無意識の芭蕉 [俳句奥義]
無意識の芭蕉
よく見ればなずな花咲く垣根かな 芭蕉
人知れず楚々と咲く薺の花と芭蕉が一体になった世界である。侘び寂びた垣根の宇宙に純白の薺の星々が煌めいている。
我々は明治以降自然と人間を二項対立的に見る教育を受けてきたせいか、物事を見られるものと見る私という具合に分別してしまう。これでは芭蕉の世界は見えてこない。芭蕉は何かに突き動かされて垣根に近づき、それが薺の花であったことに気づかされた。そして「よく見る」ことで薺の花と同化して一句を成した。そのことは自然美の本質を翻訳したということなのだ。
世界を一体と看做す「一即多」という世界観がある。自然に対しては無論のこと、善と悪も戦争と平和も地獄と極楽も一体。我々は非はあくまで非であって是ではないという一方的な論理の世界に住んでいる。しかしこの論理をよくよく検討してみると独善、欺瞞、虚偽等々の我執が入り込んでいることに気づく。我執は個性と言い換えてもよい。このように考えていくと、我々が眼で見て耳で聞いて識別するという世界は到底真実を見ているとは思えない。しかしこの芭蕉句には我執は無い。なぜか。それは芭蕉は無意識の世界で詠んでいるからだ。つまり芭蕉は眼耳鼻舌身意で認識する意識的な感覚知覚の世界ではなく、もっと奥深くにある我執を越えた無意識世界にいるのである。この無意識世界こそが我々に真実を訴えかけてくる世界であり、生甲斐・歓喜をもたらす世界なのだ。掲句は言葉になる以前の世界を、上五「よく見れば」で翻訳したのだ。三冊子に「心の作はよし。詞(ことば)の作は好(む)べからずと也」とある。この心こそ無意識の自分の知らない世界である。詞とは自分も他人も知っている表に現われた意識的感覚知覚世界。しかも我執を伴っている。
芭蕉は無意識世界にこそ造化の神の力がはたらくこと知っていた。
芭蕉の発句は無意識の部分を詠っている。それは言葉で説明したり分析できない。芭蕉は言葉で表現できない無意識をどうやって表現し得たのだろうか。
我々は句中に切れを入れることは自明だと思っているが、切れというものは空白をいうのである。芭蕉の天才はこの「空白を詠む」という詩形を発見したことにある。切れこそ無意識の世界に外ならない。
芭蕉の宇宙
旅を栖として、五十一歳の人生を、薄氷に全体重を託すようにして俳諧に捧げた芭蕉に、「一世のうち秀逸の句三、五あらん人は作者なり。十句に及ばん人は名人なり」という箴言がある。これは一体何を意味するのだろうか。
昨秋、アメリカに設置されている望遠鏡・ライゴが重力波をとらえた。過去にとらえた重力波は、ブラックホールの合体によるもので、今回の波は二つの中性子星の合体によって放出されたものだった。宇宙の姿はこの重力波でなければわからないとされている。日本は飛騨の神岡鉱山の地下深く、望遠鏡「かぐら」で宇宙の始まりのときに発せられた「原始重力波」の観測に挑戦している。原始重力波が観測されると宇宙膨張の速度がわかり、それによって宇宙の誕生、進化、そして未来が理論づけられるという。このことは人類永遠の命題である「我々は何処から来たのか、我々は何者なのか、そして我々は何処へ行くのか」という問いに答えることを意味している。しかし、この重力波をとらえることは、世界中の干草の山の中から、たった一本の針を探すよりも困難なことなのである。
僕はこの報道を見ながら、重力波とは芭蕉のいう「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」の「光」のようなものではないか、と想像した。冒頭の箴言から推して、芭蕉が生涯に捉えた「光」即ち「秀逸句」は十度以上はあっただろう。
そのひとつ「古池や蛙飛び込水の音」。芭蕉は、蛙が飛び込む水の「音」をとらえた。その音は光となり、その瞬間「古池」の波紋はひろがり、宇宙の時空とつながった。この句は「や」で切れる。「や」は切れ間であり空白である。そこが芭蕉が求めた居場所だった。
この一句を嚆矢として地発句は、切れ間・空白に宇宙を詠むという、言葉を超越した詩文芸に昇華した。
僕は先人たちがそうしたように、生涯に一字を残すならば「無」であると思う。無は無限大の無であり、無限大の居場所である。俳句の切れ間・空白はこの「無」という言葉に置き換えられる。悠久の旅人・芭蕉は、この光をとらえて初めて宇宙と同化した。そのことによって「我々は何者なのか」という「真実の自己」を覚る歓喜に浸ることができたのである。
芭蕉の無意識
三冊子に「心の作はよし。詞(ことば)の作は好(む)べからずと也」とある。
心の作とは無意識(下意識)世界を詠んだ発句をいう。詞の作とは表に現われた意識(表層意識)によって詠まれた発句である。表層意識とは所謂六感である。
