相撲も双葉山の十一戦全勝優勝した。この双葉山の復活によって再びおとずれた大相撲人気によって五月場所より十五日間興行となった。なおこの五月場所も双葉山が全勝、六度目の優勝を飾った。
なお、夏場所前の四月二十九日、双葉山は小柴澄子と結婚した。式は飯田町の東京大神宮、披露宴は東京会館。
日本人横綱のいない土俵が映し出す国柄。日本人横綱はもう誕生しないのか。
「相撲通の作家、故宮本徳蔵(とくぞう)さんは、1985年の著書『力士漂泊』で「強さ」の極致とは何かと問うた。69連勝の双葉山はどんな敵に対しても〈泰然自若として些少(さしょう)の動揺をも示さず〉に勝った。相手の方が自滅していくような印象すら受けたと書いている▼その双葉山のDVDを見て研究したという白鵬が、33回目の優勝を果たした。69連勝への先年の挑戦は阻まれたが、今回は「角界の父」と慕った大鵬の記録を久々に塗り替える偉業だ。テレビ画面の大鵬をどきどきしながら応援した世代としては、誠に感慨深い▼白鵬は、双葉山の「泰然自若」を自分も実践しようとしていると語っている。土俵上の所作一つ一つをゆっくりとする。闘志が顔に出ないと言われるのも、何ものにも動じない心を目ざしているからだ、と。なるほど今場所の姿も実に悠然としている▼今の境地に達するまでの苦労はいかばかりだったか。デビュー直後の序ノ口時代、負け越しを経験し、泣いたという。後に横綱に昇進するような力士なら普通はすんなり行くところで自分はつまずいた、と振り返っている▼言葉や文化の壁もあったろう。しかし、冒頭に引いた宮本さんは、〈チカラビト〉すなわち力士は本来モンゴルで生まれたとする。「国技」の背後にユーラシアの広大な時空を見るべし、と。その出身力士の今日の隆盛は、後に宮本さんも積極的に評価したように時の勢いというべきだろう▼大業は成った。この上はどこまで記録を伸ばすかだ。」(平成十五年一月二十五日(日)の朝日新聞「天声人語」より)
「朝青龍、白鵬、日馬富士、そして鶴竜と、四代続けてモンゴル出身の横綱が生まれた。
横綱は時代の象徴でもある。経済成長とともに輝いた大鵬、バブル絶頂期に活躍した千代の富士、平成の名横綱貴乃花。最高位に就く者には日本人の誰もがあこがれる強さがあった。
このところ毎日のように「日本人力士がふがいない」と言われる。
世の中が便利になり、教育も変わった。一人一人の権利意識が強まり、「頑張らなくていい」「勝たなくていい」文化になってしまった。家族の単位で見れば、親と子の関係が希薄になり、個人主義が広がった。
春場所中に引退したブルガリア出身の琴欧洲の言葉が忘れられない。「親に仕送りするために相撲界に入ったのに、日本人はどうして入門してからも親に仕送りをしてもらうの。おかしいね」
彼が入門を決意したのは交通事故にあって働けなくなった父の代わりに、家計を助けるためでもあった。強くならないまま国に帰ることができようか。果たして、大関に昇進し、優勝もした。
暴行騒動で突然引退した朝青龍に人情家の一面を見たこともある。
ある日の稽古終わりに「日本の力士は平気で親の悪口を言う。俺はそれが許せない。モンゴルでは絶対に考えられない。親は大切にするものでしょ」と真剣なまなざしで訴えかけてきた。
自分のことは後回しにして、家族や恩師、郷里のことを思えば簡単に辞められるはずがない。親も同じで昔は「強くなるまで帰ってくるな」だったのが、いまは「苦しければすぐに帰ってこい」に様変わりしてしまった。
鶴竜は自ら入門を直訴する手紙をしたため、モンゴルから日本の大相撲関係者に送った。日本語がまったくわからない小さな少年だったという。それがいまは立派な力士になった。師匠を慕う姿勢や稽古場での向上心を見るにつけ、初心を忘れていないことは明らかだ。
スカウトされて連れられてきた力士と、自ら懇願して門をたたいてくる力士とでは気概がまったく違う。
日本の力士だけがふがいないのではない。酒や米がその土地その土地の土壌や気候で味を決めるように、国柄が力士をつくるのである。
いまのわが国を見つめると、何もかもが弱腰だ。近隣諸国に言いたい放題にされてはいないか。外国から来た力士に顔を張られても、怒って向かっていく力士がいないのと同じように。
土俵は、いまの日本を映し出す鏡なのかもしれない。」
これは、元小結・舞の海秀平の「舞の海相撲評論〈二〇一四・四・三、サンケイ新聞〉より。
目次
第一章 後の先
第二章 入幕まで
第三章 入幕から六十九連勝が始まるまで
第四章 六十九連勝始まる(六十九連勝仮想実況放送)
第五章 安芸の海に敗れる
第一章 後の先
「これが負けか…」
白鵬は記者のインタビューには一切応じず、この一言を呟いて福岡国際センターを後にした。
平成二十二年(二〇一〇年)十一月十五日、九州場所二日目結びの一番。白鵬は稀勢の里に寄り切られて客席まで飛ばされ、尻餅をつき照れ笑いした。この場所、連勝を六十三に伸ばしていた白鵬は、八日目に双葉山の六十九連勝に並び、九日目には七十連勝という大記録を樹立するだろうことは誰しも疑わなかった。
七十四年前の昭和十四年(一九三九年)一月十五日、双葉山を左外掛けから浴びせ倒した安芸ノ海もまた、双葉山の相手ではないと見られていた。
白鵬の「これが負けか」の一言には自らの敗因を納得しているようなところがある。では安芸の海に負けた直後の双葉山はどんな言葉を吐いたのだろう。
翌十六日の東京朝日新聞は次のように書いている。
支度部屋に入るなり双葉は、〝アゝ―〟と一寸顔をゆがめた。〝下がり〟を弟子に渡して支度部屋の風呂場で足だけ軽く洗った後、過去六十九連勝の足跡の激闘を回想し〝我ながら良くこゝまできつるもの哉〟といった一寸深刻な顔で〝ああくそ〟と呟くと、どっかり胡座をかく。床山が髪を撫ではじめた。
記者「どんな気持です」
双葉「えゝ、あまり好い気持ではないです」
記者「どうして敗けたんです」
双葉「どうしてったって、敗けましたよ」と複雑な微笑をする。
同じ支度部屋で男女ノ川の弟子等が、これを取りなすかのやうに、
「調子を下ろしたんだよ。敗けを知らないからのう」
双葉の弟子達はみんな無言で突立ったきり。ザンギリ頭が〝入口をしめろい〟― 双葉は青と黒の細かい格子縞のドテラを肩にかけると裏口から弟子四、五人に護られて静かに帰って行った。
双葉山は「ああくそ」と吐いた。それは自ら招いた後悔の念か。
白鵬に戻ろう。白鵬が敗れた翌日の読売新聞と東京スポーツ新聞に「後の先」の文字があった。
白鵬は双葉山が仕掛けておいた罠にはまった。最近の白鵬は双葉山の相撲をビデオで研究していた。悟りかけていたのが将棋などの「後の先」という考え方である。後手をひいたようで、先手になるような手。(読売新聞「編集手帳」)
朝青竜は生涯「勝ちに行く」相撲であった。白鵬は「いい相撲」を心がけてここまで来た。しかし、「いい相撲」を負ける心配のない「横綱相撲」に進化させなければ、果てしなく勝ち続けることはできない。そこで辿り着いたのが双葉山の考えていた「後の先」であった。後手をひいたようで先手になるような手。一旦受けにまわり手番を握られるが、相手も受けにまわらなければならず、結果的に手番を確保できる。
この日は中盤以降、稀勢の里に一方的に攻めまくられて負けた。奇襲戦法ではなく、堂々たる稀勢の里の「横綱相撲」であった。「後の先」の意識がどこかにあって、攻めが疎かになり、後手に回ったに違いない。「後の先」にはそういった危険が潜んでいる。双葉山が安芸ノ海に敗れたときも、両廻しが取れないという守勢の局面で繰り出された外掛けで負けたように記憶している。(東京スポーツ新聞)
私は昭和十九年(一九四四年一月八日)生れなので双葉山の相撲は記録映像でしか知らない。しかし、子供の頃から大相撲を見続けてきた眼には、それが古い映像であっても、栃錦、若乃花、大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花そして白鵬といった強い横綱と較べて双葉山の相撲力は一歩も二歩も抜きん出ているように映る。
そんなわけで私は、双葉山がなぜ安芸の海に敗れたのか、その原因を知りたいという思いを現在まで半世紀以上も抱き続けている。
その敗因は世間ではいろいろ言われているのであるが、私は直接の原因は双葉山の立ち合いにあったと考えている。「後の先」が「先」を取る間もなく負けてしまった。なぜか。双葉山は安芸の海に敗れた直後、若い時分からの心の友であった※中谷清一に宛てて「我未だ木鶏足り得ず」という電報を打った。その文面の裏側には「後の先」という取り口が失敗に帰したことの含みが隠されているように思える。
※双葉山と中谷清一の親交に関しての資料は殆んど無い。ただ双葉山の自伝「相撲求道録」に中谷清一の名前が出てくる。それによると、双葉山より五、六歳年上で初めて会ったのは昭和九年頃とある。東洋思想家・安岡正篤の門下生で横綱審議委員会初代委員長を務めた竹葉 秀雄の親友。竹葉秀雄は四国宇和島で塾を開いていたが、双葉山は四国巡業の際には立ち寄ったという。おそらく二人はここで一緒に受講したかもしれない。
また、吉川英治の『武蔵落穂集』(昭和十二年・大阪朝日新聞文芸欄)には次のように述べられている。
『大阪の中谷清一君が、何でもけふの双葉山と玉錦のすまうをみろといふ。中谷君は堂島の人であるが、双葉山をその無名時代から鞭撻し、ひいきといふよりは、双葉山にとって無二の心友なのである。
双葉山をして相撲道の宮本武蔵に大成させ、自分の晩年は灰屋紹由(京都の風流人)のやうになりたいといつてゐる人である。』
私見だが「後の先」とは、相手よりも遅れて立つ、つまり受けて立つのであるが、体が合った瞬間には有利な体勢にもってゆける立ち合いをいうのではなかろうか。言い換えれば、後の先をとるということは、相手を先に立たせ、瞬時に相手の動きを感じとって、自分有利の体勢に持ち込む極意ということになる。だから並外れた直感力、瞬発力を要する。その頃、双葉山はまだ「後の先」を真に体得していなかった。これが直接の原因ではなかったか。
双葉山―安芸の海戦は初顔合わせだった。双葉山は場所前の巡業で「一丁こい」と声をかけたが、安芸の海は盲腸手術直後、具合が良くないという理由で双葉山の胸を借りることをしなかった。相撲の世界には「ガイにする」という言葉がある。横綱は次の場所で顔の合いそうな若手力士を引っ張り出しては稽古をする。相手の力量を知ると同時に、思い切り痛めつけてやるのだ。こうしておいて本場所で顔を合わせると、相手は横綱にひと睨みされただけで精神的に負けてしまう。これを「ガイにする」と言う。つまり安芸の海はガイにされなかった。初対戦のときの映像を見ると、塩を撒く安芸の海の姿は実に堂々としている。
しかし、場所前に立ち合わなかった本当の理由は、体調不調ではなくて、何とかして一矢報いたいと念願する出羽ノ海一門の作戦だったとも言われている。つまり双葉山に対して安芸の海の力量や取り口の長所短所を覚らせないようにしていたというのである。双葉山にとっては安芸の海は未知数だった。
それに双葉山の体調も前年の中国北支慰問巡業中に罹ったアメーバ赤痢によって万全ではなかったと思われる。
そしてもうひとつ、双葉山は立ち合いざま安芸の海に左眼を張られたことでおおいに慌てたのではなかろうか。なぜなら双葉山の右眼は失明して全く見えなかったからだ。当時このことは一部の人を除いて誰も知らなかっただろうから、双葉山自身、一瞬覚られたと思ったかもしれない。そのような想像をしながら何度も当時の映像を見た。安芸の海は立ち上がりざま双葉山の左眼を張っている。後年、双葉山は、「後の先」を体得しようとした理由は相撲取りとして致命的なハンデである片眼を克服するためだと言っている。しかし、このとき双葉山の身体的ハンデにつけ込む作戦があらかじめこうじられていたとしたら…。
いずれにしても双葉山の「後の先」の立ち合いは失敗した。
武道における「後の先」は、安全な間合いを保ちながら相手の攻撃を待ち、相手が仕掛けてきた時点ではじめて動くことをいうそうだ。相手の出方を見て、これをさばいた後に技を出す。秀吉が朝鮮征伐を命じた天正十九年(一五九一年)馬庭念流の樋口又七郎定次(何と双葉山と同名の定次とは!)によって創始された。この「後手必勝」の剣の、敵の攻撃を見切る時期は七分三分。相手の攻撃が始まって、こちらに届くまでを十とした場合、六分の所で動けば相手の攻撃は変化可能。八分では一歩間違えば間に合わない。三分残った時点で対処すれば相手の攻撃はついてくることができない。後手をもって勝つには、相手の攻撃をどこまで我慢できるか、その目安が七分三分なのである。
見切った後の立ち方も七分三分。中腰になった態勢で重心は常に後ろ足に七分、前足に三分かける。この立ち方ならば、後ろ足を強く踏むだけで俊敏に前に出ることができる。「後の先」には「先の先」以上の勇気と技量がいる。「後の先」は抜群の精神力の持主でなければ使えない。しかし双葉山も白鵬もあたかも魔がさしたように立ち合いで失敗したのである。
ついでながら、「王将」で有名な坂田三吉の端歩突き(一手遅れる手)を「後の先」と言う人がいるが、いかがなものか?三吉は二度やって二度とも敗れているのである。
岡野功(おかのいさお)の後の先
一九四四年(昭和一九年一月二十日生)は日本の柔道家、流通経済大学名誉教授。一九六四(昭和三十九年)東京オリンピックの柔道男子中量級金メダリスト。
茨城県龍ケ崎市出身。福井英一の漫画『イガグリくん』に影響を受け中学から柔道を始める。茨城県立竜ヶ崎第一高等学校卒。中央大学法学部に在学中の一九六四年(昭和三十九年)東京オリンピックに中量級の日本代表として出場し、金メダルを獲得。翌一九六五年(昭和四十年)の世界選手権でも優勝し、わずか21歳にして柔道中量級における世界のトップ選手となる。一九六七年(昭和四十二年)には全日本選手権で優勝し、中量級選手としては当時史上初となる柔道三冠を獲得。一九六四年の東京オリンピックの中量級金メダリストで、全日本選手権でも2回優勝(史上最軽量優勝者)。一九六五年の世界柔道選手権(中量級)でも優勝し、日本でも数少ない五輪・日本・世界の三冠制覇をなしとげた。
手による帯から下の直接攻撃禁止について
自分はあまり国際試合を直接見ていないので、帯から下の手による攻撃を禁じる新しいルールが実際にどのように適用されているかは正確につかめていない。しかしこの新しいルールについて聞いたとき、これでは相手が攻めてきたときに「後の先」をとることが難しくなり、無差別の試合などでの面白さを減少させることを懸念した。
「後の先」をとるには大きく二つの方法がある。ひとつは、相手の技を返すこと。もうひとつは、相手の攻撃を受けて自分の得意技に変化することである。新しいルールにより、捨て身小内刈、肩車、足を持っての大内刈などが出来なくなり、掬い投げや相手の腰を抱き込んだりして技をかけにくくすると考えた。これでは「小よく大を制する」無差別級の試合が成り立たなくなる。せめて、ごく一部の技を指定して禁止する方法もあろう。ただ、その後アメリカに行った際、練習や試合を見て、この新しいルールにより、多くの柔道家が足を狙うのではなく柔道の本来的な技である内股、体落、背負投などをより一生懸命身につけようと練習していたことに気付いた。よりまともな柔道をするようになった面は良いが、他方で、個性的な技が少なくなり、技や攻防がシンプルになって面白みが減じる側面もあると感じた。この新しいルールが今後どう展開するか注視していきたい。
白鵬の対話から
先の先で攻めていく方法と後の先とのバランスが大切である。待っていて相手に攻めさせたんじゃ呼吸が一呼吸ずれれば自分がやられてしまう。相手の出方を眼で確認するのではなく肌で感じて体をさばく。一瞬速く体をさばく作業が必要になってくる。
まず形を持て。だけれども、それに拘っていたのでは一流とは言えない。相手の出方に応じて、臨機応に対応しろ。ですから後の先というのは、レベルから言うと臨機応変の範疇に入ってくる。武道の世界には「形を持って形に拘らないレベルに達した人を名人・達人と言う。(岡野功)
さて、この稿は三章までは序章のようなものである。第二章は双葉山入門以前の明治・大正時代の角界の概要、第三章は昭和二年に入門、七年の春秋園事件(天龍事件)を経て入幕、十一年春場所六日目、横綱玉錦に敗れるまでを記した。決して体格に恵まれず大して期待もされていなかった時代の記録であるが、この時代を知ることによって、その後の無敵双葉山の姿が鮮明に浮かびあがってくるはずである。
第四章の「六十九連勝始まる(六十九連勝仮想実況放送)」では、雑誌の記事や映像をもとに、立ち合いと双葉山の組み手である右四つを強調して書いてみた。しかし残念ながら「後の先」の取り口を解説するまでには到っていないようだ。この「後の先」のイメージについては、私の言葉足らずの勝手な仮想実況放送に眼を通していただきながら、読者のご賢察に俟つしかない。
第二章 入幕まで
1 明治・大正時代の角界
明治三十四年(一九〇一年) 一月 十八代横綱に大砲
明治三十六年(一九〇三年) 六月 十九代横綱に常陸山
二十代横綱に梅ヶ谷
明治三十七年(一九〇四年) 四月 二十一代横綱に若島(大阪相撲)
明治四十二年(一九〇九年) 六月 国技館開設 幕内力士十日間出場
東西対抗優勝制度制定
明治四十四年(一九一一年) 一月 新橋クラブ事件
五月 二十二代横綱に太刀山
大正元年 (一九一二年)十二月 二十三代横綱に大木戸(大阪相撲)
大正三年 (一九一四年) 一月 横綱・常陸山引退(五月出羽ノ海を襲名)
大正四年 (一九一五年) 一月 横綱・梅ヶ谷引退(五月 雷を襲名)
二月 二十四代横綱に鳳
五月 小結・緑島、引退して年寄・立浪を襲名
大正五年 (一九一六年) 五月 二十五代横綱に西の海
大正六年 (一九一七年) 五月 二十六代横綱に大錦
十一月 国技館全焼
大正七年 (一九一八年) 一月 春場所を靖国神社境内で挙行
太刀山、引退(年寄・東関を襲名)
四月 二十八代横綱に大錦(大阪相撲)
五月 二十七代横綱に栃木山
大ノ里、入幕
大正九年 (一九二〇年) 一月 再建国技館開館
大正十一年 (一九二二年) 二月 二十九代横綱に宮城山(大阪相撲)
大正十二年 (一九二三年) 一月 三河島事件 清水川入幕
五月 十一日間興行に延長
三十代横綱に源氏山
九月 国技館、関東大震災で被災
大正十三年 (一九二四年) 一月 春場所は名古屋で十一日間興行
横綱・源氏山、西ノ海に改名
五月 国技館、修復成る
三十一代横綱に常の花
十一月 第一回全日本力士選手権競技会開催
大正十四年(一九二五年) 五月 栃木山引退(年寄・春日野を襲名)
十二月 財団法人大日本相撲協会設立
大正十五年(一九二六年) 一月 玉錦、入幕
2 双葉山入門時の角界の動き
昭和二年(一九二七年)
一月
東京相撲協会と大阪相撲協会が合併
一月と五月の東京場所に、関西場所(二場所)が加えられた。(三月 大阪、十月 京都で関西場所)
昭和三年 (一九二八年)
一月
・ラジオ放送が始まり、放送時間内に取組を終らせるため、仕切り時間が幕内十分、十両七分、幕下以下五分に制限された。これまで夜九時頃までかかっていた取組は、午後五時四十分の打ち出しとなった。(なお昭和二十年に幕内五分、十両四分、幕下三分、昭和二十五年に幕内四分、十両三分、幕下二分になり現在に至っている。)
・仕切り線(間隔六十センチ)が設けられた。これによって頭をくっつけあう仕切りがなくなった。
・十両力士は十一日間連日出場となる
・男女ノ川が入幕
三月
不戦勝制度を制定
五月
天龍入幕 男女ノ川、朝潮に改名 武蔵山入幕
九月
名古屋で第六回関西場所
昭和五年(一九三〇年)四月
天長節に皇居内で天覧相撲を開催、これを機に五月場所から四本柱を背に座っていた勝負検査役は土俵から下りた。検査役は東西の力士控え席の中心に一人ずつ、正面土俵下の中央に一人、向正面の左右に一人ずつ、合計五人が控えた。これにより観客はもとより検査役も見よくなった。
3 双葉山の入門から幕下までの戦跡
昭和二年
三月 大阪 前相撲 十六歳(一メートル七十三センチ七十三キロ)
五月 東京 新序 三勝三敗
十月 京都 東序の口二十七枚目 四勝二敗
