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双葉関の想い出(インタビュー) [僕の双葉山]

双葉関の想い出(インタビュー)工藤誠一さんに聞く

昭和四十八年一月、その日東京の下町界隈は小雪が舞っていた。正月場所が終わり、ひと段落した頃合いを見計らって、底冷えのする両国駅近くの友綱部屋へ出かけた。九代目友綱親方の工藤誠一さんに双葉山の強さの秘密や私生活の一端を聞き出すためである。親方は双葉山と同世代。戦前「弾丸」の異名をとった巴潟である。うかがった当時、部屋には西錦という十両力士がいた。後の関脇・魁輝、現在の十一代友綱親方である。大関・魁皇の師匠でもある。

友綱部屋の玄関を入るとすぐ右に土俵が広がっている。中央に御幣を立て三方に純白の塩が撒かれて清々しい。広い廊下を渡り座敷に通された。親方は横顔を見せて茶をすすっていた。挨拶もそこそこに早速持参したテープレコーダのスイッチを押した。

― まづ親方と双葉山の最初の出会いからお願いします。

確か昭和二年の春だったかな。ワシが大正十五年の夏の前相撲だから。昭和元年という年はその年の十二月の一週間で、年が明けるとすぐ昭和二年になった。双葉関はワシより丁度半年遅れての入門ということになります。
実はワシの方が少し年上でね。入門も早かったんだが、双葉関が入門したその日からすぐに気が合っちゃってね。二人っきりでよく稽古したもんです。土俵が空いているうちでないと存分に稽古できないからね。それでみんなより少しでも早起きしてね。それで二人して毎朝早起きの競争やるもんだから、しまいには夜中の二時頃から始める。最初のうちは親方も黙っていたんだが、とうとう我慢の緒がきれちゃってね。寝てられない。たいがいにしろ!と大目玉を食らったことがありました。

― 場所は一年に何回あったんですか。

当時は世の中不景気の真っ最中で場所もいろいろありました。たとえば一月に東京で春場所をやって、三月に名古屋でやったり大阪でやったり、五月には東京で夏場所をやって、十月に京都や広島でやったりしました。だから年四場所です。しかし番付は東京の成績と地方での成績を足して次の東京場所で発表しました。
たとえばワシが昭和七年夏場所に十両から東前頭六枚目に上がったとき、東京で十一日とるでしょう。そのとき八番勝った。ところが次の十月京都でやった場所で三番しか勝たなかった。合わせれば五分でしょ。で、翌年の東京の一月番付で一枚上がったか、あるいは西から東になったかな。(記録では西前頭七枚目。記憶力のよい親方でも間違えることがある。)
ただ一回だけだが、番付を昭和四年十月の名古屋で発表したことがあった。つまり東京の夏場所の成績をもとに十一日間の名古屋場所をやったんです。だから東京で幕内だった人が名古屋は幕下でとった人もいるし、逆に東京は幕下であった人が幕内でとった人もいた。なぜそんなことを憶えているかというと、名古屋場所を終えて台湾へ巡業したとき、ワシと同じクニの函館出身の人に一ノ濱という井筒部屋の人がいて、この人は長いこと幕の内で相撲とっていた人ですが三等車でした。まあ当時は東京以外の場所ではたいして力を出さなかったんだね。一方、東京では幕下だったんだが、名古屋で幕の内になった高砂部屋の潮ヶ濱という人は二等車で巡業した。当時幕内格の乗る汽車は二等車、今で言うグリーン車、名古屋で幕下なら三等車だ。そんなことをよく憶えていますよ。この変則場所は後にも先にもこの一回きりです。

― 入門当時の双葉山はどんな人でしたか。

その頃の双葉関はあんまり人前でしゃべる方ではなかった。無口だけれどもちょいちょいとユーモアまじりに人を笑わせる人だった。用のないときには無駄口は言わないけど、パッパッと面白いことを言う性格の人だったな。
それに一番感心することは大変な信心家だった。ワシは信心したことがないからわからないけれども確か身延山を信心していた。関取衆になってからでも伊勢神宮のある山田へ巡業に行けば、夜中から身を潔斎して朝一番にお参りに行くという人だった。これは下の時分からそうでした。

― それは父親の影響ですか。

私は双葉関のお父さんもよく知っていますが、それはわからんです。

― 双葉山の入門は双川喜一という人が関係していたそうですね。

実はワシは双葉関とは非常に仲が良かったんですよ。二人で稽古したり遊んだりした下の時分に聞いた話ではね、小さい頃にお母さんを亡くしたらしい。それでおばあちゃんに育てられた。小学校の時分には親父が漁師なもんだから一緒に船に乗っていた。それで新弟子になった頃にね、これは言って良いやら悪いやらわからんけど、私は真相を知っているから言うんですけれどね…。
あんたがたは若いから知らんだろうが、戦前は県知事の下に内務部長と警察部長がいて大変な力をもっていた。県の三役だな。警察部長は今で言えば県警本部長です。当時大分県の警察部長に双川喜一という人がおった。双川さんのお宅は東京の中野にありました。ワシは一っぺんだけ双葉関とうかがったことがあります。先々代の緑嶋の立浪親方が双川さんと同じ富山県出身で親交があり、転勤の多い双川さんに兼ねてより見込みのある子供がいたら紹介してくれるよう頼んでおいた。しかし入門のときに双葉関を世話したのは双川喜一さんじゃなくて斉藤春吉という人なんです。今の町名は変わっただろうが大分の中津の桜松というところで料理屋をやっていた。斉藤さんのお父さんは宮内庁の板場をやっていました。そのころは斉藤春吉さんのお母さんがしきっておりましたが、その息子の春吉さんが立浪親方に教えて、これはいい体をしているぞということで弟子にしたということなんです。それで次の興行地の大阪場所へ行く途中、この立浪親方という人もまた信仰家だったから、お前も早く出世するようにしっかりお参りしろ、と岡山の金光さん(金光教本部のある岡山県の金光町)に連れて行った。双葉関は大阪で前相撲をとったあと、東京に着くとすぐに親方と中野の双川さんの家に行き、あらためて入門したというのが本当のところです。一般では双川さんが直接入門の世話をしたことになっていますが、そうではありません。