近代以降の科学万能主義・合理主義は人間を物質主義・個人主義に陥れた。その結果この星は人間の欲望を満たす資源と化し、益々自然は破壊されている。人間は、心を自分のうちのあるもの、自然と対立するものとして疑わない。そんな人間は六感で詠む。六感俳句は個性的で独善的である。
心理学や脳科学がどんなに進んでも心というものは合理的に説明できない。なぜなら心の在処は自分の中(うち)にあるのではなく、森羅万象そのものであることに気づいていないからだ。
自分というものは、自分の知らない自分、自分だけが知っている自分、自分も他人も知っている自分がある。社会にとって大事なのは他人に見せている自分かもしれないが、自分にとって大事なのは自分の知らない自分である。この自分の知らない自分こそ無意識の自分である。そこには自分が社会に見せている自分以外の膨大な自分が滞留している。この無意識の自分に造化の神の力がはたらく。無意識の自分こそが生きる自分の原動力となっている。そのことを芭蕉はよく知っていたのだ。
芭蕉の発句は無意識の部分を詠っている。それは言葉で説明したり分析できない。芭蕉は言葉で表現できない無意識をどうやって表現し得たのだろうか。
我々は句中に切れを入れることは自明だと思っているが、切れというものは空白をいうのである。芭蕉の天才はこの「空白を詠む」という詩形を発見したことにある。切れとは無意識の世界に外ならない。
芭蕉のこころ
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり。(笈の小文)
貫道するものとは、自然の本質・真理を求めることだろう。古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ(許六離別詞)の「求めたる所」と同義。それぞれ求める手段方法は違っていても、彼らは自然の中に身を置いて心を遊ばせることができた。
松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ。(三冊子)
自然との共生感を持つこと。
近代以降、教育の根底にある発想が西欧の合理主義であり自然科学万能主義によって人を物質主義、個人主義に陥れた。その結果、自然は破壊され地球の温暖化は進んでいる。今でも続いている。現代は芭蕉の時代とは異なる。歳時記もまた壊れてきている。欲望に任せて自然を破壊する彼らは、心というものは自分の中にあると疑わない。
芭蕉は自然即自己という心の世界にいた。
一世のうち秀逸の句三、五あらん人は作者なり。十句に及ばん人は名人なり。(俳諧問答)
芭蕉には物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし(三冊子)というアフォリズムがあるが、その光を十七音で翻訳した句を秀逸句というのだろう。光とはプラトンが指さす天上から降る美のイデア、あるいは宇宙物理学でいう重力波のようなものか。美のイデアも宇宙の秘密を解き明かすという重力波も、捉えることは至難。ゆえに不断の努力が肝心。
心の作はよし。詞(ことば)の作は好(む)べからずと也。(三冊子)
心の作とは情緒の句。詞の作とは感覚の句。情緒は意識下の世界、感覚は意識の世界。感覚の句は一見面白いが、人の心を深く揺さぶることはない。明治以降の社会の近代化は、俳句の世界から芭蕉の心を否定した。しかし、人は意識的・合理的・科学的に説明できない無意識に動かされる不透明な世界に生きているのである。
発句は取り合せ物と知るべし。(三冊子)
俳句は、句中に切れを入れ、切れ間(空白)を詠む。芭蕉の天才がこの構造を発見して、他に類を見ない詩に昇華させた。
芭蕉のつぶやき
あなたはまだそんなところに立ち止まっているのか
あなたの言葉には言葉が言葉になる瞬間の輝きがない
言葉は視ること聴くことと同時に発せられる
言葉は無意識の中から偶然、唐突にすくいあげられ
さらに無限の宇宙へとひろがってゆく
あなたは移り気で浮気な記憶にたよって
すくいあげた言葉を飾ってはいけない
あなたの意識や感覚の言葉に代えてはいけない
なぜならその言葉は造化の神の言葉なのだから
あなたはわたしになにも問う必要はない
あなたはひたすら天に指さしていればよい
わたしは絶えずあなたにわたしのこころを送っていて
あなたによって見出されるのを待ち続けている
わたしはこの自然と一体になって人世の情緒を詠った
あなたもあなたがなすべきこと、みたすべきことを
詠わねばならない
いつの日かわたしのこころにあなたのこころを添えて
あなたのこころがみたされたならばそのときこそ
西行や宗祇に連なることができたのだ
それがわたしがあなたに望むところだ
造化の神が投ずる光をとらえることはむずかしい
光はあなたの不断の努力に対してのみ射し込む