昭和三年
一月 東京 東序の口九枚目 五勝一敗
三月 名古屋 西序二段三十四枚目 四勝二敗 十七歳
五月 東京 東序二段十六枚目 三勝三敗
十月 広島 同 四勝二敗
昭和四年
一月 東京 東三段目三十三枚目 三勝三敗
三月 大阪 同 五勝一敗 十八歳
五月 東京 西三段目七枚目 四勝二敗
十月 名古屋 同 三勝三敗
昭和五年
一月 東京 西幕下二十四枚目 四勝二敗
三月 大阪 同 三勝三敗 十九歳
五月 東京 東幕下十四枚目 四勝二敗
十月 福岡 同 三勝三敗
昭和六年
一月 東京 西幕下三枚目 六勝一敗
三月 京都 同 五勝二敗 二十歳
4 十両から入幕までの戦跡
昭和六年(一九三一年)
四月二十九日、前年に引き続き皇居内で天覧相撲が開催された。これを機会に協会では土俵の屋根を入母屋造りから神明造りにした。また土俵の直径を十三尺から十五尺(四・五四五メートル)に拡げ、二重土俵を一重土俵に改めた。
夏場所 五月十四日から十一日間 東京・両国国技館
西十両五枚目 三勝八敗 二十歳三ヶ月
大阪場所 十月九日から晴天十一日間 中之島玉江橋畔仮設国技館
西十両五枚目 七勝四敗
第一回大日本相撲選士権大会 六月六日から三日間 東京・両国国技館
第一日目・第二部(紅組)第一回戦 双葉山(突き落し)常昇
第二日目・第二部(紅組)第二回戦 高ノ花(寄り切り)双葉山
昭和五年と六年の天覧相撲を記念し、毎年五月の夏場所後、両国国技館で大日本相撲選士権大会が開催されることになった。第一回大会の選士権者には春日野親方、二位玉錦、三位は天龍だった。春日野親方は大正時代の名横綱・栃木山。引退後六年を経て三十九歳であった。
第三章 入幕から六十九連勝が始まるまで
1 昭和七年(一九三二年)
春秋園事件
一月五日、東京・春場所の新番付が発表された。横綱不在であるが、小結・武蔵山が関脇を飛び越して新大関となり、東に玉錦、能代潟、西に武蔵山、大ノ里の四人の大関が並んだ。また前頭三枚目の清水川も小結を飛び越して東関脇へ昇進した。天龍は東関脇から西関脇へと降格した。
武蔵山は、四年夏場所新入幕で東八枚目に抜擢されて以来負け越し知らず。一年後の五年夏場所には新小結に昇進、六年三月京都場所は十勝一敗で清水川と優勝を分けた。同年夏場所は十勝一敗で優勝、十月大阪場所は八勝二敗一休だった。
一方、天龍は六年五月場所の番付で東関脇、武蔵山は東小結であった。天龍は、六年一月場所は西関脇で八勝三敗、同年三月京都場所でも八勝三敗、四月の第一回大日本相撲選士権大会で玉錦に次ぐ第三位(武蔵山は第三回戦で鏡岩に敗退)。夏場所は六勝五敗、十月の大阪場所は八勝三敗だった。
このような番付編成を見た一部の関係者やファンは、春秋園事件を、天龍が弟弟子の武蔵山に追い越された腹いせにやったとかんぐった。そして、二人が共に大関になっていれば起きなかっただろうと噂した。しかし事件発生の真因は、以前からくすぶり続けていた出羽海一門の力士たちの師匠・出羽海親方や協会に対する不満であった。
当時の角界は、横綱は別として大関以下三役でさえ力士の対面を保つことが困難なほど低収入であった。彼らは贔屓筋の袖にすがり、風呂に入れば大きな体を折り曲げて彼らの体を流したり、宴席では太鼓もちのようなことまでしていた。当時相撲取りは男芸者などと言われもした。天龍は、亡き大師匠の元横綱・栃木山の「相撲取りは力技を競うサムライ、つまり力士だ」という言葉を実現しようと立ち上がったのであった。そういう天龍の気持がなかったら、名大関・大ノ里は同調しなかっただろうし、多くの力士たちも天龍の傘下に集まらなかっただろう。
この新番付が発表された一月五日の翌六日の昼過ぎ、大井町の料亭・春秋園に出羽海一門の力士三十二人が集結した。内訳は、西方力士の全員二十人と十両の十一人、それに幕下一人であった。出羽海部屋所属以外では三人。当時、出羽海部屋は幕内東西いずれかの片方を独占していた。
天龍は大ノ里と共に、力士の生活状況の改善と協会改革の必要性を十カ条の項目にして協会に要求した。
協会ノ会計制度ヲ確立サレタイ。
競技時間ヲ改正サレタイ。
観覧料を低下シテ、大衆の相撲テアラシメタイ。
相撲茶屋ヲ撤廃サレタイ。
年寄制度を漸次二撤廃サレタイ。
養老年金制度ヲ確立サレタイ。
地方巡業制度ヲ根本的二改メラレタイ。
力士の生活ヲ安定サレタイ。
冗員を努メテ整理サレタイ。
力士協会ヲ設立シ、モツハラ力士ノ共済制度ヲ確立サレタイ。
天龍、大ノ里、武蔵山、綾桜の四人は、この要求書を協会へ持参した。しかし要求は受け入れられず、彼らは一月十日、「大日本新興力士団」を結成した。このため、十二日、協会は春場所を無期延期とした。ところが同日、武蔵山は力士団を脱退し一行から離れた。また十四日、大日本関東国粋会(右翼団体)が調停に乗り出した。この「顔役」たちの圧力に対して、力士団は出羽ケ嶽一人を除いて全員が力士の象徴である髷を切って抵抗した。同日、新聞に武蔵山の拳闘界(ボクシング界)転身の声明書が出たが、武蔵山は翌二十五日協会に復帰した。二月二日、協会の全役員は総辞職し、新役員が選出された。二十六日、鏡岩、男女ノ川などの東方力士(十七人)も「革新力士団」を結成し、名古屋に本拠地を置いた。新興力士団は、二月四日、根岸の旧尾高邸跡地で六日間の旗揚げ興行を開催した。
協会は二月十三日、両力士団の四十八人を除名し、無期延期にしていた春場所を二月二十二日より一門総当り制で八日間の開催とし、残留力士で再編成した新番付を発表した。
新番付は幕内十両ともに東西十人ずつ。関取は一月五日発表の番付より二十二人少ない四十人。新入幕は十両から旭川、双葉山、大ノ浜の三人、幕下から五人の計八人という異例の抜擢昇進であった。なお、双葉山は昭和六年夏に新十両五枚目で三勝八敗、十月の大阪場所では同位置で七勝四敗、翌七年正月の番付では十両七枚目に下がっていた。新番付での双葉山は西前頭四枚目。
春場所 二月二十二日から八日間 東京・両国国技館
双葉山 西前頭四枚目 二十一歳一ヵ月 一七九センチ・九十キロ
初日 双葉山(吊り出し)鷹城山(西前頭六枚目)
二日目 双葉山(寄り倒し)瓊の浦(西前頭七枚目)
三日目 双葉山(叩き込み)古賀の浦(西前頭二枚目)
四日目 双葉山(打っ棄り)若瀬川(西前頭三枚目)
激しい突き合いから右四つとなり、寄りたてられた双葉山が土俵際で吊り出し気味の打っ棄りで勝った。この日まで四連勝。
五日目 大潮〈東前頭二枚目)(寄り倒し)双葉山
体力にまさる大潮が右四つから双葉山を寄り倒した。
六日目 双葉山(押し切り)若葉山(東前頭筆頭)
双葉山は力相撲の若葉山を右ノド輪で攻め、突き出した。
七日目 射水川〈東前頭六枚目〉(はたき込み)双葉山
千秋楽 大邱山〈西十両筆頭〉(切り返し)双葉山
八日間を五勝三敗で終った双葉山は、幕内特進組では旭川と並ぶ最良の成績だった。古参力士で実力派の古賀ノ浦、若瀬川、若葉山には勝った。しかし、彼らは、それぞれの立場で春秋園事件に巻き込まれたために稽古不足で、心身ともに万全ではなかった。双葉山は二十一歳(明治四十五年・一九一二年二月九日生)になったばかりの若さもあり、事件の外にいてその影響を受けなかったことが有利にはたらいた。
なお双葉山は千秋楽に大邱山に負け、これ以降二、三年は双葉山よりも大邱山が将来を有望視されていた。つまり大邱山は双葉山が強くなるまでの好敵手であった。また二日目に対戦した瓊の浦は後の両国である。
幕内優勝は関脇・清水川(八戦全勝)。この場所の総収入は二万五千円と従来の一日分の収入しかなく、収支は大欠損となった。
名古屋場所 三月十八日より晴天十日間 名古屋市の騎兵第三駐隊跡広場
双葉山 西前頭四枚目
初日 双葉山(浴びせ倒し)国ノ浜〈西前頭五枚目〉
二日目 双葉山(突き放し)鷹城山〈西前頭六枚目〉
三日目 大潮〈東前頭二枚目〉(寄り切り)双葉山
四日目 双葉山(寄り切り)若瀬川〈西前頭三枚目〉
五日目 瓊の浦〈西前頭七枚目〉(下手投げ)双葉山
六日目 双葉山(上手投げ)射水川〈東前頭六枚目〉
七日目 双葉山(寄り切り)大邱山〈西十両筆頭〉
八日目 双葉山(外掛け)吉ノ石〈東十両筆頭〉
九日目 双葉山(寄り倒し)巴潟〈西十両四枚目〉
千秋楽 双葉山(打っ棄り)古賀ノ浦〈西前頭二枚目〉
当時は東京で一月春場所、五月夏場所をやり、三月、十月に関西場所をやっていた。関西場所は新番付を作らず東京場所と同位置のままで取り、東京の二場所の成績で次の東京場所の番付を編成していた。しかし、昭和七年は春秋園事件のため異常な番付で春場所と名古屋が行われ、協会は先場所優勝、この場所八勝二敗の西関脇・清水川を大関へ昇進させた。幕内優勝は九勝一敗の小結・沖ツ海。双葉山も八勝二敗の好成績だった。
夏場所 五月十三日より十一日間 東京・両国国技館
双葉山 東前頭二枚目 二十一歳三カ月
初日 双葉山(踏み越し)幡瀬川〈西関脇〉
新進・双葉山と相撲の神様・幡瀬川との対戦。立ち上るや激しい突き合いから右四つに組んだ。双葉山が寄りたてると、幡瀬川は土俵を回って逃げ、そのとき土俵の外に足を踏み越してしまった。
二日目 清水川〈東張出大関〉(上手投げ)双葉山
双葉山が突っ込んだが、清水川は右四つに受け止め得意の上手投げで退けた。大関・清水川と特進組の双葉山との力の差が出た。
三日目 武蔵山〈西大関〉(寄り切り)双葉山
四日目 玉 錦〈東大関〉(極め出し)双葉山
五日目 若葉山〈東小結〉(押し倒し)双葉山
六日目 沖ツ海〈東関脇〉(突き出し)双葉山
七日目 双葉山(押し切り)巴潟〈東前頭六枚目〉
八日目 双葉山(寄り倒し)大邱山〈西前頭四枚目〉
九日目 双葉山(押し切り)出羽ケ嶽〈西付出〉
双葉山が巨漢に初挑戦した。双葉山が鋭く突っ込んで出羽ケ嶽を押したて押し切った。
十日目 双葉山(寄り倒し)古賀ノ浦〈西前頭二枚目〉
千秋楽 双葉山(掬い投げ)能代潟〈西張出大関〉
双葉山は六勝五敗と勝ち越した。特進組では双葉山が東前頭二枚目と最高位に上がり、早くも三役と顔を合わせた。しかしさすがに玉錦、武蔵山、清水川、沖ツ海という実力派には歯が立たなかった。
幕内優勝は東大関・玉錦。東張出大関・清水川も玉錦と同成績の八勝一敗だったが、規定によって玉錦の上位者優勝となった。
なお、この場所、双葉山の親友・巴潟(後の九代友綱・工藤誠一)が入幕し、七日目に双葉山と対戦した。
第二回大日本相撲選士権 六月五、六日の二日間。両国国技館
優勝は玉錦。選士権挑戦(三番勝負)は大関・玉錦が年寄・春日野に二連勝
京都場所 十月十三日から晴天十一日間。京都市東山三条
双葉山(東前頭二枚目)は蓄膿症手術のため全休した。
幕内優勝は大関・清水川(九勝二敗)。場所後の二十四日、番付編成会議で大関・玉錦が横綱に推挙され、十一月十七日、熊本市の吉田司家で、三十二代横綱免許授与式が行われた。露払い・双葉山、太刀持ち・大邱山。行司は式守伊之助から昇格した二十代・木村庄之助(昭和十年五月、人望、見識共に備わった名行司の証「松翁」の称号を与えられ、以降、番付上に冠した)。
2 昭和八年(一九三三年)
前年十二月、春秋事件で脱退した力士の大半が帰参し、この春場所から参加した。復帰組の土俵入りは別個に行った。
一方、天龍、大ノ里らは一月六日、大日本関西相撲協会を設立、二月十一日より大阪堂島ビル前で晴天七日間の旗揚げ興行を行った。これを機に大日本相撲協会は、昭和二年以来開催してきた関西本場所を廃止、東京での春秋二回の二場所制に戻った。なお、このときに天龍、大ノ里、錦洋、山錦は角界から追放された。関西相撲協会は、昭和十二年十二月までの四年間存続した。
春場所 一月十三日より十一日間 東京・両国国技館
前年十二月に脱退力士団から帰参した力士(十二人)を別番付として発表し、二枚番付とした。男女ノ川は、脱退前は朝潮の四股名で取っていたが、革新力士団では男女ノ川と名乗っていた。復帰の別番付では朝潮となっていたが、この場所では男女ノ川で土俵にあがった。
この場所は新横綱・玉錦の場所であった。これに加えて協会は、帰参力士たちを脱退時の番付位置に戻した。このため五枚目に下がった双葉山は、帰参力士たち(「別席」と表示)と対戦することになった。
双葉山は京都場所を休場したため、三枚下がって前頭五枚目になった。
双葉山 東前頭五枚目
(二十一歳十一ヵ月 一メートル七十四センチ、九十八キロ)
初日 双葉山(上手投げ)鏡岩〈別席〉
左四つからの上手投げ。
二日目 双葉山(寄り切り)海光山〈別席〉
三日目 双葉山(首投げ)宝川〈別席〉
四日目 双葉山(浴びせ倒し)大邱山〈東前頭筆頭〉
五日目 錦華山〈別席〉(つきひざ)双葉山
金華山の上手投げを双葉山は掬い投げに打ち返したが先に膝をついてしまった。
六日目 双葉山(打っ棄り)筑波嶺〈西前頭六枚目〉
七日目 双葉山(打っ棄り)新海〈別席〉
八日目 双葉山(寄り倒し)外ケ浜〈別席〉
九日目 双葉山(押し出し)出羽ケ嶽〈西前頭筆頭〉
十日目 朝潮改め男女ノ川〈別席〉(小手投げ)双葉山
連勝の男女ノ川との対戦。双葉山は突き立てて双差しとなったが、男女ノ川の小手投げに屈した。
千秋楽 双葉山(二丁投げ)若葉山〈西前頭二枚目〉
若葉山にハズで押し込まれたが、双葉山は二丁投げで逆転勝ち。
双葉山は九勝二敗の好成績を残した。対戦相手も大邱山と筑波嶺を除き、全て春秋園事件前の幕内力士ばかりであった。双葉山以外の特進力士たちも帰参力士に対してみな善戦した。(「第六章 「双葉関の思い出」参照)
幕内優勝は復帰別席の男女ノ川(十一戦全勝)。この場所から玉錦、武蔵山、男女ノ川、清水川、沖ツ海、高登の六大力士時代が始まり、双葉山時代までの相撲界を支えていくことになる。
夏場所 五月十二日より十一日間 東京・両国国技館
双葉山 東前頭二枚目 (二十二歳三カ月)
初日 双葉山(打っ棄り)錦華山〈西前頭六枚目〉
二日目 玉錦〈東横綱〉(突き出し)双葉山
三日目 清水川〈西大関〉(上手投げ)双葉山
四日目 男女ノ川〈西小結〉(突き出し)双葉山
五日目 沖ツ海〈東関脇〉(寄り倒し)双葉山
六日目 武蔵山〈東大関〉(下手投げ)双葉山
七日目 双葉山(上手投げ)瓊の浦〈東前頭筆頭〉
八日目 幡瀬川〈東前頭四枚目〉(打っ棄り)双葉山
九日目 綾桜〈東前頭六枚目〉(打っ棄り)双葉山
十日目 双葉山(打っ棄り)能代潟〈西前頭筆頭〉
千秋楽 双葉山(打っ棄り)吉野岩〈西前頭五枚目〉
幕内優勝は玉錦が横綱として初めての優勝を飾った。通算では六回目。
双葉山の成績は四勝七敗。二日目、玉錦に負けたが、これが横綱との初対戦だった。この場所、双葉山は上位の壁の厚さをいやというほど味わった。正攻法の双葉山の取り口では上位には勝てないという評価が大勢を占めていた。しかし、六日目、武蔵山に負けた一番は、双葉山の上手投げを武蔵山が下手投げに打ち返したもので、あわや双葉山の上手投げが決まったかと思われた。双葉山の切れのある投げの本領が垣間見えた一番だった。
五月二十七日 水交社天覧相撲 東京・芝公園水交社
玉錦が武蔵山を寄り切って優勝。
六月三、四日 第三回大日本相撲選士権
今年から年寄は参加せず、現役力士のみで行なった。選士権は前年に続き玉錦が獲得
十一月 明治神宮全日本力士選士権
玉錦が優勝。
この年七月三日、「力士会」(会長・玉錦、副会長・武蔵山)が発足した。
九月三十日、大関を目前にしていた関脇・沖ツ海(北城戸福松)が巡業先の萩市で河豚中毒死。二十四歳だった。沖ツ海は五月夏場所、十日目に大関・武蔵山と対戦、水入り二番後取り直しの後も水が入り、遂に引分けとなる大熱戦を演じた。
3 昭和九年(一九三四年)
春場所 一月十二日より十一日間 東京・両国国技館
横綱・玉錦が突き指のため休場した。
小結・男女ノ川が関脇に昇進した。
双葉山は、前年九月、河豚中毒で急死した関脇・沖ツ海にはこれまで二戦して二敗。大型力士の中で双葉山が勝てなかったのは沖ツ海だけだった。もし沖ツ海が健在であったなら、その後の双葉山時代も様子が変っていたことだろう。双葉山対沖ツ海の好取組はなくなったが、前年夏場所後の巡業での双葉山の充実振りが評判となり、協会も双葉山の活躍に期待をかけていた。
双葉山 前頭四枚目 (二十二歳十一カ月)
初日は五十銭均一の大衆デー。午前三時に開場、午前六時には満員木戸止めになった。なお昭和九年桝席の料金は一人三円五十銭。天丼四十銭、コーヒーは十五銭(「値段の風俗史」)だった。
初日 大邱山〈東前頭二枚目〉(寄り倒し)双葉山
立ち合い激しく突き合った。大邱山が右差しで寄れば、双葉山は回り込んで残し、左を巻き替えた。そこを大邱山が上手投げを打って崩し、すかさず寄り倒した。
二日目 男女ノ川〈西関脇〉(寄り倒し)双葉山
立ち合いに双葉山が左に飛んで上手を取ったが、男女ノ川がうまく体をあずけて寄り倒した。
三日目 双葉山(寄り倒し)瓊の浦〈東前頭六枚目〉
四日目 能代潟〈東小結〉(寄り倒し)双葉山
五日目 双葉山(打っ棄り)外ヶ浜〈西前頭十三枚目〉
六日目 双葉山(首投げ)大潮〈西小結〉
七日目 双葉山(突き倒し)新海〈東前頭四枚目〉
八日目 双葉山(外掛け)大浪〈西前頭六枚目〉
九日目 幡瀬川〈東前頭筆頭〉(寄り倒し)双葉山
十日目 双葉山(寄り倒し)綾桜〈東前頭五枚目〉
千秋楽 海光山〈東前頭九枚目〉(打っ棄り)双葉山
双葉山の成績は六勝五敗。横綱・玉錦と関脇・高登が休場。四枚目の双葉山にとっては先場所に較べて対戦相手に恵まれた。この場所も正攻法の相撲で、時には勝つための策があってもよいという批評も聞かれた。それに相手の声で立っていたため、まだ立ち合いの呼吸が吞み込めていないという指摘があった。しかしこの二点は双葉山本来のもので、この時代の双葉山は体重も軽く地力が伴っていなかったことと、他人には内緒にしていた失明の右眼に大きな欠陥があったことによる。
幕内優勝は関脇・男女ノ川(九勝二敗)。八年春場所に続いて二度目。一月二十三日の番付編成会議で男女ノ川の大関昇進が決定した。
夏場所 五月十一日より十一日間 東京・両国国技館
男女ノ川が大関に昇進した。一横綱(玉錦)三大関(武蔵山、清水川、男女ノ川)、関脇に老雄・能代潟と相撲の神様・幡瀬川が返り咲き、大邱山と鏡岩が新小結となった。双葉山は自己最高位の西前頭筆頭に進んだ。
双葉山 西前頭筆頭(二十三歳三カ月)
初日 新海〈東前頭筆頭〉(寄り倒し)双葉山
二日目 武蔵山〈東大関〉(寄り倒し)双葉山
右四つから武蔵山が双差しを狙ったが、双葉山は許さなかった。一呼吸後、武蔵山が吊り身で寄り立てると、双葉山は土俵際で打っ棄りをみせたが及ばず寄り倒された。
三日目 双葉山(下手投げ)能代潟〈東関脇〉
四日目 清水川〈西大関〉(外掛け)双葉山
右四つから清水川が双差しとなり、吊りに出るとみせて左から下手投げで双葉山を崩し、すかさず右外掛けで決めた。
五日目 双葉山(首投げ)土州山〈西前頭四枚目〉
六日目 玉錦〈東横綱〉(寄り倒し)双葉山
双葉山は右四つかたの強烈な下手投げで玉錦をぐらつかせたが、玉錦、よく残して寄り倒した。場所後、玉錦は双葉山について次のようにコメントした。
「双葉山の相撲はまともに出るので損だという人もあるが、まだ前途洋洋たる青年力士だから、これがかえって彼の将来を大きくするゆえんだと思う。堂々と戦ういまの取り口を賞賛すると同時に慫慂したい」
七日目 双葉山(掬い投げ)大潮〈東前頭五枚目〉
八日目 双葉山(打っ棄り)和歌島〈東前頭七枚目〉
九日目 高登〈東前頭三枚目〉(寄り切り)双葉山
十日目 双葉山(首投げ)鏡岩〈西小結〉
千秋楽 双葉山(首投げ)大邱山〈東小結〉
双葉山は千秋楽東小結の大邱山に勝って六勝五敗と勝ち越し、三役の切符を手中にした。この場所、大邱山が特進力士第一号の三役となり双葉山の好敵手とされていたが、大邱山は五勝六敗と負け越したため、次場所は双葉山と小結を入れ替わることになった。
幕内優勝は十一戦全勝の大関・清水川。清水川は七年春場所(関脇)、同年京都場所(大関)で優勝。通算三度目の優勝。新大関・男女ノ川は五勝六敗と負け越した。
五月二十七日
海軍経理学校天覧相撲 海軍経理学校
優勝は番神山(夏場所では西前頭八枚目)
六月四日
第四回大日本相撲選士権
大関・武蔵山が玉錦との三番勝負の末、初の選士権者に。
4 昭和十年(一九三五年)