― 当時地元出身の小野川も巡業に来ていて立浪親方と取り合ったそうですね。

そういうことはあったでしょう。昔はそういうことは皆しました。小野川は当時関脇で(大関になってからは豊國)井筒部屋の人でした。この人は大分出身ですからね。取り合ったということはあったでしょう。そういうことは今でもあります。しかし、真相は斉藤春吉さんが双葉関のお父さんをよく知っていたからですよ。

― 双葉山は下の時分は強くはなかったんですか。

飛び抜けて強くはなかった。しかし足腰はよかったね。だから打棄りばかりだ。十番勝つうち八番は打棄り。それから突っ張りもあった。立ち合いにパンパーンと突っ張る。強くなってからは右四つで取りました。

― しかし右眼が見えなかった。小さい頃浜辺で遊んでいて友達の吹き矢が当たったそうですね。

右眼が見えなかったのは事実ですね。吹き矢かどうかは知りません。

― 現役の頃は誰も知らなかったそうですね。

いや、ワシはうすうすは知っとった。しかしはっきりとは知らなかった。実は三段目のとき愛知県へ巡業に行った。そのときに双葉関と稽古をしとってね、双葉関の眼に砂がはいった。いくらこすっても取れないようだったので、医者へ行って取ってもらえよと、その頃立浪部屋にいた七尾潟という人が眼科へ連れて行ったんです。
それで関取衆も幕下も皆稽古をあがったんだが、双葉関はまだ帰って来ないんだ。おかしいな、どうしたんだろう、まさか砂くらいで手術するわけもないだろうと心配になって、ワシにも責任があるので七尾さんと医者へ見に行った。すると待合室に双葉関が座っていた。おい、一体どうしたんだ、と声を掛けたら、急診で出掛けてしまったので帰って来るのを待っている、と言うんだ。丁度先生がいないときに行ったんだねえ。
そのときはまだはっきりとは知りませんが、双葉関の眼を覗き込んだら、あらっ、この男ひょっとしたら片目が不自由じゃないのかなという気がした。古い人は知っているけど、あの人の右眼にね、黒い瞳の真ん中にちっちゃな白い点がありました。それで一瞬そう思った。いくら仲が良くてもそんなことは聞くわけにはいかないからね。しかしワシはうすうす気がついておった。

― 三段目というと昭和三、四年頃ですか。

それはねえ、玉関(横綱玉錦)がまだ関脇か大関に上がった頃…。
そのころ双葉関とはしょっちゅう申し合いをやってね。三番やって負け越した方が勝った方の下駄を持って風呂場へ行き背中をこすったもんです。こんな話を今の若いもんにしても信じないかもしれんが、実際そうだったんです。このことを知っているのは現存では前の旭川の玉垣さんくらいのもんかな。亡くなった鏡山関なんかもそんな申し合いをしていましたよ。

― 双葉山自身、右眼が見えないことを身延山の日顕上人に見破られたということを書いていますね。車椅子の上人を押していて左へ左へと傾いて進むので感づかれた。

それはワシも本で読んだことがある。

― それに小さいころ網を巻きあげるロープにはさまれて右の小指を失くしたとか。

そんなことはない。小説なんか嘘八百なんだから。

― 双葉山の右眼のことを現役時代に知っていた人はいたんでしょうか。

ワシと七尾潟はうすうす知っとった。玉垣さんだって気づいていただろう。双葉関が引退するころには何人かは知っとっただろう。口に出さんだけでね。

― 双葉山は力水は一回しかつけないし塩も一度しか撒きませんでした。そのわけは右眼が見えなかったハンデがあったからだとNHKのアナウンサーだった山本照さんが言っていました。そのハンデを克服して強くなった。

いや、そんなことはない。ワシに言わせりゃあ両方見えていたら大したもンだったろうと思う。双葉山の偉大さは両眼満足な者でも出来ないことを片目でやったというところにあります。それほど強かった。

― 山本照さんは、眼に頼らないから立合いに待ったをしないとも言っています。

待ったをしないのは序の口の時分からあった。だから立ち遅れて土俵際まで押し込まれての打棄りが多かった。腰が強かったからね。関取になってからも軽量のうちは打棄りばっかりだ。当時好角家の柳沢伯爵から「打棄り双葉」と渾名されてね、本人は余り好い気はしていなかった。
関取衆になるまでは水もなけりゃ塩もなかったわけだから、それは当り前ですが、関取衆になってからも一端水をつけたら二度とつけない。どんなことがあっても絶対につけなかったし、待ったもしなかった。相手が立ったらどんな不利な立合いでも立ちました。だから相手はそれを狙ってくる。それでも双葉関は必ず受けて立った。
例の六十九連勝が始まる場所の初日にね、この日ワシは横綱玉錦と合っていて、だいぶ前の割り(取組)だったので、この相撲を花道の後ろの方で見ていたんです。この日双葉関は内掛けが得意で蛸足と言われていた出羽の海部屋の新海関でした。新海さんは我々の言うところのイカサマ立ちをした。つまり気合わず待ったの仕切り直しかと思って、双葉関がやめにかかって中立ちとなったところに新海関が飛び込んだ。双葉関は下のころから絶対に待ったをしない人、自分がどんな不利な体勢でも受けた人、それを信条にしていた人ですから、この油断をつかれたときも待ったをしなかった。当然フワーッと立ったような悪い立ち合いとなり、新海関に簡単に飛び込まれ、二本差されてしまいました。そこで新海関が一気に走った。しかしさすがは反り腰の優れた双葉関は土俵際でこらえ、寄り返した。しかし腰が備わっていませんから最後は新海関に打っ棄られてしまいました。待ったをすれば何てことなかったのにね。しかし双葉関は待ったをしなかった。彼の信念が許さなかった…。支度部屋に引き揚げて来た双葉関にワシは声を掛けました。
「うまく立たれたなあ。待ったすりゃいいのに。新海関、汚い立ち合いをしやがるなあ」
しかし双葉関は例によって、黙ってにっこりしただけでした。
明くる朝、つまり二日目の朝、立浪部屋に廻しを預けていたワシは、いつものとおり立浪部屋の稽古場に出掛けました。そこで妙に印象に残る光景に出くわしたんです。それは立浪親方と双葉山のやりとりです。親方が稽古場の上がり座敷から双葉関に声を掛けました。いつもは怒鳴ったりガミガミとうるさい立浪のオヤジが一言、
「双葉、相撲には待ったということもあるんだよ」
双葉関は勿論黙って聞いていました。この親方の言葉をどうとったものか、それからの双葉関の相撲がガラリと変わったんです。右を半歩から一歩踏み込んで出るようになりました。
これはあくまでワシの解釈ですがね、この出来事が双葉関の相撲開眼のきっかけになったんじゃないかと。というのも、このあと双葉関はメキメキというかムチャクチャに強くなっていった。後に後の先といわれる立ち合いも、この日の稽古場から生れたんじゃないかという気がしてなりません。
親方に言われはしたものの双葉関は自分の信念でその後も待ったをしなかった。それから六日目に横綱玉錦に負けはしたものの七日目の瓊(たま)の浦から例の六十九連勝がはじまった。待ったをしないことも水や塩は一回ということも、見えない眼に頼らないからそうしたのではなくて、双葉関の信念だったんだね。土俵に上がったら死んだってしょうがないという強い気持でいましたよ。

― 昭和七年一月に起きた天竜事件の反応はどうでした?

