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河童の芋銭 [僕の芋銭]

夏料理壁に芋銭の河童掛け 紫陽
夏暖簾河童三匹ひらひらす  寥汀
月見草河童のにほひして咲けり 乙瓶
三日月や二匹つれたる河太郎 龍之介
ガラッパのまぼろしながる小狸藻 芋銭
川びたりの餅にも飽けよ瘠河童 芋銭
梅雨湿り芋銭の河童百図かな 良一
黒南風や河童百図の動き出す さとる
ガラッパの戀する宿や夏の月 蕪村
文士村河童あまたや山ぼふし 猪道


河童戀々 - 芋銭河童百図を詠む   默壺子

春萌す。一冬の垢を洗ひ流した甲羅を干す河童たち
干されある河童の甲羅山笑ふ
甲羅干す河童の負へる芭蕉の葉

ポッチェチェルリのヴィーナスの誕生に似て
河童の子烏貝より誕生す

昭和二十年冬。上野・不忍池に数多の一本足の河童が立つてゐたといふ
破蓮に一本足の河童かな

女房河童は人間の夕餉の隙間に畑の胡瓜を一本だけ失敬します
胡瓜一本亭主河童の膳に置く

河童は泳いでばかりゐるのではありません
達磨はふらここ河童は丸木舟

子河童の悪戯に泥鰌を捕まえ損ねた輕鴨
輕鴨の足を引つ張るカツパの子

花の筏に午睡する河童仙人
鼻赤き隅田のカッパ花筏

河童は一生に一度だけ人間の女に化けるのです
失戀の男河童はヴィーナスに

大鯉の背に摑まつて龍になろうとしたが終に果せなかつた
炎天に跳ねたる鯉や背に河童

元々河童の頭には皿はなくて毛がふさふさしてゐた
村相撲むかし河童の大銀杏

河童は死ぬと鵬となる。それは宇宙と同じ大きさなので誰も見たことがない
鰯雲ひろがるひろがる河童の死

古代、天狗の木の実と河童の川魚を交換する楽市楽座があった
木の実塚それは河童の邨の跡

渡辺綱が切断した鬼の腕は實は河童の細腕だつた これが最近の定説 
人の世や河童も鬼の類にして

河童いはく「何をか天といひ 何をか人といふ」海坊主こたへていはく「牛馬四足これを天といふ。馬首を落 牛首を穿つ これを人といふ」故にいはく「人をもつて天を滅ぼすことなかれ 故をもつて命を滅ぼすことなかれ 德をもつて名に殉ふことなかれ」
海坊主とは鯨国の大統領である
河童に道諭す鯨や春の海

「老子・補遺」に「河童の皿に道あり」と
芭蕉は蛙芋銭は河童もて悟る

山田の案山子いはく「わが足は歩くことはできぬが 天下のことは悉く知る神なり」と
案山子は河童の先祖なりと古事記にある
河童(がらっぱ)の皿は案山子の破れ笠

河童の夢にはいつも河童の故郷・黄河が流れてゐる
書初は母なる河をカツパの子
蜀山人の「半日閑話」に 島原の乱の殘黨のなかに河童がゐたとある 天草四郎の妖術はこの河童のなせる業であつた
兵糧攻めしのぐ河童の胡瓜かな

夕餉の後、河畔を逍遥すれば蝙蝠が挨拶する
かはほりと交す挨拶河童かな

「金太郎さま、あなたのお相手に猿鹿と同じ忠實の心持で來たのです。どふか脅さないで使つてください」
鮎さげて臣下にくだる河童かな

五月雨を河童の世界では淫霖といふ
淫霖や猫なで声に戀河童

あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月 明恵
名月や河童の皿のあかあかと

元禄年間に白藤源太という相撲取りがゐた 奴のひと睨みで 河童は飛び散つた 中には迂闊にも死んだ河童もゐた
河童飛び散る白藤の眼力に

河伯とは川の神様のことである 河童が一日鳥の柔らかな背に乗って好物の魚や野菜果物を携えて遊ぶ喜びを「河伯欣然」と云ふ
蒲の穂でたゝきし鳥の背に河童

新内の夫婦河童や夏の月

ガラッパに発句教へて鮎二匹

まかりいでたるはこの藪の蟇にて候 一茶
まかりいでたるは蓮沼の河童にて候
三宝の胡瓜抜かれし盂蘭盆会
老松に縛られてゐる河童かな
滴りを皿に得度の河童かな
滝音や猿と河童の大相撲
ガラッパの戀する宿や夏の月 蕪村

山姥の乳を欲しがる河童かな

うれしさの浮草小町に会ふことも

豆腐舐めに化ける河童や五月闇 芋銭

亀の背に天水尊と河童座す

捕へしは雷にはあらず河童なり

粛々と夜川を渡る河童かな

カッパの子三味線堀でひきならひ 北斎

気もて出でカッパに化ける案山子かな

霞ヶ浦の底には河馬ならぬ河牛が棲んでいた
河牛の水蘚はがすカッパかな
のっこみのテグスの先のカッパかな
年々や猿にきせたるさるの面 はせを
年々や河童つけたる猿の面