春場所 一月二十一日より十一日間 東京・両国国技館
関脇に綾川と新海、小結に双葉山が昇進。巨漢・出羽ケ嶽は西十六枚目の幕尻まで下がった。
横綱・玉錦が年寄・二所の関を襲名、二枚鑑札が認められた。この場所、粂川部屋預かりだった新入幕の玉の海は元の二所の関部屋に復帰した。
明治四十年(一九〇九年)二枚鑑札で二所ノ関を襲名した関脇・海山は、翌年の一月場所に引退、友綱部屋に預けてあった内弟子を連れて二所ノ関部屋を創設した。弟子には恵まれなかったが、唯一、玉錦を大関に育てあげた。しかし玉錦の横綱昇進の直前に死去し、弟子は粂川部屋に預けられた。当時の二所ノ関部屋は稽古場さえなかったが、玉錦は猛稽古により一代で部屋を大きくし、関脇・玉ノ海、幕内・海光山などの関取を育てた。(昭和十三年十二月、玉錦が急死すると、翌年一月、関脇・玉ノ海が二十六歳で二枚鑑札で二所ノ関部屋を継承した。)
双葉山 東小結(二十三歳十一カ月)
初日 双葉山(二枚蹴り)新海〈西関脇〉
二日目 松前山〈西前頭筆頭〉(吊り出し)双葉山
三日目 錦華山〈西前頭四枚目〉(突き倒し)双葉山
四日目 双葉山(引き分け)武蔵山〈西大関〉
武蔵山が右で前ミツを取ると、双葉山も右を差して右四つになった。武蔵山が寄って出ると、双葉山は首投げで防ぎ、右四つとなってもみ合い、勝負がつかなかった。取り直し後も同じような相撲で、遂に引き分けとなった。
五日目 綾川〈東関脇〉(叩き込み)双葉山
六日目 玉錦〈東横綱〉(寄り倒し)双葉山
七日目 双葉山(突き倒し)番神山〈東小結〉
八日目 双葉山(下手投げ)高登〈西小結〉
九日目 双葉山(上手投げ)清水川〈東大関〉
十日目
能代潟〈東前頭筆頭〉(外掛け)双葉山
千秋楽 男女ノ川〈西張出大関〉(小手投げ)双葉山
双葉山が頭を下げて右で前ミツを引いて出たが、男女ノ川は突き放した。双葉山は出し投げ、下手投げ、首投げと連続して攻めると、男女ノ川は棒立ちとなった。そこを双葉山が左を差して寄れば、男女ノ川は強引に右小手投げで決めた。
双葉山は四勝六敗一分と負け越し、折角の三役も一場所で明け渡すことになった。しかしこの場所の双葉山の取り口を先代春日野は次のように賞賛した。
「武蔵山と堂々と四つに渡り合って、さすがの武蔵山も玉砕することができず、水入りの大相撲は近来の秀逸である。かてて加えて男女ノ川と堂々と渡り合ったところ、まさに三役の名を恥ずかしめない。」
幕内優勝は横綱玉錦。横綱として二回目、通算七回目の優勝。
四月 靖国神社奉納大相撲 東京・九段の靖国神社相撲場
夏場所 五月十日より十一日間 東京・両国国技館
横綱・玉錦に二連勝して安定した強みをみせている大関・武蔵山が横綱を賭ける場所であった。
巴潟が新小結(西)となった。双葉山は東前頭筆頭に降格した。
武蔵山の先輩で昭和の巨人といわれた出羽ケ嶽が、前場所西幕尻で三勝八敗と負け越したため西十両二枚目に下がった。出羽ケ嶽と入れ替わって笠置山が入幕した。初日、十両土俵入りに出羽ケ嶽が恥ずかしそうに入場すると、満員の観衆は大声援で迎えた。また笠置山も母校・早稲田大学の化粧廻し姿で現れると、「都の西北」の合唱と共に大拍手が沸いた。
双葉山 前頭筆頭 二十四歳三カ月
初日 鏡岩〈西前頭筆頭〉(寄り切り)双葉山
双葉山が突いて出ると、鏡岩も突き返した。追い込まれた双葉山は土俵を回り外掛けで防いだが、鏡岩は右を差し強引に寄り切った。
二日目 清水川〈西張出大関〉(上手投げ)双葉山
三日目 双葉山(上手投げ)新海〈東関脇〉
四日目 玉錦〈東横綱〉(寄り倒し)双葉山
五日目 双葉山(上手捻り)幡瀬川〈東小結〉
幡瀬川は右を差し、寄るとみせてサッと引き技をみせた。双葉山がぐらつくと、すかさず双差しになって寄った。双葉山は外掛けで防ぎ、左上手で捻って決めた。
六日目 男女ノ川〈西大関〉(浴びせ倒し)双葉山
双葉山が突っ張り、ノド輪で攻めたが、男女ノ川は動じなかった。双葉山が双差しになって出ると、男女ノ川はこれをカンヌキに極めて寄り進み、巨体を浴びせて倒した。
七日目 双葉山(打っ棄り)大邱山〈東前頭三枚目〉
双方右四つでもみ合い、大邱山の鋭い寄り身に土俵際に追いつめられた双葉山が弓なりになって打っ棄った。
八日目 武蔵山〈東大関〉(寄り倒し)双葉山
武蔵山が右を差して寄って出た。この寄りに双葉山は右へ逃げ、右で武蔵山の首を巻いてこらえたが、武蔵山はかまわず寄り倒した。
九日目 巴潟〈西小結〉(押し出し)双葉山
十日目 双葉山(押し出し)出羽湊〈西前頭7枚目〉
千秋楽 綾昇〈西前頭五枚目〉(内掛け)双葉山
綾昇が右から左と双差しになり、足クセで双葉山を脅かした。双葉山は左を巻き替え左四つになったが、綾昇は体を寄せて内掛けで倒した。
双葉山は四勝七敗と二場所続けて負け越した。ファンは双葉山に絶望した。双葉山自身も「果たしてやっていけるだろうか」と悩んだ。しかし本人にとっては相撲が面白くなってきた時期であり、身体も充実してきていたが、体重はまだ九十八キロで百キロに満たなかった。
幕内優勝は横綱玉錦(十勝一敗)。春場所に続いて横綱として三回目、通算八回目の優勝を遂げた。土俵は一人横綱・玉錦の時代となった。
場所後の五月二十一日、次場所の番付編成会議開かれ、大関・武蔵山の横綱が決定、六月に昇進した。武蔵山の夏場所の成績は九勝二敗だったが、三場所合計二十六勝六敗一分の成績が認められた。二十五歳でのスピード出世は「飛行機」と称され、筋骨逞しい身体と都会的なマスクで女性に人気があった。
同日、第二十代木村庄之助に「松翁」の称号が許された。松翁は行司最高の栄誉で天保年間の八代庄之助以来二人目。
五月二十四日 台湾震災寄付大相撲 東京・両国国技館
五月二十七日 水交社天覧相撲 東京・芝公園 水交社
準決勝
武蔵山(寄りきり)旭川
双葉山(寄りきり)玉錦
決勝
武蔵山(押し倒し)双葉山
六月一日 第五回大日本大相撲選士権
第一部準決勝
綾昇(外掛け)双葉山
優勝は昨年に続き武蔵山。三番勝負で玉ノ海(夏場所は東前頭十二枚目)に勝った。
十一月三日 明治神宮全日本力士選士権
優勝は大関男女ノ川。
第四章 六十九連勝始まる
1 昭和十一年(一九三六年)
一月五日、春場所番付発表。武蔵山が横綱となり六年ぶりに二横綱となった。
相撲史にあっては双葉山が、春場所六日目、玉錦に敗れた翌七日目から六十九連勝のスタートを切った。五月場所、双葉山は初めて玉錦に勝ち、覇者交代の時期を迎えた年であった。
春場所 一月十日(金)より十一日間 東京・両国国技館
この場所、武蔵山が新横綱として登場した。当時最大の人気力士は、前年の春夏と連続優勝した東の正横綱・玉錦ではなく、武蔵山であった。武蔵山は前場所千秋楽、横綱を賭けた一番で玉錦に敗れた。そのとき女性ファンの悲鳴は国技館の大鉄傘を貫くほどだった。場所後、玉錦には敗れたものの九勝二敗の武蔵山は横綱に推挙された。武蔵山の横綱になる前二場所の成績は、昭和十年春が八勝二敗一分、夏が九勝二敗。玉錦の昭和七年春八勝一敗、夏十勝一敗に較べると甘い。ひとり横綱の現状ということもあり、武蔵山人気に便乗した推挙であった。
一方、双葉山は前年の春場所、東小結で四勝六敗一引分、夏場所が東前頭筆頭で四勝七敗。合わせると八勝十三敗一引分で前頭三枚目に下がってしまった。双葉山は、当時、新聞に将来に期待が持てないと書かれたことで自分の力量に失望した。そして前頭の収入では父親の借金(当時の金で五千円)返済の目途が立たないという絶望を味わった。そこで大分の父親に廃業の決意を告白した。しかし、周囲の説得と激励で廃業を思いとどめた。(「第六章 双葉関の思い出」参照)
双葉山 東前頭三枚目
(二十三歳十一カ月 身長一七九センチ 体重 一〇九キロ)
初日
新海〈西前頭五枚目〉(打っ棄り)双葉山
二日
双葉山(下手投げ)武蔵山〈西横綱〉
立ち合い突き合って右四つ。双葉山は左の上手を取って寄る。武蔵山は左から上手投げを打ったが双葉山は右から下手投げを打ち返した。初めて武蔵山に勝った一番。なお、武蔵山は八日目、右腕痛と胃潰瘍のため途中休場。
三日目
双葉山(打っ棄り)清水川〈西大関〉
四日目 双葉山(打っ棄り)鏡岩〈西関脇〉
五日目 双葉山(上手投げ)男女ノ川〈東大関〉
双葉山が立ち合いから積極的に突いて出た。左を差し右からの攻めに男女ノ川は土俵際に詰まったが残して寄り返した。土俵中央でひと呼吸の後男女ノ川は双葉山の左を右で抱えて小手に振ったが双葉山は二枚腰でよく残した。なおも男女ノ川が出ようとするところを右からの上手投げに決めた。
武蔵山に次いで男女ノ川にも勝ち、勝っていないのは玉錦だけとなった。
六日目 玉錦〈東横綱〉(引き落とし)双葉山
双葉山は頭を下げて激しく突いたが出足が伴わない。双葉の腰が伸び、玉錦が右から肩すかし気味に引き落とした。
勢いに乗って出る双葉山を玉錦はうまくさばいた。今場所大敵を撃破してきた双葉山も玉錦には勝てなかった。玉錦に敗れたことで双葉山の目標が玉錦ひとりに絞られた。この敗戦が六十九連勝直前の敗戦である。
六十九連勝仮想実況放送
一勝目
七日目 一月十六日(木)
双葉山(打っ棄り)瓊(たま)の浦〈西前頭四枚目〉
アナウンサー 両者立ち上がった。直ぐにがっぷり右四つに組みました。瓊、しきりに左を捲きかえようとしています。これを双葉、許さない。左四つ得意の瓊の浦にとっては、この体勢は不利であります。瓊、右から櫓投げをみせた。瓊、吊り身になって東土俵に寄った。寄った。双葉、俵に足がかかった。瓊、外掛け。双葉、こらえた。双葉こらえた。双葉、右へ切り返した。双葉、打っ棄り。双葉の切り返し気味の打っ棄りが決まりました。
解説者 双葉山は終始守勢でしたが、幸いにも土俵際で瓊の浦が外掛けにきたので見事に打っ棄りが利きましたね。土俵際の外掛けや内掛けは無謀というほかありません。まあ瓊の浦としては双葉山に十分に組まれていましたので、あれ以上の攻めを望むのは無理でしょう。
二連勝
八日目 十七日(金)
双葉山(二枚蹴り)出羽湊〈東前頭五枚目〉
アナ 体が柔らかく腰がよい双葉山、対しまして出羽湊は筋肉質で力が強い。ともに右のあい四つであります。さあ立あがった。双方右下手を引きました。左上手も引きました。がっぷりの右四つであります。出羽しきりに櫓の気を見せております。対して双葉、腰を低くして慎重に構えています。出羽、蹴返した。双葉も二枚蹴り。双方足技で応酬しております。出羽、上手投げ。双葉残りました。双葉、出羽、土俵中央で動きが止まりました。…ついに水入りであります。
さあ試合再開であります。がっぷり右四つのまま双方動きません。慎重であります。このままいけば引き分けか二番後取り直しになりそうであります。あっ、双葉、右足をとばし二丁投げにいった。続いて内掛け。出羽、残した。双葉、二枚蹴り。出羽、たまらず左へ横転しました。双葉山の連続技の急襲が功を奏しました。
解説 出羽湊としては立合い咄嗟に櫓に振れなかったのが最も大きい敗因でしょうねえ。双葉山は取りにくい出羽湊に対して焦らず待機したうえ、見事曲者を討ち取りました。組んでからの技はともに変化がありますが、出羽湊は体が軽いだけに勝負が長引くと不利ですねえ。
三連勝
九日目 十八日(土)
双葉山(打っ棄り)綾 昇〈東小結〉
アナ 立あがりました。双葉激しく綾の喉を攻めた。双葉のノド輪。綾これをよくこらえて残した。綾、右をはずにして押し戻した。双方、土俵中央でがっぷりと右四つになりました。双葉、綾、ともに技を仕掛ける機をうかがっております。綾、一歩寄った。左から強引な上手投げ。双葉、残しました。綾、寄った。双葉後退、双葉後退。双葉の足が俵に掛かった。双葉、残った。残った。双葉、綾を大きく右に打っ棄った。双葉、辛くも打っ棄りで勝ちました。
解説 綾昇は勝ちを焦りましたねえ。打っ棄りに対する腰の備えがありません。双葉山の思う壺にはまってしまいました。双葉山が綾昇の仕掛けを待ったのは、双葉山の相撲に一日の長があるのでしょう。まあしかし今場所の双葉山は勝ち運にめぐまれているのだから、もっと積極的な取り口を示してほしいものです。
四連勝
十日目 十九日(日)
双葉山(下手投げ)笠置山〈東前頭二枚目〉
アナ 笠置山は左、双葉山は右の喧嘩四つ。しかし双葉は左でもかなり取ることができます。笠置は得意の左を差して土俵際まで寄ったとしても、双葉には打っ棄りの手がありますから十分注意しなければなりません。
さあ行司軍配がかえった。双葉、突っ張った。笠置右にひらいた。笠置、双葉の前ミツを右から押しつけ寄った。双葉のこした。双葉、右がはいった。双葉、下手投げを打って寄り返した。両者がっぷり右四つに組みました。双葉、なかなか攻めません。笠置、右の蹴返しをみせた。双葉、動じません。今度は双葉、右の二枚蹴り。笠置、のこした。左を一歩踏み出した。双葉、右の下手投げ。笠置、左から体を寄せた。笠置、わずかに先に落ちたか。軍配は双葉山。双葉山の下手投げの勝ちであります。
解説 好勝負でしたねえ。どちらも新進気鋭の花形力士だけに、土俵上に火花を散らしました。双葉の勝因は右四つに組み止めた点です。それだけ双葉の相撲に強みがあることを裏書きしたといえますねえ。双葉山の四連勝はいずれも紙一重の勝利です。どちらが勝ってもおかしくないという相撲です。しかし双葉山の相撲はそこを勝ってゆくところが強くなった証拠ですね。春日野さんが「双葉は誰とやってもちょっとだけ強い」と言っているのも肯けます。
五連勝
十一日目・千秋楽 一月二十日(月)
双葉山(すくい投げ)駒の里〈西前頭十枚目〉
今場所の双葉山
双葉山の正攻法の取り口は、格上の敵に対していわゆる番狂わせを演じるということはなかった。たとえば大邱山が女ノ川を捨て身の首投げで倒したような派手な相撲は取れなかった。おそらく双葉山の相撲に対する信念がケレンな相撲を取らせなかったのだろう。それまで玉錦、武蔵川、男女ノ川、清水川といった地力のある上位力士に勝てなかったのも、体重百キロに満たない非力な双葉山の正攻法の取り口にあった。ただ双葉山には無類の※二枚腰があり、土俵際打っ棄りで勝つことが多く、「打っ棄り双葉」と揶揄されていた。
ところが前年春場所に武蔵山と二度の水入りの後の引き分け、清水川には上手投げで勝ち、かなり力がついてきたことを示した。そして今場所を九勝二敗の準優勝で飾り、ついに武蔵山、男女ノ川を破り、歯の立たなかった二人と五分あるいはそれ以上に戦えることを証明した。
※双葉山自身は二枚腰について、「いっぺん腰が崩れても、もう一つの腰が残っているというほどの意味でもあろうかと思います。だとするならば、これは自分でも自覚していたところなのです」と語っている。(『相撲求道録』)
夏場所
両国国技館 五月十四日(木)~二十四日(月)の十一日間
双葉山(西関脇)二十四歳三ヶ月
双葉山は昭和十年春場所の小結以来の二度目の三役。それも小結を飛び越えての新関脇の場所である。今場所は男女ノ川が横綱に昇進して、玉錦、武蔵山、男女ノ川の三横綱となった。このため番付は体裁上、男女ノ川は大関と横綱を兼務し、横綱大関と称した。先場所の武蔵川に続く横綱昇進であったが、二人とも玉錦には分が悪く、昇進基準は武蔵山の時同様甘かった。(十年夏八勝三敗、十一年春九勝二敗)。二人とも横綱という看板は立派だが相撲内容はいまひとつであった。なお、十両幕尻の出羽ケ嶽は休場のため幕下へ転落した。
双葉山は春場所後の巡業中に体重が増え一〇九キロとなった。当時双葉山贔屓の相撲作家・鈴木彦次郎は大きくなった双葉山の後姿を見て、はて誰だろうと、前へ回って見たほどだったという。双葉山は稽古中の強さも増し今場所は大きな期待がかけられていた。
関脇に昇進した双葉山は、名を定次から定兵衛と改めた。祖父を偲んでの改名だったが、そこへ思いがけない祖母の死が、郷里から送られて来た大分新聞に掲載されてあった。直ぐに電報を打ってその事実を確認した。祖母は臨終の床で大事な本場所を控えている双葉山の気持を逸らせぬよう「定次には知らせるな」と言い遺した。双葉山は九歳の時に母に死に別れた。その後はこの祖母に育てられた。祖母を母と思い慕っていた双葉の悲嘆は深かった。「おばあさんの気持を汲み落胆しないでがんばってくれ。定次の出世が一番の供養になるのだ」と父から便りが来た。従ってこの夏場所は双葉山にとっては、亡き祖母へはなむけする弔い合戦だった。元来信仰心の強い双葉山、自身、必死の覚悟で土俵に臨んだと言っている。
六連勝
初日 ― 五月十四日(木)
双葉山(上手投げ)新 海〈東前頭三枚目〉
アナ 双葉山は今場所も先場所同様、しょっぱなに新海をぶつけられました。双葉は新海とはこれまで一勝二敗と分が悪く、足癖の蛸足・新海を苦手にしております。
さあ、双方立った。小兵の新海、素早く双葉の懐に入りました。新海、双差し。新海、右内掛けに出た。双葉、これに対して慌てません。双葉、左上手から抜き上げるような大きな上手投げ。きれいに決まりました。
七連勝
二日目 ― 十五日(金)
双葉山(上手投げ)両國〈東前頭一枚目〉
アナ 瓊の浦改め両國。双葉の六連勝は先場所七日目の二人の対戦から始まっております。左上手まわしを引けば負けないという双葉は元気一杯。それに対しまして左に下手まわしを取れば水車のような早業、櫓投げがある両國。この一戦、喧嘩四つの差し手争いがどうなりますか。
さあ双方気が合って立ち上がった。両国の右がずぶりとはいりました。双葉もすばやく左上手を引いた。双葉、右ノド輪で両國に左をとらせない。双葉寄った。両國半身になって左で双葉の手首をつかんだ。両國喉輪をはずした。しかし両國後がない。双葉、上手投げ。見事に決まりました。
解説 双葉が右から右からと攻めたのはすこぶる味のあるところで、両國は体のない悲しさ、あの喉輪を防ぐことがすべてでしたね。両國は立合い素早く双葉に左上手を引かれて、左が差せなかったのが敗因でしょう。双葉山の順当な勝利でした。
八連勝
三日目 ― 十六日(土)
双葉山(下手投げ)駒の里〈西前頭二枚目〉
アナ 今場所、双葉山も駒の里も元気一杯であります。満場この一番に期待が盛り上がっております。
さあ、行事・木村玉之助の軍配が返った。駒、右の前ミツを取った。左をはずにして寄った。なおも寄った。双葉残した。双葉右を差した。双方、土俵中央に戻りました。駒、ふたたび寄った。双葉、右へ回った。双葉、右からの強烈な下手投げ。見事に決まりました。
解説 いい勝負でしたね。しかし上背のない駒の里はあれが精一杯。双葉は長身と腰の重さと、稽古十分の賜物の一番です。
九連勝
四日目 ― 十七日(日)
双葉山(下手投げ)笠置山〈東前頭三枚目〉
アナ 今場所の双葉山は初日から四連勝と破竹の勢いであります。対する笠置山は四連敗。今日あたり強敵双葉を破って面目回復といきたいところ。双葉の左四つに笠置は右四つの喧嘩四つ。この一番差し手争いが見ものであります。
両者立ち上がりました。笠置、頭から当たりました。左差しをねらっております。しかし双葉、差させません。猛烈な差し手争いです。笠置、右を差しました。笠置、猛烈に寄った。双葉、笠置の差し手を左から巻いて引き上げた。双葉、左で上手まわしを引き懸命に寄り返した。笠置ふたたび東土俵へ寄った。双葉こらえた。双葉、また寄り返した。今度は笠置、こらえて右へ回った。笠置、苦しい。双葉、右を差した。強烈な引きつけ。双葉、下手投げ。決まりました。今場所も笠置山の雪辱は成りませんでした。
解説 笠置山も精一杯奮闘しました。双葉を土俵際へ追い詰めたとき、いまひとつ力があれば勝っていたかもしれませんね。しかし、やはり双葉の打っ棄りを警戒して寄り立てることができませんでしたねえ。それにしても立合い笠置山の意外の右差しは双葉の機先を制しました。まあ今の双葉にはこの注文相撲は無理でしょうね。
十連勝
五日目 ― 十八日(月)
双葉山(寄り切り)出羽湊〈西前頭筆頭〉
アナ 双方立ち上がるなり右四つに組み合いました。双葉、得意の左上手をしっかりと引いております。出羽、左を捲きかえようとしますが双葉これをゆるしません。双葉、寄った。出羽、二枚蹴り。続いて下手投げ。これは双葉には効きません。双葉、出羽の体をぐいと引きつけました。双葉、寄った。腰を落としてじりじりと寄った。双葉そのまま寄り切りました。