あの事件でワシは幕下でしたが十両になった。立浪部屋の旭川、大ノ濱と双葉関の三人の十両力士が幕内になった。場所も八日間だった。
ワシらは毎日稽古に励んでいたからね、脱退しなかった。立浪部屋の人は出て行かなかったですよ。出羽の海一門がほとんど出て行った。この事件がどういう原因で起こったか真相はわかんけどね、まあ個人的に言えば、もし天竜さんが武蔵山と一緒に大関になっていれば起きなかったんじゃないかという気がするな。天竜さんは永いこと関脇にいて星を残していて、一方武蔵山関は二場所かそんなもんだろう、長年実績のある天竜関を差し置いてパッと大関になっちゃった。

― 事件当初はどんな状況でしたか。

ああ大変だったよ。ウチの部屋は緑町にあったが、向えは国粋会の親分がいてね、表で焚き火をたいて、若い衆がこれから切り込みに行くんだと息まいていた。こっちは関係ないからね、何で切り込みに行くの?なんてとぼけて聞いたりした覚えがあります。
ただこの事件で癪にさわったのは、おれたちのことを「残留力士、残留力士」と言いやがるんだ。脱退した力士は正義の士で残った力士は悪者。師匠のもとで苦楽を共にしようとすることのどこが悪いんだ…。何言ってやがると思っていました。

― 脱退した彼らは別に相撲興行をやったんでしょう。

やった。第一回は大成功だったんだろう。しかし二回目からは不評だった。自分勝手に師匠を捨てて出て行った相撲取りは観るにあたいしないというわけだ。それで半年もたたないうちに男女ノ川一派の高砂さんや井筒さんが詫びを入れて帰って来た。出羽さんとこも帰ってきたが、最高責任者は帰って来れなかった。革新団の連中の本番付は、幕の内だったものは十両で、十両だったものは幕下でとりました。
ワシは幕下から十両に上がり、双葉関は十両から幕の内にあがっていましたが、場所の取組でね、事件後帰ってきたある人が、「幕下のもんと顔があっているが、おれはそんなやつとは相撲はとらん」と協会に申し出たんだ。そのときワシらは、「ちくしょう、誰に負けても、あの人にだけは負けまい」と心に誓った。そうすると、その人と合うと一人も負けないんだ。大邱山も双葉関もワシも負けなかった。昔の若い者は意気があったよ。やっぱり相撲なんていうものは、たとえ元幕内の力士であっても番付が幕下だと幕下の相撲しかとれないということがあるもんです。気分でそうなってしまう。よく三役でとったものが十両に落こったら落ちただけの相撲しかとれないと言うでしょう。そんなもんなんですよ。

― 双葉山の若い頃の成績はどうだったんです。

昭和六年に十両に上がっているが、そのとき三勝八敗で五つの負けだった。それまでは負け越したことはないと思う。大勝ちはしなかったが大負けもしなかった。

― 親方とはどうでした。

双葉関が強くなる前にはいい勝負だった(本場所では一勝二敗)。双葉関が小結に上がったのが昭和十年の春場所ですが、二つ負け越して一場所で小結から前頭筆頭に落ちた。そのときの小結が大邱山で大邱とワシと千秋楽であって勝った方が小結になった。昔はよくそういう顔合わせがあったからね。それでワシが大邱に勝って昭和十年五月小結になった。だからワシの前が大邱山でその前が双葉関です。

― しかし双葉山は次の夏場所も四勝七敗と二場所続けて負け越していますね。

そうそう、昭和十年夏場所を終えて清水川・巴潟一行でひと月ばかり朝鮮に巡業に行ったことがあった。このときは双葉関とは巡業が違っていた。朝鮮から帰って来て巴潟・松前山一行で大分の中津近辺で、あっちで一日こっちで一日という具合に一週間ばかり興行したことがある。そのときは双葉関を通じて知っていた斉藤春吉さんの家に厄介になっていました。毎日河豚をご馳走になっていたから十一月頃だったなあ。夜、興行から帰って来ると双葉関のお父さんが訪ねて来ておってね、長いこと斉藤さんと話しておったらしい。そうしたら、関取ちょっと来てくれと斉藤さんに呼ばれたんですよ。部屋には双葉関のお父さんがいて、
「実は困ったことがおきた」
「何ですか?」
「定次からもう相撲はやめると言ってきた」
「なんであいつやめるなんて言い出したんだろう…」
「実はこの手紙がそうなんです」
おとうさん宛の手紙だから読む必要もないし、それでいろいろと話を聴いていると、「俺の働きじゃあお父さんもおばあちゃんも養ってゆけないから相撲をやめてクニへ帰って働きたい」という内容だった。まあ言ってみれば双葉関は親孝行だったわけだ。世の中も戦争景気でポツポツ良くなってはきていたが、その時分の相撲は楽じゃないからね。すると斉藤さんが、
「もし生活が苦しいのならウチの方の面倒は私が責任を負うから定次は何も心配しないで安心して相撲を取るように言いなさい。私から手紙出すからお父さんの方からも出しなさい」
双葉関はそんな精神力の弱い男じゃないんだが、小結を落ちてがっかりしたのかなあ、人間の心理というものはわからんですよ。
そこでワシも「やめさしちゃいかん。まだまだこれからですよ」と説得しました。
しかしはっきり言って、当時まさか双葉関が横綱になるとは思わなかった。大関・横綱になる相撲取りとは思わなかった。しかし三役くらいの相撲取りだとは思うとった。その後の話ですが、おとうさんは双葉関の横綱姿を見ていないはずですよ。大関になったときは喜んでねえ。そりゃあそうだろう、あのときやめると言っていたのが大関になったんだからね。上京してきて駅前の両国ホテルに泊っていてね、ワシも会いに行った。おとうさんは、斉藤さんはじめ皆さんが励ましてくれたお蔭だと涙を流して感謝しておりました。しかしその一年後、双葉関が横綱になったときには上京できなかった。癌で亡くなったと聞いています。