無私無欲で自然と共生する努力を。
よく見ればなずな花咲く垣根かな 芭蕉
人知れず楚々と咲く薺の花と芭蕉が一体になった世界である。侘び寂びた垣根の宇宙に純白の薺の星々が煌めいている。
我々は明治以降自然と人間を二項対立的に見る教育を受けてきたせいか、物事を見られるものと見る私という具合に分別してしまう。これでは芭蕉の世界は見えてこない。芭蕉は何かに突き動かされて垣根に近づき、それが薺の花であったことに気づかされた。そして「よく見る」ことで薺の花と同化して一句を成した。そのことは自然美の本質を翻訳したということなのだ。
世界を一体と看做す「一即多」という世界観がある。自然に対しては無論のこと、善と悪も戦争と平和も地獄と極楽も一体。我々は非はあくまで非であって是ではないという一方的な論理の世界に住んでいる。しかしこの論理をよくよく検討してみると独善、欺瞞、虚偽等々の我執が入り込んでいることに気づく。我執は個性と言い換えてもよい。このように考えていくと、我々が眼で見て耳で聞いて識別するという世界は到底真実を見ているとは思えない。しかしこの芭蕉句には我執は無い。なぜか。それは芭蕉は無意識の世界で詠んでいるからだ。つまり芭蕉は眼耳鼻舌身意で認識する意識的な感覚知覚の世界ではなく、もっと奥深くにある我執を越えた無意識世界にいるのである。この無意識世界こそが我々に真実を訴えかけてくる世界であり、生甲斐・歓喜をもたらす世界なのだ。掲句は言葉になる以前の世界を、上五「よく見れば」で翻訳したのだ。三冊子に「心の作はよし。詞(ことば)の作は好(む)べからずと也」とある。この心こそ無意識の自分の知らない世界である。詞とは自分も他人も知っている表に現われた意識的感覚知覚世界。しかも我執を伴っている。
芭蕉は無意識世界にこそ造化の神の力がはたらくこと知っていた。
芭蕉の発句は無意識の部分を詠っている。それは言葉で説明したり分析できない。芭蕉は言葉で表現できない無意識をどうやって表現し得たのだろうか。
我々は句中に切れを入れることは自明だと思っているが、切れというものは空白をいうのである。芭蕉の天才はこの「空白を詠む」という詩形を発見したことにある。切れこそ無意識の世界に外ならない。
芭蕉の宇宙
旅を栖として、五十一歳の人生を、薄氷に全体重を託すようにして俳諧に捧げた芭蕉に、「一世のうち秀逸の句三、五あらん人は作者なり。十句に及ばん人は名人なり」という箴言がある。これは一体何を意味するのだろうか。
昨秋、アメリカに設置されている望遠鏡・ライゴが重力波をとらえた。過去にとらえた重力波は、ブラックホールの合体によるもので、今回の波は二つの中性子星の合体によって放出されたものだった。宇宙の姿はこの重力波でなければわからないとされている。日本は飛騨の神岡鉱山の地下深く、望遠鏡「かぐら」で宇宙の始まりのときに発せられた「原始重力波」の観測に挑戦している。原始重力波が観測されると宇宙膨張の速度がわかり、それによって宇宙の誕生、進化、そして未来が理論づけられるという。このことは人類永遠の命題である「我々は何処から来たのか、我々は何者なのか、そして我々は何処へ行くのか」という問いに答えることを意味している。しかし、この重力波をとらえることは、世界中の干草の山の中から、たった一本の針を探すよりも困難なことなのである。
僕はこの報道を見ながら、重力波とは芭蕉のいう「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」の「光」のようなものではないか、と想像した。冒頭の箴言から推して、芭蕉が生涯に捉えた「光」即ち「秀逸句」は十度以上はあっただろう。
そのひとつ「古池や蛙飛び込水の音」。芭蕉は、蛙が飛び込む水の「音」をとらえた。その音は光となり、その瞬間「古池」の波紋はひろがり、宇宙の時空とつながった。この句は「や」で切れる。「や」は切れ間であり空白である。そこが芭蕉が求めた居場所だった。
この一句を嚆矢として地発句は、切れ間・空白に宇宙を詠むという、言葉を超越した詩文芸に昇華した。
僕は先人たちがそうしたように、生涯に一字を残すならば「無」であると思う。無は無限大の無であり、無限大の居場所である。俳句の切れ間・空白はこの「無」という言葉に置き換えられる。悠久の旅人・芭蕉は、この光をとらえて初めて宇宙と同化した。そのことによって「我々は何者なのか」という「真実の自己」を覚る歓喜に浸ることができたのである。
芭蕉の無意識
三冊子に「心の作はよし。詞(ことば)の作は好(む)べからずと也」とある。
心の作とは無意識(下意識)世界を詠んだ発句をいう。詞の作とは表に現われた意識(表層意識)によって詠まれた発句である。表層意識とは所謂六感である。