解説 双葉の完勝ですね。双葉は今場所連日の好成績ですが、寄り身らしい寄り身がないですね。欲を言えば、もっと積極的な相撲も見たいものです。
十一連勝
六日目 ― 十九日(火)
双葉山(上手投げ)綾昇〈東小結〉
アナ さて今日は、あの世界の喜劇王・※チャップリンさんとフランスの詩人の※ジャン・コクトーさんが桟敷席にみえております。チャップリンさんの相撲観戦は昭和七年の夏場所以来四年ぶりです。コクトーさんは八十日間で世界をまわる旅の途中で日本に立ち寄ったそうであります。大相撲がお二人の青い眼にどのように映っているのでしょうか、興味のあるところです。
さて今場所最初の三役同士の対戦であります。今場所の興味の中心は鏡岩、双葉山、そして綾昇の大関争いでありますが、綾昇は場所直前に左足を傷めて踏んばりがきかず得意の足くせを発揮することができません。五日目まですでに三つの黒星でありますが、昨日の一番から足の包帯もとれて具合は良くなってきた模様であります。綾昇にとっては是が非でも勝っておきたい一番であります。一方の双葉山、初日以来堅実な相撲ぶりを見せて連勝を続け、いたって元気であります。
さあ木村玉之助の軍配が返りました。綾、右を差そうとしますが、双葉差させません。結局がっぷりの右四つとなりました。双方土俵を右へ右へ回っております。双葉、右下手からの下手捻り。綾、こらえた。双葉ふたたび下手捻り。綾こらえました。双方土俵中央で動きが止まりました。
…行司・玉之助、双方に水入りを伝えました。水入りまでの試合時間は何と五分二十秒であります。
試合再会であります。玉の助、足の位置を確かめて双方のまわしをポンと叩いた。双葉、右の二枚蹴り、続けて蹴返し。双葉、吊り身になって正面に寄って出ました。綾、左足をとばし打っ棄り気味に吊った。綾、今度は右の内掛け、続けて下手投げ。双葉、掛けられた足をはねあげた。すぐに上手投げ。上手投げ。双葉の投げが豪快に決まりました。
水入り後の試合時間は三分五秒、合計八分二十五秒の大一番でした。
解説 敗因は無理な内掛けですね。綾はひとまずじっと引き分けになるのを待って、あらためて立ち合うべきだったと思います。これで双葉は大関の第一関門を突破しましたね。
次に記すのは、ジャン・コクトーの『僕の初旅・世界一周』(ジャン・コクトー全集Ⅴ評論)より抜粋した大相撲印象記である。案内したのは画家の藤田嗣治と詩人の堀口大学。コクトーの文章は堀口大学の翻訳によるもの。
『翌日、重苦しい午前のあとで、フジタと堀口が、僕らを国技館へ相撲見物に案内してくれた。聞けば、興行は早朝から始まっているのだそうだ。
入口の一つにたどり着くまでに、沼のような泥濘(ぬかるみ)を渡らなければならない。屋台店が出ていて、羊羹だの蜜柑だの、お土産だの、人気力士の絵葉書だのを売っている。スペインの闘牛場の雑閙(ざつとう)そのままだ。ふと気づくと、僕はいきなり、巨大なサーカスの中に来ている。高い天井まで見物人でいっぱいだ。座布団や、空(から)の土瓶や、蜜柑の皮や、下駄やフェルト帽やの敷藁の上いちめんに、人間の詰まっている桟敷の仕切りに、僕はつまずいて倒れそうになる。或る名士が、僕らを自分の桟敷に入れてくれた。椅子のない地べたに、ぺったり坐って見物するのだ。サーカスの真中に、土俵が小高く築かれている。白、黒、緑、赤の四本の柱が、塔のような屋根を支えている。空色の総紐(ふさひも)で吊るし上げた紫の垂幕が、土俵の上に引き廻されている。天上の硝子(がらす)屋根のまわりには、学生や兵隊からなる鈴なりの人間の上に、年々の優勝者の巨大な額が掛け連ねてある。
土俵の上では、銀のキモノ、漆(うるし)の烏帽子、昆虫の触角という扮装(いでたち)に、彼等の職権を象徴する硝子(がらす)無しの鏡のようなものを持ち添えた行司に見守られて、両力士は、互いに観察し合っている。立合いはほんの数秒しかかからないのだが、仕切りの一度一度が、沈黙に区切られる叫喚の嵐を捲き起す。力士たちは、桃いろの若い巨人で、シクスティン礼拝堂の天井画から抜け出して来た類(たぐい)稀な人種のように思える。或る者は伝来の訓練によって、巨大な腹と成熟しきった婦人の乳房とを見せている。ただし、この乳房も腹も、決して肥大漢のそれではない。それは古昔(むかし)の美学に準拠して特殊の割合で分布された力を示している。他の者は、僕等の国の競技場で見かけると同じ筋骨を見せている。くすんだ色の腹巻が腰を巻き、股間を過ぎ、臀を割り、つっぱらかった縄の廻し(スカート)を腰のまわりにぶら下げている。蹲(しゃが)む時、これ等の縄が後方へ逆立って、彼らに雄鶏か山荒しのような姿を見せてくれる。いずれのタイプの力士も、髷を戴いて、かわいらしい女性的な相貌をしている。頭の真中にのっかった油で固めた上向きの束ね髪、うしろは扇の形に広がって。
浄めの塩を土俵に振りまいてしまうと、両力士は股をひろげ、両手を腿にあて、悠々と、力をこめて交互に片足ずつを踏みしめる。この熊踊りが、両者の筋肉を準備する。彼らは向い合って身をかがめ、何やら絶対な一瞬を、平衡の奇跡を、気合の投合を待つものらしい。
両者は互いにきっかけを狙い、呼吸をはかり、緊張したかと思うと、ふと言い合わせたように力を抜き、ポーズを崩し、見向きもせずに、土俵を下りる。行司はこの実りのない試みに十分間を与える。突如に電流が通じる、巨大な肉塊が、打合い、摑み合い、叩き合い、蹴合い、地から抜き合うと見る間に、写真師の稲妻一閃、人間の巨木がマグネシウムの雷に根こそぎされて土俵の下へころげ落ちる。
最後の一つ手前の一番は近代風な体格の、鼻の低い美丈夫と、拳闘家のほっそりした腰の上に太鼓腹をのっけた仏陀のような、土つかずの勇士を闘わせた。僕ら稀有な好取組に恵まれた。両力士が立上って四つに組むと同時に、完全な平衡が双方を絶対不動の位置においてしまった。目を細くしてじっと見ているとただ一頭の巨獣、この不動の二つの肉体から成る桃いろの一頭の牡牛が見えるだけだ。この橋の形の不動が、いつまでもつづくので、場内には誰一人、息をつく者もなく、人は疑うのだった。いつかこれが終る時があろうかと、もしかすると二つの相搏(う)つ力が、目の前で化石してしまうのではないだろうかと。この平衡が堪え難いものになって来る、軍配の合図で、行司が二つの肉体を引き離す。喝采が起る。水入り後の両力士は、同じ体勢を見出さなければならないのだが、精気の分配は、とかく同じとは行きかねる、それかあらぬか、両者が土俵へ上り、組み直す一瞬、見物は敬意に満ちた沈黙のうちに息を殺してこれを見守る。するとまたしても、不動の平衡が出来上る。やがて足が絡み、やがて帯と肉との間に指がもぐり込み、まわしのさがりが逆立ち、筋肉が膨れ上がり、足が土俵に根を下ろし、血が皮膚にのぼり、土俵一面を薄桃いろに染め出す。不意に「土つかず」が藁屑ほどの隙をを見つけ、呼吸をはかって平衡を破る。マグネシウムが閃いて、人体が作っていた橋杭の一本が抜けて飛び、逆しまに倒れる。
勝力士は土俵に塩をまく。負けた方が起き上がり、土俵の一角にのぼり跪いて頭を下げる。
この場所もまた、この相撲界の偶像が、優勝盃を受けるはずだ。そして彼の写真が、菊五郎のそれと一緒に、商売女の部屋を飾るはずだ。支度部屋へ案内される。円天井の廊下みたいなところで、女のように優しい目付きの、女のように髪を結った桃いろ大理石の若い神々が、風呂を浴びている。或る者は湯気の雲に包まれて湯を浴び、或る者は白牡丹を染め抜いた黒字の着物を着て徘徊し、また或る者は蓬髪の下から僕らに微笑を送っている。この連中は、ちゃんと立派に油で固めた髷が結えるまでこうしてもじゃもじゃさせて待っているのだ。
僕は勝って引揚げて来た横綱に近づく。彼は石の台座にあぐらをかいて、折から床山に漆のような髷を結わせているところだ。黒漆に赤漆。この無邪気な巨人は、全身が桃いろですべすべしている。写真師のために並んで立った僕は、大きな桃いろの復活祭の卵によりかかっているような気持だ。フィレアス・フォッグとパスパルトゥーに取巻かれたこの横綱の写真は、翌晩僕らが見物に行った玉の井の入口で、僕らを待ち受けることになる。』
文中、「そして彼の写真が、菊五郎のそれと一緒にフアンの部屋を飾る筈だ。」とあるのは、前日、歌舞伎座で六代目尾上菊五郎の『鏡獅子』を観たことによる。
また、『相撲』(昭和十一年六月号)に寄稿した文章には、
『私は今度、日本独特のスポーツである相撲を初めて観た。競技そのものも面白かったし、競技場を埋める大観衆の熱狂ぶりも面白く感じた。それにあの競技場の建築も、こせこせしたところがなく、線がのびのびとしていて気持が良い。
力士の体については、―これは逆説的な言い方かも知れぬが―彼等の体の線には、「不均衡の美」というものがある。特殊の筋肉美であるから、美術的な鑑賞の対象にも十分なると思う。
それから特に面白いと思ったのは、「仕切」というものである。意味を聞きながら観ると、非常に味のあるものであることが判った。私も思わずつり込まれて、体を固くしてしまった。「仕切」は、片方が相手の隙を窺って、自分のコンディションの良い時に立つのではなく、二人の呼吸がぴったり合った時にはじめて立つという意味を聞いて、大変すがすがしい感じをうけた。
玉錦と支度部屋で写真を撮った―私は爪楊枝、彼は吐月峰。この記念写真は、今度の旅行で一番良い土産になった。』
なお同月の『相撲』には当時序二段で日系二世の福錦がチャップリンにインタビューした記事も載っている。
『チャップリンが相撲を見に来たのは五日目と六日目の二回でした。そして始めの日は午後一時半頃、翌日は午後三時半頃から来ました。
始めて来た日に「仕切り」を見て、「待った」をやるのがどうしても解らなかった様子で、「一方が立ったのに、どうして相手が立たないのか」と尋ねられました。そこで「呼吸」が合わなければ立てないのだ、ということを、いろいろ工夫して言葉を換えて説明してやりましたが、なかなかのみこめないので困りましたが、最後に「ファイティング・スピリッツがイクオールになった時に立つのだ」―闘争精神が合致した時に立つのだ―というように説明してやって、漸く納得させました。
この問題でも解るように、私達が何の説明も加えられず、自然に体得しているところの「立ち合いの呼吸、阿吽の呼吸」などというものは、ひとりチャップリンばかりでなく、外国人にはなかなかのみこめないものと思われます。
それから、「相撲はボクシングの稽古のためになるか」という質問を受けましたが、ボクシングのことは私はよく知らないので、私の答えたことが当っているかどうか解りませんが、兎に角こう返事をしました。「ボクシングの方は腰を軽くして足の運びを軽く速くするように稽古をするが、相撲はなるべく腰を重くして、しかも足を速く運ぶように稽古をする。いわば重心の置き方が違うから、相撲がボクシングの稽古のためになるかどうかよく解らない」と言ってやりました。もし相撲がボクシングの技量を向上させるために役に立つものならば、それを取り入れようと思ったのかどうか解りませんが、一々ボクシングを土台にして解釈しようとしていたことだけは解りました。
そういうようにボクシングを土台にして考えている故か、相撲の体が大きいことは余り注意を惹かなかった様子で、日本人としては立派な体だと褒めて、食べ物は普通人と較べて、どの位まで多く食べるか、などと尋ねていましたが、体が大きいから食べ物も多く食べるだろう、という考えは日本人でも一般にあるようですから、あまり面白い話でもありますまい。
しかし、ボクシングやレスリングでは重量で等級を定めて、同量の者同士を組合わせているので特に体の大小が目立つような組合わせはありませんので、相撲が体の大小、力の有無に関係なく組合されて、力の不足を技で補うというところに興味を惹かれたらしい様子で、体の大きい者が小さい者に勝った時は、当り前というような顔をしておりましたが、体の小さい者が大きい者を倒すと、手を叩いて喜んでおりました。大きい者が必ずしも小さい者に勝てるものではないということは、チャップリンのみならず一般の外国人が興味を持つ点だろうと思います。
※ ジャン・コクトー(一八八九―一九六三) フランスの作家、詩人、劇作家、画家、脚本家、映画監督。昭和十一年(一九三六年)日本を訪れ、相撲と歌舞伎に感心し、相撲を「バランスの芸術」と呼び、六代目尾上菊五郎に会って握手したが、その際、白粉が剥げないように気を遣ったため菊五郎を感心させた。この時観た鏡獅子が、後の『美女と野獣』のメイクに影響した。周防正行監督の映画『シコふんじゃった。』の冒頭で柄本明演じる大学教授が、この相撲見物の一節を読み上げる場面がある。
※ チャールズ・チャップリン(一八八九―一九七七) イギリスの映画俳優、映画監督。昭和七年(一九三二年)に日本を訪れたときは、映画『街の灯』の宣伝を兼ねた世界一周の途中だった。五月十四日、神戸に上陸して上京。同夜、東京駅で大歓迎を受ける。犬養首相とも会食の予定だった。翌日、大相撲を見物したあと、五・一五事件を知る。チャップリン自身に対しても「日本に退廃文化を流した元凶」として、暗殺が画策されていた。相撲見物がチャップリンの命を救った。
【参考】チャップリンとコクトーの出会い
一九三六年(昭和十一年)コクトーは日本へ向かう船内でチャップリンを見かけた。すぐさま船内で手紙を出した。「ぜひお目にかかりたい、一杯どうですか」。チャップリンは最初、「ジャン・コクトー」の署名をみて「きっとニセモノに違いない。あの洗練されたパリジャンが、こんな南シナ海の真中で何用がある?」と信じなかった。しかし会ってみると本物だった。しかしコクトーは英語がまったくだめ、チャップリンもフランス語が話せないという状況。それでも身振り手振りで通じていく。芸術や哲学など朝の四時まで話し続けた。コクトーはチャップリンから歌舞伎のことを教わって六代目尾上菊五郎の「鏡獅子」などを見て感激。日本の芸術や人柄にふれ二人は共に離日した。船がサンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジに近づいたころチャップリンはコクトーの耳元でささやいた。「私たちは野蛮人の許に帰っていくのだよ」と。
十二連勝
七日目 ― 二十日(水)
双葉山(寄り切り)玉の海(西前頭七枚目)
アナ 玉の海は双葉山と同い年でありますが、玉の海の初土俵は昭和五年十月、双葉山は昭和二年の三月でありますから玉の海が三年半も遅い。この場所初めて顔が会うという一番であります。
さあ軍配が返った。玉、右を差した。双葉も同時に左上手を引いた。玉、双葉の右を差させないように双葉の手首を押さえている。双葉、引き摺るような上手投げ。玉、残った。ここで双葉、右も取りました。双葉、じりじりと向正面に寄りました。双葉、寄った。寄った。そのまま一気に寄り切りました。
解説 双葉は四つになると、じっくり取るようになりました。昨日の綾昇にしても今日の玉の海にしても奇策を用いる術がありません。もっとも玉の海も双葉山同様、真っ正直な取り口ですので、この初対面の一番は双葉山に相撲を取らせてもらえませんでした。双葉の充実した進境が窺われる一番でしたね。
十三連勝
八日目 ―二十一日(木)
双葉山(打棄り)鏡岩〈東関脇〉
アナ 東西の両関脇、昨日まで共に七連勝と勝ちっぱなし。双方大関を賭けての一戦であります。本日はこの好取組によって午前中札止めとなっております。立ち合いといい取り口といい、いよいよ悠々迫らざる風貌を具えてきた双葉山に対しまして、大器晩成、研鑽よく揺るがぬ堅牢味を加え充実した鏡岩。まさに今場所一番の好取組であります。
双葉は右、鏡は左の喧嘩四つ、さあ立った。鏡、頭をつけて双差し。鏡、押した。双葉、こらえた。双葉、巻き返した。双方ここでがっぷり右四つとなりました。鏡、左上手から捻った。鏡、寄った。双葉、右の二枚蹴り。双葉、寄り返した。両者、土俵中央に戻りました。大相撲であります。大相撲であります。双方大きく息を整えております。あっ、鏡、猛然と二枚蹴り。双葉の体が崩れた。鏡、寄った。寄った。双葉、危ない。双葉、俵に足がかかった。双葉、こらえた。双葉、こらえた。双葉、右へ大きく打棄った。双葉の打っ棄り。絵に描いたような打っ棄りが決まりました。先場所に続いて鏡山を打棄りで屠りました。
解説 左を得意とする鏡岩が双葉山に右を引っ張りこまれたあと、巧みに巻き返られて右四つになったことが、まず敗因の第一です。まあ技術的なことはさておいて、両者の持ち味が十分に発揮された一番でした。春場所同様同じ手で敗れた鏡岩にとっては、無念の一敗ですが、勝敗を超えての一番、こんな感動的な相撲は滅多に見られるものじゃあないです。しかし、双葉山にはまだ打っ棄り腰が残っていますねえ。
十四連勝
九日目 二十二日(金)
双葉山(浴びせ倒し)玉錦〈東横綱〉
アナ いよいよ全勝の玉錦に、これまた全勝の双葉山の一戦であります。双葉山は玉錦にこれまで六回顔が合って一度も勝っていないだけに、双葉山の初勝利を期待してか満場固唾を飲んで土俵を見守っております。双方、淡々と仕切りが続いております。
あっ、双葉、時間前に突っかけた。玉、これを受けません。
…七回目の仕切りであります。玉、ゆっくりと左こぶしを下ろしました。双葉、立った。玉、受けて立った。双葉、激しく突き立てた。玉、突き返した。玉、右差し、左をおっつけた。双葉も右を差そうとしている。双葉、さっと左上手を引いた。双葉、右を差した。がっぷり四つ、双方右四つになりました。玉、左を捲きかえた。すかさず双葉、正面土俵に寄った。寄った。玉、こらえた、玉、こらえた。玉錦の顔が朱色に染まった。玉の体が伸び切った。弓のように反った。玉、双葉の首を捲いた。玉、左へ打っ棄りをみせた。双葉、腰を落とした。双葉、体を浴びせた。なおも浴びせた。双葉、玉錦を浴びせ倒しました。双葉山、はじめて玉錦に勝ちました。
館内は騒然としております。座布団、ビール瓶が飛んでおります。まさに覇者交代の歴史的大一番であります。
解説 双葉の勝因は、立合いに突っ張って左上手まわしを引いて右四つになったこと、玉錦が左を捲きかえてくるところをつけ入って寄ったこと、そして土俵際に左上手まわしを放して玉錦の胸を突いて玉錦の打っ棄りをさせなかったことの三っつにあります。双葉の相撲には微塵も軽率のところがなく非の打ち所がありませんでしたね。玉錦の寄りを恐れずに突進した積極的な相撲が快勝をもたらしました。それにしても双葉山の体は目に見えて大きくなりましたねえ。
十五連勝
十日目 二十三日(土)
双葉山(掬い投げ)男女ノ川〈東横綱大関〉
アナ 双葉の声で双方立ち上がった。激しい付き合い。双葉、素早く両差しになった。男女、その両手をカンヌキに極めました。男女、そのまま正面に寄った。双葉、右足を一歩下げた。双葉、体を大きくひらいて左から強烈な掬い投げ。男女の川の巨体が右腰からどっと崩れ落ちました。
十六連勝
十一日目 二十四日(日)千秋楽
双葉山(打っ棄り)清水川〈西大関〉
アナ 千秋楽、双葉山はこの一番に勝てば全勝優勝であります。前の三日間、鏡岩を打っ棄り、玉錦を浴びせ倒し、男女ノ川を掬い投げで屠って、完全に勝利の波に乗っております。かたや力量すでに峠を越した観のある老雄・清水川ではありますが、いつものほがらかな悪びれぬ土俵態度には、どこか余裕すら感じさせます。
さあ、立ち上がりました。右四つです。清水、額を双葉の胸につけました。両手を引き十分な構えであります。清水、掬った。これを双葉、下手投げで応じた。清水、双葉の投げを外掛けで防いだ。双方土俵中央に戻りました。
あっ、清水、上手投げの強襲、清水、寄った。双葉、残った。双葉の足が俵に掛かった。清水、右の外掛け。双葉、外掛けを外した。清水、なおも寄った。双葉弓なりになった。清水の腹が双葉の腰に乗った。双葉、左へ打っ棄った。双葉の伝家の宝刀が出ました。
場所前に育ての親のお祖母さんを亡くした双葉山の弔い合戦は、何と全勝優勝。まさにお祖母さんの霊が乗り移ったとしか言いようがありません。
解説 やはり双葉山は初めての全勝優勝ということで硬くなっていましたね。清水川は有利な体勢に乗じて、攻めて攻めて最後に玉砕してしまいました。やはり双葉山の強靭なねばり腰にはかないませんでした。まあ打っ棄りという手は腰がよくなければ効きませんが、ぼくは打っ棄りは好きではありません。双葉には今後、玉錦や男女ノ川を破ったような正攻法で勝ち進んでもらいたいですねえ。