― その翌十一年の春場所から連勝が始まりますが、双葉山にどんな変化があったんですか。

双関は入幕までは少しづつは太っていっただろうが、大関になった頃は見違えるほど肉がついて百十キロほどはあっただろう。このように急に体重も増え、それだけ地力もついたんですよ。そういうときがあるもンなんです。まあ双葉関は特別な人だけどね。弱い相撲取りでも急に強くなる。稽古に励んでおると、そういう時が来る。東富士なんかそうじゃないか。名前が番付に四年も五年もつかなかったんじゃなかったかな。

― 三年間です。

そうそう、まる三年だ。富士ヶ根さん(高砂部屋・若湊)のオカミさんが「ウチの謹坊いつになったら番付つくんだろう」と心配していた。そんな相撲取りでも横綱になる。それに沖ツ海も大きな体しとったけれども、三段目に上がって前の旭川の玉垣さんに引っ張り出されて、ひと巡業バッチリやられてからいっぺんに強くなった。
その頃の双葉関は心境の変化もあったんだろうが、顔付きや態度が全く別人のようだった。半年足らずの間に双葉関は人間が変わってしまった。従来から持っていた信念が土俵で証明されたというような自信がみなぎっていましたね。
そんなことで双葉関は大関になってからはあんまり打っ棄らなかった。ただ昭和十一年の夏場所、関脇で同じ関脇の鏡岩と戦ったとき、勝った方が大関という取り組みがあった。立ち上がりざま鏡岩が思い切って左を差して一気に土俵際までもっていったやつを、バーっと打っ棄った。それから以後は打っ棄りはほとんどないと思う。負けた鏡岩は大関にはならないと思ったが、同時に大関に昇進しました。(六十九連勝中、打っ棄りは三回)
大関以後はそれこそ後の先でバーンと受けて叩きつけるか投げ飛ばすか、すっかり相撲が変わってしまった。一番強い人が一番稽古するのだから、ますます強くなる。双葉関はどんなことがあっても稽古を休んだことがなかった。それに自分自身でも研究しながら稽古している。必ず後の先を取っている。ガンと受けて、たまには左を引っ張り込んだりすることもあったが、いつ受けて立っても立ったときには、右足がパッとでている。きちんと手を下ろして仕切っていて受けて立っているんだが、右四つだけれども自分の右足が一歩前へ出ているんです。腕が違うからそんな逆足ができるわけなんです。相手よりも先に一歩踏み込んでパッとつかまえる。双葉関はたとえ負けても決して逃げたりはたいたりしなかった。

― ほかの力士とは立合いが違う。
まあ、はっきり言えることは今の大相撲は立合いじゃない。立合いが乱れすぎている。嘆かわしいね。時間が来たら相手より速く立てばよいというようなもんじゃない。相手より速く立ったからうまくゆくと思っている頭がおかしい。双葉関は相手が来たらいつでも受ける。ということは常に気をゆるめていないわけだ。仕切る一番一番がいつも立つつもりでいるからね。最初から立つつもりでいれば仕切る必要もないでしょう。双葉関にはいつでも立つぞという気魄がありました。

― 現在は一場所十五日、年四場所ですから、六十九連勝は一年余で達成できることになります。

 いまの人はよく優勝十二回、十三回、双葉山の記録に追いついたとか抜いたとか言いますが、双葉関は丸三年一番も負けなかったんですよ。当時は本場所が十一日間(昭和十二年春場所まで)と十三日間で年二場所ですからね。今のように年六場所だったら仮に一場所十三日間として一年で七十八勝、三年間では二百三十四勝ということになります。無論、優勝回数でも連続十八回。いかに双葉関の強さが脅威的だったか、ワシがいくら語っても語り尽くせません。

― 後の先をとった人は他にいるんですか。栃若はどうです。

栃錦は先の先ですよ。若の花もそうです。土俵際で一端足がかかったら動かなかった。土俵際まで寄られるというのは先をとられているからです。双葉関はそんなことは滅多になかった。双葉関が土俵に詰まるというのは、最初は相手に良いように取らせていたからで、その後逆に寄り返していた。横綱相撲だね。

― 戦後は誰もいない。

後にも先にもいません。戦後などはワシに言わせりゃ立合いじゃない。なんぼ師匠や指導部が手を取り足を取って教えても、やるのは相撲取りなんだから。相撲取りがやる気になったらこんなものすぐにでもできるわけですよ。横綱はじめ先輩たちが手をつかないで立つから皆真似するんです。昔の横綱はいったん受けて立つもんだというプライドがあった。だから三番も四番も負けたらサッと引退したわけだよ。結局頭の持ちようが違ってるんだ。それは時代の違いかもしれん。

― それに双葉山は精神修養をしていました。

そりゃあよくやっとった。ワシなんかは神棚に手を合わせたことなんか滅多にないからよくわからんが、双葉関は人一倍熱心だった。それは偉くなってからそうなったんじゃなくて若いときからそうでした。

― 双葉山は怪我や病気が少ないですね。ただ六十六連勝した後、満州巡業中に※アミーバ赤痢に罹ったことがありますね。

※アミーバ赤痢=感染源は、サル、ネズミ、シストに汚染された飲食物など。感染経路はシストの経口感染。ハエ、ゴキブリによる機械的伝播も起こる。
腸アメーバ症と腸外アメーバ症がある。大腸・直腸・肝臓に潰瘍を生じ、いちごゼリー状の粘液血便を一日数回から数十回する。断続的な下痢、腸内にガスがたまる、痙攣性の腹痛。通常は発症しても軽症であるが、衰弱により死亡することもある。原虫が門脈を経由し肝臓に達し腸外アメーバ症を発症する。
赤痢アメーバの経口感染によって大腸に潰瘍ができ、粘血便の下痢や腹痛などが起こる病気。しばしば慢性化し、再発を繰り返す傾向がある。