日本近代絵画全集 第十九巻 小川芋銭 富田溪仙 一九六三 講談社

豆腐は天地の美なるものなり
蕎麦は乾坤のおいしきものなり
芋は宇宙のむまきものなり
草汁庵の喰道楽此に尽きたり
喰ふて描き、描きて死す、是我宗教なり
『草汁漫画』

「完成の直前まで、薄く淡い墨が幾度も重ねられ、もこもことした夢のような画面が幾日も続きます。そして最後の一日で、強い点や線がぐいぐいと引かれると、色も淡く彩られ、満を持して矢が放たれるとでもいいましょうか、瞬時もして絵が完成するのです。骨組みをまずかいて、しだいに肉付けをしていくというかき方が日本画の普通ですが、先生の場合はそれが逆であったわけです。とくに絹本の密画の時はそうでした。」
小林巣居人『芋銭先生追慕』(鈴木進編『芋銭』の一説)

少年時代、牛込新小川町の彰義堂に入塾、本田錦吉郎から洋画を学ぶ。
「厳正数学者の如く慈眼高僧の如く、彰技堂中、諄々として諸門生を薫陶せられつゝあった恩師本田契山先生は、実に尚ぶべき人格の方である。
当時(明治十七、十八年の頃)男女も門生も少なからずあったが別段舎を分かつ如きことをなさず、寧ろ開放的の教育法であったが、それでゐて醜声を伝へるやうなことはなかった。…先生は非常の勤勉家で、教授と刷毛の暇には必ず読書して居られた。…平常極めて厳粛であったが、諸門生の過誤失錯に対しては寧ろ寛大であった。
尫弱魯愚予の如きは特別御世話をかけたものである。毎に予が疎慢の質を戒められ、屡大雅堂の話をされた。一般の人は大雅堂を放逸世故に疎い者のやうに思ふが、決して左様ではなく礼儀を弁へて俗世間のことを等閑にせなんだ、君もよく注意せよと。…」(『芋銭子文翰全集上』)

十六、七歳ごろ従弟の師荒木寛友を知り、日本画に興味を抱く。
しかし実際に描くようになったのは四十を過ぎてからで、五十歳を過ぎてようやく本格的に日本画の仕事を始めた。(一九一七年・大正六年)

雅号・芋銭について  「河童の話その他」(『芋銭子文翰全集上』)
芋銭と云ふ号は日本画をやる様になった頃自分で選んだ。いもせんと重箱読みする人もあるが、矢張りうせんと読むのがほんとだらう。徒然草に真乗院の盛親と云ふ坊さんの事が書いてある。大変芋好きでお談義の席でも何でも平気でムシャムシャ喰ひ、病気でもすると藥の代りに芋を喰ふと云ふ具合だし、斎席など人に構はずズンズン上座に座り込み、お斎を喰ってしまふとサッサと帰ってしまふ、夫れでも誰も何とも言ふ人もなかった、「徳の至れるにや」としてあるが何しろ大変な変り者だった。師僧が死んで寺院七百貫を受嗣いだ時、其金を其儘八百屋に持込んで一生涯芋を喰はしてくれと頼込んだと云ふ話だ。私も芋が好きだ、盛親の貰った七百貫と云ふのが今の金にして幾千金となるかは知らぬが、親父が貧乏して居て満足に勉強させて貰ふ余裕もなく、盗む様にして筆や絵具を親父から貰つてゐた頃だから、何とかして私も自分の描いた絵が芋を買ふ銭になればいゝと思った。そんなところから私は自分の画号を選ぶことにした。

幸徳秋水とのこと(『画聖芋銭』津川公治)
先生は、秋水の人物には深く心をひかれたらしく、晩年(昭和九年五月)秋水に近づいた当時を追懐して「秋水に会って、ひからびた心を潤ほしてからは、近来にない喜びを覚えるやうになった。…秋水も老子が好きだといってゐたが、自分の理想は老子の思想に合一する」と語られたことがある。

芋銭とガンディンスキーの表現主義 → 「石炭と椿の円光」(一九二四・大
正十三)

芋銭と李白、劉伯倫 → 「酒仙帖」
芋銭と芭蕉 さびしさや花のあたりのあすならふ
『卯月の芭蕉庵』 芋銭は芭蕉を敬慕し折りにふれて芭蕉を語り、絵で芭蕉をうたった。この絵もその一つである。芋銭は芭蕉の「奥の細道」の連作を計画していたが、「那須野の馬」一点描いただけで計画は果されなかった。

「桃花源」 二曲一双 陶淵明「桃花源記」の一節を揮毫

(理解者たち)
森田恒友 平福百穂 小杉未醒 西山泊雲 斉藤隆三 池田隆一

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