場所後の状況
目を見はるような全勝での初優勝の千秋楽の祝宴に玉錦が駆けつけ、新しい若い英雄・双葉山の壮挙を祝福した。かつて小部屋同士という玉錦と双葉山に置かれた立場で、一所懸命稽古をつけてやった双葉山の成長は、玉錦にとってはことのほか嬉しかったろう。
また同じ関脇にいた鏡岩は双葉山と男女ノ川に負けただけで、九勝二敗の好成績をあげ、場所後、双葉山と同時に大関に昇進した。鏡岩は双葉山より十歳も年上であるが、この前後から鏡岩は、引退時に自分の弟子の一切を双葉山に預けたほど、二人の篤い信頼関係が生れてきていた。
場所後、『野球界増刊号 相撲号』に春日野取締(元横綱栃木山)は双葉山の大関昇進を祝して次の一文を掲載した。
「新鋭と噂されていた昨今であるが、かくまでの飛行機昇進ぶりは実に往年の武蔵山をしのばすものがある。場所ごとに躍進の跡を続けていることは、彼の稽古熱心と明敏な頭脳を示すもので、心からのお喜びの言葉を送りたい。ことに玉錦、男女ノ川、清水川の大豪をはじめ、旭日昇天の境地にある綾昇、笠置山、両國、新海などの中堅を遮二無二敵とせず、蹴爪にかけた武者ぶりは、角史空前の出来事といわなくてはならない。彼の取口は従来とかく粗雑に流れて、識者をして考慮すべきものがあると思わしめたが、夏場所に見せた彼の取口は堅実味を盛ってきた。まず立ち上がり突っ張り、しかるのち自己の伝家の宝刀、二枚腰の強靭を利かしての打っ棄り、差し手の辣手(らっしゅ)に物を言わせて快勝をはくした。体重も二貫余り加えたので、彼は正に張りの頂上にある。世の賛仰に毒せぬよう精進してもらいたいと思う。」
五月二十七日、海軍記念日の水行社天覧相撲は戒厳令のため行われなかった。
五月三十日第六回大日本相撲選手権大会が開催された。玉錦は夏場所六日目に磐石との一戦で負傷し、その後休場していたが、負傷も癒えて出場してきた。しかし玉錦は高熱に犯されていた。この大会は優勝者が前年優勝者の武蔵山に挑戦するという形がとられていたが、武蔵山が休場したため、予想どおり玉錦と双葉山の決勝戦(三回勝負)となった。高熱の玉錦は双葉山に二番続けて勝って優勝した。
一番目
玉錦(寄り切り)双葉山
立ち合い玉錦は左から攻めて右を入れ、上手廻しを引きつけてグイグイと寄った。双葉山が右下手投げを打って回ろうとするのもかまわず東土俵へ寄りつめた。このあと双葉山が打っ棄りに出ようとすると、玉錦は右で双葉山の左外モモをかかえてこれを防ぎ、そのまま一気に寄り切った。
二番目
玉錦(寄り倒し)双葉山
組んでは不利と見た双葉山が猛然と突っ張ったが、玉錦は右からはじき返し、うまく右を差して出た。玉錦は両廻しをがっちり引き、巨腹をあおって青柱につめた。双葉山は左へ回ろうとしたがすでに遅く、玉錦が腰を落として、必死に残そうとする双葉山を寄り倒した。
双葉山は夏場所の全勝優勝と大関昇進を果たした後、玉錦、鏡岩、双葉山一行で、長い北海道へ夏巡業に出た。九月下旬には九州に渡り、故郷・大分の中津へ錦を飾った。着くと直ぐに祖母の墓前で大関昇進を報告した。
大分県下の巡業は大成功に終始、その収益で双葉山は父親の借財(五千円)を完済することができた。この返済のために角界に身を投じた双葉山にとって最大の肩の荷が下りたのである。なおこの借財の五千円は、当時の公務員の初任給(七十五円)の六年分の給与に相当する。
十月九日より十一日間、大阪市堂島の臨時相撲場で大阪表大相撲が開催された。大阪での興行は昭和六年十月以来。十日目、全勝同士であたった双葉山は玉錦に寄り倒しで敗れた、優勝は玉錦の十一戦全勝。双葉山は十勝一敗。
前述したように、昭和二年から始まった年二回興行の関西本場所は、七年春の春秋園事件によって脱退組が「関西大相撲協会」を結成したため八年からは廃止され、以降東京場所・春夏二回興行になっていた。しかし七年末から八年一月にかけて武蔵山、綾桜、鏡岩、朝潮(後の男女ノ川)らが復帰し、玉錦や男女ノ川人気で両国国技館は紛争前の賑いに戻ったため、大阪においても興行が打たれるようになった。(東京大相撲の爆発的人気に圧迫された天竜らの関西相撲協会は支那事変の時局下も考え、十二月五日解散した。)
2 昭和十二年(一九三七年)
双葉山の連勝に沸く大相撲人気に後押しされて、五月場所より従来の十一日制から十三日間に興行日数がふえた。
七月七日、盧溝橋で日中両軍が衝突。以後、中国大陸での戦乱は拡大していった。当時、世評は双葉山の常勝ぶりを国技館の英雄から日本の守護神に祭りあげた。
春場所 一月十五日より十一日間 東京・両国国技館
場所前の一月十日、東京・丸の内の東京会舘での新大関昇進の披露宴に双葉山は初めて父親を郷里から上京させた。宴には各界からの名士、幕内力士など三百五十人が参加、盛大に催された。双葉山はこの時、「父の嬉しそうな顔を見て、初めて親孝行をした気がしました」と感激していた。
双葉山は。先場所、祖母を喜ばせるために祖父の定兵衛を名乗ったが、その祖母も今はなく、この場所の番付から定兵衛から本名の定次に戻った。
初日は恒例の大衆デーで、桝席以外は五十銭均一。ファンは前日の午後四時には切符売り場から四百メートル先の一の橋まで列をなしたので、協会は夜中の十二時半に木戸を開けて入場させた。早朝六時半には「売り切れ満員」の木戸止めとなった。なお当時の桝席(六人詰め)の観覧料は大人一人五円。
双葉山、新大関の場所。番付は、玉錦、武蔵山、男女ノ川の三横綱と大関・清水川、双葉山と同時に昇進した鏡岩の三大関。しかし、その内実は前二場所に続いてこの場所も武蔵山は休場、男女ノ川は前場所五敗も喫する不甲斐なさ。また清水川は三十八歳という高齢。いかに清水川の剛毅をもってしても多くは望めまいといったのが大方の予想だった。
やはり優勝候補の一角は、何といっても玉錦である。前場所、玉錦は初めて双葉山に敗れた。このまま双葉山の快進撃を指をくわえて傍観しているわけにはいかない玉錦が新大関・双葉山をいかに迎え撃つかが今場所の焦点であった。
双葉山 東大関 (二十四歳十一か月)
十七連勝
初日 ― 十五日(金)
双葉山(寄り倒し)両國〈西前頭二枚目〉
アナ 立ち上がった。双葉、左から引っ張り込んだ。両國、右差し、左から押っつけた。両國、頭を下げて出た。双葉、腰を落として右から捲いた。双葉、正面にがぶって寄った。右をのぞかせてのがぶり寄り。ぐいぐいと寄った。なおも寄った。双葉、切り倒しました。
解説 両國はさすがに左上手を取られませんでしたが、右差しのために攻守にぎこちなく敗れてしまいました。十分に組むための工夫が欲しいところです。
十八連勝
二日目 ― 十六日(土)
双葉山(寄り切り)玉の海〈東前頭三枚目〉
アナ 両者立ち上がりました、はげしい押し合い。玉、右を差した。双葉、これを左に引っ張りこんだ。双葉、右から喉を押した。玉、懸命に首を捻ってこれを外しました。玉、双差し。玉、双差し。双葉、左上手を引きつけた。双葉、寄った、寄った。玉、右から蹴返し。双葉、右を巻きかえた。双葉、寄った、寄った。寄り切りました。
解説 剛毅な玉の海も、ああ堅実にしかもぐいぐい攻められてはいかんともし難いですね。
十九連勝
三日目 ― 十六日(日)
双葉山(突き出し)和歌島〈東小結〉
アナ 土俵度胸では当代一二を争う双葉山と和歌島の対戦であります。和歌島、注文をつけてはなかなか立とうとしません。和歌島、慎重に構えております。
和歌、ようやく立ち上った。和歌の頭突き。双葉受けた。和歌、もろ手で突いた。突っ張った。双葉、後退した。双葉、のこした。今度は双葉が突いた。双葉、逆襲。あっ、和歌、腰がはいったか、一瞬がくりとした。双葉、なおも突いた。突いた。そのまま和歌を突き出しました。
解説 和歌島の立合いの突っ張りには鋭い気魄がありました。さすがの双葉もこれには少し慌てましたね。しかし双葉は難なく逆転してしまいました。強いですねえ。
二十連勝
四日目 ― 十七日(月)
双葉山(押し倒し)磐石〈東前頭一枚目〉
アナ 立ちました。双葉、磐石をのど輪で攻め立てた。磐石、後退した。磐石残った。双葉、もろ筈になった。双葉、押した。押した。一気に押し倒しました。
二十一連勝
五日目 ― 十八日(火)
双葉山(寄り倒し)笠置山〈西関脇〉
アナ 立つや双方右四つ。双葉、寄った。寄った。双葉、寄り倒しました。新関脇の笠置山は病後のせいか、まったく元気がありません。
二十二連勝
六日目 ― 十九日(水)
双葉山(上手投げ)出羽湊〈東関脇〉
アナ 軍配が上がった。がっぷり右四つであります。あっ、双葉の上手投げ。双葉、電光石火の上手投げで出羽湊を切って落としました。
二十三連勝
七日目 ― 二十日(木)
双葉山(寄り切り)桂川〈西前頭筆頭〉
アナ 双葉山、今日は小兵の桂川との一戦であります。さあ立った。桂川、一気に双葉のふところに飛び込みました。桂川、双葉の前まわしを取った。桂川、いい形になりました。しかし双葉は、すでに上手まわしをつかんでおります。桂川、出ました。双葉、回り込んだ。双葉、逆に寄り返した。双葉、寄った。寄った。そのまま寄り切りました。
二十四連勝
八日目 ― 二十一日(金)
双葉山(打っ棄り)鏡岩〈西張出大関〉
アナ 双葉山、鏡岩ともに新大関同士の一戦であります。今場所、鏡岩は五勝二敗と好調であります。
両者、立ち上がりました。鏡、右を差した。左も差した。鏡、双差し。双葉、右をまきかえた。がっぷり右四つとなりました。双葉、鏡の右を切った。双葉、蹴返し。鏡、これを残した。鏡、寄った。双葉、寄り返した。両者、土俵中央に戻りました。鏡、右まわしを引いた。ふたたびがっぷり右四つであります。大相撲であります。双方、数呼吸。勝機をねらっております。
双葉、左から引きつけた。右の下手投げ。鏡、左から上手投げを打ち返した。鏡、寄った。鏡、寄った。双葉、こらえた。双葉、右へ打っ棄った。決まった。双葉の打っ棄り。鏡岩、土俵下へ転落しました。
解説 ほとんど先場所同様の決まり方でしたね。先場所は鏡が東から出て西で決まりましたが、今場所は西から出て東で決まりました。それも土俵ぎわまで一尺を残しての打っ棄りでした。そういえば先々場所も決まり手は右への打っ棄りでした。同じ手が三場所続いたのは珍しいですねえ。
二十五連勝
九日目 ― 二十二日(土)
双葉山(寄り切り)清水川〈西大関〉
アナ あっ、双方、時間前に立った。※四分で立ちました。双葉、右から喉をはげしく押した。清水、左から押っつけて右に逃げました。ここで、がっぷりの右四つとなりました。右四つは双葉有利であります。双葉、寄った。清水、こらえた。双葉、なおも寄った。清水、後がない。双葉、ぐっと腰を落とした。双葉、そのまま寄り切りました。双葉山の完勝であります。
解説 双葉山の作戦が功を奏しました。相撲ぶりといい、気合といい双葉の進境著しいものがあります。
※仕切り制限時間は、昭和三年一月、幕内十分、十両七分、幕下以下五分と定められた。なお、昭和十七年一月に幕内七分、十両五分、幕下四分に、昭和二十年十一月に幕内五分、十両四分、幕下三分に短縮。昭和二十五年九月に、幕内四分、十両三分、幕下二分になり現在に至っている。
二十六連勝
十日目 ― 二十三日(日)
双葉山(寄り倒し)大邱山〈東前頭二枚目〉
アナ 立ち上がりました。大邱、もろはずに押し立てた。双葉、のこった。両者、右四つ。互いにまわしを引きつけあっております。大邱の左は一重まわし。双葉、右から二枚蹴り。大邱、まわってのこした。双葉、右から内掛け。大邱、これものこした。今度は大邱、左の上手投げ。しかし一重まわしでは効きません。双葉、右から引きつけての下手投げ。双葉、寄った。寄った。そのまま一気に寄り倒しました。
解説 大邱は必勝を期して、左から上手を取って左へ回ろうとしましたが、一重まわしのため、あべこべに双葉に引きつけられました。これでは勝ち目はありません。
二十七連勝
十一目 千秋楽 ― 二十四日(月)
双葉山(上手投げ)男女ノ川〈西横綱〉
アナ 初日から六連勝した横綱玉錦が六日目磐石戦で土俵下に落ち、上膞下端骨症で七日目から休場。そのため、この双葉山対男女ノ川の一番が今場所の締めとなりました。
さあ、両者、立ち上がりました。双葉、右を差した。男女もさっと右を差した。男女、左に双葉の差し手を押さえて、寄った。双葉、右に回った。男女、腰を割って出た。双葉、男女の首をかかえた。双葉、左からの強烈な上手投げ。男女ノ川、たまらず土俵に左手をついてしまいました。
解説 男女ノ川も右四つですが、ともかく組み止めてほっと一安心した気分がありましたね。男女ノ川が、構えて出ようとした瞬間に、強烈な投げを打たれてしまいました。男女ノ川の完敗です。
総括 新大関双葉山は連続全勝優勝を成し遂げた。先場所全勝の双葉山に対して、いかに強くなったとはいえ、まさか今場所も全勝で優勝するとは専門家筋も相撲ファンも思ってもいなかった。双葉山本人さえ、ほんとうに自分は強くなったのだろうか、といぶかっていた。というのも前年、夏場所後の第六回大日本相撲選士権大会では双葉山は玉錦に二番続けて負けているからだ。その意味でも双葉山は、玉錦との力の差がどのくらいになったのか、この本場所で見極めたかったであろう。しかし、玉錦が六日目、磐石との一戦で負傷して七日目から休場し、双葉山との顔合わせは実現しなかった。
そうは言っても、双葉山の二場所連続全勝優勝は、太刀山、栃木山に並ぶ大記録であった。
夏場所 五月七日より十三日間 東京・両国国技館
双葉山 東大関 (二十五歳三か月)
先場所の一月は双葉山人気による連日の大入り満員で、毎日、詰めかける数千人のファンを追い返すという未曾有の賑い。その対策として、この夏場所から興行日数を二日間延長して、十三日間興行に踏み切るという大相撲の歴史の中で初めての画期的な場所であった。※江戸の昔より相撲取りは「一年を十日で暮らす良い男」と囃されていたが、百五十九年後の大正十二年に一日ふやして十一日制になっていた。以後昭和十二年までの十四年間、十一日制に慣れてきた力士たちだった。当時幕内力士には綾川の四十歳をトップに三十歳代が二十人もいたため、彼らから「二日間も延長しては体がもたん」と苦情が出た。また一方では、十三日間では、さすがの双葉山もきっと負ける日があるだろう、とささやかれてもいた。しかし、いずれにしても場所前の焦点はやはり、双葉山の連勝がどこまで続くか、双葉山は再び玉錦を破ることができるか、この二点に絞られていた。
※ 安永七年(一七七八年)三月以前は八日間、その後十日間となり、大正十二年一月以後十一間となった。なお、十五日制になったのは昭和十四年五月場所以降である。
この場所も前場所同様初日の五十銭均一大衆デーには、前夜からファンが両国国技館を取り巻き開場を待つという盛況で、その数四千余人。このため五月七日の初日は午前零時半に開場となった。
二十八連勝
初日 ― 七日(金)
双葉山(突き出し)土州山〈東前頭四枚目〉
アナ 立ち上がりました。土州、突いた。双葉、突き返した。双葉、なおも突いた。突いた。双葉、土州を土俵下に突き飛ばしました。
解説 長身の土州山は突っ張りがあるだけのまともな相撲ですから、双葉にとっては組みしやすい相手ですね。突っ張りには突っ張りが常道。初日の相手としては軽かったですねえ。
二十九連勝
二日目 ―八日(土)
双葉山(腰くだけ)綾川〈西前頭三枚目〉
アナ 立ち上がりました。双方、激しく突いた。綾川、右からいなした。双葉、正面土俵に大きく泳いだ。双葉、背を向けて土俵に詰まった。双葉あぶない。双葉、あぶない。あっ、綾川の足がもつれた。綾川、そのまま腰くだけの格好で倒れてしまいました。
解説 綾川、腰がくだけて自滅しましたね。双葉が背中を見せたときに一押しすれば勝ったのに、惜しい一番です。勝ちを焦ったか、それとも年令の所為でしょうか。残念な一番でした。
三十連勝
三日目 ― 九日(日)
双葉山(下手捻り)前田山〈東前頭五枚目〉
アナ 初顔合わせの一番であります。行司が双方の息をうかがっております。
さあ時間です。前田山の声で双方立ち上がった。前田、張った。前田、猛烈な張り手。二発、三発。双葉、眼があけられない。双葉、よくこれに耐えております。双葉の顔面が朱色の染まりました。今度は双葉が突き返した。前田、左右を差しにきた。双葉、かまわずに寄った。寄った。双葉、左を差した。双葉、左から強烈な下手捻り。前田、たまらず土俵の外へ飛び出しました。
解説 向う気の強い前田山ですが、張らずに突っ張ればよかった。張ったためにかえっていけなくしましたね。しかしまあ敗れたとはいえ、前田山の相撲は双葉山との初戦にふさわしい暴れぶりでしたね。
三十一連勝
四日目 ― 十日(月)
双葉山(上手投げ)和歌島〈東前頭二枚目〉
アナ 伊之助の軍配が返った。和歌、右を差した。双葉も左上手をとっている。和歌、寄った。一気に寄った。和歌、右から下手投げ。双葉、上手投げを打ち返した。引き摺るような上手投げ。双葉山の得意の投げが決まりました。
解説 先場所、和歌島は頭突きからの突っ張りで双葉を苦しめましたが、この一番も和歌島らしい思い切りの良い取り口であわやと思わせました。しかし、相手に相撲を取らせておいて、最後は屠ってしまう双葉山には余裕があります。双葉山の「後の先」の片鱗が見えた一番でしたね。
三十二連勝
五日目 十一日(火)
双葉山(押し出し)海光山〈西前頭二枚目〉
三十三連勝
六日目 十二日(水)
双葉山(寄り倒し)九州山〈東前頭筆頭〉
アナ さあ立った。激しい突き合い。九州、右にひらいてはたいた。双葉、のこった。また激しい突き合い。九州、右を差して左を押っつけた。双葉、左上手をとって正面に寄った。九州、下手投げで防いだ。九州、左に回って正面に寄った。双葉、のこした、のこしました。九州、二枚蹴り。これも効きません。双葉、白柱へ寄った。九州、のこった。九州、内掛け。九州、左を差した。九州、もろ差し。しっかりと両まわしを引いた。九州、顎を双葉の右肩下につけた。九州、徐々に体勢を固めております。おっと双葉、右にひねった。双葉、寄った。九州、のこした。両者、土俵中央に戻りました。大観衆の拍手が沸いております。大相撲となりました。双葉、下手投げを打った。九州、のこした。双葉の右は一枚まわしです。双葉、今度は右にひねった。双葉、東土俵へ寄った。寄った。九州、後がない。九州、反り身で懸命にのこした。双葉、なおも寄った。寄った。双葉、寄り倒しました。
解説 大敵双葉山に対して、九州山は大健闘しましたねえ。最後は九州山、力尽きてしまいました。今場所に入って一番の大相撲じゃないですか。しかし双葉山と組んでしまっては策のほどこしようがありません。慎重に構えて最後の最後は勝利を収めるという双葉山の計算された一番と言ってもよいでしょう。
三十四連勝
七日目 十三日(木)
双葉山(寄り倒し)五ツ島〈西前頭筆頭〉
アナ 初顔合わせの一番であります。さあ立った。双葉、寄った。ぐんぐん寄った。五ツ島、後がない。五ツ島打っ棄りをみせた。双葉、そのまま浴びせ倒しました。
三十五連勝
八日目 十四日(金)
双葉山(寄り切り)玉の海〈東小結〉
アナ 立ちました。玉、右を差した。玉、まわしを引いた。しかし一重まわしであります。双葉、左で玉の上手をさぐっております。玉、肘を張ってこれを引かせません。玉、左押っつけ。玉、寄った。玉、双差し。玉、双差しになった。双葉、これをカンヌキにしてこらえた。玉、なおも寄った。渾身の力で寄った。双葉、後がない。双葉、土俵際でこらえた。双葉、土俵に根が生えたように動かない。双葉、寄り戻した。ここで双葉、ようやく上手まわしを取った。右の下手も取りました。玉、双葉の右を切った。双葉、玉の胸に頭をつけた。双葉、押した。押した。玉、俵に足が掛かった。双葉、ぐいと腰を落とした。双葉、両手を伸ばして玉を寄り切りました。
解説 いやあ、双方力の入った大相撲でした。玉の海の惜しい一番でした。さすがに玉の海の豪腕も効きませんでしたね。しかし、双葉山は、ひとまわり体が大きくなって体力も充実しておりますね。双葉山が見せた見事な押し相撲でした。
三十六連勝
九日目 十五日(土)
双葉山(上手投げ)磐石〈西前頭五枚目〉