あのときはすごかった。痩せてしまって着る着物がなくて小嶋川(先々代八角)の紋付を借りていた。尻からダラダラ血が出ているんだもんね。軍人さんを慰問するわけだから、特に天津など大きな都市に行けば、あっちの部隊こっちの部隊と一日四、五箇所も歩かなきゃならん。双葉関は「皆命がけで戦っているのに休むわけにはいかん。たとえ死んでも最後まで務める」と言っていました。
その慰問が済んで船で大阪にあがってね、確か高安病院といったかなあ、すぐに入院したんだ。

― 終戦直後、進駐軍の希望で土俵の広さを十五尺から十六尺にしました。それを双葉山が大反対したことがありましたね。双葉関は引退の翌日に※朝日新聞のインタビューで協会を激しく非難しています。

※「今度の土俵問題は、場所前突然の決定で現役力士は驚いた。興味本位なら、土俵を大きくすればするほど勝負が長引き、興行価値があろう。レスリングや拳闘と取り組ませればもっと面白い。極端にいえば、相撲取りと猛牛を取っ組ませれば、儲かること請け合いだ。わが国に相撲が生れたころは、土俵なんてなかった。それが土俵を設け、次第に狭くなったのは相撲の進歩を物語るものだ。狭い土俵で鍛錬研究した妙技を競うことこそ純正相撲道の第一歩だ。」

空襲で爆撃された国技館の屋根を応急補修して十一月に場所をやった。そのとき特別に十六尺に拡張したんだ。なぜそんなことをやったかというと、占領軍が剣道と柔道を禁止したもんだから、相撲協会は相撲も禁止するんじゃないかと恐れたんだね。それでGHQへ陳情したんです。協会みずから相撲は国技である前にスポーツであると言って十五尺を十六尺に拡張して面白く見せようとした。つまり土俵を広くすることでボクシングやレスリングのように楽しめるだろうということです。ところが当時力士会長だった双葉関が猛反対しました。双葉関が間もなく引退したのは、体力の衰えもあったでしょうが、そんな協会のやり方に嫌気がさしたからだと思いますね。双葉関は番付には載りましたが全休し、この場所の九日目(十一月二十五日)に引退を表明しました。この反対で十六尺土俵は一場所で取り止めになった。あれは協会の大失敗ですよ。

― その場所では押し出しの勝負は一番もなし、寄り切りも二番しかありません。それにアメリカの兵隊(入場無料)はワイワイ騒ぎながら勝負に金銭を賭けて観戦していた。もっとも翌年の秋場所に、日本政府公認で相撲くじが発売されたくらいですから一概にアメリカ兵だけを非難できませんが。
ところで昭和のはじめには十三尺の土俵があったと聞いていますが…。

ワシらも十三尺でとった。※今の十五尺になったのが三段目の時だった。楯山さん(幡瀬川)についている時分だから昭和三、四年です。それから二尺伸びて十五尺になった。これは相撲取りにとっては大変な距離なんです。その時幡瀬川関に、
「誠公、おまえは押しだけで何もないんだから、一の矢は大事だけれど、二の矢を強くする稽古をしなけりゃだめだぞ」
と言われた覚えがあります。一の矢とは立合いのぶちかましのことです。十三尺の時だったら、立合いにうまく押し切れたものですが、二尺ふえたら押し切れるもんじゃあない。

※昭和五年五月場所から十五尺一重土俵になる。それまでは十三尺。

― ところで双葉関とはよく遊びましたか。

飲みに行くにも遊びに行くにも個人的にはずいぶん仲良くしていました。場所がすんだら今日は柳橋、明日は浅草へと…。まあ遊ぶくらいの相撲取りじゃなくてはね。花柳界の芸者たちが「双葉山の童貞を守る会」なんてものを作って騒いだことがあったが、あほらしくて皆腹の中で笑っていた。まあその方面の遊びはよくやりました。しかしいくら遊んだといっても稽古というものに対してはみんな責任もっとった。

― 双葉山が親方と野球を観戦している写真を見たことがあります。前列に妙齢の美人達が並んでいました。

麻雀などの賭け事は稽古に差し障るので一切やらなかったが、双葉関とはよく野球を観に行きましたね。後楽園球場や関西の巡業では甲子園にも行きました。双葉関は巨人軍の※川上哲治のファンでね、いったんバッターボックスに入ったら決してそこから出ない、バッターボックスを外さない川上を見て感心していました。双葉関自身も力水は一度しかつけなかったし、決して待ったをしなかったからね。それに川上がヒットを打った瞬間、
「川上はボールの縫い目が見えているな」
と言っていた。双葉関の立会いは「後の先」といってね、相手を先に立たせておいて、次の瞬間には自分の形にする。川上の打撃に自分の立会いを重ねていたンだね。立会いの瞬間、双葉関の目には相手が止まって見えていたンだ。
いつだったか宝塚少女歌劇の※天津乙女さんらを連れて甲子園球場へ阪神・巨人戦を観に行ったことがある。当時、協会と宝塚とは何かと関係があってね、特に大阪の巡業では双葉関は自分の宴席には必ず天津さんを呼び出してご馳走していました。
甲子園のスタンドでね、天津さんが川上と交際している宝塚の後輩から聞いたという面白い話をされた。それは全国中学野球大会の決勝で惜敗した川上がベンチ横の土をユニフォームのポケットに入れていたというんだ。川上少年は帰郷すると直ぐ、その土を母校のグラウンドに撒いたそうです。その話を聞きながら双葉関は天津さんの隣で頻りに感心しておった。
双葉関が天下の大横綱になってからは、国家的行事へ参加したり各界の名士たちと会ったり、新聞雑誌の取材に追い回されたりと、わしなどはそばにも寄れんようになってしまったが、天津さんも確か昭和十三年秋の欧州公演の後は、それこそ双葉関が亡くなるまで一度も会っていないンじゃないかな。
まあ、双葉関とはよく遊びましたが、若い頃から人間的に出来た人だったね。