近代以降の科学万能主義・合理主義は人間を物質主義・個人主義に陥れた。その結果この星は人間の欲望を満たす資源と化し、益々自然は破壊されている。人間は、心を自分のうちのあるもの、自然と対立するものとして疑わない。そんな人間は六感で詠む。六感俳句は個性的で独善的である。
心理学や脳科学がどんなに進んでも心というものは合理的に説明できない。なぜなら心の在処は自分の中(うち)にあるのではなく、森羅万象そのものであることに気づいていないからだ。
自分というものは、自分の知らない自分、自分だけが知っている自分、自分も他人も知っている自分がある。社会にとって大事なのは他人に見せている自分かもしれないが、自分にとって大事なのは自分の知らない自分である。この自分の知らない自分こそ無意識の自分である。そこには自分が社会に見せている自分以外の膨大な自分が滞留している。この無意識の自分に造化の神の力がはたらく。無意識の自分こそが生きる自分の原動力となっている。そのことを芭蕉はよく知っていたのだ。
芭蕉の発句は無意識の部分を詠っている。それは言葉で説明したり分析できない。芭蕉は言葉で表現できない無意識をどうやって表現し得たのだろうか。
我々は句中に切れを入れることは自明だと思っているが、切れというものは空白をいうのである。芭蕉の天才はこの「空白を詠む」という詩形を発見したことにある。切れとは無意識の世界に外ならない。
芭蕉のこころ
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり。(笈の小文)
貫道するものとは、自然の本質・真理を求めることだろう。古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ(許六離別詞)の「求めたる所」と同義。それぞれ求める手段方法は違っていても、彼らは自然の中に身を置いて心を遊ばせることができた。
松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ。(三冊子)
自然との共生感を持つこと。
近代以降、教育の根底にある発想が西欧の合理主義であり自然科学万能主義によって人を物質主義、個人主義に陥れた。その結果、自然は破壊され地球の温暖化は進んでいる。今でも続いている。現代は芭蕉の時代とは異なる。歳時記もまた壊れてきている。欲望に任せて自然を破壊する彼らは、心というものは自分の中にあると疑わない。
芭蕉は自然即自己という心の世界にいた。
一世のうち秀逸の句三、五あらん人は作者なり。十句に及ばん人は名人なり。(俳諧問答)
芭蕉には物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし(三冊子)というアフォリズムがあるが、その光を十七音で翻訳した句を秀逸句というのだろう。光とはプラトンが指さす天上から降る美のイデア、あるいは宇宙物理学でいう重力波のようなものか。美のイデアも宇宙の秘密を解き明かすという重力波も、捉えることは至難。ゆえに不断の努力が肝心。
心の作はよし。詞(ことば)の作は好(む)べからずと也。(三冊子)
心の作とは情緒の句。詞の作とは感覚の句。情緒は意識下の世界、感覚は意識の世界。感覚の句は一見面白いが、人の心を深く揺さぶることはない。明治以降の社会の近代化は、俳句の世界から芭蕉の心を否定した。しかし、人は意識的・合理的・科学的に説明できない無意識に動かされる不透明な世界に生きているのである。
発句は取り合せ物と知るべし。(三冊子)
俳句は、句中に切れを入れ、切れ間(空白)を詠む。芭蕉の天才がこの構造を発見して、他に類を見ない詩に昇華させた。
芭蕉のつぶやき
あなたはまだそんなところに立ち止まっているのか
あなたの言葉には言葉が言葉になる瞬間の輝きがない
言葉は視ること聴くことと同時に発せられる
言葉は無意識の中から偶然、唐突にすくいあげられ
さらに無限の宇宙へとひろがってゆく
あなたは移り気で浮気な記憶にたよって
すくいあげた言葉を飾ってはいけない
あなたの意識や感覚の言葉に代えてはいけない
なぜならその言葉は造化の神の言葉なのだから
あなたはわたしになにも問う必要はない
あなたはひたすら天に指さしていればよい
わたしは絶えずあなたにわたしのこころを送っていて
あなたによって見出されるのを待ち続けている
わたしはこの自然と一体になって人世の情緒を詠った
あなたもあなたがなすべきこと、みたすべきことを
詠わねばならない
いつの日かわたしのこころにあなたのこころを添えて
あなたのこころがみたされたならばそのときこそ
西行や宗祇に連なることができたのだ
それがわたしがあなたに望むところだ
造化の神が投ずる光をとらえることはむずかしい
光はあなたの不断の努力に対してのみ射し込む
無私無欲で自然と共生する努力を。