アナ 立ち上がりました。双葉、猛烈なノド輪。双葉、押した。磐石、西土俵に詰まった。磐石、押し戻した。土俵中央、双方、右四つとなりました。磐石、ぐいと出た。双葉、右から掬った。双葉、左の上手投げ。あざやかに決まりました。
解説 双方喧嘩四つですから、双葉有利の右四つでは、磐石はどうしようもありませんね。
三十七連勝
十日目 十六日(日)
双葉山(寄り倒し)大邱山〈東関脇〉
アナ 本日は日曜の休日とあって、初日同様相撲ファンは双葉山をひと目見ようと前夜から長蛇の行列。午前三時には三千人にもおよび、早朝七時にはチケットは完売。双葉山をひと目見ようと国技館ははち切れんばかりの大入り満員となりました。さあ待ちに待った双葉山と大邱山の一番であります。
行司軍配が返りました。大邱、右を差した。双葉、これをかかえた。双葉、大邱の左上手を嫌って、左の巻きかえに出た。大邱、寄った。双葉、これを右下手投げで防いだ。大邱、上手投げ。決まりません。大邱、引きつけて寄った。双葉、左へ回りこんだ。双葉、寄り返した。双葉、寄った。寄った。大邱、俵に詰まった。大邱、打っ棄りをみせた。双葉、寄った。寄った。双葉、寄り倒しました。
これで双葉山は十連勝。前の取組で大関鏡山が大関清水川に敗れましたので一敗は清水川一人。今場所も双葉山が負けなしのトップに立っております。
三十八連勝
十一日目 十七日(月)
双葉山(搦み投げ)清水川〈西大関〉
アナ 東大関双葉山十戦全勝、かたや西大関清水川は九勝一敗。今場所の優勝争いを左右する東西両大関の大一番であります。
行司伊之助の軍配が返りました。双葉、右からのノド輪。清水、これを外した。双葉右四つ。十分に清水の両まわしを引いております。清水川は双葉山の右下手を取って、左を抱え込んでおります。清水、寄った。清水、左まわしを取った。清水、寄った。双葉、これを左から大きく上手投げ。清水、右の外掛けで防いだ。双葉、この外掛けをはねあげた。あっ、清水、そのままもんどりうって土俵下に落ちました。双葉山の豪快な上手投げ。見事に決まりました。
解説 右の外四つからの上手投げを得意する清水川が右を深く差したのがいけません。清水川は左を差して右から抱え込んだ方が有利に戦えたと思います。双葉山は右四つ得意とはいえ、先場所清水の得意に組まれた経験から、今場所いち早く左上手を引きつけたことは、双葉山の進歩でしょう。
(なお、この場所限りで清水川は引退した。)
三十九連勝
十二日目 十八日(火)
双葉山(下手投げ)玉錦〈東横綱〉
アナ 本日の結びの一番であります。双葉は今日まで全勝。一方、玉錦は九勝二敗。玉錦は風邪のため前夜から三十八度の高熱を発して、本来ならばこの一番は休む予定のところでありますが、ファンのためと、敢然と出場してきたのであります。角界の頂点、東正横綱を張る玉錦、思えば一年前の十一年夏場所、関脇でありました双葉山に一敗地にまみれましたが、今場所、玉錦の雪辱なりますか。興味の尽きない大一番であります。
双方、手が下りました。双葉、声をかけて立ち上がりました。おっと玉、立ちません。玉、嫌いました。さあ、二度目はどうか。庄之助の軍配が返った。立ち上がりました。玉、突いた。玉、出た。玉、右を差した。玉、出た。双葉、上手下手ともに引いた。双葉、下がりながらの下手投げ。玉、大きく傾いた。玉の左足が双葉の右足にかかった。双葉、玉の外掛けを跳ね上げた。双葉、下手投げ。双葉の強烈な下手投げ。玉錦、双葉山の下敷きに倒れました。
解説 双葉としては申し分ない一番でした。しかし、玉錦にとっては、高熱を押しての出場ということもあり、立ち合いに気負いがあり満足のいく相撲ではありませんでしたね。来場所は十分な体調での両雄の勝負を期待したいですね。
当時、朝日新聞紙上に『宮本武蔵』を連載していた吉川英治は、この一番を観戦した。場所後に双葉山の友人の中谷清一は彼を招き数人で食事をした。吉川英治も同席した。その時の吉川英治の双葉山に対する思いが『武蔵落穂集』(昭和十二年・大阪朝日新聞文芸欄)に述べられている。
大阪の中谷清一君が、何でもけふの双葉山と玉錦のすまうをみろといふ。中谷君は堂島の人であるが、双葉山をその無名時代から鞭撻し、ひいきといふよりは、双葉山にとって無二の心友なのである。
双葉山をして相撲道の宮本武蔵に大成させ、自分の晩年は灰屋紹由(京都の風流人)のやうになりたいといつてゐる人である。
場所の後で、その中谷氏の席で双葉山と落ち合ひ、僕ら四、五人食事をしてゐると、この人気男を繞って、八方から客席の電話だの、妓たちの狂態に近い歓声があつまつてくる。人気といふものは浮気ないたづら者である。双葉がもし次の場所に黒ボシの過半数を取れば、この雰圍氣は何処かへ行つてしまふのだ。
低い所から落せば欠けない物を、勝手に高所までさし上げて行つて落すのが人気の特質である。作家の場合などよりももつと痛切に相撲取などはそれを感じるにちがひない。何とかいふ殿様だの、三菱の重役連だのといふ電話も頻々とかかつてゐたが、双葉山はその間に、田舎の父親の事でも思ひだしてゐるらしく、無口に酒を舐めてゐるだけだつた。
誰かが色紙に寄せ書きをし始め、彼もそれへ穐吉定次と不器用な手つきで書いてゐたので、僕も端へ一句かう買いて、そばにゐる安岡正篤氏に示したら、おもしろいと同感してくれた。だが双葉山には同感か同うか。
江戸中で一人さみしき勝角力
また、吉川英治の『草思堂随筆・俗つれづれ草』には、「勝負師の涙」と題した一文がある。
大きな眼で視ると、人類の生存のすがたはそのまま勝負の世界といえるかもしれない。人間は朝眼をさますとたんから寝る迄、無意識にも或る勝負への働きをしている者だと云えなくもないからだ。
勝負師の勝負生活は、それのきびしい縮図である。故にまた傍観者の興味も大きい。傍観者といえ、じつは自分も勝負の輪廻に生かされている人間なので、事、人間同士の勝負とあらば、仮説的な土俵の形式でも、大方の棋番に過ぎないばあいでも、血をわかして関心を持つ、持たずに居られない本能を駆られる。(中略)以前、双葉山が全勝の常勝将軍であった頃、場所からS伯だの、ひいきの実業家たちと共に、双葉を拉して、辰巳家の本拠にひきあげ、お作ばあさんが、一切合財のさしずで、八方からかかる双葉へのお座敷電話をみな断り、天下の人気横綱を独占して、歓呼乱杯。ここへは、招かずして新橋、柳ばしの美妓が群れ集まり、わが世の五月を謳歌した一夜がある。その折、誰の発意だったか、双葉の為に寄せ書して双葉の父なる人へ送ろうと云い出し、S伯まずお得意の席画を描き、財界政界の名士がそれに合讃した―で、ぼくにも順番が廻って来て、何か一筆書けという。そこで即興の一句をぼくも書いた。句は、
江戸中で一人さびしき勝角力
というのであった。
だれもみなヘンな顔をした。「淋しい」という語への不審であろう。だがさすがにその夜の常勝横綱の双葉だけは、いささか分ってくれたらしい。ぼくの眼を見て眼で黙礼した。その眼には、今でも覚えているが、彼の良い一面の涙がういていた。(中略)見物心理でわれわれが勝負を騒ぎ囃す〝おもしろさのわけ〟もそこにある。人間は罪の子なり、と神様はいう。それも一つのいい方にちがいない。だが人間はうまれつき勝負の子なのだ。だから多かれ少なかれ、勝負師の涙をもっていない人間はない。
四十連勝
十三日 千秋楽 十九日(水)
双葉山(打っ棄り)鏡岩〈西張出大関〉
アナ 今日、東横綱・玉錦は三十九度の高熱で休場。対戦相手の清水川は、すでに松翁・庄之助より不戦勝の勝名乗りを受けております。したがいまして、これより千秋楽結びの一番は、東大関双葉山対西大関鏡岩の一戦とあいなりました。行司は式守伊之助であります。
さあ東西の両雄、立ち上がりました。鏡、右を差し左も入れました。鏡、双差し。十分の体勢であります。鏡、寄った。土俵際まで寄った。鏡、吊った。双葉も右上手から吊り上げた。双葉、そのまま右へ打っ棄った。双葉、今場所も鏡岩を打っ棄りで屠りました。
解説 鏡岩は立ち上がり十分になって安心しましたね。前三場所打っ棄られたこともあって慎重になっていましたね。それにしても双葉山は鏡岩には余裕をもっています。これで双葉山は三場所連続の全勝優勝を果たしました。大相撲の歴史に燦然と輝く偉業です。これで横綱が確実に約束されました。連続優勝で横綱になったのは過去に太刀山と栃木山がいますが、連続全勝優勝で横綱になったのは双葉山がはじめてです。まったく大したものです。
アナ 今場所を振り返ってみて、どうでしたか。
解説 双葉山は昭和十一年春場所七日目から通算四十連勝。まる二年間、無敗という充実振りを示しましたね。国技館は連日の満員、いろいろ言われた十三日間興行という試みも双葉山のお蔭で大成功のうちに終始しました。
しかし、武蔵山、男女ノ川の二横綱の休場、出場はしたものの玉錦は年齢的な衰えが見えてきました。それに大関・清水川の引退。これからは双葉山時代の到来です。双葉山に挑む者、双葉山を倒す者として、前田山を筆頭に玉の海や九州山などの新しい勢いに期待することになるでしょうね。
場所後の五月二十日、番付編成会議で双葉山は横綱に推挙され、同月二十六日、東京の細川邸で横綱の仮免許を受けた。海軍記念日の翌二十七日、水交社天覧相撲において、太刀持ち・名寄岩、露払い・羽黒山を従えて、雲竜型の土俵入りを初めて披露した。双葉山は、この晴れ姿を全紙大の写真にして、癌を患い福岡の九大付属病院に入院中の父親のもとへ送った。
二日後の二十九日、両国国技館で第七回選士権大会が開催された。玉錦は病気で棄権。双葉山は決勝戦で前田山を倒して優勝した。
六月九日、大阪市旭区関目町に完成した関目国技館で、竣工記念の「大相撲大阪場所」(十三日間)が開催された。両国国技館の一万六千人の収容に対して二万人以上の収容能力があった。この国技館に前夜の午後八時半よりファンがつめかけ、東京の本場所を上回る人気を呼んだ。玉錦、武蔵山、男女ノ川の三横綱が休場したにもかかわらず前売入場券は、双葉山の土俵入り見たさにプレミアムがついて飛ぶように売れた。
ところがこの興行で双葉山は初日に綾川に外掛け、四日目に和歌嶋に同じく外掛けで敗れるという番狂わせが生じた。地元の新聞は号外を発行した。給金直しのない地方場所(準場所)では力士たちは気楽に相撲を取っていたのだが、双葉山の連勝が止まらなくなると、幕内力士の半分を占めていた出羽の海部屋の力士は双葉山に対しては本場所並みの真剣さで対戦していた。したがって大阪での双葉山の敗戦は却って人気に拍車をかけたのであった。
この綾川との一番を晩年綾川自身が述懐している。(相撲評論家・池田雅雄宛の手紙・昭和五十一年)
あれはもう四十年前でしょうか。大阪関目の国技館開館の初日でございます。開館場所なので、ファンにしては大喜びでございます。それはそれは朝早くから大入りの満員の盛況でございました。その初日から双葉山対綾川の結びの一番がございましたが、四十歳の綾川では、観客から見れば、何ら期待の一番ではございません。そのとき土俵の検査役は、栃木山の春日野でしたか、常の花の藤島でしたか忘れましたが、立会いの綾川は二本差しました。双差しですね。そのまま寄り身を見せましたが、いやはや、あの無敵といわれた双葉山、一寸も動きません。よって右の差し手から大きく、すくい投げを見せました。ところが、双葉山の右足は、綾川の左足に近づきましたので、それで夢中でしたですが、綾川の左足は、待ってましたとばかり、双葉山の右足に大きく外掛けを掛けました。みごとに決まって、双葉山の胴体の上に綾川はまともに乗っかりました。綾川は夢中でしたので、何が何だか、無我の境と申しましょうか。行司からの勝名乗りを受ける綾川という声も聞こえませんでした。その時です。観客は総立ちになりまして、座布団は雨アラレのように降りました。座布団はよろしいのですが、リンゴ、ミカン、驚きましたのは、タバコ盆にビールの空きビンでございます。検査役は座布団を頭からかぶって、その場から動くことができませんでした。綾川も検査役同様、座布団を頭からかぶって土俵を降り、花道を引き上げようと思いましたが、その花道は大変です。観客は綾川が引き上げる花道をふさいでいます。若い者が四、五人来て、ようやく花道を開けてくれたので仕度部屋へようやく引き揚げました。だが観客は仕度部屋にドッと押しかけ、綾川バンザイと高々と叫ぶ人もいました。そうかと思うと綾川の体にかじりつく人もいました。こうした騒ぎの大変の中に、サインを頼む人が四、五十人もいましたが、場所中に必ず書いて差し上げるからと約束して帰ってもらい、ようやく自分の体になりました。しかし、帰らぬ人の中には、お祝いに料理屋に行こうと、誘い出しにかかる観客も、四、五人いました。ようやく静かになったので、明治大学の相撲部員二人と共に、屋台店に行って祝杯をあげましたが、三人は肩を組んで、嬉し泣きに泣きました(綾川は当時、明大相撲部のコーチをしていた)。次の日(二日目)、場所に行きましたところ、これもまた祝電が五十通余、綾川の明け荷の上にありました。知人のファンからは約二十通くらいあり、あとの三十通は知らないファンの方で、どうも思い出せない人々からでしたが、本当にありがたいことと両手をあわせました。大阪朝日、大阪毎日新聞は大変でございます。三面(社会面)には写真も大きく出まして、ファンからもこの新聞をたくさん送ってきました。五月東京へ帰ってからも大変でした。出羽の海部屋のファンからも、また後輩の若手力士―信夫山(秀之助)、笠置山、安芸ノ海、綾昇、綾若もおりましたが、土俵はただ双葉山打倒、その声だけが高かったのです。ファンからもただただ本場所で双葉山を破れ、その一言だけでした。一門の力士一同の顔色は変わっていました。
この敗因について双葉山はわからないと語っているが、前夜贔屓の歓待で一睡もしていなかったという。この便りをもらった池田雅雄は、結果論ではあるが、二年後に双葉山の七十連勝を阻んだ安芸ノ海の外掛けを、出羽一門の秘剣になったと書いている。
この場所、双葉山は四日目にも和歌嶋の外掛けに敗れて十一勝二敗に終ったが、和歌嶋に破れた時には地元の新聞社は再び号外を出すほどの騒ぎであった。
なお、大阪場所の優勝は十二勝一敗の出羽の海部屋の綾昇だった。
大阪場所を打ち上げたあと、六月二十五日から、名古屋市東区新町の仮設国技館(トタン屋根)で十一日間の興行を打った。ここも大阪に負けず徹夜のファンが押しかけ、連日の大入り満員。双葉山は千秋楽に男女ノ川を倒して十一戦全勝した。
七月五日の千秋楽を打ち上げた双葉山一行は、玉錦一行と西下し、朝鮮、満州(今の東北)方面へ向った。双葉山自身は一行より一日早く出発し、博多の九大病院に癌で入院している父親を見舞った後、門司で同船した。
大連、奉天、新京、平城と回り、無事に巡業を終えて、八月十三日、再び九大病院に駆けつけた。父親の末期の体はむくんでいた。それと知らぬ父親は双葉山に手足を見せ、「ホレ、こんなに肉がついてきた」と喜んでいたそうだ。
八月二十日夜、山口、福井の興行を終え山代温泉に泊まっていた双葉山は父親の訃報を受けた。双葉山一行は一週間の休みをとり、玉錦一行は単独興行に出た。翌二十一日、郷里の中津市布津部で父親の遺体を荼毘に付した。
双葉山は、この父親の作った莫大な借金を返済するために相撲の世界に身を投じ、それを成し得ていた。当初の目的を達成し、今後は父親孝行をするために相撲に精進しようと決心していただけに、双葉山のショックは大きかった。
双葉山は十日の喪中の間、先の京城巡業で同郷の朝鮮総督・南次郎大将が父親への見舞いとして贈った漢詩をながめて過した。
名を成し父母を顕はせし双葉山は孝子なり
孝子を育てし父母は仁者なり
七月七日、盧溝橋事件が勃発、日中戦争が起こった。日本は非常時の臨時体制に入り、十月二十五日より二回目の興行の大阪国技館は黒幕で閉ざされるという戦時色の中で蓋を開けた。この場所、四横綱二大関が顔を揃えた。双葉山は十三戦全勝で優勝したが、千秋楽の玉錦との対戦は水入りとなり、試合再開後さらに水が入って、十分後取り直しという大一番となった。これが本場所であれば後世に残る名勝負だと、検査役の錦島(元大蛇潟山)は高く評価した。
なお前回双葉山を外掛けで破った綾川との対戦は、双葉山の吊りを綾川が外掛けで防いだが、双葉山がそのまま寄り倒した。しかし双葉山に踏み越しありと松翁木村庄之助の軍配は綾川に上がった。物言いとなり取り直しの結果、双葉山が両手で上手廻しを引いて強引に寄り切って勝ち、綾川の二連勝は成らなかった。
大阪場所を打ち上げた双葉山・清水川一行は九州巡業へ向った。双葉山は、巡業後の十一月、熊本市の吉田司家において横綱本免許状を受けた。同地での披露宴には郷里の関係者、熊本県知事、熊本師団長など多数が参列した。
当時、読売新聞記者の小島六郎は「人間双葉山」と題して『野球界 増大號』に次の記事を載せた。
(前略)双葉山は土俵に立つと決して笑ったことがない。花道を通ってくる時でも控えの溜りにじっと腕を組んで待っている時でも、いったん入場したら最後いかなる場合でも笑顔をみせたことはない。いまだ年僅か二十六歳。土俵の経験からしたら玉錦、清水川、鏡岩、さては土州山、綾川、新海、幡瀬川等々よりずっと後輩である。まず普通の人間であったなら、あれだけの人気を得て、あれだけ騒がれたなら、いかに緊張していようとも、意識的に余裕をみせようとする気分的弱点を多分に持つものである。(中略)もっとも単に笑わないといったところで、土俵外の双葉山は実によく笑うのである。あの小さな目をさらに細くして、いかにも心から笑うような笑顔を絶えずみせるのである。土俵生活と私生活との区別を、意識してやっているとしたら、彼は余程修練を身につけているものであり、また無意識の間にそれをやっているのであったなら、彼は先天的に恵まれた性格を受けている。
双葉山は土俵に出ると、出た時一度水をつけるきり、あとは一度も水をつけたことがない。これは武士がいったん戦場に立った以上水盃は一度であるという精神からだという人がある。だが相撲には仕切直しというものが許されている。武士はいったん戦場に立って刀と刀を合わせたならば、呼吸が合わないからまた出直しして勝負しようなどということは許されない。したがってもし双葉山が水盃は一度という精神なら、いささかこの理屈はこじつけなものになってしまう。
私は双葉山の水つけ一度をそんな風に解釈したくない。それは彼が土俵に立って少しも笑わないと同じように、彼の肚だと解釈したい。水を何度もつけたり、鼻をかんだり、体の汗をふいたりすることが別に面倒くさいわけではないが、平素からそれは一度でこと足る修練を体得しての結果だと思うのである。意識、無意識を問わず、肚がなくてはできることではない。
彼が土俵上で焦らず騒がず落ちつき払って大敵を突破するのも、この肚から出発したものである。土俵度胸というものは肚がなくてできるものでない。(中略)この意味で、私は人間双葉山は実にしっかりした肚のある、二十六歳の若さにしては、珍しいくらい完成度のある力士だと思うのである。
当時の幕内の仕切り制限時間は十分で、現在の四分にくらべて二倍半。平均して七分前後に立っていた。したがって仕切り直しの回数も多く現在よりはるかにゆっくりしていた。また水をつけることも、化粧紙で鼻をかんだり、顔や脇の下の汗を拭く回数が多く見られた。その中にあって双葉山の水一回は際立って目立ったのである。後にその訳を双葉山自身は「ワシは目が悪かったのでなるべく余計な動作をしたくなかっただけだ」と言っていた。
昭和十二年十二月、四年続いた関西相撲協会が解散した。この時、天竜は、まだ十分相撲が取れる十七人の力士を連れて、出羽ノ海親方(元・常ノ花)に詫びを入れた。この十七人の帰参は叶ったが、番付は脱退時の一段各下、幕内は十両、十両は幕下、それ以下は新弟子扱いにして編入された。天竜の盟友・大ノ里は翌十三年一月二十二日、大連で入院中に死亡した。享年四十五歳。
3 昭和十三年(一九三八年)
日中戦争が始まり戦時下の大相撲は、南京陥落と双葉山の連戦連勝の快進撃とが重なり、国技館は連日の大入り満員が続いた。館内には「挙国一致」「堅忍持久」「国民精神総動員」と書かれた垂れ幕が掲げられ戦時色が濃厚になった。