※川上哲治 大正九年三月二十三日生れ。熊本県出身のプロ野球選手。現役時代から「打撃の神様」と言われ、また巨人軍の監督としてⅤ9を達成した。妻は元宝塚歌劇団娘役の代々木ゆかり(在団昭和十一年―十九年)。昭和十二年の全国中等学校優勝野球大会で準優勝。優勝校は野口二郎を擁した中京商業学校。川上は甲子園球場の土を郷里に持ち帰り母校のグラウンドに撒いた。高校野球の敗者が甲子園の砂を持ち帰るのは、これが起こりだと言われている。当時の川上は試合終了後に宿舎で深夜まで素振りをするなど、チーム内では練習熱心で知られていた。そして、昭和二十五年のシーズン途中に、多摩川のグラウンドで打撃投手を個人的に雇って打撃練習をしていたところ、球が止まって見えるという感覚に襲われた。これが「ボールが止まって見えた」というエピソードがある。しかしこれは当時松竹ロビンスの小鶴誠の発言で、不人気球団を渡り歩いた小鶴では記事にならないと、報知新聞の記者が川上の言葉に捏造したものである。また、低く鋭い打球を飛ばす打撃スタイルから、評論家・大和球士は川上の打球を「弾丸ライナー」と名付けた。これが「弾丸ライナー」という言葉の起りである。川上は現役時代のオフには岐阜の慈眼寺の梶浦逸外老師へ参禅していた。そのとき僧侶たちが沢庵を音を立てずに食べることに関心を持ち、自らその作法を会得した。
※天津乙女 明治三十八年東京生れ。昭和五十五年死亡。日本舞踊の名手で「女六代目」と称され「宝塚の至宝」と呼ばれた。本名、鳥居栄子。愛称、エイコさん。芸名は小倉百人一首の僧正遍昭の「天つ風 雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ」による。昭和十三年、夏巡業中の双葉山からプロポーズを受けた。そのことが昭和五十三年一月三日の毎日新聞に載っている。
『天津さんは東京神田生れの江戸っ子。大の相撲ファンだった父親に連れられて子供の時から国技館へはよく通った。双葉山のファンになったのは昭和十二年春、双葉山が大関になってから。相手の鋭い動きに応じ、とっさに縦横の動きを見せる土俵さばき。攻め込まれながらも、一転相手をほふる強じんな腰。円い土俵を舞台に、くずれることのない〝二枚腰″……双葉山の土俵は、踊りの心にピーンと響くものがあった。当時、大阪場所は西宮球場で行われ、歌劇団が劇団雑誌に掲載する記念写真を撮るため、場所中の球場を訪れた時、二人は初めて顔を合わせた。十二年五月、双葉山は宝塚グラウンドで相撲四十八手を実演(毎日新聞社後援)するなど、宝塚歌劇とも関係は深かった。双葉山は、ひいき筋の宴席には、きまって天津さんを招待、天津さんも親しい舞台仲間や後輩たちを連れ、宴席をにぎわした。十三年七月、阪神大水害の際、大阪場所は休場となり、大相撲一行は宝塚市内の宿舎にカン詰め。宝塚歌劇も公演中止となり、天津さんら歌劇団の生徒たちは、双葉山とよく顔を合わせた。そんなある時、いつになく双葉山が天津さんを自宅まで送るといい、二人で歩いて帰る道すがら、無口だった双葉山が思いつめた表情で「ワシと一緒になってほしい」。天津さんにとっては、耳を疑うようなプロポーズだった。天津さんは双葉山より七歳年上。舞台で踊り続けようと、思いを固めていた時。さらに歌劇として初めてのヨーロッパ公演が間近だったことからこのプロポーズを断ったという。』

― 双葉山は安芸の海に敗れた昭和十四年春(四月二十九日の天長節)に※小柴澄子という人と結婚していますね。

前の年の満州巡業が済んで船で大阪にあがってね、アメーバ赤痢に罹っていた双葉関はすぐに大阪の病院に入院した。そこへ今のオカミさん(当時二十三歳)がねえ、よくその病院に来ていたよ。オカミさんは大阪の人でね、あの頃見舞いに行くたんびに会ったもんだ。その後も支度部屋に来ておった。座ったまま三時間でも四時間でも口きかないんだから。無口な双葉も双葉だけどね。まあよく結婚したなあと皆感心した。結局好きだったんだろう。好きだったから来てたんだよ。そうでなきゃあ、口をきいてくれない人の横に何時間も座っていられるわけがない。

「まあ今日はこんなとこかな」とひと言、親方は急に用事を思い出したものか、さっさと部屋を出て行ってしまった。童貞横綱の話題が出てきたので、いよいよ核心にはいるぞと意気込んでいたら、あっけなくインタビューは終わってしまった。若い頃に結婚の噂があった双葉山の掌に乗るほど小柄で可愛い※映画女優・大倉千代子のこと、※璽宇の事件にかかわったときの璽光尊・長岡良子や囲碁の※呉清源のことなども訊きたかったのだが…。

※小柴澄子 父は大阪の金融業者 昭和十年に相次いで両親を失い、当時叔父の大阪大助教授・渡瀬武男博士のもとに身を寄せていた。相撲界とは無縁の人。昭和十三年秋、双葉山が体を悪くして大阪で入院していたときに、九州山のフアンであった小柴澄子は、九州山に連れられて双葉山の見舞いに行った。九州山は「彼女は初め私のファンだったのですよ。双葉山関には私が紹介したのです。それから交際がはじまったようです。」と言っている。大阪場所休場中、小柴澄子の見舞いと看護が結婚への気持を固めた。
しかし、この結婚に師匠の立浪が反対した。立浪はもともと双葉山の結婚に一番熱心だった。一代で大部屋を築き上げた才覚の持主であったが、同時にくせの多いことでも有名であった。双葉山の大関時代に、
「横綱になったら俺の娘をやる。立浪部屋を継げ」と言っていた。今でこそ二代目力士が脚光を浴びているが、昔は男の子が親の後を継いで力士になることはほとんどなく、娘が生れると「後継ぎができた」と娘を弟子と結婚させ後を継がせるために赤飯を炊いて祝った。
ところが双葉山はこの話を断った。立浪の性格からいって、いかにもご褒美に娘をやると受け取られてもおかしくないが、断られた立浪は激怒した。双葉は協会の廣瀬理事長(陸軍中将・廣瀬正徳)を訪ねて相談した。以下毎日新聞・相撲記者・相馬基が聴いた広瀬会長の話。

先日、双葉山君が私のところへ来て、「ある晩、私が寝ていると、師匠がいきなり枕を蹴飛ばして、俺の言うことが聞けない奴はどこへでも出て行けと言う。私はつくづく情けなく、部屋を出ようと思うが、何かいい方法はないものでしょうか」と相談された。私は双葉山君の気持がよく理解できたが、相撲界のしきたりとして、そういうことは出来ないから、ここは我慢してもらいたい。こう言ったところ、双葉山君も納得してくれたようだった。」