双葉山が晴れて三十五代の横綱になった。この春場所は、東に玉錦、男女ノ川。西に双葉山、武蔵山と四横綱が揃った。これは大正七年以来二十年ぶりのこと。しかもこの春場所の二タ月前に行われた大阪場所で双葉山は玉錦と水入りの大相撲の末、勝利しての全勝優勝を飾っていた。東都のファンは、玉錦に代わって大相撲の顔となった新横綱双葉山の土俵入りを今か今かと待ち望んでいた。
なお、この場所、(翌十四年春場所で双葉山の七十連勝を阻んだ)安芸の海が入幕した。
春場所 一月十三日より十三日間 東京・両国国技館
双葉山 西横綱 二十五歳十一ヶ月 一七九センチ・百二十八キロ
四十一連勝
初日 ―十三日(木)
双葉山(寄り切り)大潮(東前頭三枚目)
双葉山にとっては新横綱の初日だったが、相手が老雄・大潮でもあり、相撲はまともなので難なく寄り切った。
四十二連勝
二日目 ― 十四日(金)
双葉山(上手投げ)九州山〈西小結〉
アナ 双葉は前場所、九州山に苦しめられているせいか、こころなしか仕切りも慎重であります。双葉、声をかけて立とうとしましたが、九州立てません。依然と仕切り直しが続いております。
双方さあ立った。九州、右からの強烈な突っ張り。機を見て双葉の懐に入ろうとしております。双葉、これを突き放しました。双葉、九州を寄せつけません。双葉、なおも突っ張った。しかし双葉、足が出ません。双葉、慎重であります。九州、突っ張返した。九州、渡し込み。双葉、のこった。双葉も九州も互いに組ませません。双方、手四つになりました。じっと機をうかがっております。九州、飛び込みました。右を差した。双葉の右まわしを引いた。双葉、これを小手に捲き、九州の腕をきめて寄った。九州、腰を引き回りながら食い下がった。双葉、左上手をさぐっております。九州なかなか引かせません。双葉もまた九州の左を殺しております。双方、壮絶な揉み合い、揉み合い。あっ、先に双葉が左上手を引いた。双葉、右で筈に押し上げた。双葉、寄った、寄った。九州、こらえた。こらえた。双葉、今度は右で九州の首を抱えた。双葉、豪快な上手投げ。決まりました。双葉、九州山を腰に乗せて見事に上手投げで決めました。
解説 双葉山の余裕のある落ち着いた取り口でした。上手を取ったら九州山も如何ともしがたいですねえ。
四十三連勝
三日目 ― 十五日(土)
双葉山(押し倒し)出羽湊〈東前頭二枚目〉
四十四連勝
四日目 ― 十六日(日)
双葉山(寄り切り)磐石〈東前頭筆頭〉
四十五連勝
五日目 ― 十七日(月)
双葉山(寄り切り)玉の海〈東張出関脇〉
アナ 立ちました。双方押し合った。玉、右差し左筈。双葉、左上手、右を押っつけています。双葉、寄りました。玉、懸命にこらえました。玉、寄り戻しました。双葉、上手を引きつけ、ぐいぐい正面に寄りました。玉、右からの下手投げで防戦。かまわず双葉、左上手をぐいと伸ばした。双葉、玉の海を寄り切りました。
解説 双葉の本格的な寄り身。寄り切りのお手本です。
四十六連勝
六日目 ― 十八日(火)
双葉山(下手投げ)綾昇〈西前頭筆頭〉
アナ 本日の結びの一番。立て行事・木村庄之助の軍配が返りました。おっと、綾、右にひらいていなした。双葉、泳いだ。しかし双葉、すぐに綾を右四つに組み止めました。綾昇は右下手、双葉山は鉄壁の左上手であります。綾、左で双葉の前まわしを引いた。綾、双差し。綾、寄った。猛然と寄った。双葉、回り込んだ。双葉、右を差そうとして体が立った。すかさず綾、寄った。双葉、危ない。双葉、こらえた。双葉、こらえた。こらえながら右の下手をとった。双葉、下手投げ。決まりました。
解説 綾昇の作戦は肯けますが、やはり双葉に上手を許しては容易に勝機はつかめません。しかし綾昇はよく健闘しました。
四十七連勝
七日目 十九日(水)
双葉山(下手投げ)前田山〈東小結〉
アナ 前場所十一勝二敗の好成績で小結に昇進した前田山、今場所も五勝一敗と好調を維持しております。無論、双葉も絶好調であります。行司は木村玉之助。
軍配が返りました。前田山、双葉の左を筈押し。双葉、すぐに前田の左上手を取りました。双葉、上手を引きつけ正面に寄った。前田山、右下手を引いた。前田、腰を下ろして寄り戻した。上手も引いた。左から外掛け。前田、下手を抜いて浴びせた。双葉の体が反った。双葉、反りながら双差し。双葉、左を引きつけての下手投げ。見事に決まりました。
解説 前田山の外掛けが双葉の上手の方だったので、さして効果はありませんでした。作戦はよかったが、双葉に早く右を引きつけられてはいけません。
四十八連勝
八日目 二十日(木)
双葉山(寄り倒し)大邱山〈東関脇〉
アナ 立ちました。大邱、頭からぶちかました。双葉、これをはっしと受け止めました。双葉、すぐに右を入れた。左上手も引きました。双葉、万全の体勢。双葉、吊りました。たまらず大邱、左で双葉の首を捲いた。大邱、のこした。双葉、右からの下手投げ。双葉、西土俵に寄った。大邱、こらえた。大邱、うっちゃりに出た。双葉、かまわず寄った。寄った。双葉、そのまま寄り倒しました。
四十九連勝
九日目 二十一日(金)
双葉山(吊り出し)両國〈西関脇〉
アナ 立ち上がりました。双葉、右を引っ張りこんで右四つ。両國、すぐに左を捲きかえ双差し。兩國、しっかりと腰を落した。両國、左を深く取った。右から櫓に振った。両國のペースであります。今度は双葉、両上手からの強引な櫓。双葉、もう一度櫓に振った。双葉寄った。寄った。両國、後がない。両國、倒れながら左へ打っ棄った。双方重なって倒れました。
伊之助の軍配は双葉山に上がっております。あっ、土俵下に控えております玉錦が手を上げております。※物言いです。並んで控えている勝ち残りの男女ノ川からも物言いがつきました。行司・伊之助が土俵下に降りました。五人の検査役が玉錦のもとに集まっております。玉錦、口をとがらせてさかんに何か言っております。玉錦、検査役の説明に首を振っております。館内は蜂の巣を突いたように騒然となっております。双葉は白柱の下で、まったく無表情であります。自分のこととは無関係といった態度で静かに立っております。この物言い、どのように見ましたか?
解説 まあ相撲はあきらかに双葉のものですねえ。しかし、勝敗となると、両國が倒れるのと双葉の足が出るのと、どちらが早いかということになりますが、確かにこれは微妙です。両國の体が生きていたか死んでいたかという点もむずかしいところですねえ。
アナ ようやく検査役の協議が終ったようです。協議の結果を玉錦、男女ノ川両横綱に報告しております。結果は双葉山に歩があったようです。玉錦、これを受け入れないもようであります。顔を真っ赤にして興奮しております。館内もますます騒然としてきました。まさに日本一の大物言いとなりました。
…やがて物言いは二十五分になろうとしております。ここで玉錦ようやく納得したようであります。伊之助が土俵に上がりました。
取り直しであります。観衆は大喜びであります。もう一番、双葉山を見られるとあって満員の観衆は割れんばかりの拍手喝采を送っております。
さあ、両者立ち上がりました。双葉、右を呼び込んでの右四つ。兩国、上手が引けません。双葉、強烈な下手投げ。両国、のこりました。双葉、吊った。吊った。吊り上げた。高々と吊り出しました。
解説 いやあ、大変な一番でしたねえ。双葉山の連勝も四十八で消えるかと思わせた一番でした。私も取り直しが妥当なところだったと思いますが、玉錦、男女ノ川両横綱の頑強な物言いに、この三人の置かれた立場というものもうかがわれて興味深い一番でした。
【註】物言い
取組後の行司軍配に異議のある場合、勝負審判は即座に手を挙げることによって意思表示をする。その後五人の勝負審判が土俵上で協議を行う。(現在ではビデオ室と連絡を取り、ビデオ映像も参考にする)協議が合意に達すると、行司の下した判定の如何を問わず、改めて勝負の結果が発表される。
多くの場合は、体が落ちる、あるいは土俵を割る瞬間が同時(同体)として、勝敗の決定をせず、取り直しとなるか、そのまま行司軍配通りの結果となるが、稀に行司の軍配と逆の結果となる場合もあり、このケースは行司差し違えという。なお、行司は必ずどちらかに軍配を上げねばならず、同体という判定は行司にとっては存在しない。また行司は反則負けの判定をしてはならないため、たとえば髷をつかんでいるところが見えていたような場合でも物言いがつかなければ軍配どおりになる。
また、土俵下の控え力士も物言いをつけることができるが、協議に参加することは出来ない。審判委員は控え力士から物言いが出た場合には必ず協議を行わなければならない。なお、行司は取組の状況を述べる以外は協議に参加できない。
この双葉山対両國の一戦。双葉山の六十九連勝が四十八で止まっていたかもしれない歴史的物言いと語り継がれる。現存する映像や写真で見ると双葉山の右足は大きく踏み越してはいるが、両國の体は完全に死に体である。
五十連勝
十日目 二十二日(土)
双葉山(押し出し)鏡岩〈西大関〉
アナ 立ちました。鏡、右が入った。鏡、左も差した。鏡、双差しであります。双葉も右で上手を引いた。左で鏡岩の左を抱えています。鏡、有利。鏡、左から下手捻り。鏡、寄った。鏡、寄った。双葉、土俵に詰まった。双葉、右上手から捻った。今度は鏡が土俵に詰まった。鏡、棒立ち。双葉、右を放し、左で鏡の胸を押した。思わず鏡、土俵を飛び出しました。
解説 鏡岩は十分になったにもかかわらず、その十分を発揮できませんでした。双葉山は充実しておりますねえ。
五十一連勝
十一日目 二十三日(日)
双葉山(上手投げ)男女ノ川〈東横綱大関〉
アナ 立ち上がりました。双葉、右の筈押し。男女ノ川、これを外した。双葉、上突っ張り。男女ノ川も突き返した。双葉、男女ノ川の右をとったりにいった。男女ノ川、これについていった。男女ノ川、左にまわって左四つに組み止めました。男女ノ川、双葉の右を抱えて寄った。双葉、左へ回り込んだ。双葉、右を捲きかえた。男女ノ川も捲きかえた。双方、右四つとなりました。両者、両まわしを引いて土俵中央であります。男女ノ川腰を割ってじりっじりっと寄った。双葉、上手投げを打った。男女ノ川、のこった。男女ノ川、また出ました。双葉、上手投げ。男女ノ川、たまらずに左手を土俵につきました。
解説 男女ノ川は、四つに組んだときの引きつけが足りません。これが敗因といえば敗因ですね。
五十二連勝
十二日目 二十四日(月)
双葉山(寄り切り)笠置山〈西前頭四枚目〉
五十三連勝
十三日目 千秋楽 二十五日(火)
双葉山(上手投げ)玉錦〈東横綱〉
アナ 今場所期待の一番でありますが、玉錦は三十八度の高熱を押しての出場であります。角界随一の稽古好きの玉錦ではありますが、ここへ来てなにかと故障が続いております。両者、両手を下ろしました。双葉、時間前につっかけた。玉、立てない。両者ふたたび手を下ろしました。あっ、また双葉つっかけた。玉、立てません。玉、高熱のためか息苦しそうであります。さあ、十分間の制限時間がいっぱいとなりました。
庄之助の軍配が返りました。双方、正面から当った。また当った。玉、右を差した。玉、寄った。寄った。双葉、寄り返した。玉、ふたたび寄った。双葉、玉の右を筈に左上手を引きつけた。双葉、筈押し。玉、寄り返した。玉、左上手をうかがっている。双葉、上手を引きつけた。双葉、上手投げ。鮮やかに決まりました。双葉、ついに四場所連続全勝優勝を達成しました。
解説 双葉の、理にかなった相撲でした。右差し、ぐいと引きつけての強烈な上手投げが鋭く決まりました。まさに伝家の宝刀、投げたというよりも切ったといった上手投げですねえ。これで双葉山は玉錦に三連勝ですか。この一番で大相撲の看板がはっきりと入れ替わりましたね。
双葉山はこれで五十三連勝。これまでは太刀山や栃木山の場合、何場所土つかずといった言い方をしていて、何連勝というような言い方はなかったですよ。さて双葉山はこれからどの位勝ち星を連ねてゆくのでしょう。楽しみです。
総括
常陸山は泉川、太刀山は突っ張り、栃木山ははず押しという得意技で敵を倒したが、双葉山は、相手の出方による多彩な技で敵を屠ってきた。ここ五場所の決まり手をみると、上手投げと寄り切りが最も多く夫々十三回、寄り倒しが七回である。打っ棄りは三回で、「打っ棄り双葉」の異名は返上された。当時、出羽一門の合言葉は「双葉に左上手をとらせるな」であった。
場所後の二十七日、双葉山は横綱披露宴を取り止め、その費用をすべて陸海両省へ献金した。
四月一日より第三回大阪大場所(十三日間)が開催され、双葉山が全勝優勝した。
夏場所 五月十一日より十三日間 東京・両国国技館
双葉山 東横綱 二十六歳三ヶ月
ついに双葉山は先輩・玉錦を抜いて東の正横綱という最高位を占めた。名実共に角界の第一人者となった。前年からはじまった日中戦争が日本を軍国色一色に塗りつぶし、双葉山の相撲振りは「皇軍無敵の進撃」と並び称されて文字どおり国民的英雄となった。
四横綱時代の二場所目を迎え、三場所休場していた武蔵山が出場した。前田山が小結一ト場所で大関に抜擢された(昭和十二年夏場所東前頭五枚目で九勝二敗、昭和十三年春場所東小結で十一勝二敗)。また双葉山の弟弟子の名寄岩が関脇に、羽黒山が小結に昇進した。
五十四連勝
初日 ―十一日(水)
双葉山(押し切り)海光山〈西前頭四枚目〉
五十五連勝
二日目 十二日(木)
双葉山(寄り切り)玉の海〈西前頭筆頭〉
アナ 立ち上がった。玉、左で前まわしを引いた。玉、右四つ、いい形になった。双葉も左上手引いた。双葉寄った。寄った。玉、双葉の差し手を巻いて残った。玉、寄り返した。玉、左からの蹴返し。双葉、ぐらついた。双葉、こらえた。双葉、左上手を引きつけた。双葉、寄った。玉、右へまわって逃げた。双葉、なおも寄った。寄った、寄った。双葉、ぐいと腰をおろして右で玉のまわしを押した。双葉、寄り切りました。
解説 玉の海は健闘しましたが、双葉山は冷静でしたね。
五十六連勝
三日目 十三日(金)
双葉山(寄り倒し)両國〈西前頭二枚目〉
双葉、すぐに左上手をとって、右から割り出し気味に寄り倒した。
五十七連勝
四日目 十四日(土)
双葉山(すくい投げ)五ツ島〈東前頭二枚目〉
アナ さあ立った。五ツ島、右差し。左で双葉の右を嫌いながら寄った。双葉、上手を取った。双葉、右をのぞかせて下から起した。双葉、西土俵に寄った。寄った。五ツ島こらえた。双葉、右からの強烈なすくい投げ。決まりました。
解説 双葉の呼び戻し気味のすくい投げは強烈でした。この技は余程力に差のある場合でないとできません。実力派の五ツ島に決めたあたり、すごいというほかありませんね。
五十八連勝
五日目 十五日(日)
双葉山(寄り切り)磐石〈東関脇〉
アナ 立ちました。双葉、上突っ張り。双葉、右はずに押した。磐石、これをこらえながら右を差した。双葉、寄った。双葉、すかさず上手を取りました。磐石、土俵に詰まった。磐石、左から小手に振って回り込んだ。双葉、右腕をかえして出た。磐石、左の外掛け。双葉、体を寄せた。双葉、寄り切りました。
解説 磐石は左をねらいましたが、双葉の右の押ッつけで差せませんでした。これでは十分に力が出せません。
五十九連勝
六日目 十六日(月)
双葉山(寄り切り)大邱山〈東前頭筆頭〉
アナ さあ立った。大邱、思い切って当っていった。大邱、右を差した。左上手も取った。大邱、頭をつけた。大邱、上手投げ。双葉、体をあずけてのこした。大邱、ふたたび上手投げ。双葉、のこした。のこしました。今度は双葉が寄った。寄った。なおも寄った。大邱山、土俵を割りました。
六十連勝
七日目 十七日(火)
双葉山(上手投げ)綾昇〈西小結〉
アナ 双方立ち上りました。右四つ。あっ、双葉の上手投げ。一瞬にして決まりました。
解説 右から綾昇の体を呼び込んでおいて、さっと体を開いての上手投げでした。まるで絵に描いたように見事に決まりましたね。これで連勝記録が六十に到達しました。これからどの位勝ち続けるのかはかりしれません。百連勝も夢ではありませんねえ。
六十一連勝
八日目 十八日(水)
双葉山(上手投げ)和歌島〈東前頭四枚目〉
さあ立った。双葉、右四つに受けた。双葉、割り出し気味に寄った。双葉、右で和歌島の首を押さえつけた。上手投げ。決まりました。
六十二連勝
九日目 十九日(木)
双葉山(吊り出し)前田山〈東大関〉
アナ 行司軍配が返りました。前田、右差し。左も差した。前田、双差し。双葉は両上手を引いております。前田、寄った。寄った。双葉左へ回って寄り返した。双葉、右を巻き替えなした。両まわしをがっちり取った。双葉、腰を落として正面へ寄った。前田、後退。双葉、吊った。吊った。吊り出しました。
六十三連勝
十日目 二十日(金)
双葉山(割り出し)鏡岩〈西大関〉
アナ 立ちあがるや鏡、双差し。鏡、猛然と寄った。寄った。双葉、右から上手投げでかわした。鏡、頭を下げてなおも寄った。双葉、右上手を引きつけ、回り込んだ。ここで鏡岩の頭が上がりました。双葉、左から強烈な筈押し。双葉、押した。押した。押し出しました。
解説 鏡岩も十分になって二度よいところがありましたが、双葉山の腰が重く、寄り切れませんでした。
六十四連勝
十一日目 二十一日(土)
双葉山(押し出し)武蔵山〈西張出横綱〉
アナ 両者五場所ぶりの対決であります。さあ立ちあがりました。双葉、もろ筈。双葉、押した。押した。武蔵、右で双葉の首をまいた。かまわず双葉、押した、押した。押し出しました。
解説 武蔵山は上ずった立会いをして、双葉山に一気に押し立てられましたね。武蔵山に相撲を取らせませんでした。双葉山は、真っ直ぐに出て、武蔵山に受ける暇を与えませんでした。双葉山の完勝です。
六十五連勝
十二日目 二十二日(日)
双葉山(突き出し)男女ノ川〈東張出横綱〉
アナ 立ち上がりました。双葉、激しい上突っ張り。男女ノ川も突っ張りで応戦。双葉、なおも突っ張り。男女ノ川、後退。土俵に詰まった。双葉、両手で突き出しました。
解説 男女ノ川の突っ張りはまったく威力がありませんね。今日も双葉山
の相撲でした。
六十六連勝
十三日目 千秋楽 二十三日(月)
双葉山(寄り倒し)玉錦〈西横綱〉
アナ 玉錦は十日目男女ノ川、十二日目武蔵山に負けたとはいえ、やはり双葉山の相手は玉錦しかいません。今場所、最後の大一番であります。
松翁・木村庄之助の軍配が返りました。双葉、すぐに左上手を取った。右も入れた。玉、下手は取ったが、上手が取れない。双葉、ぐいと上手を引きつけた。双葉、呼び戻し。玉、右から外掛け。双葉、弓なりになった。双葉、玉の外掛けを外した。双葉、また呼び戻し。玉、土俵際に詰まった。玉、のこった。のこしました。双方、土俵中央に戻りました。玉錦は右下手、双葉は左上手を引き、双葉は右は腕をかえしています。玉、さかんに上手をさぐっている。双葉、肘と腰を巧みにつかってとらせません。両者、構えたまま動きません。動きが止まっております。
…行司・庄之助、両者に水入りを告げました。
松翁、両者の手の位置と足の位置を決めました。双葉、玉の右下手を引いています。庄之助、すかさずこれを外させました。さあ試合再会であります。
庄之助、双方のまわしをポンと叩きました。
玉、一気に寄った。双葉、右に回りこんだ。双葉、寄り返した。双葉、猛然と寄った。双葉、寄った。玉、懸命にのこした。玉、打棄りをみせた。双葉、腰を割って上手まわしをはなした。玉の胸をぐいと押した。双葉、玉錦を寄り倒しました。
解説 玉錦の大健闘は、さすがに千秋楽を飾るにふさわしい戦いでした。それにしても、双葉山は六十六連勝、五場所連続全勝という空前の記録を打ち立てましたね。この前人未到の大記録は、谷風梶之助の六十二連勝を破ったことになります。しかし、江戸時代の相撲は日数も少ないし、引き分けや預り、休みなどをはさんでいるので記録での比較はできません。明治時代には初代梅ケ谷の五十九連勝、太刀山の五十六連勝がありますが、いずれも引分け、預りのあるノンビリした時代でしたから、連勝の条件は双葉山時代のほうが遥かに厳しいと言えます。
今場所の双葉山は、体重も百三十キロにふえました。男女ノ川や玉錦といった重量級の力士にも身体負けしないようになりました。双葉山の連勝がどこまで伸びてゆくのか、来場所も大いに期待できますね。
双葉山の回顧(昭和十三年『相撲』七月号)
おかげさまで、身体も引き続き好調で今場所をつとめることができました。土俵に上がった感?そうですね。まだ全然固くならんというわけではありませんでしたが、今場所あたりは気持は割合に楽なように感じました。と言っても、一番一番慎重に念を入れたことは申すまでもありません。どの一番だって注意深くやらぬ相撲はありません。しかし立ってしまえばもう夢中です。全力を挙げて行きつくところまで行こうとするだけです。十三日間の相撲を顧みると、千秋楽の玉錦との一番が、私としては最も豪(えら)い相撲だったかと思います。
今度も全勝できたのは全く仕合せでした。全勝はそりゃもう嬉しいですよ、精魂こめた結晶ですから、正直何度全勝してもその嬉しさに変りはありません。来場所も大いにやります。
鏡岩の回顧(昭和十三年『相撲』七月号)
双葉関との勝負は、僕の作戦が狂った、僕が一気に押してゆくつもりでしたが、立ち上がるや、パッと懐をあけられたので、双差しに飛び込んでしまったのです。根が四つ相撲ですから押そうと目論んでも相手に一寸形を変えられると、懐に飛び込んでしまうのです。それにしても、双葉山関の強さはどうでしょう。場所ごとに完全になってゆくとは、あの人のことです。僕達力士になって二十年、これほど強い力士を見たことがありません。横綱になってもまだどんどん技量が進歩しているところが豪いです。今場所など、相手が出て来れば出て来たところで仕事をする、相手が出なければ自分が出る、悠々として変化に応じている。去年の一月や、五月から較べてみたら、実に格段の進歩を遂げているじやありませんか。ああなるとあんまり見事で負かすのが惜しくなる。といって負かさずにもおかれませんし、来場所あたり、僕も大いに打倒双葉山の大旆をかざして、一ト器量あげたいものです。
上司小剣(当時の角通第一人者)の双葉山攻略法(『相撲 夏場所特輯』「夏場所を観て」)
双葉山は強いにちがいない。しかしいささか勝ち過ぎているように考えられる。「勝つ」ということと「強い」ということを、同一のものとすればそれまでだし、また双葉山の研究心と気魄と、その摂生とが「勝つ」原因をなし、従って「強い」ということにもなるのだがやはり人間である以上、どこか欠点がないとは言えぬ。ここにいう欠点とは、専ら土俵の上のそれで、人物としてではないことはもちろんである。(中略)双葉山の欠点を最もよく知っていたのは昨年引退した綾川だそうで、どっちへ弱いということをよく心得ていたと聞いたが、すでに力士としての晩暮に属し、十分研究の結果を応用できなかった。しかし、去年の五月場所の二日目だったか、突き合った綾川がトッタリのように引っ張ってイナしたときは、双葉は大いに危なくハッと思わせたが、年のせいか綾川は滑ったために、もろくも突き倒されたように見えた。それでも大阪場所では一度勝ったし、一度は取りなおしまでこぎつけた。
舟橋聖一(作家)の観察(『相撲 夏場所特輯』「夏場所を観て」)
やはり、何といっても目ざましい勝ちっぷりは、双葉山であった。春場所よりも更に一段、堅実味をましていた。ある力士の話に、双葉山に手をつかまれると、指と指の間が、裂けていくのではないかと思われる程、痛くって、手首の方まで、しびれるようだということだったが、なるほど、そのくらい強くなくては、ああは勝ち放せるものであるまい。
しかし、つい最近まで松前山に竪(たて)褌(まわし)をとられて吊り気味に寄り切られたり、新海にうまく立たれて吊り気味に寄り切られたり、綾錦にもろくも土俵の中央で内掛けに倒されたりしていた双葉山を見ているものの目には、短日日の人間が、こうまで強く鍛えられるとは、なかなか信じられぬほどである。けれども、彼は今や、ほんとうに強い。力と業、それにあの冷静な頭脳が、物を言っている。四つ相撲の敵手(あいて)の肩越しに、土俵の寸法を覗いて見ることの出来る程、彼は冷静な頭脳と目を持っている。これと反対なのは、同じ横綱の男女ノ川である。男女ノ川が、ある記者に、人間がほんとうの力を出すときは、半狂人になるのだと語ったという話が、新聞に出ていたが、双葉山と男女ノ川の距離は、そこにある。
夏場所後の状況
双葉山の五場所連続優勝、六十六連勝の大記録樹立を祝して、五月三十一日、東京丸の内の東京会館で祝賀会が開催された。永井逓信大臣をはじめ出席者六百名。
六月四日、両国国技館での「第八回大日本相撲選士権大会」では前年に引き続き双葉山が優勝した。
六月十日から名古屋表大相撲が行なわれた。十三日間本場所並みの大併合興行であった。玉錦と武蔵山は休業したが、一万五千人収容の仮設国技館は連日の大入り満員。初日には白衣の傷痍軍人が四千人詰めかけた。ここでも双葉山が全勝優勝した
六月二十四日から阪急沿線の西宮球場の特設相撲場で関西西宮巡業大相撲が十三日間の日程で行なわれた。この興行には玉錦一行は東北、北海道、樺太への巡業のため参加せず、双葉山、男女ノ川、武蔵山、鏡岩の合併相撲であった。ところが十一日目(七月四日)、台風の豪雨による大災害のため、十日目で打ち切られた。(この大災害はいわゆる「阪神大水害」と言われ、谷崎潤一郎の「細雪」にその様子が描写されている。)
この場所双葉山は、三日目、九州山の渡し込みの奇襲に敗れるという波乱があった。また武蔵山は巴潟との一戦で右大腿部脱臼、五日目以後休場した。
特筆すべきことは最後の十日目は日曜日であったため、三万五千人という相撲の歴史始まって以来の入場者数だった。
七月十日、双葉山一行、男女ノ川一行、武蔵山一行、鏡岩一行合併による「朝鮮、満州巡業と慰問相撲」が実施された。釜山を振り出しに大邱、京城、平城、旅順、大連、奉天、新京と回った後、一行は分離して皇軍慰問相撲を行なった。その後、双葉山一行はライハル、チチハル、公主嶺、山海関、大同、張家口、北京、天津で慰問相撲を行なった。
九月十五日より十三日間、大阪関目の大阪国技館で第四回大阪大場所大相撲が開催された。双葉山は長途の皇軍慰問・朝鮮満州巡業で健康を害し、医師の勧告で休場した。実は双葉山は巡業中から発熱・下血を繰り返していたが、この場所前に再発、発熱と下痢症状を起こし急遽大阪の高安病院に入院した。病名は※アミーバ赤痢。口も利けないほどの重症であった。
※アミーバ赤痢 感染源はサル、ネズミ、シスト(寄生虫)に汚染された飲食物など。感染経路はシストの経口感染。ハエ、ゴキブリによる機械的伝播も起こる。腸アメーバ症と腸外アメーバ症がある。大腸・直腸・肝臓に潰瘍を生じ、いちごゼリー状の粘液血便を一日数回から数十回する。断続的な下痢、腸内にガスがたまり痙攣性の腹痛を生じる。通常は発症しても軽症であるが衰弱により死亡することもある。原虫が門脈を経由し肝臓に達し腸外アメーバ症を発症する場合もある。しばしば慢性化し再発を繰り返す傾向がある。
次は当時、雑誌『相撲』に寄せられた記事であるが、大陸巡業中の双葉山の身体の状態が記されていたので拾ってみた。
式守與之吉の日誌
八月三十日 北京初日。(中略)双葉山関の如き、満州に入って北京に乗込むまで僅か二十日間で食物が違ったためか体重が三貫匁も減つてしまったといふ。暑さは暑し、今さら洋服を着るわけにもゆかず、さうかと云つて浴衣がけで旅行するのは日本力士の面子にかゝはると云ふので、支那服を購入したが、胸の周りが窮屈なので胸だけは開き、それにヘルメットをかぶつて、どこからみても堂々たる?スタイルである。
なほ一行が困つたのは飲料水である。コレラが流行してゐるので、飲み慣れぬ水を飲ましてお相撲さんお腹でもこわしたら大変だと云ふので、結局湯ざましをこしらえるので大釜で湯を沸かすことになつたが、土俵上で湯ざましを用ふるといふことは相撲界空前のことであろう。
検査役・中川要次郎の「北支皇軍慰問所感」
(前略)ところが、日程も了りに近づいた頃、双葉山が、健康を害しましたため、非常に心配致したのでありますが、将兵諸氏の熱誠なる歓迎と、当人の責任感から、我慢に我慢を重ねて、各地の兵站病院をも訪問し、傷兵諸氏を慰問し、手数入やら稽古を御覧にいれて、所定の日程を了つた次第であります。
天津の新民会河北省指導部・小山清蔵の「天津より」
(前略)殊に双葉山が病を押して、各地の傷病兵を慰問し、各病院において土俵入りを行ったことは、非常に深き感銘を興へたところにて、各方面における人気宜しきを見て感激仕候。
既に大阪表大相撲も開場せられ当方面のことはお聞き及びのことゝは存じ候へども、双葉山は体重四貫ほど減少、三十貫余となり、関脇時代の体重に等しく相成、驚きをり申候。これは、北支各方面の慰問に無理を重ねたるため健康を害せし結果にて、大いに同情すべきところに御座候。併し、小生と相撲場にて立話をせし当日は非常に朗らかにて、小生も嬉しく存じ候。元来、元気且つ真面目なる彼のこと故、恢復も早かるべしと愚考致しをり候。
二週間余りの入院生活を終えた双葉山の体重は百十一キロ、十九キロも痩せた双葉山の太鼓腹は見る影もなく萎んでしまっていた。
さて、この大阪場所二日目、九州山に召集令状が来た。九州山は取り組みに先立ち土俵上、拡声器で召集の挨拶をした。満員の観客は起立して万歳三唱、九州山の壮行を祝福した。
双葉山の十月巡業は依然として体長不調で、途中、神戸からの参加となった。相撲は取らず土俵入りだけを務めた。
十一月一日から七日間、全組合合併による小倉表大相撲が到津の仮設相撲場で行なわれた。病状回復に専念していた双葉山は三日目より出場し、四勝一敗二休。この一敗は玉錦との対戦による。
小倉場所を打ち上げた双葉山一行は男女ノ川、鏡岩と組合をつくり、玉錦、武蔵山一行と別れ、十一月八日故郷に近い宇佐町を手始めに、別府から四国へわたり、十九日新居浜で単独組合となって岡山、広島、山口県下を巡った。十二月四日、呉市で三日間の興行中の千秋楽の朝、宿で朝食の膳に向っていた双葉山のもとに玉錦の訃報が入った(玉錦は急性盲腸炎で大阪の日生病院に入院していた)。双葉山にとっては一ト月前、不調とはいえ玉錦に敗れた小倉の土俵が最後となった。
十二月十七日、両国へ帰った双葉山は直ちに中里研究所で精密検査を受けた。身体は異常なしとの太鼓判を押されたが、体重は三十一貫(百十六キロ)、病気前の三十四貫五百にはとおく及ばなかった。
4 昭和十四年(一九三九年)
支那事変の激化で応召・入営力士が増えた。番付には、その力士の上に「応召」「入営」と書かれた。この年の五月十一日、ノモンハン事件が起こり、八月二十日、関東軍の精鋭が全滅した。九月四日、第二次世界大戦が勃発した。
二月十六日 ポストなど鉄製不急品の回収開始
三月三十日 軍事教練、大学でも必修となる
五月十一日 ノモンハン事件起こる
六月十六日 街のネオンサイン全廃
七月六日 零式戦闘機、初飛行
七月八日 国民徴用令公布
八月二十日 ノモンハンで日本軍敗北
九月四日 第二次大戦勃発
十一月二十五日 白米が禁止となる
春場所 一月十二日より十三日間 東京・両国国技館
双葉山 東横綱 (二十六歳十一月)
前年の暮、玉錦は巡業先で不運な死を遂げた。玉錦は双葉山にとっては胸を借りて育った大先輩、最後まで大きな壁として立ちふさがった唯一の目標だった。そんな玉錦の名のない番付はさびしいものであったが、この春場所を迎える双葉山についても、協会内部では一抹の心配があった。それは前年の北支巡業でアメーバ赤痢に罹って体重が二十キロも減り、体調は必ずしもかんばしくないということであった。
六十七連勝
初日 十二日(木)
双葉山(寄り倒し)五ツ島〈東前頭六枚目〉
アナ 双方、息が合って立ち上がりました。五ツ島、右を差した。左で双葉の右おっつけた。双葉、グイと右を入れました。双葉、左の上手も取った。五ツ島の下手投げ。双葉、かまわず寄った。寄った。そのまま一気に五ツ島を寄り倒しました。
解説 五ツ島は左で双葉山の右を殺そうとするうまい立合いを見せました。五ツ島の下手投げも苦しまぎれで、双葉山には少しも利きませんでした。
六十八連勝
二日目 十三日(金)
双葉山(突き放し)竜王山〈東前頭五枚目〉
アナ 十分間の仕切り制限時間が過ぎました。竜王山、なかなか立てません。行司に促がされております。
さあ双方、立ち上がった。竜王、突っ張り、猛烈な突っ張り。双葉、これを下から攻めて防いだ。竜王、左から張った。双葉、竜王の張り手に動じない。今度は双葉が突いた。強烈な突き。双葉、一ト突きで竜王山を西土俵へ突き放しました。
解説 双葉山に対して竜王山は時間一杯で立てなかったのが敗因ですね。それに顎を下げて出足をよくし、下から突っ張りあげるようにしなければ、突っ張りの効果はありません。それにしても勝負が決まった瞬間、土俵下の写真班のフラッシュはものすごいですねえ。
六十九連勝
三日目 十四日(土)
双葉山(上手投げ)駒の里〈西前頭四枚目〉
アナ さあ立った。双葉右四つに組み止めました。駒、押した。双葉、体を開いての上手投げ。見事に決まりました。
第五章 安藝の海に敗れる
四日目 十五日(日)
安藝の海〈東前頭四枚目〉(外掛け)双葉山
アナ 今場所の双葉山人気は凄まじいものがあります。初日のお客が打ち出し前に国技館を取り巻き、近所からゴミ箱、箒、下駄、それに回向院墓地の卒塔婆まて持ってきては夜じゅう焚火をして暖をとっていたそうであります。そこで協会は木戸を開けて入場させましたので、二日目のお客も今日のお客も打ち出しからずっと国技館住まいというわけであります。それに今日は日曜日。薮入りと重なって両国国技館はひと目双葉山を見ようと立錐の余地もありません。さあこの一番、常勝横綱・双葉山と新鋭・安芸の海の一戦は初顔合わせ。仄聞すると双葉山は安藝の海に一度も稽古をつけたことがないそうであります。打倒・双葉を掲げる出羽一門の兄弟子たちは安芸の海にどんな秘策を与えたのでありましょうか。平幕とはいえ双葉山にとっては油断のできない相手であります。
さあ伊之助の軍配が返った。安藝の声で双方立った。安藝、激しく突っ張った。双葉、突き返した。双葉、右をのぞかせた。安藝、右で前ミツを引いた。安藝、頭をつけた。双葉、廻しが取れない。双葉、掬った。また掬った。安藝、しぶとく残った。双葉、棒立ち。安藝、左から外掛け。双葉、安藝を抱えて掬い投げ。安藝の外掛けが外れた。双葉、右から下手投げ。安藝、左足が大きく跳ね上がった。安藝、右足で踏ンばった。安藝、必死に双葉の体に浴びせた。双葉、左腰から崩れた。行事・伊之助の軍配は安藝の海。安藝の海に上がっております。双葉、敗れる。双葉、敗れる。双葉山が敗れました。時これ昭和十四年一月十五日午後六時、出羽一門の新鋭・安藝の海に屈しました。館内は驚天動地の有様であります。ゴーッと嵐のような喚声が吹き渡っております。座布団が舞っております。手あぶりの小火鉢も飛んでおります。ミカンの雨も降っております。勝名乗りを受ける安藝の海は泣いております。嬉し涙で泣いております。双葉山、まさかの黒星。連勝は六十九でストップ、六十九連勝でストップしました。
…双葉山に一体何があったンでしょうか。
解説 安藝の海が必死になって体を浴びせたとき、双葉山の左足が踏み込み過ぎていましたねえ。双葉山らしからぬ不自然な体勢でした。無理な態勢で投げに出たのは魔がさしたとしか言いようがありません。何がどうなったのか、もう一度、フィルムで確認したいですね。
双葉山敗戦直後の評論
負けるはずはないと思っていた双葉山の敗戦は、報道陣を動転させた。ラジオの中継も新聞記者も、決まり手を「左外掛け」とした。双葉山が敗れるなら弱い方の左足に掛けられたに違いないと思い込んでいたのが間違いのもとであった。勝負の決まる一瞬の写真さえ判定は難しかった。なかでもっともひどかったのは、勝負の一瞬にカメラを構えていた新聞社のカメラマンの前で、駆け出しの記者が思わず両手を挙げて飛び上がってしまったのだ。歴史的瞬間を撮り損ねたカメラマンと記者の間で大騒動となった。
安藝の海は双葉山とは稽古をつけさせず、巡業先でも立ち合わせなかった。これは兄弟子・笠置山の仕組んだ苦肉の秘策であった。笠置山は安藝の海に次のような必勝の取り口を教示した。
「双葉山は相手の声でいつでも立つ。右のおっつけは強烈で左四つの相手でも右四つに誘い込まれる。左上手を取ったら磐石だ。どう攻めても勝ち目はない。腰の構えも自然体だ。足は心持ち左足を前にし、右四つなのに左足を出すというのは余程腰が強い証拠だ。だから上体を起しておいて、双葉山の左足に外掛けを掛けたらあるいは崩れるかもしれない」
勝負はまさに笠置山の言う通りになった。
この一番のあと男女ノ川の結びの一番が終り、客が去ってゆく館内の東の桟敷の中ほどで土俵上にじっと眼を注いでいる人がいた。その人の名は和久田三郎。あの春秋園事件の首謀者・天竜であった。その頃、満州国体育局に勤務していたが帰国して、隆盛を極める大相撲の観戦に来ていたのだ。
この勝負を実況放送していたNHKの和田信賢アナウンサーが評論家の彦山光三に決まり手を訊いたところ、「右の外掛け」と応えた。支度部屋で安藝の海を取り囲む記者連中も右外掛けではなかったと質問したが、「そう言われれば外掛けにいきました」とはっきりしない返事であった。その結果、新聞は安安藝の海の左外掛けと報道してしまった。後日、公開されたニュース映画を見ると、双葉山の右足に安藝の海の左足が掛り、それを外した双葉山が無理な体勢で右からの下手投げを打つものの、安藝の海が必死に体を預けて、そのまま浴びせ倒しているのであった。これを見た彦山光三は「いや、映画だって間違えることがある」と、死ぬまで安藝の海の右外掛けを訂正しなかった。
敗戦の原因
1 取り口から見た敗因
双葉山が前頭三枚目以降、地方場所で敗れた相撲から窺える弱点。
昭和十二年六月九日大阪場所初日 綾川(外掛け)双葉山
立会い、綾川双差し。綾川寄ろうとするが、双葉、全く動かず。そこで綾川、右の差し手から大きく掬い、双葉の右足に左足で外掛け。
昭和十二年六月九日大阪場所四日目 和歌嶋(外掛け)双葉山
2 前夜の状況
双葉山は贔屓筋の歓待で一睡もしていなかった。
3 身体上の原因
アミーバ赤痢による体調不調は回復していなかった。前年暮の玉錦の急死、武蔵山の休場、男女ノ川は出場したが往年の力はなく、協会は双葉山に頼り、ファンもまた双葉山の相撲に期待していた。そんな中双葉山は東横綱の責任を果たすべく出場に踏み切った。この体調不調について双葉山自身は一言も弁解しなかった。
当時、アミーバ赤痢に対処する特効薬はなかった。双葉山はその後も十年近くこの症状に悩まされ続けた。昭和十五年、台湾巡業中に再発し、応急処置をして帰国したが完治せず、終戦後まで出血が続いた。当時、武見太郎(元・日本医師会会長)の診察を受け、ヤトレンやキノホルムを必要最低限だけ、それも何日も間を置いて服用して凌いでいたが、全快したのはサルファ剤や抗生物質の出回った戦後のことである。
出羽が嶽の養父の斉藤茂吉(歌人・精神科医)は双葉山が安藝の海に破れた敗因を当時の歌誌『アララギ』に次のように書いている。
(前略)大勢がたかつて双葉山を調べるなら、何かの『虚』が出て来る筈だからである。この『虚』の問題も、今回の敗因の一つと考へ得るだらう。併し、私はそれよりも身体的の原因に重きを置かうとしてゐる。私は、双葉山の罹かつたアメーバ赤痢といふのを、双葉山自身よりも、ほかの双葉山批評家よりも、余程重く考へてゐるものである。
この歴史的一番の後、双葉山は五日目、兩國に打っ棄られ、六日目に鹿島洋に下手投げを食って三連敗を喫した。そして九日目にも玉の海に寄り切りで敗れ、九勝四敗の成績だった。優勝は西前頭十七枚目の出羽湊(十三戦全勝)だった。
双葉山フィーバーは一旦終ったが、翌二月十六日より十三日間行われた名古屋表大相撲では双葉山が全勝優勝。三月八日よりの第五回大阪大国技館大相撲大阪大場所でも双葉山が十三戦全勝優勝、直後の京都表大相撲も双葉山の十一戦全勝優勝した。この双葉山の復活によって再びおとずれた大相撲人気によって五月場所より十五日間興行となった。なおこの五月場所も双葉山が全勝、六度目の優勝を飾った。
なお、夏場所前の四月二十九日、双葉山は小柴澄子と結婚した。式は飯田町の東京大神宮、披露宴は東京会館。
2016-03-23 23:42
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