ただし、このエピソードは戦後相馬基が確認したところ双葉山は否定したという。

友人の中谷清一も「無理をして結婚したあと起こってくる困難な問題、この結婚をすることは、自分を苦難の中に陥れることになる」と翻意をうながした。しかし「この約束を破るのであれば自分はマゲを切る」を一言したのみで、あとは何も言わなかった。中谷は「やはり双葉山だ」と感銘し、その後はこの結婚ために尽力した。
結婚式は東京飯田町の大神宮。披露宴は日比谷の東京会館。媒酌人は帝都日日新聞社社長・野依秀市。野依は大分県中津出身。野依は武蔵山を贔屓にしていたが、双葉山が同郷だということで武蔵山の紹介で知遇を得た。
結婚後、小柴澄子は家庭にこもって相撲の表世界に出なかった。双葉山は十歳で母親を亡くし長子を早く亡くし可愛がっていた末の妹も十五歳の時に亡くした。相撲の世界とは切り離して自分の家庭を大事にしたのだろう。

※大倉千代子 大正四年、東京市芝区新堀町生まれ。昭和八年日活太秦へ入社。山中貞雄監督に重用される。大河内伝次郎や嵐寛十郎主役作品に小柄な娘役で出演した。昭和十一年溝口健二の「浪花悲歌」で山田五十鈴の妹役で好演。日活時代、双葉山との結婚を噂された。このインタビューの後、親方の子息・工藤建次さんが次のようなエピソードを教えてくれた。
昭和七年十月の京都場所で、入門したての頃にお世話になった雷親方の未亡人に偶然会った。彼女の娘婿は当時日活の俳優だった。以後ちょくちょくお宅にうかがったが、この俳優さんの紹介で高瀬実乗(あのねのおっさん)や大倉千代子と知り合いになった。翌年一月、彼らが正月映画興行の挨拶に上京して来た。その時上野池之端の孔雀荘という旅館に泊まっていたが、彼らに誘われ双葉山と二人で遊びに行った。その夜はみんなでワイワイ騒いで愉快に飲んだ。一月場所の後、巴潟は京都方面へ巡業に行くことになったが、双葉山は別の組合だったので京都の方へはまわらない。そこで双葉山が「誠ちゃん、すまんが大倉千代子のブロマイドを二、三枚、サイン入りのやつをもらってきちゃくれないか」。ふだんは無口な双葉山だったが、このときは顔を真っ赤にしていたそうだ。その後の二人の仲は新聞ですっぱ抜かれたとおり。

※爾宇の事件 璽宇は第二次大戦中にできた宗教団体。「璽宇教」という表現もあるが正しくない。「篁道大教」という神道系の団体が母体。そこに大本系列の心霊研究団体菊花会と中国の新宗教・世界紅卍字会のグループが合流し、昭和十六年に「璽宇」と改めた。呉清源は紅卍字会のグループに属していた。東京蒲田で真言密教系の霊能者として活動していた長岡良子グループも璽宇に合流した。長岡良子は「真の人」という冊子の作成などで頭角を表し、信者の信望を集めるようになった。昭和二十年五月二十五日の東京大襲後、長岡良子が指導者となり、翌年、昭和天皇が人間宣言を行ったことで、「天皇の神性」は自分に乗り移ったと宣言、璽光尊を名乗った。天皇や皇族の参加も呼びかけ、マッカーサーへ二度直訴した。昭和二十一年末、本部を石川県金沢市に移し、天変地異の預言を盛んに喧伝した。この喧伝に動揺した住民が白米等の食料を持って訪れ、その代わりに璽宇側は、菊の紋の下に「松」「竹」「梅」と書いた三種類の私造紙幣を与え、天変地異の際に通用すると説いた。昭和二十二年一月二十一日に石川県警は璽宇本部へ突入、璽光尊と信者の双葉山を食糧管理法違反で逮捕した。この事件を境に教勢は一気に衰え、双葉山は璽宇を去った。以後、本部は東京・横浜・青森・箱根を転々とする。呉清源夫妻は箱根仙石原の知人の別荘に璽光尊と共にいたが、読売新聞紙上に璽光尊との縁切りを発表。昭和五十九年、璽光尊死去。現在も教団自体は存在するが勢力はない。

※呉清源 大正三年生れ。囲碁棋士。中国福建省出身、日本棋院瀬越憲作名誉九段門下。本名は泉、清源は通称名。一時、日本棋院を離れて読売新聞嘱託となるが、現在は日本棋院名誉客員棋士。全盛期には日本囲碁界の第一人者として君臨し、「昭和の棋聖」とも称される。木谷實とともに「新布石」の創始者としても知られる。

このインタビューに登場した力士のプロフィール(進行順)

巴潟 高嶋部屋。明治四十四年生まれ。函館市出身。入幕は昭和七年五月場所。異名は「弾丸巴潟」。立会い激しく当たって押しまくり、残されると突き落とし、巻き落としを得意とした。小兵ながら小結を努めた。相手にまわしを与えぬよう腰がしびれるほど固く締めた。最終場所は昭和十五年五月場所。年寄名は玉垣→安治川→高島→友綱(九代)。年寄高島のとき吉葉山、三根山、輝昇の高島三羽烏を育てた。昭和五十一年三月定年退職。昭和五十三年十二月二十四日没。

双葉山  立浪部屋→双葉山道場。明治四十五年二月九日生まれ。大分県宇佐市出身。最終場所は昭和二十年十一月場所。年寄名は双葉山(二枚鑑札)→時津風。戦後、理事長として協会運営に尽力した。昭和四十三年十二月十六日没。

魁輝  友綱部屋。青森県上北郡出身。昭和二十七年生まれ。入幕は昭和五十年十一月場所。四股名は西野→西錦→魁輝。年寄名 高島→友綱。名門友綱部屋からの三役は大正時代の矢筈山以来。夫人は先代友綱親方の長女。義父の定年退職で友綱部屋を継承した。十一代友綱。

魁皇 友綱部屋。昭和四十七年生まれ。福岡県直方市出身。入幕は平成五年五月場所、二代目貴乃花と同年。平成二十三年名古屋場所五日目に千代の富士を抜いて通算一〇四七勝の新記録を達成したが、この場所を最後に引退。最高位は大関。引退後年寄浅香山を襲名。

一ノ濱 井筒部屋。北海道亀田郡出身。大正十三年夏入幕、昭和三年引退。最高位は前頭四枚目で幕内在籍十三場所。引退後年寄九重を襲名したがすぐに廃業。

伊勢ヶ濱 高砂部屋。青森県西津軽郡出身。入幕は昭和三年三月の名古屋場所。東京と関西でそれぞれ別番付を編成していたため三年一月と五月の東京場所では幕下。五年春に再入幕。七年の天竜事件では革新力士団のまとめ役を務め、脱退しそのまま復帰しなかった。

豊國 井筒部屋。大分市出身。入幕は大正十年。年寄り九重。全盛時は堂々たる大関相撲で横綱昇進を期待された。横綱常の花と互角の勝負を演じた。昭和十七年歿。

緑嶋 明治十一年生まれ。富山県滑川市出身。春日山部屋。最高位小結。双葉山、羽黒山を育て上げた立浪親方。大正四年引退。昭和二十七年没。

玉錦 二所ノ関部屋。明治三十六年生まれ。高知市出身。入幕は大正十五年一月。最終場所は昭和十三年五月場所。生来の負けん気と猛稽古で傷が絶えず「ケンカ玉」「ボロ錦」の異名を持つ。右差し一気の出足で常の花引退後の空白を埋めた。親分肌のおとこ気もあって一代で小部屋を大部屋にした。優勝九回、二十七連勝。玉錦時代になろうとしていたときに双葉山が現れ、王座が交代した。昭和十三年十二月現役中に盲腸炎をこじらせて死亡。現役横綱の死は寛政の谷風以来。

鏡岩 粂川部屋。明治三十五年生まれ。青森県十和田市出身。入幕は昭和三年三月場所。最高位は大関。年寄名は粂川。昭和二十五年八月没。あだ名は「猛牛」。昭和十四年春、磐石との対戦で両者取り疲れ棄権し、双方不戦敗の珍記録を残した。親友の双葉山に部屋を譲り自ら双葉山道場へ入った。

旭川 立浪部屋。明治三十八年生まれ。旭川市出身。立浪三羽烏の双葉山、羽黒山、名寄岩の先輩で参謀格。入幕は昭和七年二月場所。昭和十七年五月場所が最終場所。最高位は関脇。年寄名は玉垣。昭和五十三年一月没。双葉山が独立したとき立浪親方との間に挟まり割腹自殺を図って責任をとろうとした。

新海 出羽海部屋。明治三十七年生まれ。秋田市出身。タコ足の新海と言われた。足を掛けたら絶対に離さずそのままもたれ込んだ。最高位は関脇。昭和十二年夏引退。年寄名は荒磯。昭和五十一年二月川崎市のアパートで焼死した。

大邱山 高嶋部屋。明治四十一年生まれ。岡山県出身。入幕は昭和七年五月場所。昭和九年頃は双葉山の好敵手だった。最高位は関脇。昭和十七年召応し帰還後一場所努めて引退。年寄山科→間垣。昭和五十八年歿。

清水川 二十山部屋。明治三十三年生まれ。青森県五所川原市出身。入幕は対象十二年一月場所。小結に上がったとき私行上のことで破門され、父親が自殺して詫びを入れたために復帰した。最高位は大関。最終場所は昭和十二年五月場所。年寄名は追手風。昭和四十二年歿。

松前山 高島部屋。明治四十二年生まれ。函館市出身。入幕は昭和八年五月場所。最終場所は昭和十三年一月場所。昭和五十九年歿。

若湊 高砂部屋。明治二十一年生まれ。栃木市出身。最高位は小結。昭和十六年歿。横綱東富士の師匠。年寄名は富士ヶ根。十五分で酒九升を飲み干した酒豪。

東富士 高砂部屋。東京都台東区出身。昭和十八年五月場所。双葉山にかわいがられてよく稽古をつけてもらった。江戸っ子横綱第一号。最終場所は昭和二十九年九月場所。年寄名は錦戸。その後プロレスへ転向。昭和四十八年歿。

栃 錦 春日野部屋。東京都江戸川区出身。大正十四年生まれ。入幕は昭和二十二年六月場所。最高位は横綱。喰らいついたら離さないので異名は「まむし」。昭和三十五年夏二連敗して潔く引退。年寄春日野として理事長となり新国技館を建設した。平成二年歿。

若乃花 花籠部屋。青森県弘前市出身。昭和三年生まれ。入幕は昭和二十五年一月場所。異名は「土俵の鬼」。右を差しての呼び戻しは豪快だった。横綱。最終場所は昭和三十七年五月場所。平成二十二年歿。

小嶋川 立浪部屋。東京都江東区出身。入幕は昭和十三年一月場所。最高位は前頭五枚目。最終場所は昭和十七年五月場所。年寄名は八角。昭和二十一年巡業先の七尾市で病死。

幡瀬川 伊勢ヶ濱部屋。秋田県出身。明治三十八年生まれ。入幕は昭和三年三月場所。異名は「相撲の神様」。横綱照國の岳父。最高位は関脇。最終場所は昭和十五年一月場所。年寄名は千賀の浦→楯山。昭和四十九年歿。

天竜 出羽海部屋。静岡県浜松市出身。明治三十六年生れ。入幕は昭和三年五月場所。最高位は関脇。最終場所は昭和七年一月場所脱退。天竜事件の首謀者。戦後民放の相撲解説者。昭和元年歿。

武蔵山 出羽海部屋。神奈川県横浜市出身。明治四十二年生まれ。入幕は昭和四年五月場所。入幕三年目、小結で優勝、いきなり大関へ。そのスピードは「飛行機」と呼ばれたが、天竜事件の渦中に巻き込まれた。横綱昇進後、傷めた右ひじが悪化、在位八場所中、皆勤は一場所で七勝六敗。最終場所は昭和十四年五月場所。年寄名は出来山→不知火。昭和四十四年歿。

男女ノ川 佐渡ヶ嶽部屋。茨城県つくば市出身。入幕は昭和三年一月場所。怪力巨人型の横綱。双葉山の引き立て役で終わった。最終場所は昭和十七年一月場所。年寄名は男女ノ川。廃業後衆院選に出たり、保険の外交員、私立探偵などして話題となった。昭和四十六年歿歿。
(二〇一一・七・二〇)
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